新・ユートピア数歩手前からの便り -104ページ目

新しき村はもはや農村共同体にあらず

今年(平成三十年)創立百周年を迎える新しき村はそれなりにマスコミにも注目され、前田速夫氏の『「新しき村」の百年〈愚者の園〉の真実』(新潮新書)を初めとする様々な試みがその現代的意義を改めて問い直しています。しかし一般的には、新しき村と聞けば殆どの人は未だに農村共同体を連想するでしょう。事実、毛呂山と日向で今も曲がりなりにも存続している新しき村は一応農村共同体の形態をとっているので、その一般的イメージは決して間違ってはいません。ただ、新しき村のこれからの百年を見据えるならば、その理想の実現は農村共同体という形態をラディカルに超えていくべきだと私は考えています。そもそも百年前に実篤の抱いた理想が農村共同体という形態をとったことにはその当時の時代状況が大きく反映していると思われます。端的に言えば、食うための労働に追いまくられる閉塞状況です。そうした過酷な日々の中で「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする」新しき村の精神に接すれば、それは大きな救いになったに違いありません。そこには食うための労働を超える「人間らしい生活」が垣間見えるからです。具体的には、自然に即した農業を皆で営みながら各人がそれぞれ自己を生かす仕事をする生活です。かくして新しき村は農村共同体として始まったわけですが、良くも悪くも今や時代状況は大きく一変しました。

例えば、良い変化としては昭和二十二年に制定された労働基準法が挙げられます。「労働条件は労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」という原則などは新しき村の精神に根差していると言えるでしょう。勿論、今でも過労死や派遣労働等の過酷な労働条件を強いるブラック企業はあり、いくら立派な法律ができても現実はなかなか理想通りにはいきません。しかしそれでも百年前と比べれば、世の中は飛躍的に豊かになり、労働条件も総じて改善されてきたことは事実です。少なくとも今や新しき村などにわざわざ来なくても、多くの人々は「人間らしい生活」を十分に堪能できているのではないでしょうか。むしろ、個人の自由が束縛される農村共同体はただ息苦しいばかりで、凡そ「人間らしい生活」とは程遠いものだというのが大方の見解でしょう。実際、その文脈において「新しき村の使命はもう終わった」と考えている人も少なくありません。すなわち、百年前に新しき村が掲げた理想の殆どは村の外の社会で或る程度すでに実現している、というわけです。しかし、本当にそうでしょうか。人々は本当に「人間らしい生活」を実現しているのでしょうか。

確かに世の中が総じて豊かになったことは事実です。週休二日は常識となり、長期休暇も比較的取りやすくなりました。もはや食うための労働に追われるばかりの毎日は過去のものとなり、人々の生活にも余裕ができ、「次の休日にはどこに遊びに行こうか」などと家族の間で話し合われています。こうした家庭の幸福が未だ稀有なものであったとしても、大衆はそこに憧憬を込めた「人間らしい生活」の典型を見出しています。尤も、家庭も一つの共同体だと見做せば、家族との交流さえ煩わしく思う人もいるでしょう。その場合には、誰にも邪魔されずに自分のしたいことだけに没頭できる状態こそが「人間らしい生活」になるかもしれません。更に言えば、自分のしたいことなど何もなく、無為の状態こそが「人間らしい生活」だとする場合も考えられます。何れにせよ、食うための労働に費やされる時間を最小限(できれば無)にし、自分のしたいことに費やす時間を最大限にする生活を大衆は夢見ているに違いありません。こうした大衆の夢からすれば、農村共同体としての新しき村などは明らかに時代遅れの遺物でしかないのは当然です。しかし、農村共同体は時代遅れになったとしても、新しき村そのものは未だ遺物などにしてはならないと私は固く信じています。その点について、更に思耕を試みることにします。

 

ウンベルト・D(3)

ウンベルト老人も自転車泥棒も「今の世界はこのままでは駄目だ」と思っているでしょう。ハゲタカの鷲津も「今の日本は腐っている。叩き潰す!」と叫んでいますが、問題は叩き潰した後です。この腐敗した世界を叩き潰した後、我々は如何なる「新しき世界」を実現すべきか。新しき村の文脈で言えば、それは「人間が本当に人間らしく生きられる世界」ということになりますが、それは具体的に如何なるものか。

