新・ユートピア数歩手前からの便り -105ページ目

国境なき世界(7)

通常「国境なき世界」などという理想は空想の産物であり、ただ夢物語としてのみ存在し得るものと見做されます。実際、もしそんな理想が実現してしまったら、多くの人は例えば自分の家に見知らぬ人が勝手に侵入してくるような不安を覚えることでしょう。当然のことです。人間には一人きりになる時間と空間が必要であり、その単独者としての生活を核とした家、その延長上に形成される国家は不可欠だからです。つまり、壁は安心安全な人間生活になくてはならぬものだということです。勿論、かつて全体主義が席巻していた時代のように家や国家が個人の生活を抑圧する場合には、壁は破壊の対象になります。しかし、所詮それも限られた期間のことであり、一旦は破壊されても、早晩新たな壁が要請されるでしょう。こうした文脈において、我々の歴史は壁の構築・破壊・再構築という繰り返しだと言えるかもしれません。何故このような歴史になるかと言えば、壁というものには二面性があるからです。すなわち、防禦と抑圧。自分と自分の家族、同胞の生存を守るために不可欠の壁もやがてその内に暮す人々を抑圧するものと化していく運命にあります。そもそも壁とは本来外敵の侵入を防ぐためのものですが、外敵とは一体何か。台風や津波のように荒ぶる自然が敵として我々に襲いかかってくる場合には、それを防禦する壁が必要になりますが、穏やかな友人のように現れてくる自然には必要ありません。同様のことは外国人についても言えるでしょう。いや、それは外国人とか同国人という区別に限りません。例えば、見知らぬ困った人たち(難民)が外から助けを求めてやって来た時に壁は必要なのか。逆に、内から外へ自由に新しき世界を求めようとする人たちに壁は必要なのか。言うまでもなく、現実には必要ですが、壁を超克する次元も厳然としてあると思うのです。それこそがユートピアなのですが、その次元は空想や夢物語とは質的に全く異なります。何れにせよ、「国境なき世界」とは言わば壁のディコンストラクションが実現する次元ですが、その具体相について更なる思耕を続けます。

 

国境なき世界(6)

国益の最たるものが領土(国土)だとすれば、国境こそ国の生命線に他なりません。従って、もし日本の国境を他国に譲歩するようなことがあれば、それは日本の国益を損なう売国的行為だと見做されます。しかし「国境なき世界」という我々の理想は、あくまでも「世界全体の幸福」を求めるものであり、決して自国を他国に売り渡すようなものではありません。全く次元が違うのです。とは言え、「そんなキレイゴトを並べているうちに足元をすくわれて侵略されるのが現実であり、、結果的に国益が損なわれるのは必定」という批判はあるでしょう。確かに、国境の否定は国の否定ではないものの、国境をなくせば他国からの悪人を含む様々な人間の流入に歯止めがかからなくなり、それまで平穏に暮していた自国民の生活が脅かされる危険性が増大します。また悪人でなくても、例えば山手線の車内で言葉も生活習慣も異なる外国人たちが大声で騒いでいる光景に遭遇したりすると、「テメェら、よそ様の国に来てデケェ面するな!」などという乱暴な言葉を普段は温厚な私も内心つい叫んでしまいます。おそらく、これが自然な大衆の感覚というものでしょう。だからこそ、観光客以外の外国人の排斥が自分たちの国益を守るための必要条件にもなるのです。国境の壁はますます厚く、ますます高くなっていきます。

私たちの望むものは

社会のための私ではなく

私たちの望むものは

私たちのための社会なのだ

かつてフォークの神様はそう歌いましたが、それに準えれば

私たちの望むものは

世界のための日本ではなく

私たちの望むものは

日本のための世界なのだ

ということになるでしょう。つまり、基本となるのはあくまでも自分たちの国としての日本であり、その国益こそが「私たちの望むもの」だということです。勿論、この構造は更に次のように解体されていくでしょう。

私たちの望むものは

日本のための私たちではなく

私たちの望むものは

私たちのための日本なのだ

かくして「私たちの望むもの」は「個人の幸福」に収斂していくわけで、それが実現されるパラダイスと国境は密接に結び付いていると考えられます。と言うのも、「個人の幸福」を至上のものと見做せば、それを安堵するための堅固な壁がどうしても必要不可欠になるからです。

