新しき村を誰が要請するのか(9)
唐突ながら、「大東亜共栄圏」や「東北アジア共同の家」といったシニフィアンに対するシニフィエは何か。文字通りに解せば、どちらも「アジアの東北地域で暮らす人々が共に幸せになる場」を意味します。しかし現実には、「東北アジア共同の家」に比べて「大東亜共栄圏」には強い拒否反応が示されるでしょう。やはり後者には歴史的汚名が深く沈殿しているからです。つまり、同じ様なシニフィアンであるにも拘わらず(外国語で表現すれば大差ない)、「大東亜共栄圏」と「東北アジア共同の家」では、それぞれのシニフィエは全く異なる――と言うより、「東北アジア共同の家」は「大東亜共栄圏」という呪われたシニフィアンを払拭するために新たに求められたシニフィアンだと見做すべきかもしれません。しかし、そうした明快な区別は水平の次元においては有効かつ必要なものでしょうが、我々の実存にとって究極的な垂直の次元においては更に問題が複雑化します。端的に言えば、水平の次元では明確に区別されるべき二つのシニフィエとして単純に理解されたものが、垂直の次元では究極的なシニフィエの差異(運動)と化すのです。従って、「東北アジア共同の家」という新しいシニフィアンは「大東亜共栄圏」という古いシニフィアン(亡霊)を水平的には祓除できても垂直的にはできず、我々はそこに求められる究極的なシニフィエ(理想)の実定化という運命を不断に超克していかねばならないのです。
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さて、こうしたことに拘るのは偏に「新しき村」というシニフィアンの運命が常に念頭にあるからです。それは曲がりなりにも百年存続し、幸いなことにその間「大東亜共栄圏」というシニフィアンのように亡霊化することはありませんでした。しかし、それは本当に幸いなことだったのか。確かに「新しき村」というシニフィアンはこの百年一貫して変わることはありませんでしたが、そのシニフィエがかなり変質していることは厳然たる事実です。それは当面の問題である村内と村外の対立(厳密に言えば、残念ながら村外は一枚岩ではなく、そこには少なからぬ村内擁護派が含まれており、村内の在り方をラディカルに批判しているのは村外の急進派ですが、便宜上このような表現を用います)に如実に現れています。実際、同じ「新しき村」の同志でありながら、どうして対立が生じるのか、全く理解に苦しみます。そして、あくまでも論理的に考えるならば、村内と村外では「新しき村」という同じシニフィアンを用いながらも、それぞれのシニフィエは全く異なっていると理解するしかありません。だからこそ私は「新しき村」というシニフィアンに関するシニフィエを様々な相において明確にすることに努め、それを踏まえた上で村内及びそのシンパの人たちが抱くシニフィエとの徹底討論を切望しているのです。言うまでもなく、そこでは「新しき村」というシニフィアンの原点としてのシニフィエとその変質が問われることになるでしょう。
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とは言え、もしかしたら百年持続した「新しき村」というシニフィアンの賞味期限はすでに切れ、その内実は「大東亜共栄圏」というシニフィアンと同様に亡霊化しているのかもしれません。だとすれば、「大東亜共栄圏」という古いシニフィアンが「東北アジア共同の家」という新しいシニフィアンに移行したように、「新しき村」というシニフィアンも別の新しいシニフィアンを要請すべきなのでしょうか。私はそうは思いません。たとい「新しき村」というシニフィアンが賞味期限切れだとしても、未だその消費期限は切れていないと信じているからです。
新しき村を誰が要請するのか(8)
周知のように、テクストは作者と読者によって織り上げられます。この拙い便りも一応作者である私の思いが織り込められてはいるものの、殆ど読者のいない現状ではテクストの名に値しません。カフカの名作も遺言通りに焼却処分されていたら、世界中で熱心に読まれることもなく、かくも重要なテクストへと成長・発展することはなかったでしょう。それは主に友人マックス・ブロートの功績ですが、同時に彼はニーチェにとっての妹エリーザベトのような立場でカフカの遺稿を管理する絶対的な権威を行使したという点では功罪相半ばします。実際、ブロートの編集を通さずに我々がカフカ作品に接する可能性はなかったわけで、その意味で長くカフカの自由な読解が阻害されてきたからです。それはテクストにおける作者と読者の自由な交通の妨害に他なりません。