例えば、宮澤賢治が「雨ニモマケズ」で謳ったようなデクノボーの世界が一つの理想として考えられます。実篤で言えば馬鹿一の世界がそれに相当するでしょうが、要するに世俗的な欲望や価値観とは無縁に(むしろ反して)ひたすら誠実に真善美を求めていく清貧の世界です。ちなみに埼玉は毛呂山にある今の新しき村で生活している村人たちも同様の理想に生きていると言えます。私はその理想そのものは実に貴いと思いますが、それは基本的に「古きよき村」の理想であって「新しき村」の理想ではないと考えています。勿論、「古きよき村」の理想だからと言って別に悪いわけではなく、むしろ依然として魅力的ではありますが、たといどんなに魅力的でも始源の自然楽園(アルカディア)とも言うべきその理想に回帰するのは不可能です。更に言えば、現代社会において「古きよき村」を後向きに望むことは畢竟現実逃避に他なりません。今の新しき村がその典型ですが、競争原理が渦巻く社会と絶縁して「人間らしい生活」に引きこもろうとしても無意味です。そもそもどんなに遠い山奥や孤島に逃げ込んでも、我々はもはや競争原理と絶縁することなどできないでしょう。とは言え、私は競争原理への屈服を主張したいのではない。逆です。我々の実現すべきはあくまでも自他共生の理想です。ただし、真の共生は競争から逃げることではなく、むしろ競争の中から競争を超えていくことを通じて生まれてくるものだと私は考えています。従って、「古きよき村」に共生の理想が望まれたとしても、それは競争以前の共生にすぎず、「新しき村」の求める競争以後の共生(競争を止揚した共生)とは質的に全く異なるのです。

何れにせよ、ウンベルト老人や自転車泥棒が苦悩する腐敗した現代社会を生み出したのは競争原理であり、彼らを救うのが共生原理であることは明白です。さりとて、悪しき腐敗の原因は競争原理であり、それを否定して共生原理に乗り換えれば薔薇色の未来が訪れるというような単純な問題ではありません。始源のアルカディアが共生の楽園だったとしても、それは堕落する運命にありました。然り、共生原理もまた世界を腐敗させるのです。そして、共生の絆が個人の自由を束縛する強制の鎖に堕落した時、その閉塞状況を打開するものとして求められたのが個人の自由を至上とするパラダイスでした。言うまでもなく、パラダイスの核は競争原理であり、それは世界を飛躍的に豊かにする一方で、格差地獄とも言うべき腐敗をもたらしたのです。かくして我々の理想はアルカディアからパラダイスへと移行してきたわけですが、そのパラダイスも今や限界に直面しています。それ故にこそ、その限界を克服するユートピアが求められるのですが、私は垂直の次元のディコンストラクションがその実現の鍵になると思っています。

 

ウンベルト・D(2)

売れるものにはそれなりの理由がある。実に単純なことで、それを必要とする人がいるから売れるのです。ここで売れるものを商品と解すれば、麻薬などの違法なものからエロ本や今や死語と化したブルセラの如き俗悪なものまで種々雑多な商品の形態が認められます。どんなに破廉恥でいかがわしいモノでも、それを必要として買う人がいる限り、そのモノは商品として売られるのです。

さて、人間が自らの生存に必要なものを自分だけで満たすことができれば商品は生じないでしょう。何も売る必要もなければ買う必要もないからです。しかし、それは明らかに非現実的です。たとい完全自給自足が可能だとしても、その生活はひどく寂しいものではないでしょうか。少なくとも私自身は他者との交通を不必要とする理想ではなく、様々な人間の必要が祝祭的に交通する理想、すなわち祝祭共働態の理想を求めたい。とは言え、問題はそうした人間の必要の質にあります。

実際、衣食住を人間の根源的な必要だとしても、我々はもはやそれぞれの必要を満たす活動に直接関係することなど殆どありません。大半の人は自分の食べるものを自らつくらず、着るものをつくらず、住む家をつくらず、ただ誰かがつくったものを買うことでそれぞれの必要を満たしているのが日常です。勿論、買うことができるためにはお金が必要であり、それは自らの労働力を含めた商品を売ることで得られます。従って、人々の関心は如何にして多くのお金を稼ぐか、あるいは如何に多くの商品を売るか、ということに収斂していきます。確かにお金さえあれば人間の殆どの必要を満たすことができ、金持はパラダイスを実現していると言えるでしょう。しかし、果たしてそれが本当に我々の究極的な理想足り得るでしょうか。「究極的な理想など必要ない。自分の個人的な必要が満たされるパラダイスだけで充分だ」とする人も少なくないでしょうが、私は敢えて人間の究極的な理想について思耕したいのです。