しかしながら、同じく「個人の幸福」から出発しながら、全く正反対の展開をもたらすベクトルがあります。その一例として、すでに何度も言及してきた内村鑑三の有名な次のような言葉が挙げられます。

I for Japan,

Japan for the world,

The world for Christ,

And all for God

異教徒の我々には三行目と四行目は余りピンときませんが、ここに見られる垂直線こそユートピアを指し示すベクトルであり、同時に「国境なき世界」へと繋がる道に他なりません。さて、これもまたキレイゴトにすぎないのでしょうか。

 

国境なき世界(5)

先日偶然目にしたニュースによれば、文部科学省が「ちびまる子ちゃん」の映画に関連して作成したポスターに国際教育を応援する意味を込めて「友達に国境はな~い!」というキャッチフレーズを記したことに対して、自民党の或る参議院議員が次のような批判的コメントを寄せたそうです。

「私はこのポスターを見て、思わず仰け反りそうになりました。同省政務官時代に、国家公務員として、それも国家の継続を担う文科行政を担う矜持を持て、国際社会とは国家間の国益を巡る戦いの場であり、地球市民、世界市民のコスモポリタンでは通用しないと機会あるごとに言ってきたのに・・・たかがキャッチフレーズ、されどキャッチフレーズ。一事が万事で、言葉に思想が表出するものです。国家意識なき教育行政を執行させられたら、日本という国家はなくなってしまいます。文科省の担当者には、猛省を促しました。」

尤も、この発言自体はもう今から三年ほど前になされたもので、この議員の最近の保守的な行動に関連して発掘されたにすぎませんが、ここで強調されている国家意識は「国境なき世界」という理想の前に立ちはだかる大きな壁だと言えます。勿論、「友達に国境はな~い!」というまる子の発言は「どこの国の人とでも友達になろう!」という程度の意味であり、この議員も「ちびまる子ちゃんが言う分には目くじらを立てる程のことではない」と述べています。つまり国家公務員たる文科省の人間が、たとい子ども向けアニメ映画のキャッチフレーズとは言え、「国境はな~い!」などという甘言を平気で黙認している能天気さを問題視しているのです。確かに、友達の交流に国境を必要としないまる子の姿勢には異論がなくても、この世知辛い世の中にいるのは友達ばかりではありません。残念ながら悪人、それも友達を装った悪人の方が多いのが現実です。言い換えれば、国境をなくして入って来るのは友達だけではなく、むしろ悪人の方が圧倒的に多いのです。正直者は馬鹿をみる。人を見たら泥棒と思え。ちびまる子ちゃんもやがてオトナになれば、この現実を認めざるを得ないでしょう。やはり、異分子の侵入を防ぐ国境は不可欠なのでしょうか。

しかし、異分子とは何か。国家意識を軸に考えれば、日本人でない者は皆異分子ということになるでしょう。ただし、全ての日本人が善人とは言えないので、いくら国境を堅固にしても悪人を完全に排除することなどできません。そもそも善人と悪人を如何に区別すべきか。先述の自民党議員は「国際社会とは国家間の国益を巡る戦いの場」だとおっしゃっていますが、日本の国益にとっての善人が他の国にとっても善人であるとは限りません。むしろパワー・ポリティクスの論理によれば、日本の国益のために働けば働くほど、他の国にとっては悪人にならざるを得ないでしょう。例えば日本の商品を世界中で売りまくれば、必然的に他の国の商品は不要となるからです。それが国際社会の現実だと言ってしまえば身も蓋もありませんが、日本の国益のために働く善人が世界全体にとっても善人であることは不可能なのでしょうか。ここで思い出されるべきは、繰り返し言及している宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉です。たとい「甘すぎる!」と嗤われようと、私は「国家間の国益を巡る戦いの場」としての国際社会よりも賢治の言うような「世界がぜんたい幸福になる」という理想社会を求めたい。言うまでもなく、それは日本の国益を断念することでも、日本人であることをやめて「地球市民、世界市民のコスモポリタン」になることでもありません。全く逆です。日本の真の国益は世界全体の幸福と相即すべきものであり、「世界がぜんたい幸福にならないうちは日本人の幸福はあり得ない」のです。私が理想とする「国境なき世界」とは、全ての人間が「世界全体の幸福」を求めてそれぞれの国境を越えて連帯していく祝祭空間に他なりません。

 

国境なき世界(4)

