新・ユートピア数歩手前からの便り -102ページ目

聖地としての新しき村の粉砕(5)

大団円がもう目と鼻の先に迫ったNHKの朝ドラ「まんぷく」では、今日も萬平さんは新たな即席ラーメンの開発に夜の目も寝ずに取り組んでいます。周知のように、萬平さんのモデルは「インスタントラーメンの父」と称される安藤百福氏ですが、こうした情熱家の人生には凡そ「食うための労働」など問題にならないように思われます。ただ自分の好きなことだけに集中する、たとい食えなくても没頭する。勿論、それは愛妻・福ちゃんの内助の功がなければ不可能なことですが、萬平さんが「自己を生かす仕事」をしていることは間違いありません。その意味において、その仕事に如何なる苦労があろうとも、萬平さんは正に幸福者であり、殊更「新しき村」を要請することなどないでしょう。しかしながら、私は萬平さんの人生にケチをつけるつもりなど全くありませんが、その幸福はあくまでも水平的なものです。だから悪い、駄目だと言いたいのではなく、「新しき村」の理想とする幸福とは質的に異なっていることを確認しておきたいだけです。端的に言えば、萬平さんの幸福な人生には垂直の次元が欠けているのです。

さて、人生に垂直の次元が必要かどうか、もっと単純に言えば、人生に宗教が必要かどうかは軽々に答えを出せる問題ではないので、今はそこまで深入りすることは自重します。ただ、キルケゴールの実存弁証法に即して言えば、人生には美的段階・倫理的段階・宗教的段階という諸段階があることは確かだと思います。そして、それぞれの段階にそれぞれの幸福が求められるのですが、差し当たって留意すべきは宗教的段階の要請です。と言うのも、ドン・ジョヴァンニのように生涯を享楽の内に過ごす美的人間もいれば、萬平さんのように常に自己を律して生きる倫理的人間もいますが、人が宗教的段階に突入するには「絶対的な躓き」が必要になるからです。勿論、美的段階にも失恋や受験失敗など様々な挫折があり、倫理的に生きている萬平さんもGHQの妨害とか悪徳業者による特許侵害などの理不尽な試練に見舞われますが、それが「絶対的な躓き」になるかどうかはその人自身の精神性によります。誤解のないように断っておきますが、美的挫折や倫理的絶望によって死に至る人がいても、それは人間の優劣とは全く関係ありません。逆に、美的にせよ倫理的にせよ、紆余曲折を経ながらも幸福を手に入れて宗教的段階とは無縁の一生を全うする人がいたとしても、その幸運について他人がとやかく言う問題ではないでしょう。しかし、ここでの問題はあくまでもユートピアです。アルカディアやパラダイスに幸福を見出す人がいても構いませんが、私は究極的な理想社会への理路、すなわち「人間として本当に生きることを望む人が辿るユートピアへの道」について思耕したいのです。

何れにせよ、私が求めるユートピアとしての「新しき村」には垂直の次元が不可欠です。ただし、それは聖地とは質的に全く異なります。むしろ、垂直の次元の突入は聖地を粉砕するに違いありません。聖地はあくまでも水平の次元に属する場所だからです。

 

聖地としての新しき村の粉砕(4)

聖地・毛呂山の村では事実上農業のみが職業として認められています。過去には教師とかシナリオライターとか農業以外の職業に従事して村で暮らしたいという希望が出されたこともありますが、ことごとく却下されました。また村には義務労働としての農作業を終えてから陶芸の修業に励んで一流になった人もいましたが、その作品が結構売れるようになって陶芸に集中したいという段になると、その人は離村を余儀なくされる結果になりました。「新しき村」として、これはやはり根源的におかしなことです。何故「農業のみ」なのか。おそらく、そこには農業のみが聖地に相応しい職業だという致命的な勘違いがあるように思われます。