ところで、改めてウンベルト老人の不幸を振り返ってみれば、そこには一体如何なる問題があるでしょうか。公務員として真面目に定年まで勤め上げてきた彼はそれなりに人々の必要を満たしてきたと言えます。それは彼に限らず、およそ働くということは誰かの必要を満たす(役に立つ)ことであり、その対価としてお金を得て、それで自らの必要を満たしていくという循環運動に他なりません。しかし高齢になれば、やがて体力的に誰かの必要を満たす活動ができなくなるのは当然です。それ故、若い頃のように働けなくなった高齢者の必要を満たすための年金制度が生まれたわけですが、ウンベルト老人の場合、その年金が十分でないことが不幸の主な原因であることは明らかです。先述したように、確かに十分な年金さえあれば、ウンベルト老人も愛犬フライクとの幸福な老後生活を送ることができるでしょう。しかし、それはあくまでも水平的な必要が満たされる幸福にすぎないと思うのです。いや、「すぎない」と言い切ることは時期尚早なのかもしれません。世の中には未だウンベルト老人のように水平的な必要を満たせないでいる人が溢れているからです。それは主に貧困の問題ですが、失業、ホームレス、飢餓などに苦しんでいる不幸な人々の救済こそが喫緊の課題だと考えることもできます。私はそうした過酷な現実を否定もしくは回避するつもりなど全くありませんが、それをラディカルに変革するためには水平的な必要だけに固執していては埒が明かず、むしろそれを越えていく次元、すなわち垂直の次元への突破が不可欠だと思っています。それは一体如何なる意味によるものか。

 

ウンベルト・D

無為の人、sollenの人とくれば、次に語るべきは垂直の人ですが、その前にヴィットリオ・デ・シーカの「ウンベルト・D」について少し考えたいと思います。と言うのも、私はこの名作を先日ネットの無料配信で久し振りに観賞し、「自転車泥棒」のラストシーン同様、そのネオレアリズモ特有の「救いようのない状況における救い」に改めて深く感動したからです。ただし、私がここで問題にしたいのはそうした感動そのものではなく、あくまでも貧しい年金生活者であるウンベルト老人の末路です。長年に亘って公務員として地道に勤め上げてきた彼の経歴からすれば、それはsollenの人の末路と言ってもいいでしょう。

さて、この作品は「年金の支給額を増やせ!」という老人たちのデモが警官隊によって強制的に解散させられるシーンから始まります。ウンベルト老人もそのデモに参加していたのですが、もし年金額が望み通りに増えれば問題は解消するのでしょうか。確かに十全な年金制度が実現すれば、ウンベルト老人も家賃滞納で部屋からの立ち退きを余儀なくされることもなく、愛犬フライクと一緒に幸福な老後生活を送ることができるでしょう。しかし、幸福な老後生活とは何か。それはsollenの生活から解放されて再び子ども時代のような無為の生活に戻ることか。悠々自適の生活は大衆の夢かもしれませんが、所詮それは擬似アルカディアにすぎません。尤もsollenの人でも、為すべき事を済ませた後の一杯のビール、もしくは勤務後に自分の趣味に没頭することに生甲斐を感じる場合はあります。しかし、そのような言わば息抜きとしての生甲斐も擬似アルカディアにすぎず、sollenの人の真の生甲斐はやはりsollenそのもの、すなわち為すべき事を為しているという生の充実にこそあると思われます。ここに見出されるのは「無為のアルカディアとsollenのパラダイス」という構図ですが、両者は相即していると見做すのが一般的でしょう。

しかし、人間にとって真に為すべき事とは一体何か。ウンベルト老人は本当に為すべき事を為してきたのか。確かに彼は公務員として真面目に定年まで勤め上げてきた。それはそれで尊いことではありますが、その内実は「食うための労働」であったと考えられます。これはウンベルト老人に限らず、一般大衆の殆どにとってsollenは「食うための労働」でしょう。「人はパンのみにて生くるにあらず」とは言うものの、パンがなければ生きていけないのもまた厳然たる事実です。ウンベルト老人の悲哀もこうした現実から滲み出ているのは間違いありませんが、果たしてそれだけでしょうか。