ネフリュードフにせよ、有島武郎にせよ、心ある土地所有者が持たざる貧しき人々に自らの土地を平等に分配しようとしても、なかなか理想通りにいきません。これは、肥沃な土地もあれば痩せた土地もあるというような土地そのものの不平等性もさることながら、そもそも私有の分割にしかすぎないからです。つまり、大地主の私有する土地がAさんやBさんの私有地に転化するだけであって、私有そのもののディコンストラクションにまで至っていないのです。たとい大地主が解体されても(それはそれで大きな前進ではありますが)、分散する小地主の私有は理想を徐々に蝕んでいきます。さりとて私有を根絶しても問題の究極的な解決にはならないでしょう。むしろ、私有の認められない社会は再び弱肉強食の論理に支配される結果となり、人々の生活は極めて不安定なものにならざるを得ません。ならば、全ての土地を国有にして、国が国民それぞれの必要に応じて土地を貸与するということではどうか。原理的に徹底して考えれば、すでに長年に亘って広大な土地を私有している大金持からは言うに及ばず、必死に働いてささやかな住宅地を私有できた庶民からも等しく国が土地を没収し、その上で平等な土地貸与を実行しなければなりません。言うまでもなく、そんなことは到底不可能です。たとい可能だとしても、国によって土地が平等に貸与された社会とは如何なるものか。私の貧困な想像力によれば、整然と建ち並ぶ画一的な仮設住宅のような場所で全ての国民が生活する光景しか思い浮かびません。尤も、全ての国民に大邸宅が貸与されることは物理的に不可能だとしても、仮設のような建物を次第に改善していくことは可能です。しかし、それ以上の問題は生活の画一性です。現在でも集合住宅はかなり画一的で、その画一性にも格差がありますが、本当に自由で個性的な生活を実現できている人は極めて少数です。つまり、大邸宅や高級マンションに住んでいることが直ちに「自由で個性的な生活」を意味するわけではないものの、少なくとも人々は格差に翻弄されながらも自らの生活のあり方を自由に求めることは今でもできているのです。おそらく、「画一的な平等か格差ある自由か」という選択を迫られれば、殆どの人は後者を選ぶのではないでしょうか。とすれば、偉そうにグダグダ理想社会を追求してきても、結局は現状の自由主義社会に優るものはない、言い換えれば大衆の自民党支持は正しいということになるでしょう。実際、良い意味でも悪い意味でも能力のある人が自由に私有物を増大させ、それを自らの財産としていく幸福、すなわち私有財産の保障を核としたパラダイス(privatopia)の魅力は容易に否定できるものではありません。しかし、我々は本当に「私有のディコンストラクション」を断念すべきでしょうか。もしそうなら、我々の私有をしっかりと守ってくれる国家をこそ理想社会とすべきであり、国境は我々にとって不可欠の生命線になります。果たして「国境なき世界」など、やはり夢想家(dreamer)の戯言にしかすぎないのでしょうか。

 

国境なき世界(3)

他人の歯ブラシは使えない。他人のパンツも穿けない。尤も、女子高生のパンツを穿いたり頭から被ったりして恍惚としているエロオヤジはいるかもしれませんが、これは明らかにヘンタイです。(ただ、厳密に言えば、「何がヘンタイで、何がノーマルか」という問題は更に深く思耕する必要があります。例えば、LGBTはヘンタイなのか。性的マイノリティという意味ではノーマルとは言えませんが、さりとてアブノーマルとも言えないでしょう。現時点で明言できることは、ユートピアは決してノーマルでないものを全て排除するような理想社会ではない、ということだけです。確かに、ノーマルなものだけで構築された水晶宮の如き純粋で清潔な理想社会というものも考えられます。しかし、それはパラダイスではあり得ても、断じてユートピアではありません。ならば「ヘンタイのユートピア」なのかと問い詰められると、それも違います。とまれ、これ以上横道に逸れるわけにはいかないので、この問題は後日の課題とし、無批判にヘンタイという言葉をつかうことにします。)おそらく、ヘンタイでない限り、他人の身体に触れたものを使うことには抵抗があるでしょう。逆もまた真なり。他人があなたの普段使っているカップで何かを飲むことなど許容できる筈がありません。飲んだ他人も飲まれたあなたも共に「オエッ!」と叫ぶことは必定です。しかし、これも程度問題で、よく洗われた古着なら平気で着られる人もいれば、絶対に着用不可という人もいます。誰が触ったか分からない紙幣や硬貨をつかえないとか、図書館の本が借りられないとまでなると、これはやはり潔癖症という一つの病気と見做されますが、世の中には絶対に私有するしかないものと共有できるもの、更には共有すべきものがあることは間違いないと思われます。問題は「私有と共有のバランス」に他なりません。

