国境なき世界(8) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

国境なき世界(8)

私は戦争を知りませんが、もし新たな戦争が勃発して否応なく戦場に駆り出されることになり、その戦場で敵と遭遇することになった場合、私はその敵と殺し合うことができるだろうか――折に触れて、そんなことを考えます。殺し合うためには双方にそれなりの憎悪が必要になりますが、国と国とが争っているからといって、それが直ちに個として向き合う敵国人への憎悪にはならないでしょう。かつて鬼畜米英という言葉がありましたが、米英人が生来鬼畜である筈はなく、戦争という狂った状況において人は鬼畜と化すのです。当然、日本人も例外ではありません。平時には子どもに優しい温厚なお父さんが戦時には赤ん坊さえ皆殺しにする残酷な兵士へと変貌します。どうしてかかる狂的状況に人は追い込まれねばならぬのか。そもそも戦争はそれぞれの国益を巡ってなされるものですが、それは一体誰のための国益なのか。殊に帝国主義戦争においては、一部の金持(資本家)の飽くなき野望が常に起点となっています。確かに大日本帝国が大きく発展すれば、その末端の国民(労働者)もそれ相応に豊かになるでしょう。しかし、その豊かさは侵略された国民(植民地の労働者)の犠牲の上に築かれたものであり、しかもその微々たる小部分にすぎず、その大部分は依然として金持に搾取され続けます。つまり、帝国主義国家における貧富の差は微動だにしないのであり、それは戦勝国であろうと敗戦国であろうと変わりはありません。従って、戦争に勝とうが負けようが、その国益が主に金持のためのものであることが明らかになるならば、前線で殺し合わねばならぬ兵士たちは自分たちの憎悪について根源的に問い直す必要に迫られるでしょう。言い換えれば、「真の敵は誰か!」という自問です。その時、おそらく遠くから聞こえてくる声の一つに「万国の労働者、団結せよ!」という呼び掛けがあります。真に問題とすべきは国と国との対立ではなく、むしろそれぞれの国における階級対立であり、人々は国境を越えて「主人(資本家)と奴隷(労働者)の構造」をラディカルに止揚すべきだ、ということです。この声がシュプレヒコールになれば、そこに「国境なき世界」を実現する可能性が胚胎することは間違いありません。しかし人々は本当にそのような世界、言わば主人が打倒された「労働者の王国」の実現を望んでいるでしょうか。壁と同様、一旦は横暴な主人が打倒されても、やがて新たな主人を待ち望み始めるのではないでしょうか。壁のディコンストラクションと「主人と奴隷の構造」のディコンストラクションは相即しているのです。