 

Sollenの人

子ども時代、特に義務教育期間には既定のキョウイクとキョウヨウがあります。つまり親や教師によって子供は学校に行って勉強すべきことが定められているのです。尤も、いじめ等の理不尽な理由で学校に居場所を失う子どもたちもいますが、その場合にはオルタナティヴなキョウイクとキョウヨウが求められるものの基本(子どもは学校に行って勉強すべし!)は変わらないと思われます。もし子どもが学校で勉強せずにいきなり社会に出て労働することを余儀なくされるならば、それは教育基本法に反することで決して許されることではありません。要するに、子どもは大人によって定められたキョウイクとキョウヨウのレェルの上を無難に進んでいくことが要請され、そのレェルは学校卒業後の就職にまで及んでいます。そして、一般的には就職を以て学校のレェルが終わり、そこからは大人として新たに会社のレェルが始まるのです。かつて終身雇用が当り前であった時代には、そのレェルの上を恙無く進行して定年という終着駅まで辿り着くことが名もなき庶民の幸福な人生を意味したでしょう。しかし現代において、もはや学校のレェルも会社のレェルもそれほど磐石なものではないことが明白になりました。一体何が問題なのか。

言うまでもなく、学校にせよ会社にせよ、そのレェルには格差があり、それらは相即しているのが現実です。つまり、偏差値の高い学校のレェルは有名企業等のレェルに通じている、ということです。それ故、親はその子に少しでも偏差値の高い学校のレェル上を進むことを期待し、子はそれに応えるべく過酷な競争に励むことを余儀なくされます。その競争の結果に応じて就職先も振り分けられ、それぞれの大人としての生活レヴェルも決まってくるわけですが、これは果たして正当なことでしょうか。より多くの努力を重ねた者がより良い結果を得るという競争原理そのものは正当だとしても、親の格差が子に反映して、例えば貧乏人の子は塾にも行けないという現状では正当な競争など到底望めません。しかし、たとい正当な競争が行われる公平な前提が確立されたとしても、そもそも学校の存在理由は競争ではないと思います。勿論、切磋琢磨してそれぞれの天分を自由に生長させることは極めて重要なことですが、それは単なる競争であってはなりません。「後の者が先になり、先の者が後になる」というイエスの言葉のように、水平の次元の競争はシビアな序列化にすぎませんが、垂直の次元においてはそれも「共生の理想」として受け取り直されるのです。つまり、レェルは日々のキョウイクとキョウヨウ(行くべき場所と為すべき事)を明示するという意味では必要不可欠なものでありながら、ヴィトゲンシュタインの梯子のように究極的にはディコンストラクションされるべきものなのです。

何れにせよ、子どもの行くべき場所は学校であり、殆どの大人の行くべき場所は会社です。そして、学校で為すべき事は勉強(学科だけではなくスポーツ等も含む)であり、会社で為すべき事は労働に他なりません。従って基本的に、子供は学校に行って勉強、大人は会社に行って労働をそれぞれしてさえいれば、それなりに充実した毎日を送ることができます。新人類には無為こそが充実なのかもしれませんが、一般的には「為すべきことを為している」充実に優るものはないでしょう。しかし問題は「それが本当に自分の為すべき事なのか」ということです。言い換えれば、子どもの為すべき事が勉強であることに間違いはないにしても、今の学校における勉強が「子どもたちの本当に為すべき事」足り得ているのかどうか。同様に、今の会社における労働が「社会人としての大人の本当に為すべき事」なのか否か。問題の焦点はやはり、レェルのディコンストラクションにあると思われます。

 

