HSP気質は、敏感だとか繊細だとか判断基準みたいなものはあるけど、はいかいいえという二元論的なものではなくグラデーションが掛かった連続的なものだという。
それでも引っかかる点はずっとあって、去年末にようやく合点が行った。
芸術性の高さ、傷付き易さ、自己否定の強さ、音や光や触感に対する敏感さ、人間関係における繊細さ、集中力の高さなど思い当たる節は多いが、感受性や共感力の高さは常にあるわけではない。
人間関係に疲れたわけじゃないし、昔から病的に共感気質だった感じもしない。小中高時代、教室にいようがルスツ高原に行こうがディズニーランドに行こうが居場所を失くし続けたトラウマが大きすぎて人間が大嫌いになったのも尾を引いている。
親切心、献身、ご先祖への感謝、人間関係のつながりなどに対する感覚の低さの方が根強くある。共感できても必ずしも親切にはできない。子供の頃から、何となく心が死んでいる感覚、行間や真意を読めない感覚、長い会話や情報量の多い会話ができず脳内情報処理が出来ない感覚、拘りが強すぎる感覚などをずっと引きずっている。
東京にいた頃、生きづらさの原因をネットで探っていると、どこかのブログでHSPという言葉を知った。当時はそのブログぐらいしかHSPを語る人がいなかった。数年前まではYoutubeのHSPアドバイザーのチャンネルも見たりしてたけど流石に違和感が強くなってここ数か月心療内科を受診した。下りたのは「自閉スペクトラム症ASD」と「社交不安障害SAD」という、HSPによく似た発達障害と精神疾患。
結局これだと思った。東京にいた頃、「アスペルガー王国」みたいなタイトルのアスペルガー万歳主義を掲げるホームページがあり、自分自身アスペルガー症候群を強く疑っていた。心を壊して適応障害の診断を受けた時には、他人の否定的なニュアンスの言葉や内面の繊細さを指摘された。ただしASDに近い診断は下りることなく青森に戻り、当時家庭内では心の病気という話題その物が許されず、これらの生きづらさを「コミュ障のHSP」と認識していた。
診断が下りたおかげでようやく家族も理解するようになった。治療法としてはHSPとあまり変わらず、セルフコンパッションや認知療法などらしいが、何でも相談できる主治医がいるのは心強いし、向精神薬が処方されるのも大きい。HSPだと思っていた頃は救いの道が見い出せるかという意味で実に頼りなかった。HSPという言葉を出さずにHSPをカミングアウトして分かってもらうなんて到底できるわけなかったのだ。
自分に対しては人生の足を引っ張る、人に対しては過干渉、気質ゆえ治せないという語られ方、自己肯定感を下げる才能、環境を変えられないと一生地獄、助けてくれる人が一人としていない。こんな気質いるかとずっと思っていた。
子供の頃から感じ続けていた違和感、生きづらさ、自己診断、精神崩壊、DSM-5による診断、ようやくなのかも知れない。