一般的に、人は経済的に豊かになるにつれて私有できるものが増えていきます。貧乏学生の時はフロなし共同便所のボロアパートに住んでいたのが、やがて就職してフロもトイレも個別に完備した部屋に住めるようになり、最終的にはマイホームの夢を実現するような場合。あるいは電車やバスを利用するしかなかった者がやがてマイカーを乗り回せるようになり、ついにはお抱え運転手付きのリムジンを自らの足とするような場合。このように世界の中で自分の私有部分を拡大していくことは、他人に気兼ねすることなく自由気儘に生活できる世界(privatopia)を構築していくことに他ならず、それがパラダイスの実現であることは明白です。しかし、このパラダイスは裏を返せば自分の私有部分から他者を排除するもの、もしくは排除しないまでも自分の意向に他者を隷属させるものであり、到底我々の究極的な理想にはなりません。加えて、私有の拡大によって個人の幸福を実現せんとするパラダイスの論理は畢竟帝国主義につながるものです。確かに、例えば世界全体を日本の私有地の如きものとする大日本帝国が実現すれば、我々日本人は世界中を御主人様として闊歩できるでしょう。しかし、そのような帝国を他の国民が許す道理がありません。言うまでもなく、これはどの国民による帝国が実現しても同様であり、帝国はすでに原理的には破綻しています。ただ、原理通りに事が進まないのが現実であり、十九世紀的な露骨な帝国は姿を消したものの、帝国は依然として巧妙に形を変えて存続しています。また、相変わらず帝国の下での幸福を求めている大衆の存在もそれを支え続けています。尤も、私有のパラダイス(privatopia)を帝国主義に直結させるのは一つの極論であり、実際には「私有と共有の中庸のパラダイス」が大衆の幸福の核となっています。結局、「私有と共有のバランス」という問題に還ってくるわけですが、そこに一体如何なる新しき道を切り拓くことができるでしょうか。

さて、どうも前置きが堂々巡りの様相を呈してきましたが、当面の問題は国境です。誰かが地面に大きな円を描き、「この円の内側が私のものだ。誰も入るべからず!」などと主張する時、そこにどんな正当性があるのか。何もありません。ただその誰かが非常な乱暴者で、その暴力が周囲を震え上がらせるほどの脅威である場合にのみ、その主張が皆を力で圧倒して事実上の承認を得るだけのことです。しかし、そのような暴力による承認も、大衆によって長く容認されていると一つの権利として定着します。もしこれを所有権の起源と見做すなら、その「理不尽な私有」に対して我々は何をなすべきか。その一例として、ここではトルストイの名作『復活』の主人公・ネフリュードフに注目したいと思います。彼はヘンリー・ジョージに深く影響されて次のように主張します。

「土地は私有の対象となるべきではない。水や、空気や、日光と同じ様に、売買の対象となるべきではない。誰でも人は土地に対して、土地が人間に与える全ての便益に対して、同等の権利を持っているのだ」

こうした考えに即してネフリュードフは自らの所領を貧しい農民たちに分け与えようとしますが、なかなか理想通りにはいきません。一体何が問題なのか。

 

国境なき世界(2)

これといった特性のない小さな島を或る国民は竹島と呼び、別の国民は独島(トクト)と呼ぶ。私は一応前者に属する人間なので、後者の呼称を認められませんが、当然逆の立場も考えられます。一つのものに二つの呼称があることが問題なのでしょうか。しかし、例えばH2Oにも水とwaterという二つの呼称がありますが、この場合には全く問題ありません。同様に、日本とJapan、犬とdog(もしくはhundcien他)、あるいは一つの月に対する三日月、半月、満月といった呼称の変化など、一つのものに複数の呼称があること自体は何ら問題ではないのです。では何故、竹島と独島という二つの呼称が問題になるのでしょうか。言うまでもなく、そこには所有権が絡んでいるからです。