無為の人

先日、地域コミュニティに関するシンポジウムをテレビで観ていたら、そのパネリストの一人が「高齢者にはキョウイクとキョウヨウが必要だ」と面白いことを語っていました。キョウイクとは教育ではなく「今日行く(所)」であり、キョウヨウとは教養ではなく「今日(しなければならない)用」だと言うのです。確かにその通りだと思います。特に長年サラリーマンとしてしか生きてこなかった男性は、退職するとキョウイクもキョウヨウもなくなって途方に暮れることが多いようです。その点、長年専業主婦として生きてきた女性には家事を中心にいつまでも様々なキョウイクとキョウヨウが絶えないとのことですが、それは果たして本当に幸福なことでしょうか。もしかしたら、男性にせよ女性にせよ、キョウイクとキョウヨウから完全に解放されて「なーんにもしないで生きていけたらなぁ・・・」と望んでいるのかもしれません。真の幸福は無為にあるのか否か。

一般的に言えば、onがあるからoffがある。楽しい日曜日は苦しい平日があるからこそであって、定年後の「毎日が日曜日」はむしろ苦痛に感じられるでしょう。要するに「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」ということですが、「苦ばかり」が耐えられないのは当然だとしても、「楽ばかり」も苦しいことだと思われます。私はかつて「ディズニーランドよりも楽しい新しき村」という拙文を書きましたが、ディズニーランドがどんなに楽しい夢の国であっても、毎日そこで楽しみ続けることなどできるでしょか。「できる!それが夢だ」と言われれば身も蓋もありませんが、ディズニーランドで観客として楽しみ続けるよりもスタッフとして観客を楽しませる仕事をする方が充実した時間を過ごせると思います。同じディズニーランドでも、観客にとっては娯楽の場にすぎませんが、スタッフにとっては生甲斐のある生活の場になるからです。これまた「娯楽が生甲斐だ!」と言われれば身も蓋もありませんが、昭和生まれの古い人間としては娯楽が生甲斐になる新人類など想像を絶しており、故にそれは問題外とします。

何れにせよ、キョウイクとキョウヨウの喪失が非常な苦しみになることは事実です。ただ先述の定年退職者のような場合、労働におけるキョウイクとキョウヨウから解放された後は自分のやりたいことだけをして日々を過ごすバラ色の年金生活が期待され、実際に悠々自適な生活を謳歌している高齢者も少なくないかもしれません。しかし、そのような恵まれた老後を迎えている人が現実にどれだけいるのでしょうか。一握りの金持連中だけではなく、誠実に働いてきた全ての人が平等に穏やかな老後が保障される社会の実現が求められるのは当然です。しかし年金制度の充実を核とした経済問題もさることながら、私がここで思耕したいのはあくまでも「人間にとって真のキョウイクとキョウヨウとは何か」という問題です。おそらく、悠々自適な毎日を送っている人たちは趣味におけるキョウイクとキョウヨウを見出しているのでしょう。今日はゴルフ、明日は囲碁、明後日は句会と料理教室…というような生活です。それはそれで有意義で大切なことではありますが、やはり「真のキョウイクとキョウヨウ」は趣味の次元にはないと私は考えます。では、それは一体どこにあるのか。

 

国境なき世界(10)

「なーんにもしないで生きていけたらなぁ・・・」とガッキーがゴロゴロしながら呟くCMがありますが、そんなグータラな彼女に共感する人も少なくないと思われます。それはガッキーが可愛いからと言うよりも、現代人が根源的に(心身共に)疲れているからです。我々は幼い頃から「立派な人になれるように頑張らねばならない」と教えられてきました。そのために一所懸命に勉強し、少しでも良い学校を出て、少しでも良い職業に就くことが要請されてきたのです。しかし、「良い学校」とか「良い職業」とは一体何でしょうか。それは本来「自分の本当に学びたいこと」とか「自分の本当にやりたい仕事」といった主体的な意志によって決められるものですが、実際には偏差値とか高収入といった客観的基準で判断されることが多いようです。そもそも「立派な人」という概念自体、世間やマスコミによってつくられた理念であり、現代人は鼻先にニンジンをぶらさげられた馬よろしく、その獲物に向かって競争を余儀なくされるのです。尤も、そうしたモーレツな生き方も一九六〇年代の後半に深く疑問視され、それに逆行するヒッピーに象徴されるようなビューティフルな生き方に人気が出ましたが、結局そうした対抗文化(counterculture)は主流にはなれずにサブカルチャー(subculture)に止まっています。比較的最近の「ゆとり教育」も然り。知識偏重の「詰め込み教育」批判は是とされながらも、これまた学力低下という結果で返り討ちに遭いました。現代人はモーレツな競争社会に生きることに心底疲れ切り、特にその競争に敗れた「負け組」はビューティフルな共生社会に強い憧憬を抱くものの、実際に「なーんにもしないで生きていける」ゆとりを持てる人は皆無に近いと思われます。勿論、競争社会から完全にドロップアウトして、山奥や孤島の大自然の中で自給自足の生活を始めることは可能です。しかし、それはおそらく「ゆとりある生活」とは程遠い過酷な生活になるでしょう。むしろ「ゆとりある生活」は競争社会でそれなりに成功した「勝ち組」のみに許された特権です。かくして現代人は競争社会に疲弊しながらも、競争社会と絶縁して生きる勇気もなく、不本意ながら競争社会にしがみついて少しでもゆとりのある生活を必死に目指していくしかないのです。「なーんにもしないで生きていけたらなぁ・・・」というガッキーの呟きは現代人の嘆息にすぎません。