諄いようですが、私は農業そのものを批判するつもりなどないのです。むしろ農業は文字通り「食うための労働」の核であり、第一次産業として極めて重要な意味、特に豊葦原の瑞穂の国である日本では神聖な意味さえ有する職業です。しかしながら、たといどんなに神聖であっても、農業のみに従事しているだけでは「新しき村」の使命を果たすことにはなりません。そもそも実篤自身、「何故百姓の仕事を選んだか」と自問して、大略「自分たちで衣食住の必要を満たすことができれば、自由に自己を生かすことに集中できるから」と答えています。つまり、「新しき村」にとって重要なことはあくまでも「自己を生かすこと」に他ならず、「衣食住の必要を満たすこと」(われわれの文脈ではほぼ「食うための労働」に等しい)はそのための前提にすぎないのです。実篤は「新しき村では最終的に食うための労働はなくならねばならない」とまで述べていますが、ここで少し考えてみたいのは所謂「ベイシックインカム(Universal Basic Income)」についてです。と言うのも、全ての人に例外なく衣食住の必要を満たせるだけの「基礎所得」が政府から支給されるならば、それはベラミーなどが思い描いたユートピアに通じるからです。しかし、それは確かに「食うための労働」からの解放だと言えますが、それによって人は本当に「自己を生かす仕事」に集中できるでしょうか。

一般的に考えれば、ベイシックインカムの理想は「働かざる者食うべからず」という昔からの教訓に真向から対立します。実際、ベイシックインカムに対する最大の懸念は、それによって大半の人は勤労意欲を喪失してしまうのではないか、というものでしょう。働かなくても食うに困らぬだけの最低限所得が支給されるなら、別に無理して嫌な労働をしたくないと思うのは自然の情です。加えて、この場合の「働く」が「食うための労働」に限定されていることを念頭に置けば、労働からの解放は明らかにパラダイスであり一つの理想の実現であることは間違いありません。そのパラダイスで遊び呆けるか、それとも「自己を生かす仕事」に邁進するかは全く別問題です。尤も、自分にとっては「遊び呆けること」が「自己を生かすこと」だと主張する人もいるでしょうが、それは「真の遊び」とは無縁の衆生の言い草ではないでしょうか。ここで「真の遊び」に深入りするとまた横道に逸れてしまうので自重しますが、「水平の次元で遊び呆ける程度では到底自己を生かすことにはならない」とだけ言っておきます。

何れにせよ、ベイシックインカムの理想実現は未だ時期尚早だとしても、「食うための労働」からの解放は「新しき村」の運動のアジェンダに明記すべきだと私は考えています。ただし、「食うための労働」からの解放によって極めて大きな空虚(ニヒリズムと言ってもいいでしょう)がもたらされることを覚悟しなければなりません。その来るべき空虚の脅威に比べれば、「食うための労働」に従来通り齷齪していた方が無難だと言えます。「農業のみ」に固執し続ける聖地・毛呂山の村はそうした無難な道に逃避しているとしか私には思えません。

 

補足:「良い職業」について

私は「食うための労働」と「自己を生かす仕事」という区別において、両者が一致する職業に理想を見出しますが、殆どの場合、現実は理想通りにはいきません。勿論、野球少年がプロ野球選手になるとか、映画ファンが俳優になるとか、憧れの職業に就ける人はいるでしょう。しかし、それは夢が叶うことであっても、理想の実現ではないと思われます。と言うのも、例えばプロ野球選手の場合、好きな野球を職業としてできる幸福は間違いないとしても、「食うための労働」としての野球が「自己を生かす仕事」としての野球と一致するかどうかはまた別問題だからです。少なくとも前者がかつて少年の頃に楽しんでいた野球とは質的に全く異なることは明白です。もし野球を楽しみたいのなら、むしろそれを「食うための労働」とすべきではないのかもしれません。つまり、楽しい野球(楽しむための野球)は言わば趣味であって職業ではない、ということです。従って、大抵の人は嫌々「食うための労働」に従事しながら趣味として「自己を生かす仕事」に没頭するという二元論(二重生活)を余儀なくされます。そして、自らの人生における「食うための労働」の比重が可能な限り小さくなるような職業が「良い職業」とされるでしょう。更に言えば、「食うための労働」なしで生活できること、すなわち趣味(自分の好きなこと)だけに無制限に没頭できる境遇こそがパラダイスを意味します。おそらく、パラダイスにおいては「無職こそが最も良い職業だ」とさえ言えるでしょう。しかし、果たして本当にそうか。パラダイスは究極的な理想足り得ないと思っている私は、「自己を生かす仕事」を単純に趣味と同定することには真向から異議を唱えたい。そもそも「自己を生かす仕事」とは何か。