そもそも「名付け」という行為は所有権に基いています。誰のものでもない野良犬をどんな名前で呼ぼうと各人の勝手ですが、Aさんがペットショップで買った犬はAさんだけに「名付け」の権利があります。たといAさんが自分の子どもに犬の名前を決めることを許したとしても、それはAさんの所有権の範囲内でのことでしょう。Aさんの許可なくその犬の「名付け」ができないことは明白であり、「名付け」の権利の譲渡は所有権の譲渡以外に考えられません。では、かかる所有権は如何にして生じたのか。勿論、それはAさんがお金を支払ってその犬を買ったことによって生じたのですが、それ以前はどうでしょうか。ペットショップのオーナーはブリーダーから買い、そのブリーダーは誰かから買い…、と言う具合に遡っていくと、一体どこに辿り着くのでしょうか。論理的に言えば、土地の所有と同様、本来誰のものでもなかった犬(厳密に言えば、犬は常にすでに飼い馴らされたイキモノですが)を最初に「俺のものだ!」と力づくで自分のものにした人間の存在に行き着きます。つまり、原初の所有権は暴力によって生まれ、その後にのみ「買うこと」による所有権が成立したと考えざるを得ないのです。

さて、問題は竹島と独島ですが、何れにせよ、もはや「買うこと」による所有権の獲得が無意味であることは明らかです。「買う」ことは相手の所有権を認める前提なくしてあり得ないからです。とすれば、如何なる所有権の行使が可能なのか。双方共に歴史を遡って自らの所有権の正当性を主張しているようですが、そんなものは結局「どちらが先にその島を支配したか」ということにすぎず、その所有権の核を成しているのはやはり暴力に他なりません。これは竹島と独島に限らず、あらゆる領土問題に共通することです。従って領土問題は、不本意ながら相手の所有権を前提に「買うこと」で解決するか、さもなければ再び暴力の行使に訴えて戦争で解決するしかないと思われます。ただし、それらが本当の意味で解決の名に値するかどうかは甚だ疑問です。少なくとも究極的な解決とは到底言えないでしょう。では、領土問題の究極的解決とは何か。結論だけ先に言えば、私は「所有権それ自体のディコンストラクション」が要請されると考えています。我々の究極的な理想社会としてのユートピアでは、何かを私有することがあっても、所有権の行使そのものが意味を成さなくなるのです。

 

国境なき世界(la mondo sen limoj)

ジョン・レノンの「Imagine」を耳にすれば、今でも多くの人が感動します。しかし、リリースは1971年ですから、もうかれこれ五十年以上聴き続けていることになるのに、夢想家(dreamer)は相変わらず夢想家のままで、世界は一向に一つになる兆しが見えません。むしろ逆に、民族対立は日々激しさを増し、常に世界のどこかで血が流されているのが現状です。こんな醜悪で馬鹿げたことが一体いつまで続くのでしょうか。結局、no Heavenno countriesimagineするだけでは意味がなく、そんな夢想家がどんなに大勢集まっても現実を変革することなど到底できないということです。勿論、理想世界をimagineすること自体の力は決して小さくなく、それが全ての第一歩でしょうが、更に重要なことはそれを何とかしてrealizeすることでしょう。では、imagineからrealizeへと移行するために、我々は何をなすべきでしょうか。

喫緊の課題は二つあると思います。一つはno Heavenno countriesの関係です。いちいち英語で記すのは面倒なので、以後、Heavenを神、countriesを国家としますが、「神の否定と国家の否定は関連しているのか」という問題です。レノンはどうも単純に、「神が存在する限り、国家はなくならない」と考えているようですが、これはどうでしょうか。確かに、血で血を洗う民族対立の根柢にはそれぞれの民族が崇拝する神々の闘争があります。しかし、そこに渦巻く論理を裏返せば、神の否定は必然的に民族の否定を導き出すものの、そんな後向きの道の果てに根源的な解決があるとは到底考えらません。むしろ私は神も民族も共に活かす前向きの道に国家の死滅を遠望していますが、神と国家の関係は単純に思耕できる問題ではないでしょう。それ故、第一の課題は改めて深く思耕することにして、ここでは「国家の否定を人々は本当に望んでいるのか」という第二の課題に集中したいと思います。