しかし乍ら、真の共生の理想は「なーんにもしないで生きていける」こととは根源的に異なっています。確かに無為自然のアルカディアは始源の楽園として夢見ることができますが、どんなに文明を否定しても対抗文化は退行文化にしかすぎず、後向きに原始生活に回帰することなど不可能です。加えて野生は弱肉強食の原理が支配する世界であり、そこに人間らしい生活があるとは到底思えません。尤も厳密に思耕すれば、果たして「弱肉強食がケダモノの真実で、相互扶助が人間の真理だ」と言い切れるのかどうか、浅学の私にはよくわかりません。クロポトキンに言及するまでもなく、動物の世界にも相互扶助があるのは事実です。ただマルクスの言う「最悪の建築家でさえ最良のミツバチより素晴らしい理由」と同様、どんなに動物の本能的な相互扶助が見事であっても、その理想を主体的かつ意識的に実現しようする人間は単なる動物の次元を超えています。「動物の相互扶助は水平的だが、人間のそれは垂直的だ」と言ってもいいでしょう。その意味において便宜上、動物の水平的な相互扶助と区別して、人間の垂直的な相互扶助を特に「共生の理想」と称したいと思います。

何れにせよ、私有制以前にあったとされる原始共産制社会において、人間は他の動物と同様に水平的な相互扶助によって生活していたと考えることができます。その真偽は別として、もしそのようなものが実在したとすれば、そこにはおそらく国境などというものはなかったでしょう。しかし、それを広義のアルカディアと理解するとしても、やがて私有制が始まり、富の蓄積によるパラダイスへの欲望を抑制することはできません。「アルカディアからパラダイスへ」という移行は人間の運命だからです。「なーんにもしないで生きていける」という夢のような自然楽園が失われた後、既に自然に在るものを分け合って暮す相互扶助の段階を経て、自分たちでつくる技術(耕作、栽培、工作など)を発展させることで自然の生産性を飛躍的に高められることを知った人間、更には自然界に未だないものをつくりだす力(実際は自然の力の応用にしかすぎなくとも)を得た人間は「なーんにもしないで生きていける」という夢とは真向から対立する理想を求めることになります。それこそがパラダイスの理想であり、その核となるのが「限りなく豊かになるために絶え間なく働くべし!」というエートスに他なりません。こうして現代人は相変わらずモーレツに働き続けることで何とかしてパラダイスを実現しようと頑張っているわけですが、これは果たして「真の豊かさ」への正しい道でしょうか。働けど働けど猶わが生活が楽にならないのはどうしてか。ぢっと手を見ていると実に様々な要因が思い浮かびますが、私がここで問題にしたいのはパラダイスの限界です。鄙見によれば、パラダイスの極北にあるのは「豊かな国家」ですが、私はそれに「国境なき世界」を対峙させたいのです。それは単なる「国家の否定」とは違います。逆説的に言えば、「国境のない国」を求めているのです。勿論、そんな荒唐無稽な国などどこにもありません。しかし、だからこそそれはユートピアなのです。

 

国境なき世界(9)