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さて、問題は「新しき村の精神」です。これを創造的なテクストと見做すならば、我々は作者である実篤の権威を絶対化したり、実篤を教祖と崇めるようなシンパたちの追随主義的な解釈に硬直化してはなりません。この点、一般的にはなかなか納得できない面があるのは確かであり、読者が現実に作者の権威から自由になるのは未だ容易ではないでしょう。例えば作家と評論家の関係において、真に創造的なのは作家であり、評論家は作家の創造物に寄生して自分の意見を述べているだけだという偏見は依然としてあります。確かに、作家に追随・追従する三流評論家は今でも跡を絶ちませんが、このような創造性の格差は三流作家と一流評論家の間にも見出されるでしょう。重要なことは「理念の創造的深みに如何に到達するか」という問題であり、それを巡って作者と読者が鬩ぎ合うことでテクストが構成されていくのです。従って、単なる作者の創造物としての文書と作者と読者の共働を通じて構成されるテクストは厳密に区別する必要があるでしょう。
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余談ながら、私はここで文字通りの著作権、すなわち著者とその作品の関係についても思耕しておきます。言うまでもなく、著作物の法的権利が著者にあるのは当然ですが、著者といえども著作物の創造的発展を止めることはできません。それを人間と機械の関係に準えて言えば、機械が単純である限り、その製作者である人間はそれを完全に制御(支配)できますが、より複雑かつ創造的に発展するAIのような場合には、その真理性において人間と競合する可能性さえ出てきます。そこにアトムの苦悩もあるわけで、アトムは人間(天馬博士)によって創造されたロボットであるにも拘わらず、自ら主体的に生き、間違った人間を批判しさえするのです。そうした人間と機械(ロボット)の関係は神(創造者)と人間(被造物)の関係にまで遡ることが可能であり、人間が創造者である神に隷属するものでないならば、人間は神と共働してこの世界を真理の国にしていくべきなのです。新しき村の創造についても然り。「新しき村の精神」および「新しき村」そのものを創造的なテクストと見做すべきだ、というのはそういう意味なのです。
新しき村を誰が要請するのか(7)
改めて「新しき村の精神」を確認しておきます。
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一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。
一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。
一、その為に自己を正しく生かすようにする。自分の快楽、幸福、自由の為に他人の天命と正しき要求を害してはいけない。
一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとる事で全世界の人間が同じく義務を果たせ、自由を楽しみ正しく生きられ、天命(個性もふくむ)を全うする道を歩くように心がける。
一、かくの如き生活をしようとするもの、かくの如き生活の可能を信じ全世界の人が實行する事を祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である、我等の兄弟姉妹である。
一、されば我等は国と国との争い、階級と階級との争いをせずに、正しき生活にすべての人が入る事で、入ろうとすることで、それ等の人が本当に協力する事で、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。
