卑弥呼の正体と邪馬台国の位置について④ | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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卑弥呼は、地域の支配者(首長)らから「共立」される形で「倭」と呼ばれる連合国家の「女王」に選ばれたのです。



その卑弥呼は、魏の景初二年(238)、大夫の難升(なんしょう)(まい)という使節を魏に派遣し、魏の皇帝から「親魏倭王」という称号を賜ります。


やはり彼女も、前職か前々職の「倭国王」をつとめた「師升」と同じく、中国皇帝の後ろ盾により、連合国家を治める手段を講じたのでしょう。


また、『魏志倭人伝』はごく僅かながら、卑弥呼の人物像を探る手がかりを残しています。



「(卑弥呼は)鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大たるも夫壻(婿)なし。男弟あり。たすけて國を治む。王となりてより以来、見る者あること少なし」


 

この前半部分の「鬼道につかえ」という部分が、卑弥呼をシャーマン(巫女)とする根拠になっています。


 もちろん、その可能性は否定できないものの、それより重要なのが後半部分ではないでしょうか。


 卑弥呼は「年すでに長大」、つまり高齢者であり、夫を持たず、弟の助けを借りて倭国を治めていたというのです。


 さらに、即位してからほとんど人前に顔を見せることがなかったこともわかります。


したがって、すでに書いたとおり、諸地域の首長に「倭国王」として「共立」された卑弥呼には、地域連合国家の象徴としての役割しか期待されていなかった事実が浮かび上がってきます。


卑弥呼即位後も、実際には彼女の弟が政治を担い、高齢の彼女は、宮殿の深窓に籠って、神秘性を高めることにのみ努めたのではないでしょうか。


そうして神秘性を高めた結果、魏の使者から、卑弥呼は「鬼道」に通じているという印象をもたれた可能性はあると思います。


以上みてくると、卑弥呼に比定される歴史上の人物が浮かび上がってきます。

(つづく)




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