幼い私は壁というものを嫌悪していました。殊に人間関係における壁を憎み、雨露を凌ぐ家に壁は不可欠であるものの、その内部の間仕切りとしては必要ないと思ったのです。これは以前の便りでも述べましたが、幼い頃の私の家は貧しく、否応なくいつでも一堂に会しているような状況で育ったことに少なからず影響されたことなのかもしれません。と言うのも、今は亡き父が頑張って郊外に小さな家を新築してくれた時でも、やっと自分の部屋を持てた喜びよりも何だか家族がバラバラになったような寂しさを感じたからです。尤も、これはその当時の私が未だ「夢見る無垢」の時期を生きる幼い子どもだったからであって、九歳年上で既に思春期に突入していた兄にとっては間違いなく息詰まる生活からの解放を意味したでしょう。実際、貧乏長屋で暮していた時でも、父はカーテンなどを駆使して兄のために個室空間の壁を工夫していました。私も兄と同様、やがて壁を必要とするに至ったのは言うまでもありません。成長する人間は、その自我の目覚めと共に壁(一人きりになれる空間)を必要とする運命にあるのです。

しかし、その運命にもかかわらず、人間にはやはり「壁をなくしたい!」という思いが見果てぬ夢としてあるのも事実です。それは梵我一如といった神秘的合一(unio mystica)から恋する男女が心身共に同体になりたいと願うことまで実に様々ですが、「個々バラバラのものが一つになる」という運動には確かに血沸き肉踊る感動があります。卑近な例を挙げれば、私自身は余り関心がないものの、サッカーのワールドカップやオリンピックなどで「ガンバレ!ニッポン!」と思わず連呼しているような場合には、見知らぬ他人同士の間の壁が崩れ同じ日本人として一つになっています。また、大きな災害に見舞われるような不幸の場合にも、孤独な群集が一つになる「災害ユートピア」ができることがあります。ただし、それらは何れも刹那的な夢にすぎず、歓喜にせよ絶望にせよ、非日常的時間が過ぎ去れば「一つである」状態が億劫に感じられる日常が戻ってくるでしょう。実際、全員が一体化して一つの方向にしか向いていないような状況はファシズムと見做され、一種の集団狂気に他なりません。しかし、誤解を恐れずに敢えて言えば、ファシズムは極めて危険ですが、同時に極めて魅力的なものです。そこには平穏無事な日常では決して味わうことのできない血沸き肉踊る感動があるからです。これは右も左も関係なく、むしろ極右と極左は相即していると考えられます。個々バラバラのものを一つに結束させる強力な鉄の規律!それは高次の政治集団のみならず、某大学のアメフト部のような体育会系の運動部やヤクザにも垣間見られるものですが、人間には、特に向上心溢れる人間には、偉大な何かによって自己を厳しく律して生きていきたいという思いがあるのではないでしょうか。その偉大な何かは究極的には神ということになりますが、その神も真に唯一絶対であることが理想とされるものの、それぞれの民族によって異なるのが現実です。かくして或る神を核にして一つになろうとする集団と別の神を核にして一つになろうとする集団が血で血を洗う相互殲滅の構図が生まれてくるのです。更に言えば、古くは内ゲバの論理もそうですが、同じイデオロギー(例えばマルクス主義)や同じ神(例えばアッラー)を信奉している者同士の間でさえ相互否定の力が強く作用することを考えれば、一つの理想を信じてそれによって一つになろうとする情熱そのものが我々に悲惨な歴史をもたらす元凶のようにも思われてきます。「この人間社会が破滅するとすれば、それは理想主義者のせいだ!」という見解も強ち間違いではないのかもしれません。

何れにせよ、人間には「一人になりたい」という思いと「一つになりたい」という思いがあります。単純に前者を個人主義、後者を全体主義と理解できますが、どちらか一方だけであればそれなりに対処の仕方もあるでしょう。しかし問題は、人間がそうした相反する二つの思いに引き裂かれている現実にこそあるのです。少なくとも私にとって「国境なき世界」は個人主義と全体主義に引き裂かれた人間の究極的な理想、すなわち形骸化したアルカディア(悪しき全体主義)と堕落したパラダイス(悪しき個人主義)の対立を克服するユートピアの具体相の一つに他ならないのです。

 

国境なき世界(8)