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私はここでこの精神をつぶさに分析・検証、すなわち「武者小路実篤が如何にしてこの精神を得たか」と問うつもりはありません。それは然るべき実篤研究家にお任せすることにして、私は一つの理想が実篤によって「新しき村の精神」として言葉化されたという実定性から始めたいと思います。と言うのも、伝統的な解釈学によれば「著者の意図の再構成(reconstruction)」が重要でしょうが、人間の理想を実存的に問題にする場合にはポスト構造主義的な「著者の死」を前提にすべきだと考えるからです。「著者の死」とは言わば「著者の意図の脱構築(deconstruction)」ですが、そこにこそ創造的な解釈があると思われます。実際、「新しき村の精神」を解釈するに当たって「実篤がこう言っているから正しい、正しくない」と判断するのは無意味であり、もはや著者はテクスト解釈の絶対的権威(基準)足り得ません。そもそも実篤の理想自体、トルストイを始めとする様々な芸術家・思想家たちの理念が織り込められたテクストに他ならず、「新しき村の精神」もまた今後引き続き新しき人々の思いが不断に織り込められていく創造的なテクストであるべきなのです。例えば、「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする」という冒頭の一文などは宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という思いを織り込んで解釈するという具合に。少なくとも「新しき村の精神」の核が自他共生という理想であるならば、それを実篤の専売特許とするような姑息な考えは捨て去り、それこそ正に全世界の人間が古今東西の叡智を織り込みながら前向きに発展させていくべきものでしょう。実篤は新しき村の教祖などではありません。
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さて、このような私の立場に対しては「創造的な解釈などとカッコイイことを言うが、要するに自分に都合よく勝手気儘に解釈したいだけじゃないか」という反論が当然想定されます。確かに、その危険性がないわけではありません。殊に受験の文章読解問題において創造的解釈を容認すれば、全ての解釈を正解とせざるを得なくなるでしょう。言い換えれば、解釈に正解などなくなってしまうのです。それでは文章読解力の試験にならないのは明白なので、創造的解釈は主観的解釈として切り捨てられ、著者の意図を再構成する客観的解釈のみが正解とされる結果になります。しかしながら、創造的解釈は単なる主観的解釈ではなく、「新しき村の精神」というテクストも受験の読解文などではありません。実際、重要とされるのは解釈の垂直的深度であり、水平的な解釈の客観性ではないのです。これはよく受験の読解問題の笑い話とされることですが、その問題文を作者自身が読解すると不正解になることがあります。何故そんな奇妙なことになるのでしょうか。作者のお粗末な読解力(論理的・客観的に解釈する力の不足)が原因ではないとすれば、作者の読解が解釈の客観性を突き抜けた深みにまで到達している場合が考えられます。言うまでもなく、軟(やわ)な主観的解釈(自分に都合のいい勝手気儘な解釈)では解釈の客観性という地平を突き抜けることなど到底不可能です。従って、誤解を恐れずに敢えて言えば、命題1に関する徹底討論に際しては、「新しき村の精神」の作者である実篤を絶対的基準にした客観的解釈を目指すのではなく、それを踏まえた上での創造的解釈を可能な限り深めていくことを望みたい。それは決して実篤を蔑ろにすることではなく、むしろ実篤自身の本意であると私は思っています。
新しき村を誰が要請するのか(6)
命題1は「新しき村の精神」の「実定性」(Positivität)及び「普遍性」(Universalität)を徹底的に問い直すことを目的としています。これは若きヘーゲルが「キリスト教の精神とその運命」と題されている草稿で格闘した問題でもありますが、例えば愛に満ちたイエスの教えがやがてキリスト教という宗教として実定化され、更にローマ帝国の国教となることを通じて普遍宗教へと発展していく過程において、その母胎である民族宗教としてのユダヤ教に特徴的な他律性へと絶えず転落する運命にある、というものです。そもそもイエスをキリストだと信じる根源的な信仰告白、更に言えばイエスへの思い(愛)を言葉にした瞬間(シニフィエのシニフィアンへの移行)から純粋理念の実定化という運命が始まります。確かに、理念の実定化はその純粋性を否応なく歪めてしまいますが、そうした実定化なくして理念の普遍的な発展などあり得ません。