岸川美好物語
13、マッサージスーパーの誕生
嬉野には80軒近くの旅館があり、九州はもとより中国四国、関西方面から年間一五〇万人の観光客でにぎわいを見せています。
最近では肥前夢街道といって江戸時代の建物や風俗をテーマにした観光の名所や、ユウリープラッツというプールと温泉センターがあり、シーズンには団体客で旅館は満員です。
この嬉野温泉センターに開業したのが昭和五七年七月、そのころの温泉センターは規模も小さく、演芸とお風呂を中心にした施設でした。
この温泉センターの中にマッサージの部屋を作って頂き、マッサージ店を開きました。
この温泉センターは朝九時より夜六時までの営業で、昼の一二時から一時まで、二時から三時までの一日二回の演芸があり、いわゆる大衆演劇をやっています。
開店のころは専用のマッサージルームでマッサージを行っていましたが、初めの予想に反してあまり注文がありません。
そのころのマッサージの料金は四〇分で、2000円で営業していたのですが、演芸を見るお客さんばかりでマッサージの売上はいっこうに伸びません。
せっかく無理をお願いしたのだから何とか利益がでる様にしたい、そこで働いている人に稼がせて上げたいと思うのですが、こちらが思うほどにはお客様は来ては頂けず頭を抱えていました。
いろいろ分析して見てふたつの原因がわかりました。
一つはお客様の金銭感覚があわないこと。
この温泉センターは近距離のお年寄りが送迎用のバスで、僅かなお金を持って遊びに来ています。
温泉に入って昼の弁当を食べて、お芝居を見て2000円程度の予算で来ている人が大半です。
そんな予算の所で40分 2000円のマッサージが売れるはずはありません。
また。昼の一二時から三時までお芝居や演芸をやっているので、風呂に入ったらさっさと演芸場に行きマッサージルームには降りて来ません。
予算の面と演芸を楽しむことでマッサージをする時間などありません。
立派なマッサージルームを温泉センターに作って頂いたのですがお客が来ないのならなんにもなりません。
分析の結果、このふたつの原因を取り除けぱきっと当たると思い、さっそく支配人に新しい商品を提案しました。
この新しい商品こそが「マッサージスーパー」でした。
スーパーとはスーパマーケット、すなわちマッサージの安売りという意味で、二〇分間九八〇円という値段に設定し、しかもマッサージルームではなく、演芸をやっている場所へ押しかけて営業しました。
常識では考えられないことです。
もちろん温泉センターの人には大反対されたのですが、その時の支配人が「やってみなきゃわからない」と一人だけ賛成をしてくれました。
私のほうのスタッフも大反対、料金も安い上に演芸場でマッサージをする事に抵抗があったのでしょう。
やっとの思いでスタッフを説得し、温泉センターの人たちにも理解して頂き、ようやくマッサージのスーパーが誕生しました。
思った通り反響が大きく、いままで売れなかったマッサージの注文が殺到しました。
マッサージスーパー980円と横断幕をかけてやっていますのでその場にいるお客様にももちろんよく見えます。おまけに演芸をやっている役者さんもこの横断幕を見て、ただで宣伝をしてくれていました。
お客様も40分2000円のマッサージが20分980円になり、1000円以内でマッサージが出来、しかもマッサージをしながら芝居が楽しめると大喜び。大ヒットをしました。
時間的に計算したらあまり変わりがないのですが、金額の設定と営業する場所でこんなにも違うものだとは知りませんでした。
この時の事をいつも参考にして料金の設定を行っています。
また、このとき私の所のスタッフも温泉センターの皆さんも反対した計画を、その時の支配人さんに助けて頂き、応援して頂いたおかげで、大ヒットになったことを有り難く思っています。
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岸川美好物語
12、社員募集
今はどんな仕事も人手不足です。
私達の業界でもなかなか人材が見つかりません。
とくに鍼灸マッサージの人は免許がないと働いて貰うことはできません。
東京や大阪などの大都会では無免許のマッサージさんがいますが、嬉野のような田舎は免許を持っている人しか雇うことはできません。
どこのマッサージ屋さんもスタッフの確保が大変です。
せっかくさがしてきて良かったと思っていたら、以前からいた人と喧嘩したり、あまり仲がよくなり、二人でどこかへ駆け落ちしたりします。
