聖地としての新しき村の粉砕(3)
のっけから誤解を招くようなことを言いますが、私は風俗業というものに関心があります。それは私が様々な風俗店に足を運びたいという関心ではなく(全くないとは言い切れませんが)、あくまでもその産業としての成立に対する関心です。バブル当時の賑わいはないものの、どんなに不況になっても風俗業はなくならないと言われます。加えて、多くの犯罪者はその犯行の理由を「遊ぶ金が欲しかったから」と言いますが、そこには貧しければ罪を犯してでも風俗で遊びたいという非常に強い欲望が渦巻いています。私はそこに水平的な魔力を見出しますが、それが風俗業の核にあると思われます。では、かかる風俗業は理想社会に必要でしょうか。
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何故このような問いについて思耕するかと言えば、或るテレビドラマに触発されたからです。それは所謂デリヘル(デリバリーヘルス)を舞台にした「フルーツ宅配便」(テレビ東京)というドラマです。既にお察しのように、「フルーツ宅配便」とは源氏名が全て果物である女の子をラブホテルなどに配送するデリヘルの店名であり、その運転手が主人公です。原作はマンガのようですが、毎回、風俗で働かざるを得なくなった女性の悲喜劇が描かれます。総じて借金苦、シングルマザーが子育てしながら自立して生活していくに当たって、風俗業は最も効率的にお金が稼げる手段なのかもしれません。しかし世間一般は言うに及ばず、本人さえ風俗業を「正しい職業」だとは思っていないでしょう。むしろ「悪い職業」と思いながら、それに従事するしかない自分を恥じているに違いありません。「職業に貴賎なし」とは言え、やはり胸を張って公表できない職業があるのは事実であり、風俗業に限らず、人は多かれ少なかれ生活のために「やりたくなくてもやらざるを得ない職業」に従事しているのではないでしょうか。言うまでもなく、これは理想社会にあってはならぬことです。
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しかしながら、理想社会にあるまじき「悪い職業」を全廃したらどうなるか。ここで思い出されるのはフリークス(Freaks)の運命です。周知のように、かつて奇形者や障害者の多くは見世物小屋で働くしかありませんでした。勿論、人間が見世物にされることなど人道的にも許される筈もなく、見世物小屋は善良なる人権団体によって閉鎖を余儀なくされますが、そうした「正しい流れ」に猛反対したのは他ならぬフリークス自身だったと言われています。たとい人道に反しても、見世物小屋はフリークスの曲がりなりにも自立した生活を支える不可欠の職場だったからです。言い換えれば、見世物小屋がなくなれば、フリークスは他人の慈善などに依存して生活するしかないわけで、それは彼らにとって見世物になること以上に耐えがたい屈辱だったでしょう。風俗業もまた然り。様々な事情で風俗業に流れ着いた人たちにとって、そこはなくてはならぬ場所なのです。少なくとも見世物小屋や風俗業といった悪所が一掃された聖地には、そこで生活できない人たち、そして結果的にそこから排除される人たちが大勢出てくると思われます。それは言わばホームレスを公園から排除することに等しいと言えます。確かに公園はホームレスが占拠すべき場所ではなく、その意味で公園に相応しくない邪魔者を排除するのは正しいことです。しかし、公園にしか居場所のないホームレスにとっては、公園からの排除は自分たちの存在の否定に他なりません。従って、ホームレスには公園とは別の居場所を提供する必要がありますが、それでは問題の根源的解決にならないと私は考えています。と言うのも、ホームレスを排除すれば善良なる市民は安心して公園で憩うことができるようになりますが、理想社会にとって重要なことは一人たりとも排除しないこと、すなわち「ホームレスもまた公園で共に憩えるようにすること」だからです。そのためには何を為すべきか。ホームレスはホームレスであることを脱却して、善良なる市民の一員になるべきか。それが一般的な選択肢でしょうが、私は何か腑に落ちないものを感じざるを得ません。
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どうも悪い癖でまた横道に逸れましたが、問題は風俗業に代表されるような「悪い職業」と理想社会の関係です。厳密に言えば、風俗業が本当に「悪い職業」かどうかを歴史的にあらゆる角度から吟味する必要があるでしょうが、ここでは常識的に「悪い職業」と見做し、そうしたものが一切排除された聖地は果たして理想社会と言えるのか、と問いたいのです。これは実に厄介で軽々に答えられる問題ではありませんが、私の求める理想社会が聖地とは正反対の方向に遠望されることは言うまでもありません。私はそれを「夜の新しき村」などと称しておりますが、言わば新宿の歌舞伎町を新しき村と化すことなのです。