私は先の便りで大審問官を批判しましたが、彼が大衆を遍く救済し得ると確信するキリスト教は明らかに歪んでいます。そこにキリスト教の真理(純粋理念)は皆無であり、大審問官は反キリストでしかないでしょう。では、キリスト教の真理がどこに見出されるかと言えば、それは言うまでもなく沈黙するイエスです。イヴァンはいみじくも饒舌な大審問官を沈黙のイエスと対抗させていますが、真理がイエスの沈黙にこそあるのは明白であり、そのことは大審問官自身も重々承知の上なのです。それにも拘わらず大審問官が沈黙するイエスを非難するのは、沈黙において真理は決して現実化しないからです。成程、甦ったイエスが沈黙し続ける限り、真理は純粋理念のまま維持されるでしょう。しかし、たといどんなに純粋で美しい真理であったとしても、それは言わば画餅にすぎず、現実に食べることなどできません。こうした事情を遠藤周作の名作『沈黙』のテーマに即して言えば、沈黙する神と踏絵を踏むロドリゴに「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と語りかける神の対比として理解できます。つまり、たとい十字架刑に処せられても断固踏絵を拒絶して沈黙する神を信じ続けられる強き人もいるでしょうが、拷問が恐ろしくて逃げ出してしまう殆どの弱き大衆は敢えて棄教した「転びバテレン」の存在、そして弱き人の姿を通じて「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と語りかける神に救いを見出す、ということです。しかし、こうした実に感動的な神の言葉さえやがて実定化される運命を免れず、大衆は自らの弱さを容認・妥協して権力者(強者)におもねるような生活に堕していきます。余談ながら、悪人正機もまた然り。その真理の純粋性は沈黙においてのみ息づいているのですが、法然にせよ親鸞にせよ、それを言葉化しなければ衆生済度の現実的な力にはなり得ないのです。さりとて、言葉化された真理の実定性は常に単なる悪人の肯定・容認と背中合わせであり、その運命の克服こそが永遠の課題に他なりません。
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さて、どうも横道に逸れ過ぎましたが、当面の問題は「新しき村の精神」です。これは果たして全世界の人間にとって普遍的真理足り得るのか。
新しき村を誰が要請するのか(5)
新しき村に限らず、理想社会を実現しようとする際に必ず直面する問題があります。それは現実主義と理想主義の対立です。新しき村の場合には「農業現実派」と「芸術理想派」の対立であり、私はそれを「食うための労働」と「自己を生かす仕事」の対立と理解しています。勿論、理想は本来両者の一致を目指すべきものですが、現実にはどちらか一方を優先せざるを得ず、大雑把に言えば「食うための労働」を重視する村内と「自己を生かす仕事」を重視する村外という対立図式ができます。そして、村内は村外を「現実に汗を流すことなく理想ばかり語りたがる輩」と断じ、村外は村内を「現実に雁字搦めになって理想を忘れた輩」と思うに至るのです。しかし、こうした双方の無理解は根源的におかしなことであり、私は今こそ両者の徹底討論が必要だと思うのです。そこで私はルターの「九十五条の論題」に準えて、次のような「五箇条の論題」を考えてみました。
★
「新しき村」をめぐる五箇条の論題(「新しき村」の使命を明らかにするための討論)
前書
「新しき村の精神」への愛、そしてそこに表されている理想社会を実現したいという熱情から、これから記す箇条について討論することを求める。この討論の場に出席できない者は不在者として書面にて参加されることを希望する。
命題1
「新しき村の精神」は武者小路実篤によって書かれたものではあるが、古代から近代を貫いて現代に至る究極的な理想を求める人類の意志が込められている。(実篤は「新しき村」の教祖にあらず)
命題2
「新しき村の精神」に込められた理想の実現を望む全ての者が新しき村の同志である。
命題3
新しき村の使命は理想社会を実現する運動を同志それぞれの立場から推進することにある。
命題4
新しき村の同志は事実上、毛呂山の村の内に住んでいるか外に住んでいるかによって村内会員と村外会員に大別されているが、その使命を果たすことにおいて優劣はない。従って、村外会員の役割は村内会員の活動を支える二次的なものにすぎないという奴隷根性は捨てなければならない。