最近では私のような治療院ではなく、病院やサウナなど比較的勤務時間の短い所へ就職する人がふえ、人材の募集や確保が大変難しい状況です。
マッサージの養成施設や盲学校に募集に行くのですが、生徒の絶対数が少ない上に都会や病院にあこがれ、田舎には希望がないとの事で、どこかで働いている人を引き抜くしか方法がありません。
直接よそのマッサージ屋さんに行って引き抜くこともできません。
また、引き抜きをするにもタイミングが必要です。
ちょうど仕事を変わりたいと思っている人に出会えばラッキーなのですが、なかなか都合よくは行きません。
友人や知人から情報を貰い、やっと会うことができても、あっさり断られてがっかりして帰ったことも何度もあります。
なかには前借りの条件つきでスカウトして来ても、そのままいなくなってひっかかった事も何度もありました。
たとえ引っかかると予感しても、人手が欲しいぱかりに危険を承知でお金を貸して、あとで「やられた」と悔やんだ事は数えきれない程あります。
数年前、福岡の知人よりマッサージの人をいらないかとの連絡があり福岡で面接しました。四〇歳ぐらいの、目のまったく見えない人で、感覚的に余り好ましくなかったのですがテスト的に雇ってみました。
嬉野にきたその日の夜、近くのやきとり屋さんにいってさんざん飲み食いをしたあげく、一文無しと言って会社のつけにしてくれと言われたと、やきとり屋さんから電話がありました。
初めて来た所で、しかも無一文の人がやきとり屋さんで飲み食いをするのは非常識だと支払いを拒みました。
するとやきとり屋さんでは、手にしていた盲人用の時計をカタにその場はおさまったそうです。
そのマッサージの人はこんどは嬉野の国立病院にタクシーで、もちろんこのタクシー代もツケで国立病院に急患という事で診察を受けに行きました。
悪い所はどこにもありません。
しかも保険証もなく、入院を希望したそうですが、もちろん入院なんかさせてはくれません。
病院から私の所へ電話があり、事情を聞きましたがそのままにしておりましたら、また今度はまた違う個人病院から電話があり、さっきの国立病院と同じ様なことでした。
個人の病院は、私のほうで医療費を責任を持って払つてくれるのなら入院させますがどうしますかとのことで、責任はもてませんと返事をしたので追い返されたそうです。
その後お腹がすいたのでしょう。近くの食堂で無銭飲食をして警察によぱれ、さんざん調べられた挙げ句許してもらったそうです。
そのとき警察も、こんな無銭飲食の常習者を嬉野においておくと被害が続出すると考え、福岡までのバス賃を出して福岡へおくりました。ようやく福岡に着いたあと、またお腹がすいたのでしょう、さっそく無銭飲食をして逮捕されたと警察官からの電話で知りました。
この話はほんの一例です。もっと悪質な人もたくさんいました。
勿論一般の企業にもいるとは思いますが、こんな人でも人手がないと営業ができないのが現実です。
もう今からずいぶん前の事ですが、福岡に、仕事をやめて次の仕事を探している人がいるとの情報があり、訪ねていきました。
手がかりは、あるマンションにその人のお姉さんが住んでいる。その人の名前は山口さんという人だということだけを頼りにそのマンシヨンを訪ねて行きました。
その人のお姉さんはすでに名前が変わっており、管理人に尋ねても、入居者の旧姓まではわかりません。当然の事です。せっかくお姉さんのマンションを突き止めたのだから、何とかお姉さんにお会いして、本人の行方をたずねて、ぜひ私の所で働いて欲しいと思い、マンションのいちばん上の階から一軒ずつノックをして聞いていきました。それはたしか150世帯近くある大きなマンションでした。
この建物の中にそのお姉さんがいるということだけを楽しみに一軒づつ聞いていきました。「まことに失礼ですが、こちらの奥様は旧姓山口さんといわれませんでしたか」とたずねていきました。
たしか一一階建のマンションだったと思います。
このマンションの部屋を一軒ずつ訪ねて行くうちに「警察官は毎日こんなふうに、雲を掴む様な事をやっているのだな」と思ったとき、警察官のご苦労がよくわかりました。
八〇軒くらい尋ねて、ようやく旧姓山口さんという人に会うことができました。
いろいろたずねていたところ、どうも話が合わず、違う山口さんでした。
やっと見つけたと思ったのにとがっかりしましたが、もう此処まできたら残りは半分と思い、一軒ずつ再び訪ねていきました。