 

補足:「悪い職業」について

「悪い職業」とは何か。様々な捉え方があると思われますが、私は一応「人間を消耗品と見做す職業」と理解しています。ただし、水平の次元ではあらゆるものが消耗する運命にあり、誰しも消耗すること自体は避けられません。「労働とは消耗することだ」と言ってもいいでしょう。従って、余り消耗しない職業、すなわち楽な職業が良く、消耗が激しい職業、すなわち苦難に満ちた職業は悪い、ということではないのです。「楽して金儲けできればそれに越したことはない」と思う人も少なくないかもしれませんが、殆ど何もしないで高収入を得ても、それは本当の生の充実をもたらさないでしょう。むしろ、有意義に真っ白な灰になるまで消耗し尽くすことこそ人生を真に充実させるのです。重要なことはあくまでも「自らの生を主体的に消耗すること」であり、その主体性を失えば人は単なる「消耗品」と化してしまいます。つまり、「悪い職業」というものが実体として存在するわけではなく、同じ職業でもそれに従事する者の消耗の仕方によって良くも悪くもなるのです。例えば、一般的に「悪い職業」と見做される風俗業でも、胸を張って自らの生を消耗している人にとっては「良い職業」であり、単なる消耗品として扱われている人にとっては「悪い職業」なのです。

 

聖地としての新しき村の粉砕(3)

のっけから誤解を招くようなことを言いますが、私は風俗業というものに関心があります。それは私が様々な風俗店に足を運びたいという関心ではなく(全くないとは言い切れませんが)、あくまでもその産業としての成立に対する関心です。バブル当時の賑わいはないものの、どんなに不況になっても風俗業はなくならないと言われます。加えて、多くの犯罪者はその犯行の理由を「遊ぶ金が欲しかったから」と言いますが、そこには貧しければ罪を犯してでも風俗で遊びたいという非常に強い欲望が渦巻いています。私はそこに水平的な魔力を見出しますが、それが風俗業の核にあると思われます。では、かかる風俗業は理想社会に必要でしょうか。

何故このような問いについて思耕するかと言えば、或るテレビドラマに触発されたからです。それは所謂デリヘル(デリバリーヘルス)を舞台にした「フルーツ宅配便」(テレビ東京)というドラマです。既にお察しのように、「フルーツ宅配便」とは源氏名が全て果物である女の子をラブホテルなどに配送するデリヘルの店名であり、その運転手が主人公です。原作はマンガのようですが、毎回、風俗で働かざるを得なくなった女性の悲喜劇が描かれます。総じて借金苦、シングルマザーが子育てしながら自立して生活していくに当たって、風俗業は最も効率的にお金が稼げる手段なのかもしれません。しかし世間一般は言うに及ばず、本人さえ風俗業を「正しい職業」だとは思っていないでしょう。むしろ「悪い職業」と思いながら、それに従事するしかない自分を恥じているに違いありません。「職業に貴賎なし」とは言え、やはり胸を張って公表できない職業があるのは事実であり、風俗業に限らず、人は多かれ少なかれ生活のために「やりたくなくてもやらざるを得ない職業」に従事しているのではないでしょうか。言うまでもなく、これは理想社会にあってはならぬことです。