命題5
「新しき村」の理想は水平の次元のみならず、垂直の次元においても実現されねばならない。すなわち、単なる経済的な繁栄(肉体の糧の充足)に止まることなく、真に精神的な豊かさ(魂の糧の充足)を求めることを使命とする。
以上
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こうした命題について徹底的に話し合うことを通じて、誰が新しき村を本当に要請しているのかを明確にしたいと思うのです。
新しき村を誰が要請するのか(4)
創立百一年目を迎えた新しき村は今、重大な岐路に立たされています。存亡の危機と言ってもいいでしょう。事実、このまま何もしなければ村は早晩消滅の運命を辿るしかありません。一体、新しき村の何がそんなに危機的状況なのか。それは新しき村の創立百周年を見据えて一昨年上梓された前田速夫さんの著書『新しき村の百年』(新潮新書)に活写されている通りですが、端的に言えば、村が理想社会を実現する運動体としての機能を失って久しく、今や単なる農村(限界集落)と化している現状です。誤解のないように断っておきますが、農村であること、もしくは農業を営んで生活すること自体が悪いわけではないのは当然です。問題は、百年前に農業共同体として始まった村がそこから理想社会への道を殆ど一歩も踏み出せておらず、それどころかもはや農業共同体ですらないことにあります。私は村で生活していた十数年前にそのことを主張し、「新生会」(新しき生活を始める会)という組織を立ち上げて村の再生を試みました。それは一部の村外会員の熱い賛同を得たものの、残念ながら私の力不足で村全体を動かすには至りませんでした。結局、私が理想とするような新しき村への要請が村の殆ど誰にも理解されなかったことが敗因です。結果、私の要請は別の可能性を摸索することになりましたが、意外にも(と言うか、幸いなことに)その種子だけはかろうじて村の地に蒔かれていたようで、昨年の新しき村創立百周年を機に再び芽を出しそうな機運が高まってきました。その立役者は先述の前田さんであり、彼を中心に「日々新しき村の会」が設立され、今度こそ「新しき村の精神」に共鳴する多くの人々の力が結集して運動体としての村が再生するものと期待されました。と言うのも、前田さんは私とは違って実行力に優れた方で、「日々新しき村の会」は組織的にも資金や人材的にも「新生会」など足元にも及ばない素晴らしさを有する試みだからです。おそらく、これが新しき村を再生する最後のチャンスでしょう。それにも拘わらず、冒頭に述べたように、我々は今再び大きな壁に道を阻まれています。それは基本的に「新生会」が直面した壁と同質のものですが、村内及びそのシンパの無理解という壁です。どうしてそんな馬鹿馬鹿しいことが何度も繰り返されるのか。皆「新しき村の精神」に共鳴する同志の筈なのに、どうして分派の対立の如き様相を呈してしまうのか。ここには単なる無理解では済まされぬ極めて重大な問題があるような気がしています。
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例えば、ルターも最初からプロテスタントという分派をつくろうとしたわけではなく、あくまでも当時のカソリック教会の在り方に対して「免罪符の売買のようなことが真のキリスト教なのか!」とプロテストしたにすぎません。従って単純に考えれば、ルターの問題提起を機に全てのキリスト教徒が「真のキリスト教とは何か」という問いを巡って真摯に徹底討論しさえすれば、それを信じる人の民族性(国民性)や歴史性に応じて分派が生じるのは不可避だとしても、致命的な対立は起こらないと思われます。勿論、現実はそんなに単純ではなく、世界には様々な宗教対立、政治対立、民族対立などが渦巻いています。しかし、如何なる対立も煎じ詰めれば利害対立だとすれば、原点に戻って「何が自分たちにとって真に正しいことなのか」と徹底的に問うこと以外に論理的解決(現実は論理的ではないにせよ)はあり得ないでしょう。もう一つ最近の例を挙げれば、沖縄の米軍基地問題です。沖縄に米軍基地があることで利する人もいればそうでない人もいますが、「何が沖縄にとって正しいことなのか」という原点、更には「何が日本にとって、世界にとって、宇宙にとって正しいことなのか」と原点を遡って徹底討論する必要があるでしょう。