聖地としての新しき村の粉砕(2) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

聖地としての新しき村の粉砕(2)

「新しき村」の生命線とも言うべき機関誌がなくなり、今年から村内の生活だけを報告する「新しき村通信」が送られてくるようになりました。昨日その今月号が届き、ザッと目を通しましたが、実に和気藹藹とした長閑な生活ぶりが記されており、それはそれで結構なことですが、やはり複雑な思いに駆られます。もはや同じような村内批判を繰り返す愚は避けたいと思いますが、長閑な生活そのものをとやかく言うつもりはないのです。ただ、敢えてネチネチした嫌らしい皮肉を言えば、様々な深刻極まる問題が渦を巻く世界の中で、長閑に暮らしていられるような場所は聖地以外には考えられません。毛呂山は明らかに聖地と化しています。そこには金儲けに齷齪する醜悪な姿はなく、贅沢で華美なこととは無縁ながら、日々是好日、皆穏やかに過ごしています。確かに、それは俗悪な現実に穢されぬ「美しい生活」と言えるかもしれない。しかし、そのような「美しい生活」はむしろ恥ずべきではないか。と言うのも、実篤は次のように言っているからです――「世界中に一人でも食うに困る人がいる限り、その世界は未だ新しき村ではない」実篤は決して新しき村が聖地と化すことなど望んではいないでしょう。少なくとも私は、新しき村は美しい聖地などではなく、たとい我が身を穢してでも、醜悪なる現実と格闘する場所であるべきだと思っています。