しかしながら、理想社会にあるまじき「悪い職業」を全廃したらどうなるか。ここで思い出されるのはフリークス(Freaks)の運命です。周知のように、かつて奇形者や障害者の多くは見世物小屋で働くしかありませんでした。勿論、人間が見世物にされることなど人道的にも許される筈もなく、見世物小屋は善良なる人権団体によって閉鎖を余儀なくされますが、そうした「正しい流れ」に猛反対したのは他ならぬフリークス自身だったと言われています。たとい人道に反しても、見世物小屋はフリークスの曲がりなりにも自立した生活を支える不可欠の職場だったからです。言い換えれば、見世物小屋がなくなれば、フリークスは他人の慈善などに依存して生活するしかないわけで、それは彼らにとって見世物になること以上に耐えがたい屈辱だったでしょう。風俗業もまた然り。様々な事情で風俗業に流れ着いた人たちにとって、そこはなくてはならぬ場所なのです。少なくとも見世物小屋や風俗業といった悪所が一掃された聖地には、そこで生活できない人たち、そして結果的にそこから排除される人たちが大勢出てくると思われます。それは言わばホームレスを公園から排除することに等しいと言えます。確かに公園はホームレスが占拠すべき場所ではなく、その意味で公園に相応しくない邪魔者を排除するのは正しいことです。しかし、公園にしか居場所のないホームレスにとっては、公園からの排除は自分たちの存在の否定に他なりません。従って、ホームレスには公園とは別の居場所を提供する必要がありますが、それでは問題の根源的解決にならないと私は考えています。と言うのも、ホームレスを排除すれば善良なる市民は安心して公園で憩うことができるようになりますが、理想社会にとって重要なことは一人たりとも排除しないこと、すなわち「ホームレスもまた公園で共に憩えるようにすること」だからです。そのためには何を為すべきか。ホームレスはホームレスであることを脱却して、善良なる市民の一員になるべきか。それが一般的な選択肢でしょうが、私は何か腑に落ちないものを感じざるを得ません。

どうも悪い癖でまた横道に逸れましたが、問題は風俗業に代表されるような「悪い職業」と理想社会の関係です。厳密に言えば、風俗業が本当に「悪い職業」かどうかを歴史的にあらゆる角度から吟味する必要があるでしょうが、ここでは常識的に「悪い職業」と見做し、そうしたものが一切排除された聖地は果たして理想社会と言えるのか、と問いたいのです。これは実に厄介で軽々に答えられる問題ではありませんが、私の求める理想社会が聖地とは正反対の方向に遠望されることは言うまでもありません。私はそれを「夜の新しき村」などと称しておりますが、言わば新宿の歌舞伎町を新しき村と化すことなのです。

 

聖地としての新しき村の粉砕(2)

「新しき村」の生命線とも言うべき機関誌がなくなり、今年から村内の生活だけを報告する「新しき村通信」が送られてくるようになりました。昨日その今月号が届き、ザッと目を通しましたが、実に和気藹藹とした長閑な生活ぶりが記されており、それはそれで結構なことですが、やはり複雑な思いに駆られます。もはや同じような村内批判を繰り返す愚は避けたいと思いますが、長閑な生活そのものをとやかく言うつもりはないのです。ただ、敢えてネチネチした嫌らしい皮肉を言えば、様々な深刻極まる問題が渦を巻く世界の中で、長閑に暮らしていられるような場所は聖地以外には考えられません。毛呂山は明らかに聖地と化しています。そこには金儲けに齷齪する醜悪な姿はなく、贅沢で華美なこととは無縁ながら、日々是好日、皆穏やかに過ごしています。確かに、それは俗悪な現実に穢されぬ「美しい生活」と言えるかもしれない。しかし、そのような「美しい生活」はむしろ恥ずべきではないか。と言うのも、実篤は次のように言っているからです――「世界中に一人でも食うに困る人がいる限り、その世界は未だ新しき村ではない」実篤は決して新しき村が聖地と化すことなど望んではいないでしょう。少なくとも私は、新しき村は美しい聖地などではなく、たとい我が身を穢してでも、醜悪なる現実と格闘する場所であるべきだと思っています。

 