私は戦争を知りませんが、もし新たな戦争が勃発して否応なく戦場に駆り出されることになり、その戦場で敵と遭遇することになった場合、私はその敵と殺し合うことができるだろうか――折に触れて、そんなことを考えます。殺し合うためには双方にそれなりの憎悪が必要になりますが、国と国とが争っているからといって、それが直ちに個として向き合う敵国人への憎悪にはならないでしょう。かつて鬼畜米英という言葉がありましたが、米英人が生来鬼畜である筈はなく、戦争という狂った状況において人は鬼畜と化すのです。当然、日本人も例外ではありません。平時には子どもに優しい温厚なお父さんが戦時には赤ん坊さえ皆殺しにする残酷な兵士へと変貌します。どうしてかかる狂的状況に人は追い込まれねばならぬのか。そもそも戦争はそれぞれの国益を巡ってなされるものですが、それは一体誰のための国益なのか。殊に帝国主義戦争においては、一部の金持(資本家)の飽くなき野望が常に起点となっています。確かに大日本帝国が大きく発展すれば、その末端の国民(労働者)もそれ相応に豊かになるでしょう。しかし、その豊かさは侵略された国民(植民地の労働者)の犠牲の上に築かれたものであり、しかもその微々たる小部分にすぎず、その大部分は依然として金持に搾取され続けます。つまり、帝国主義国家における貧富の差は微動だにしないのであり、それは戦勝国であろうと敗戦国であろうと変わりはありません。従って、戦争に勝とうが負けようが、その国益が主に金持のためのものであることが明らかになるならば、前線で殺し合わねばならぬ兵士たちは自分たちの憎悪について根源的に問い直す必要に迫られるでしょう。言い換えれば、「真の敵は誰か!」という自問です。その時、おそらく遠くから聞こえてくる声の一つに「万国の労働者、団結せよ!」という呼び掛けがあります。真に問題とすべきは国と国との対立ではなく、むしろそれぞれの国における階級対立であり、人々は国境を越えて「主人(資本家)と奴隷(労働者)の構造」をラディカルに止揚すべきだ、ということです。この声がシュプレヒコールになれば、そこに「国境なき世界」を実現する可能性が胚胎することは間違いありません。しかし人々は本当にそのような世界、言わば主人が打倒された「労働者の王国」の実現を望んでいるでしょうか。壁と同様、一旦は横暴な主人が打倒されても、やがて新たな主人を待ち望み始めるのではないでしょうか。壁のディコンストラクションと「主人と奴隷の構造」のディコンストラクションは相即しているのです。

 

国境なき世界(7)

通常「国境なき世界」などという理想は空想の産物であり、ただ夢物語としてのみ存在し得るものと見做されます。実際、もしそんな理想が実現してしまったら、多くの人は例えば自分の家に見知らぬ人が勝手に侵入してくるような不安を覚えることでしょう。当然のことです。人間には一人きりになる時間と空間が必要であり、その単独者としての生活を核とした家、その延長上に形成される国家は不可欠だからです。つまり、壁は安心安全な人間生活になくてはならぬものだということです。勿論、かつて全体主義が席巻していた時代のように家や国家が個人の生活を抑圧する場合には、壁は破壊の対象になります。しかし、所詮それも限られた期間のことであり、一旦は破壊されても、早晩新たな壁が要請されるでしょう。こうした文脈において、我々の歴史は壁の構築・破壊・再構築という繰り返しだと言えるかもしれません。何故このような歴史になるかと言えば、壁というものには二面性があるからです。すなわち、防禦と抑圧。自分と自分の家族、同胞の生存を守るために不可欠の壁もやがてその内に暮す人々を抑圧するものと化していく運命にあります。そもそも壁とは本来外敵の侵入を防ぐためのものですが、外敵とは一体何か。台風や津波のように荒ぶる自然が敵として我々に襲いかかってくる場合には、それを防禦する壁が必要になりますが、穏やかな友人のように現れてくる自然には必要ありません。同様のことは外国人についても言えるでしょう。いや、それは外国人とか同国人という区別に限りません。例えば、見知らぬ困った人たち(難民)が外から助けを求めてやって来た時に壁は必要なのか。逆に、内から外へ自由に新しき世界を求めようとする人たちに壁は必要なのか。言うまでもなく、現実には必要ですが、壁を超克する次元も厳然としてあると思うのです。それこそがユートピアなのですが、その次元は空想や夢物語とは質的に全く異なります。何れにせよ、「国境なき世界」とは言わば壁のディコンストラクションが実現する次元ですが、その具体相について更なる思耕を続けます。