そうすれば、沖縄を犠牲にして日本政府が得ている利、日本を犠牲にして世界が得ている利、そして根源的には宇宙における軍事基地(もしくは武器そのもの)の是非を問い直すことを通じて新たな地平が開けてくるのではないでしょうか。それで現実的な解決が得られるとは到底思えませんが、新たな地平における徹底討論が当面の突破口になるのは間違いありません。新しき村の問題に戻れば、前田さんを中心とした改革派とそれに反対する村内とそのシンパの当面の対立は新しき村の原点に回帰して「新しき村の使命とは何か」と徹底的に問い直すことで突破口が開かれることを期待したいのです。それは相手を論破することを目的とする討論ではなく、あくまでも「新しき村の使命」を改めて根源から闡明にすることを目指すものです。鄙見によれば、その徹底討論の論点こそ「根源的(究極的)に新しい社会」を要請するか否かに他なりません。
新しき村を誰が要請するのか(3)
結局、誰が新しき村の実現を要請するのか。これは私にとって「今、誰が本当に革命を欲しているか」と問うことに等しい。では、革命とは何か。端的に言えば、それは世界の一新、すなわち「根源的(究極的)に新しい社会」の実現に他なりません。先述したように、大衆も既存社会に何らかの不満を抱いてはいるものの、決してラディカルに世界の一新など求めず、あくまでも既存社会の中で自分たちが少しでも幸福になれるような改革を望むに止まります。それは窮民もまた然り。貧しき人々や虐げられた人々が豊かで自由な社会を望むのは自然の情ですが、それが「世界の一新」への意志にまで発展するかどうかはおそらく自然の情を超えた問題でしょう。例えば、イヴァン・カラマーゾフが提示した「大審問官伝説」に即して言えば、「世界の一新」を要請する沈黙のイエスではなく、既存社会での幸福を保証してくれる大審問官を大衆は歓迎します。たといそれが鎖につながれた飼い犬の如き幸せであったとしても、決して自由を売り渡さず、あくまでも主体的に自らの人生を切り拓いていく苦難よりもマシだというのが大衆の人情であり、幸せよりも苦難を選択するような生き方は全く不自然なことだからです。尤も、「幸せになりたい」と願うのは自然の情だとしても、「より大きな幸福」を求めて苦しむのも自然の情だと言えます。その場合には苦しむことが幸福への踏み台になるわけですが、一口に幸福と言っても金持の「上流の幸福」もあれば貧乏人の「下流の幸福」もあることは再三述べている通りです。すなわち、下流の人が刻苦勉励して不断に上流を目指し続けることがあるにせよ、「より大きな幸福」を高望みし続ける上流への執著さえなければ、大抵の人は結構「中流の幸福」に満足して暮らしていけるのです。実際、既存社会の格差を必要悪として容認することで、人はそれぞれの身の丈に合った幸福に安住することができるでしょう。むしろ、格差の滅却こそこの世の絶対正義だと信じ込み、延いては皆が平等の徹底を強要し合うような社会は反ってディストピアでしかありません。何事もテキトーが肝腎、より上流のパラダイスを目指して競争に明け暮れる生活もよし、そんな競争は人間らしくないと断じて、たとい貧しくとも共生のアルカディアを求める生活もよし。結果、絶対的な「あれか、これか」ではなく、テキトーな「あれも、これも」が人間をそれなりの幸福に導いてくれるでしょう。少なくとも、そう確信する大審問官は絶対的な自由(における己事究明)という重荷から人間を解放し、更には自らの「絶対的権威」の下でのテキトーな幸福を万人に与えてくれます。従って、大審問官に従う大衆は断じて新しき村を要請することなどあり得ません。テキトーな大衆にとって、「世界の一新」など百害あって一利なし、既存社会にそれぞれのパラダイスやアルカディアを求めていくこと以上の幸福など存在しないのです。これこそ人間(社会)の健全で自然な在り方なのかもしれませんが、もしそうなら、「世界の一新」を目指す新しき村の要請は極めて不健全で自然に反することになるでしょう。それにも拘わらず、敢えて新しき村を要請するならば、それは一体何を意味するのか。そもそも「根源的(究極的)に新しい社会」とは何か。
新しき村を誰が要請するのか(2)