聖地としての新しき村の粉砕

やはりどうも舌足らずになってしまいます。こんな書き方では「穢れた俗なる水平の次元を脱却して、純潔の聖なる垂直の次元に身を捧げよ」と主張しているように受け取られても仕方ないでしょう。言うまでもなく、それは致命的な誤解です。そもそも垂直の次元は身を捧げられるような実体ではありません。我々が現実に生きている世界は水平の次元以外にはあり得ず、その生活がどんなに悲惨を極めても、そこから逃げ出せるような聖地を徒らに求めても詮無きことです。尤も、駆け込み寺のような、耐え難い苦境からの避難場所はそれなりに必要とされますが、それはあくまでも一時的なものです。少なくとも私が問題にしている垂直の次元は穢れた現実社会と絶縁した聖地などではなく、むしろその醜悪さの真只中に突入(受肉)して、その穢れた現実社会それ自体を聖化するものです。その聖化の具体的運動については更なる思耕を要しますが、取り敢えず私の当面の課題が「聖地としての新しき村の粉砕」にあることだけは補足的に明言しておきます。

 

垂直の次元の突入

ピチピチギャルを好むのが自然の情ではあるけれども、人の道は古女房を要請するというのが前回確認した現実です。こうした葛藤は日常生活の他の場面でも頻繁に見出されるものであり、例えば学生なら、「友人が屈強な不良たちに虐められている時にあなたはどうすべきか」という状況が考えられます。そこで、助けたいのは山々なれど、ヘタに関わって自分も虐めの対象になったら嫌だなぁ…と思うのが自然の情です。結果、そのまま自然の情に流されて知らぬ振りをして通り過ぎればそれまでですが、そこに垂直の次元が突入すると状況が一変します。恐怖で膝をガケガクさせながらでも、「やめろ!」の一言が発せられるのです。鄙見によれば,そのために酷く殴られたとしても、その痛い思いと共に「新しき村」が出現します。それは学校でも、職場でも、家庭でも、路上でも、様々な日常の場面で改めて問い直される要請です。

とは言うものの、昨今は非常に物騒な世の中で、痛い思い程度で済めばいいですが、場合によっては殺されてしまうことも珍しくありません。従って、触らぬ神に祟りなし、そんな悲惨な結果を招くような危険なことは避けるべきだというのが一般的な風潮です。つまり、川の流れのように自然の情に身をゆだね、穏やかに日々を過ごすのが一番、ということです。確かに、それも一つの生き方であり、そうした水平的な幸福にパラダイスが見出されるのは事実です。しかし、私はここでパラダイス批判を繰り広げるつもりはないものの、そこに「新しき村」が存在しないことだけは何度でも強く主張したいと思っています。更に言えば、今の村内に対して私が訴えたいことも正にそのことなのです。

おそらく、村内シンパの連中は「村内の人たちは実篤先生の教えに従って、日々額に汗して真面目に暮らしているのに、どうしてお前たちはその平穏な生活を批判し続けるのか。むしろ私たちの為すべきことは村内の批判ではなく、村内の人たちの地道な生活を見守り、その都度必要な援助をすることではないか。村外会員の役割はあくまでも村内の応援団に徹することに他ならない」と思っているでしょう。私としても、自然に即して誠実に生活していること自体を批判するつもりなど全くありませんし、村内の人たちも個人的には好きな人ばかりです。しかし、それは「新しき村」ではない。平穏無事な村の生活に「新しき村」は存在しない。何故か。そこには垂直の次元が決定的に欠けているからです。「新しき村」は単なる生活共同体ではなく、この全てが自然の情に流されていく水平の次元に垂直的理想を突入させる運動体、すなわち全ての人が消耗品の運命を超克する祝祭共働態なのです。

 

古女房とピチピチギャル

「新しき村」の新しさについて語れば語るほど、非常な舌足らず感に苛まれます。そこで暫く各論的に問いを立て、更に思耕を深めることにします。今回の問いは次の通り。「古女房とピチピチギャル、正直なところ、あなたはどちらを選ぶか」このような問いの立て方はセクハラと見做されるかもしれませんが、それは私が男性だからであって、女性の方は「古亭主とピチピチイケメン」と読み替えて戴ければ幸いです。