さて、再びレノンの単純論理によれば、「国家があるから戦争が起こる。従って、国家がなくなれば戦争も不可能になる」と言えます。誤解のないように断っておきますが、私はこうした単純な論理を嗤うつもりなどありません。むしろ、「殺生は悪だ。従って、イキモノを殺してはいけない」という論理と同様、黄金律は常に単純なものだと思っています。ただ、人間はなかなか単純明快には生きられないという現実が問題なのです。殺生などしたくもないが、他のイキモノを殺して食べなければ生きていけないという現実。同様に、戦争などしたくもないが、自分の国の権利が侵されたら戦わずにはいられないという現実。これらは自然の情とも言えますが、殆どの人にとって国家の否定は自然に反するものでしょう。つい先日、お隣の韓国で冬季五輪が始まりましたが、熱狂的に振られる様々な国旗の大きな波を見ていても、国家の否定を望んでいる人など皆無のように思われます。やはり夢想家は永久に夢想家でしかないのでしょうか。

 

中庸のパラダイス(10)

81回世界エスペラント大会(1996)で採択された「国際語エスペラント運動に関するプラハ宣言」(http://www.jei.or.jp/prago/)の内容は実に素晴らしいもので、是非一読、更には熟読玩味して戴きたいと思いますが、そこで掲げられている七原則の中の第三原則「民族性を超えた教育」において次のように述べられています。

「民族語はそれぞれ特定の文化や国家と結びついている。例えば、英語を学ぶ生徒は英語圏の諸国、特に米国と英国の文化・地理・政治について学ぶことになる。それに対してエスペラントを学ぶ生徒は国境のない世界、すなわちどの国も自分たちのふるさとであるような世界について学ぶのだ。」

正にこれこそユートピアの理想ではないでしょうか。「国境のない世界」としてのエスペラント国はどこにもありませんが、同時にどこにでもあり得る世界です。つまり、日本とかアメリカとか、国境のある国々は地図上でも見ることができますが、国境のないエスペラント国は地図に記しようがありません。しかし、それは目に見えないけれども、確かに至る所にあるのです。私はここでエスペラントの宣伝をするつもりなどありませんが、エスペラントの創始者であるザメンホフのhomaranismo(人類人主義と訳されることが多い)の観点から宮澤賢治の「世界全体の幸福」を理解したいと思うのです。ちなみに、賢治自身が熱心なエスペランチストであったことは周知の事実です。

さて、エスペラントに対する最大の誤解は「エスペラントの普及発展はそれぞれの民族語(母語)の否定につながる」というものです。かく言う私もかつて学生の頃に、エスペラントのことをよく知ろうともせずに「エスペラントほど醜悪な言語はない」と或る論文で述べたことがあります。エスペラントは各民族の特性を平均化するものだと単純に思い込んでいたからです。しかし、これは全くの間違いでした。先に言及した「プラハ宣言」の第七原則「人間の解放」では次のように主張されています。

「それぞれの言語(民族語)は人間を自由にも不自由にもしている。すなわち、自分たちの民族間のコミュニケーションを可能にすることによって自由にする一方で、他民族とのコミュニケーションを阻害することによって不自由にしているのだ。全世界的なコミュニケーションの道具として立案されたエスペラントは、人間解放に向けて大きく機能しているプロジェクトの一つだ。すなわち、それぞれの人間が自分たちの地域文化や言語のアイデンティティにしっかりと根差し、しかしそれに束縛されることなく、人類共同体にその一員として参加することを可能にするプロジェクトなのだ。民族語の排他的使用は不可避的に、自己表現やコミュニケーション、連帯の自由に対する障害をもたらすと我々は主張する。我々は人間の解放を求めて運動しているのだ。」

実際、エスペラント運動は全世界的なコミュニケーションを目指すと同時に、日本で言えばアイヌ語や琉球語といった少数言語の支援・再活性化を求めるものです。この点、むしろ一民族語にすぎぬ英語が世界(国際社会)を支配している言語帝国主義の方が少数民族の言葉を消滅させる大きな原因となっていると言えるでしょう。日本でも英会話教室のCM(まるで英語が話せない人間は役立たずのボンクラであるかのような)など見るに堪えませんが、エスペラントはあらゆる言語帝国主義に反抗する運動でもあるのです。