大衆は新しき村を要請しない。農村共同体としての新しき村がもはや大衆にとって時代遅れの遺物でしかないことは既に述べました。それでも会社や学校で躓いて人生に絶望した人が恰も失われた楽園を郷愁するかのように新しき村を求める可能性は今後もなくならないでしょう。「新しき村に行けば人間らしい生活ができる」という期待が根深くあるからです。しかし、それは幻想にしかすぎません。いや、幻想と言うよりも、新しき村は今や競争社会に疲れ果てた弱者がその過酷な現実からの逃避を正当化する美名と化しています。実際、今年が創立百周年ということで姜尚中さんのような著名人が村を訪問した記事を新聞等で目にする機会が多くなりましたが、その内容は総じて「より豊かな生活を求めて競争に追いまくられる現代社会において、たとい貧しくとも美しく生活することを求めている人たちが今でもいる!」という驚きに満ちたものです。極端な話、それはアマゾンやアジアの現代文明から取り残されたような奥地で「人間らしい生活」をしている未開人に遭遇した驚きに等しいものにすぎません。しかし、たとい未開人の「野生の生活」に人間本来の在り方を見出したとしても、どれだけの現代人がそこに戻ろうとするでしょうか。タヒチに楽園を見出したゴーギャンのような場合は絶えないでしょうが、未開人の豊かさは現代人の絶望を根源的に解決するものではないと私は考えます。そもそも「未開人の豊かさ」というものは現代人の虚構に他ならず、「物自体」と同様に存在しないものであり、現代人が未開人になろうとすることなど原理的に不可能です。どんなに赤ん坊が純粋で素晴らしい存在であっても、大人がなるべき理想にはなり得ないのと同様です。ツァラトゥストラは「駱駝-獅子-子ども」という精神の三態について述べていますが、「子ども」という存在形態が人間の究極的な理想であったとしても、それは子どもそのものではなく畢竟大人が創り出した虚構に他なりません。勿論、虚構だから駄目だというのではなく、むしろ理想は全て人間がより良く生きるために創り出す虚構なのです。従って、私がここで明確にしておきたいことは、新しき村の理想が虚構である点ではなく、あくまでも「新しき村の理想は一切の虚飾を排した素朴な自然の生活にこそある」などというものではないということ、更に言えばそれさえも一つの虚構の理想にすぎない点なのです。
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何れにせよ、我々は今、創立百周年を機に新しき村の根源的な変革を試みようとしています。しかし残念ながら毛呂山の村内とそのシンパから成る村外会員の大半は「それは新しき村の名を汚す独善的な試みにすぎない」とばかりに反撥を強め、その間の溝は広がるばかりです。これは両者共に村を愛していること自体に変わりはないだけに実に悲しむべきことではありますが、やはりどうしても避けられない対立だと私は思っています。「君は君 我は我也 されど仲よき」とは実篤の言葉ですが、我々が直面している現在の対立はそれ以前の問題だからです。
新しき村を誰が要請するのか
競争原理が渦巻く現代社会の論理に即して言えば、競争の勝ち組、すなわち金持以外の殆どが「世界はこのままでは駄目だ」と思っているでしょう。しかし、この世界に何らかの不満を抱いているとしても、その不満者の全てが新しき村を要請するわけではありません。そもそも階級対立と一口に言っても、そこには大きな幅があり、単純に「金持-貧乏人」の対立構図で世界を割り切ることなどできません。実際、世界の大半は「自分は中流だ」と自認する人たち、すなわち上流の人々を羨望の眼差しで見上げながら、自分は未だ下流に落ちていないことに安堵する人たちで占められています。こうした中流の人々は微温湯に浸かっているに等しく、この世界から出るに出られず、不満を抱えながらも現状の生活が少しでも豊かになる方向に希望を見出そうとします。もっと露骨に言えば、中流の人々は世界を一新する革命を望まず、今の世界内での生活の改善を求めるにとどまるのです。では、社会の底辺で蠢くように生活している貧しき労働者はどうか。俗流マルクス主義によれば、そうした窮民こそが革命主体足り得るのでしょうが、言わば窮鼠猫を嚙む展開も真の革命をもたらさないと思われます。と言うのも、窮鼠が猫を嚙んだところで、せいぜい鼠と猫の力関係が逆転するだけで、今度は猫が「窮民」の境遇に転落するにすぎないからです。更に言えば、窮民革命は金持が支配する腐った世界を叩き潰すことには成功するかもしれませんが、さりとてそれは金持に代わって貧乏人が支配する世界の実現を望むものではないでしょう。