さて、幸か不幸か私は未だ結婚というものを経験したことがないので古女房の有難さに実感がありませんが、長年連れ添った伴侶を裏切るのは人の道に反することだと推察します。しかしながら、健康な生命体のオスとして考えるならば、萎びた古女房よりもピチピチギャルを好むのは自然の情でしょう。かくして人間は「自然の情」と「人の道」の狭間で塗炭の苦しみを味わうわけですが、その葛藤はカントの文脈で言えば「傾向性」(Neigung)と「道徳性」(Moralität)の対立に他なりません。更にヘーゲルの文脈で言えば、その対立は「人倫」(Sittlichkeit)において止揚されますが、このような弁証法的図式を示されても何のことだか訳が分からないのは当然です。結局、古女房とピチピチギャル、どちらを選ぶべきか。

ただ、ここで一つ注意しておくべきことは、萎びた古女房もかつてはピチピチギャルだったのであり、ピチピチギャルもやがては萎びてしまうということです。従って、「ピチピチであること」が最優先されるとしても、それは殆ど一瞬の僥倖にすぎず、永久にピチピチであるような女性などこの世に存在しません。勿論、一人の女性に「永久ピチピチギャル」を求めるのは無理だとしても、不断に新品のピチピチギャルに取り替えることで永久にピチピチギャルを求め続けることは可能でしょう。しかし、そうした刹那的な女性遍歴は到底真の愛とは言えませんし、ピチピチギャルに特化した漁食などドン・ファンもカサノヴァも世之介も軽蔑するに違いありません。

何れにせよ、「ピチピチであること」は言わば水平的な新しさに他ならず、自分自身が永久に「ピチピチであること」を望むにせよ、自分の伴侶が永久に「ピチピチであること」を望むにせよ、その追求は極めて虚しい結果になります。実際、「永久ピチピチギャル」など不自然に整形を繰り返すバケモノでしかなく、例えば百歳のピチピチギャルなどという代物を想像すれば、ただグロテスクなだけで吐き気さえ催します。そもそも「ピチピチであること」はそんなに優先されるべき条件でしょうか。確かに水平の次元では専ら新しさが求められ、「古くなること」には往々にして否定的な価値しか認められません。しかし、モノは古くなるから新しいモノが求められるのであり、この世界に「古くなること」がなければ人生は単調で実につまらないものになるでしょう。そして、そこに垂直の次元が突入してくれば、「古くなること」自体に新しさが生まれてくるのです。それこそが垂直的な新しさであり、古女房にして初めて見出されるものです。言うまでもなく、それは新婚当初のピチピチギャルであった頃の女房に見出される水平的な新しさ(初々しさ)とは質的に全く異なる新しさです。従って、「古女房かピチピチギャルか」という問いは「垂直的な新しさか水平的な新しさか」という問いに収斂しますが、次元を異とする両者の選択は単純ではありません。特に未婚の私には選択する資格さえありませんが、もし私が結婚したらという仮定で言えば、私は間違いなく古女房を大切にします。しかし当分結婚の予定はないので、私はこれからも引き続きピチピチギャルに迷い続けるでしょう。ことほど左様に水平的な新しさの呪縛は手強いのです。

 

新しき村を誰が要請するのか(10)

企業などはよく社名変更をします。大抵の場合、いかつい漢字表記からスマートなカタカナ表記に変えることが多いようですが、確かにこれによって企業イメージも一変するでしょう。しかし、企業それ自体の本質(理念)はどうでしょうか。シニフィエが変わればシニフィアンも変わるのは当然ですが、「逆もまた真なり」なのか、すなわちシニフィアンを変えればシニフィエも変わるのでしょうか。前回の例に戻れば、「大東亜共栄圏」という古いシニフィアンが「東北アジア共同の家」という新しいシニフィアンに変わることでシニフィエそのものも一変するのでしょうか。

