『魏志倭人伝』を実際に読んでみると、魏の使者が「邪馬台国」へ向かった行程に関して曖昧な記述が目立ちます。
とくに「投馬国」の位置、そしてそこから南の邪馬台国へ向かう行程がいかようにも読める書き方をしているのです。
その邪馬台国の位置(九州か畿内か)についてはいったん措き、のちに考察します。
ただし、邪馬台国が九州であれ、畿内であれ、二世紀の西日本のどこかにあったということに異論のある方はまずいないと思います。
その邪馬台国について『魏志倭人伝』は「女王の都するところなり」とし、女王の名とその誕生の経緯を次のように語っています。
「その国(倭国=日本のこと)、本亦男子をもって王と為す。往まること七、八十年、倭國亂(乱)れ相攻伐すること歴年。すなわち、共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑彌(弥)呼という」
まず、倭国は「元」と「亦」、つまり、元職と前職というべき二人の男子王によって治められていたというのです。
その一人が「倭国王師升」であることはほぼ間違いないでしょう。
魏の時代の前、中国は後漢によって統治されていましたが、その後漢の永初元年(107)、倭国王師升が後漢の皇帝に一六〇人の「生口(奴隷)」を献じています。
この倭国王師升が邪馬台国出身者なのか、それとも他の国(地域)の王(首長)であったのかは不明ながら、その後、七~八十年にわたって倭国は乱れ(「倭国大乱」といいます)、その後、卑弥呼が女王となるのです。
おそらく、二世紀初めの日本(倭)は、師升を「倭国王」とする地域連合の形をとり、師升は後漢を後ろ盾として地域連合に靡かない地域を侵略していたのでしょう。
一方、いったん連合国家側に服属した地域も造反を繰り返すといった動乱の時代を迎え、それが七~八十年間続いたのです。
(つづく)
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