しかし、残念ながら、こうしたエスペラントの理想が総じて画餅のままであるのは新しき村の理想と同じです。どちらもユートピアの理想であり、共に百年に及ぶ苦闘の歴史の積み重ねがあるものの、世界は依然として英語がグローバルに席巻するパラダイスを軸に回っています。かかる歪んだグローバリゼーション(グローバリゼーションそのものが悪いわけではない)を嫌悪する人々の一部は、自分たちの民族語だけで意思疎通ができる小さな社会(一種のGated community)に閉じこもる言わば「鎖国の理想」に逃げ込みます。確かに、わざわざ生活習慣の違う外国人と無理に付き合おうとする必要はなく、気心の知れた日本人同士だけの社会の方が幸福に生活できるでしょう。しかし、同じ日本人同士だからと言って、全ての日本人と仲良く暮らせるわけではなく、そこには必ず「嫌な奴」がいます。そうして「嫌な奴」を次々に排除していけば、それに応じてパラダイスもどんどん限定されていくわけで、やがて気の合う友人だけの集まり、血縁の家族、最終的には自分だけの世界に行き着くことになります。私はこうした「鎖国の理想」、もしくは「Gated communityの理想」を一概に否定するつもりはありません。そもそも幸福の第一条件は安全保障であり、自分たちの国、自分たちの家族、そして何よりも自分自身の安心安全を守る外壁は不可欠です。従って、諄いようですが、もし人生の目的が幸福実現だけに限定されるなら、それは「個人の幸福」を核とする中庸のパラダイスに極まるでしょう。すなわち、「鎖国の徹底、さもなければ国境の撤廃」という両極端に走るのではなく、自他を分ける必要最小限の壁は堅持しながらも適度の国際交流(時々の海外観光旅行など)を楽しむことです。何事も中道が一番、「世界全体の幸福」などという究極的な理想を求めることは実質的にはパラダイスからの転落でしかありません。では、「世界全体が全ての人のホームになる」という理想は永久に画餅のままなのでしょうか。それは一つ間違えば八紘一宇という理念にも繋がりかねない実に危険な理想です。然り!ユートピアとは極めて危険な理想なのです。その点、触らぬ神に祟りなし、ユートピアの理想は画餅のままにしておいた方が賢明なのかもしれません。しかし、それでもなお人間はユートピアの追求を断念することなどできないでしょう。人生の目的は幸福に尽きるものではないからです。

 

中庸のパラダイス(9)

ジョン・スチュアート・ミルは幸福な豚になるよりも不幸なソクラテスになることに真の幸福を見出したそうですが、こうした見解にどれだけの人が共感するでしょうか。むしろ大衆は依然として幸福な豚になることを求めているように思われます。事によると「幸福な豚で何故悪い!」と開き直るかもしれません。頑張ってお金をたくさん稼ぎ、大きな家に住んで、カウチポテトになる――メタボで健康を害す結果になったとしても、それは本望でしょう。そこには確かに、目に見える豊かな幸福があるからです。実際、もし或る国家が全ての国民にそのような豚の幸福生活を保障してくれるなら、大半の人々にとってそれはパラダイスを意味します。私はそこに大衆のパラダイスの典型を見出しますが、その求心力は甚だ強いと言わざるを得ません。正に猫も杓子もパラダイスを追い求めているのが現状です。しかし、極めて少数派ながら、そうした目に見える豊かさに敢えて反抗する人たちがいます。それは、例えばサン=テグジュペリの『星の王子様』に登場するキツネが言うように「本当に大切なものは目に見えない」と信ずる人たちです。勿論、そんな訳の分からないものの追求に憑かれると不幸なソクラテスになってしまいます。しかし、この不幸なソクラテスにこそ人間にとっての真の幸福があるとすれば、それは一体如何なる幸福でしょうか。そもそも「目に見えない大切なもの」とは何か。

試みに、ホームについて思耕してみます。ハウスは目に見えても、ホームは目に見えません。大きなハウスは大きな幸福をもたらしますが、小さなハウスにも小さな幸福があります。共に豚の幸福ですが、目に見えないホームにそのような大小の区別はあり得ません。更に言えば、大きなハウスがホームにならず、逆に小さなハウスがホームになるのはよくあることです。ホームは至る所にあり、同時にどこにもありません。その意味において、ホームこそユートピアなのです。実際、私のユートピア追求はホームの摸索と言ってもいいでしょう。問題は求められるホームの質に他なりません。

例えば、豚の幸福渦巻く大都会を遠く離れて、ふるさとにホームを求める人たちがいます。しかし一体、何処にふるさとがあるでしょう。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