私はここで「新しい葡萄酒は新しい革袋に」というイエスの教えについて改めて考えてみたいと思います。この教えは通常「新しいものと古いものは質的に断絶しており、絶対に両立しない。従って、古いものと妥協すべきではなく、新しいものを真に活かすためには古いものをきっぱり断ち切らねばならない」というように解されますが、私はそこにずっと違和感を覚えてきました。と言うのも、貧しい家庭環境に育った私には自ずと「もったいない精神」が根付き、古いものを捨て去ることには非常な抵抗感があったからです。古いものを安易に破棄するのではなく、むしろ古いものを繕いながらでも出来るだけ長く活かすこと、それが新しいものを活かすことにもなると考えたのです。つまり、古いものと新しいものとの共存共栄です。それを望むことは自然の情だと言ってもいいでしょう。しかしながら、その一方でやはりイエスの教えも正しいと思うのです。古いものと共存できるようなものは真に新しいものではないからです。古いものを尊重する「もったいない精神」は一つ間違えば古いものに固執する貧乏性に堕していきます。実際、私の大きな欠点は古いものに引きずられて断捨離できず、なかなか新しい一歩を踏み出せないことにあります。おそらく、イエスの教えはそうした「古いものを捨て切れない」という自然の情を超える次元において語られているのでしょう。言うまでもなく、それは垂直の次元です。

さて、この世界に存在するもの、生きとし生けるものは全て古くなります。しかし、今古くなったものもかつては新しかったものであり、今新しいものもやがて必ず古くなる運命にあります。我々は通常、古くなったものを新品に取り替えますが、これは広義の消耗品(簿記上の仕訳は無視します)に限られたことです。例えば、衣服にせよ電化製品にせよ、古くなるということはその使用価値の消耗に他ならず、どんなに修繕・修理を繰り返してもやがて使用価値ゼロになるのは必定であり、その際には否応なく新品に取り替えざるを得ません。また、流行遅れになるとか性能が陳腐化するなど、未だ使用価値があっても交換価値の消耗によって新品に取り替えられる場合もあり、消耗品は古くなれば必ず新品に取り替えられる運命にあると言えます。しかし、人間は違います。人間も古くなる運命を免れることはできませんが、古くなったからといって新品に取り替えることなどできないのです。尤も、古来より「女房と畳は新しい方がいい」と言われますが、これは女房を畳と同様の消耗品と見做した戯言にすぎず、苦楽を共にした古女房を新品に取り替えるなど言語道断です。稀にそんな言語道断な道に血迷うことも自然の情かもしれませんが、人間を消耗品と見做さない限り、古くなったものを新しいものに取り替えることなど不可能だと私は思います。最近は猫も杓子もクリック一つで何でもリセットできるような錯覚の中で暮らしていますが、現実の人生はコンピュータゲームのようにはいきません。勿論、一度の失敗で人生ゲームオーバーというわけではなく、心機一転、何度でも人生を一からやり直すことは可能です。しかし、それは初期状態に戻ることとは根源的に異なります。人生そのものを強制終了させることは可能でしょうが、人生にリセットなどあり得ず、何度も失敗を繰り返しながら、その都度失敗からやり直していくしかないのです。人生に取り替えられる新品などありません。

とは言うものの、人間もまた往々にして消耗品の運命に陥っているのが現実であり、古女房が捨てられて新品の女房に取り替えられたり、老朽化した労働者が解雇されて新品の若い労働者に取り替えられるのは日常茶飯事です。このように人間を含めたあらゆるモノが消耗品と見做されるのは水平の次元の運命に他なりませんが、我々は如何にしてこの運命を超克すべきか。言い換えれば、人間は如何にして消耗品である現実を超克できるのか。鄙見によれば、その超克を可能にするものこそ垂直の次元における決して古くなることのない「真の新しさ」なのです。それは新しいモノではありません。モノである限り古くなる運命を免れず、新品も必ず古くなるからです。従って「新しき村」の新しさも、こうした垂直の次元における「真の新しさ」と解すべきであり、決して水平的な新しさと解してはなりません。因みに同じ埼玉県には「新しい村」という紛らわしい名称の観光農園があるそうですが、その設備はおそらく毛呂山の村よりも格段に新しいでしょう。事実、毛呂山の村はその建物もライフスタイルもひどく古いものばかりです。唯一の例外は十年ほど前に大規模に導入した太陽光発電パネルですが、「新しき村」に求められるのはそうした最新の設備とか最先端のライフスタイルといった水平的な新しさではなく、あくまでも垂直的な新しさなのです。勿論、「新しき村」に斬新なデザインの建築物や奇抜な生活があっても全く構いませんが、それらは本質的なものではなく、結局は古くなるものにすぎません。つまり、いくら水平的に新しくしても、その村はやはり消耗品であり、「新しき村」とは根源的に異なるのです。