重要なことは今の金持を打倒して貧乏人が次の金持になることでもなければ、金持の「贅沢な理想」を廃棄して貧乏人の「清貧の理想」を新たに打ち立てることでもありません。どちらも「金持-貧乏人」という構図上の運動にすぎず、世界を一新する革命を要請するものではないのです。結局、中流の人々は言うに及ばず、窮民もまた結果的には既存の世界で少しでも豊かになる夢を見ることに終始します。これは「金持-貧乏人」という構図にしがみつき、あくまでも資本主義の論理(競争原理)に従って豊かになろうと願うことに他なりません。これに対して「清貧の理想」は一見すると金持の豊かさとは質的に異なる全く新しい豊かさを示しているように思われますが、実質的には貧乏人のルサンチマンの産物です。この点については更なる思耕を要しますが、少なくとも「清貧の理想」は世界を一新する理想足り得ないと私は考えています。(つづく)
祝祭共働態論・序説
何もしないでボーっと生きているとチコちゃんに叱られます。それ故、我々はもはや無為の理想を問題にしません。そもそも理想はsollenの産物(と同時にsollenも理想の産物)であり、無為の人は理想などに見向きもしないでしょう。理想追求はsollenの人のニヒル、言い換えれば無為自然の楽園としてのアルカディアの喪失と共に始まります。従って、我々の究極的関心はsollenの人の末路、すなわち「如何なる理想を追求すべきか」そして「その理想追求の帰結は何か」という問いに収斂するのです。
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鄙見によれば、アルカディアを喪失したsollenの人は自らの意志によってこの世界を再び楽園にすべく努力し続けます。それがパラダイスなのですが、その第一歩が農村共同体だったと考えられます。厳密には狩猟採集共同体と言うべきかもしれませんが、文字通りの「食うための労働」を皆で協働する共同体です。やがて農業技術等の発展による生産性の向上と共に富の格差も広がり、この世界は一握りの金持にとってはパラダイスであるが、その他の貧しき人々には地獄であるという階級対立の様相を呈します。周知のように、マルクスはその富の格差が生まれてくるシステムを資本主義と理解・分析し、階級対立の激化を通じて資本主義が崩壊する理路を示しました。しかし、ほぼ百年前にロシア革命が実現したものの、それは果たして万国の労働者にパラダイスをもたらし得たか。残念ながら、その後の様々な革命も含めて、資本主義とは別の地獄をもたらしたにすぎません。では、同じく百年前に生まれた新しき村はどうか。これは革命には程遠く、むしろ原始共産制とも言うべき素朴な農村共同体への回帰を目指すものだったと理解できます。従って、革命待望派からはその生ぬるい反歴史性を嘲笑されてきたわけですが、ただ一点、新しき村を曲がりなりにも百年存続させてきた美点があります。それは「何としてでも個々人の自己を生かす」という垂直性です。逆に言えば、これまでの革命には垂直性が欠けていたのであり、そこにパラダイスの限界があると考えられます。
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何れにせよ、パラダイスの限界において、我々は「食うための労働」と「自己を生かす仕事」の二つに引き裂かれています。革命はこれまで専ら前者をめぐる運動に尽きましたが、新しき村は両者を調和させる運動、更には「食うための労働」と「自己を生かす仕事」という二元論のディコンストラクションを目指す運動であるべきだと私は考えています。その具体化には更なる思耕を要しますが、現時点で明言できることは「新しき村はもはや農村共同体にとどまることなどできない」という現実です。つまり、「食うための労働」と「自己を生かす仕事」の調和を農村共同体という形態で実現することはもはや不可能だ、ということです。誤解のないように断っておきますが、私には農業を蔑ろにするつもりなど全くありません。むしろ、農業は生産労働の核として新しき村の基礎となるべきものだと思っています。ただ、それは加工の場、更には消費の場としての街と祝祭的に交通すべきであり、その祝祭的交通は当然農業に限定されるものではなく、全ての産業に広がっていくべきでしょう。言うまでもなく、各論的には複雑な問題が山積していますが、「新しき村はあらゆる産業、芸術、教育などの祝祭的交通によって実現していくものだ」というテーゼを以て序説としておきます。