国境なき世界(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

国境なき世界(10)

「なーんにもしないで生きていけたらなぁ・・・」とガッキーがゴロゴロしながら呟くCMがありますが、そんなグータラな彼女に共感する人も少なくないと思われます。それはガッキーが可愛いからと言うよりも、現代人が根源的に(心身共に)疲れているからです。我々は幼い頃から「立派な人になれるように頑張らねばならない」と教えられてきました。そのために一所懸命に勉強し、少しでも良い学校を出て、少しでも良い職業に就くことが要請されてきたのです。しかし、「良い学校」とか「良い職業」とは一体何でしょうか。それは本来「自分の本当に学びたいこと」とか「自分の本当にやりたい仕事」といった主体的な意志によって決められるものですが、実際には偏差値とか高収入といった客観的基準で判断されることが多いようです。そもそも「立派な人」という概念自体、世間やマスコミによってつくられた理念であり、現代人は鼻先にニンジンをぶらさげられた馬よろしく、その獲物に向かって競争を余儀なくされるのです。尤も、そうしたモーレツな生き方も一九六〇年代の後半に深く疑問視され、それに逆行するヒッピーに象徴されるようなビューティフルな生き方に人気が出ましたが、結局そうした対抗文化(counterculture)は主流にはなれずにサブカルチャー(subculture)に止まっています。比較的最近の「ゆとり教育」も然り。知識偏重の「詰め込み教育」批判は是とされながらも、これまた学力低下という結果で返り討ちに遭いました。現代人はモーレツな競争社会に生きることに心底疲れ切り、特にその競争に敗れた「負け組」はビューティフルな共生社会に強い憧憬を抱くものの、実際に「なーんにもしないで生きていける」ゆとりを持てる人は皆無に近いと思われます。勿論、競争社会から完全にドロップアウトして、山奥や孤島の大自然の中で自給自足の生活を始めることは可能です。しかし、それはおそらく「ゆとりある生活」とは程遠い過酷な生活になるでしょう。むしろ「ゆとりある生活」は競争社会でそれなりに成功した「勝ち組」のみに許された特権です。かくして現代人は競争社会に疲弊しながらも、競争社会と絶縁して生きる勇気もなく、不本意ながら競争社会にしがみついて少しでもゆとりのある生活を必死に目指していくしかないのです。「なーんにもしないで生きていけたらなぁ・・・」というガッキーの呟きは現代人の嘆息にすぎません。

しかし乍ら、真の共生の理想は「なーんにもしないで生きていける」こととは根源的に異なっています。確かに無為自然のアルカディアは始源の楽園として夢見ることができますが、どんなに文明を否定しても対抗文化は退行文化にしかすぎず、後向きに原始生活に回帰することなど不可能です。加えて野生は弱肉強食の原理が支配する世界であり、そこに人間らしい生活があるとは到底思えません。尤も厳密に思耕すれば、果たして「弱肉強食がケダモノの真実で、相互扶助が人間の真理だ」と言い切れるのかどうか、浅学の私にはよくわかりません。クロポトキンに言及するまでもなく、動物の世界にも相互扶助があるのは事実です。ただマルクスの言う「最悪の建築家でさえ最良のミツバチより素晴らしい理由」と同様、どんなに動物の本能的な相互扶助が見事であっても、その理想を主体的かつ意識的に実現しようする人間は単なる動物の次元を超えています。「動物の相互扶助は水平的だが、人間のそれは垂直的だ」と言ってもいいでしょう。その意味において便宜上、動物の水平的な相互扶助と区別して、人間の垂直的な相互扶助を特に「共生の理想」と称したいと思います。

何れにせよ、私有制以前にあったとされる原始共産制社会において、人間は他の動物と同様に水平的な相互扶助によって生活していたと考えることができます。その真偽は別として、もしそのようなものが実在したとすれば、そこにはおそらく国境などというものはなかったでしょう。しかし、それを広義のアルカディアと理解するとしても、やがて私有制が始まり、富の蓄積によるパラダイスへの欲望を抑制することはできません。「アルカディアからパラダイスへ」という移行は人間の運命だからです。「なーんにもしないで生きていける」という夢のような自然楽園が失われた後、既に自然に在るものを分け合って暮す相互扶助の段階を経て、自分たちでつくる技術(耕作、栽培、工作など)を発展させることで自然の生産性を飛躍的に高められることを知った人間、更には自然界に未だないものをつくりだす力(実際は自然の力の応用にしかすぎなくとも)を得た人間は「なーんにもしないで生きていける」という夢とは真向から対立する理想を求めることになります。それこそがパラダイスの理想であり、その核となるのが「限りなく豊かになるために絶え間なく働くべし!」というエートスに他なりません。こうして現代人は相変わらずモーレツに働き続けることで何とかしてパラダイスを実現しようと頑張っているわけですが、これは果たして「真の豊かさ」への正しい道でしょうか。働けど働けど猶わが生活が楽にならないのはどうしてか。ぢっと手を見ていると実に様々な要因が思い浮かびますが、私がここで問題にしたいのはパラダイスの限界です。鄙見によれば、パラダイスの極北にあるのは「豊かな国家」ですが、私はそれに「国境なき世界」を対峙させたいのです。それは単なる「国家の否定」とは違います。逆説的に言えば、「国境のない国」を求めているのです。勿論、そんな荒唐無稽な国などどこにもありません。しかし、だからこそそれはユートピアなのです。