どうも上手くまとめることができませんが、重要なことは「水平の次元における消耗品の運命」です。我々が現実に生きているこの世界(水平の次元)に存在するモノは全て消耗品であり、遅かれ早かれ必ず古くなる運命にあります。そして大抵の消耗品は古くなれば新品に取り替えられます。言葉も例外ではなく、性懲りもなく言及している「大東亜共栄圏」というシニフィアンも今や古くなり、「東北アジア共同の家」という新しいシニフィアンに取り替えられようとしています。或る意味、それは確かに必然的な転化ではありますが、私はそこに何か釈然としないものを感じざるを得ません。誤解のないように断っておきますが、それは「大東亜共栄圏」へのノスタルジアでもなければ「東北アジア共同の家」への反感でもありません。ただ、もし「東北アジア共同の家」という新しいシニフィアンによって「大東亜共栄圏」にまつわる負の歴史(遺産)を一切リセットしようとするなら、それはやはり違うと思うのです。むしろ「東北アジア共同の家」は「大東亜共栄圏」の負の歴史を背負っていくべきであり、それなくして真に新しきシニフィアンになることなどできないでしょう。無論、「大東亜共栄圏」などという亡霊(古いシニフィアン)が出現すればアジア諸国、特に中国や韓国は激しく反撥するに違いありません。そうした反撥を回避するために「東北アジア共同の家」という新しいシニフィアンが求められるのでしょうが、むしろ私は敢えてその反撥に直面すべきだと考えます。それは無用の反撥ではなく、あくまでも必要不可欠な反撥だと思うからです。確かに「大東亜共栄圏」というシニフィアンは古い。それはアジアの人々の恨みつらみがこびりついて酷く汚れています。しかし、それを避ける目的で新しく生み出された「東北アジア共同の家」もやがて必ず古くなります。私は先に「言葉も消耗品だ」と述べましたが、決して消耗しない、あるいは消耗させてはならない言葉があるのも事実です。「大東亜共栄圏」もその一つのです。視点を変えて言えば、この悪名高い言葉をいくら死語にしようとしても、いつの間にか「東北アジア共同の家」と名前を変えて甦っていると考えることもできます。そこには人間の決して古くならない理想、一つ間違えば極めて危険な結果をもたらすことになる根源的シニフィエが込められているからです。そうは言っても、水平の次元では言葉も消耗するのが現実であり、古くなった「大東亜共栄圏」は新しく「東北アジア共同の家」に取り替えられる運命にありますが、その運命を再び繰り返さないためにも敢えて火中の栗を拾う必要があると思うのです。

何れにせよ、当面の課題は「新しき村」というシニフィアンです。これもかなり消耗した言葉であり、「大東亜共栄圏」同様、様々な手垢にまみれているのが現状ですが、私は別の何か新しいシニフィアンに取り替えるべきではないと思います。取り替えたところで、すぐに古くなるのは必定です。それに、確かに新しいシニフィアンと共に新しい運動を始めるのも一つの選択肢ではありますが、私は「新しき村」を単なる消耗品にはしたくはない。それは先述したように、「新しき村」の新しさは水平的な新しさではなく、あくまでも垂直的な新しさであるべきだからです。更に言えば、「新しき村」を要請する奇特な人がいるとすれば、それは垂直的な新しさを求める人に他ならず、それを我々が現実に生きている水平の次元で活かす拠点としての「新しき村」は未だ消耗し尽されていないのです。たかが百年程度の水平に流れる時間の中で垂直的な新しさが実現できないのは当然でしょう。ユートピアを求める運動は今やっと始まったばかりです。