 

犀星がこのように歌っているように、ふるさとはすでに常に失われたものであり、もはや我々が帰るべきホームではないのです。重要なことは過去の失われたふるさとに後向きに回帰しようとすることではなく、あくまでも前向きに新しきふるさと(ホーム)を将来的につくることです。勿論、古きよき村を人里離れた山奥や孤島に再構築しようとする試みはあるでしょう。それは言わば擬似アルカディアの再生ですが、そこで新たなホームを生きることは可能です。しかし、それが閉じられた空間(Gated community)に留まる限り、金持たちの高級住宅街同様、真のホームにはなり得ないと私は考えます。これは所謂「狭いながらも楽しい我が家」のホームについても言えることです。名もなく貧しく、しかし美しく生活している市井の人たちのホームは実に貴重で魅力的なものですが、それが「個人の幸福」に終始すれば、やがて「家庭の幸福は諸悪の本」という事態に転落していきます。何故か。確かに、個人それぞれのホームにも幸福は宿りますが、世界全体がホームにならないうちは個人の幸福は未だ完全なものではないからです。世界全体がホームになる? そんなことが果たして可能なのか。

 

中庸のパラダイス(8)

私事ながら、幼い頃はあんなに楽しかった正月が今は寂しくてたまりません。大人になれば子どものように無邪気にはしゃぐことができなくなるのは当然ですが、私の今の寂しさの根柢には「ホームの喪失」があるように思われます。二十年ほど前に父が他界し、それでも母が元気に故郷で暮していれば、時々帰省する家は未だ「ホーム」でした。しかし、一昨年からその母も高齢のために施設での生活を余儀なくされるようになると、建物としての家(ハウス)はあっても、そこはもはや私のホームではなくなりました。つまり、私もまたホームレスの一人になったのです。おそらく、私と同じ様な意味でのホームレスは巷に溢れているでしょう。極端な話、どんなに立派な豪邸に住んでいる金持でも、そこに心からのやすらぎを感じられないホームレスである可能性はあります。ハウスレスとホームレス――何れが人間にとって喫緊の問題かと言えば、それは間違いなく前者でしょう。雨露を凌ぐハウスなしには生きていけないからです。これはあらゆるイキモノに共通する現実であり、公園や川原での野宿を余儀なくされている所謂ホームレスの人たちでも生きるためにダンボールでハウスを作っています。そして、ダンボールのハウスからネットカフェ、更には安アパートへという具合に生活レヴェルを改善していき、より立派なハウスに住むことがパラダイスを形成していくのです。しかし当然、たといハウスレスの問題が克服されても、依然としてホームレスの問題が残ります。言うまでもなく、ホームレスはハウスレスとは質的に異なる問題であり、先述のように立派なハウスがあってもホームレスになるし、ダンボールのハウスの集まりやネットカフェがホームになることだってあります。私の以前からの拙い区別を以て敷衍すれば、ハウスは肉体の糧、ホームは魂の糧と言うことができるでしょう。

何れにせよ、人はパンのみにて生くるにあらず、さりとてパンなしでは生きられないという現実において、我々の求める理想が肉体の糧と魂の糧の両立を目指すのは極めて自然なことです。しかし、そのような両立は如何にして実現するのでしょうか。お金さえあれば、肉体が快適に暮せる立派なハウスはいくらでも建てられます。従って、世界中の人たちが健全なハウスに住めるだけの経済的な豊かさ(繁栄)が求められるわけですが、これはあくまでもパラダイスの理想に他なりません。勿論、これはこれで必要不可欠な理想ではありますが、我々にとっての究極的な問題は「ハウスをホームにすること」です。ただし、それが所謂マイホーム主義に帰結するならば、それによってもたらされるホームは依然としてパラダイスの理想に留まるでしょう。壮大な豪邸にせよ、狭苦しい茅屋にせよ、「楽しい我が家」は可能です。そこには自ずと上流、中流、下流の区別が生じてきますが、それらは畢竟ハウスの次元のことにすぎず、ホームとしての質に格差はないと考えられます。むしろ、余りにも広すぎて家族の交流が希薄になりがちな豪邸よりも「狭いながらも楽しい我が家」の方がホームとしては優れていると言えるかもしれません。では、ホームの一体何が問題なのか。そもそも「楽しい我が家」というパラダイス以上の理想を求める必要とは一体何か。