勿論お留守の所もたくさんありました。
たとえ最後の戸口までノックをしても、留守の所にいたかも知れない…、といって明日もう一度上から訪ねるとしても、今日訪ねた所を憶えてはいません。
こんなことなら、留守の所に印をつけておけぱよかったと思ったのですがあとの祭。
こんな不安な思いでノックをしていましたらようやく探しあて、旧姓山口さんの妹さんは目が悪く、マッサージ師をしていると聞いたとき、お姉さんが神様のように見えました。
そして妹さんの家を教えて頂いて聞き訪ねていきました。
幸いお姉さんの住んでいるマンションの近くで、ようやく本人と会う事ができました。
さっそく、働きにきて欲しいとお願いしたら、一週間前に就職が決まったと聞かされたときは、なんともいえない気持ちでした。
確かにこの日の出来事は従業員募集の成果はあがりませんでした。
無駄な一日だったような気がしましたが決して無駄ではなかったのです。
最後まで諦めずにやり遂げた事に満足しています。
きっとこのときの体験が役に立っているのではないかと信じています。
今年作りました五曲の作品をレコーディングしてきました
3月5日 福岡のレコーディングスタジオファインサウンドで5曲の吹込みをしました。
スタジオでは担当者の岩崎さんが準備をして待ってくれていました。
岩崎さんとは5年以上のつきあいで私達の事はよくご存じで楽に吹込みが出来ます
カラオケの音源は事前にアレンジの先生から送って頂いており全て準備完了でした。
今回は昨年の秋に作りました「ふりかえれば五十年」と「来世もよろしく頼みます」の二つの曲と今年正月に作りました「夜の札幌」 「紫陽花の花」 「愛が待ってる札幌」の三つの曲 会わせて5曲の歌の吹込みでした。
ふりかえれば五十年と来世もよろしく頼みますは夫婦演歌です
ふりかえれば五十年は私がソロで唄いました
来世もよろしく頼みますは妻 洋子と二人で唄いました
夜の札幌 紫陽花の花 愛が待ってる札幌の3曲はいずれもムード曲です。
夜の札幌と紫陽花の花は私がソロで吹込みました
愛が待ってる札幌は妻の洋子がソロで吹込みました。
今回は約3時間で5曲の作品を吹き込む事が出来ました
吹込みは初めに 一番から三番まで通しで唄います
そして、吹き込んだ歌を聴きます
次に1番からおかしい所を探してその部分だけを唄います
よければ次を聴きます
悪ければもう一度唄います
以前は納得行くまで何度も唄いなおしていましたが最近はあまりこだわらずに妥協しています。
あまりこだわると終わりませんので適当な所で妥協しています。
こうして1番から3番まで繰り返します
以前は1曲2時間から3時間ぐらいかかっていましたが最近では1曲40分ぐらいで終わります
少しなれたみたいです。
吹込みが終わりますと担当者が編集をします
この変周の作業がとても大変みたいです
音のバランスをとったりエコーをかけたりします
その後約二週間後に完成した作品が送って来ます
以前はcdを作って売っていましたが最近ではCDが売れません
ですからユーチューブに上げて全国の皆様に聞いて頂いております
おそらく3月の末には完成品が送って来ると思います
送ってきたら知り合いに頼んでユーチューブにアップして頂きます
岸川美好物語
11、650円のマッサージが大ヒットしました
義父が急に亡くなり、いままで来ていたお客さんが来なくなり、治療室が火が消えたようになってしまいました。
せっ かくおじいさんの時代から続いたマッサージの火をけしてはいけないと思い、いろんな手を打ってみました。
整骨院はすべての健康保険が使えるので、保険証を持って来れぱ老人はただ、社会保険は一割負担、国民保険は三割の負担で治療ができるので、毎日でも治療に来やすいのですが、マッサージはそうは行きません。
一回のマッサージを受けるためには時間も一時間かかり、しかもマッサージの料金は保険も使えず、一回に2000円かかるため、お客さんにとっては負担が大きく、なかなか続けてくることはできません。
なんとか整骨院のように保険がきかないか、保険で治療ができればお客さんも何度でも治療にこれるのにと思っていました。
今もありますが、各市町村で鍼灸の補助金と言って保険に似た制度があります。
その当時、一回の治療で六五〇円の補助金が町から出ており、一年間に六〇回利用できる制度がありました。
嬉野の国民保険の加入者は全員この制度を利用できるのですが、あまり使う人がありません。
なぜならマッサージの料金が一回 2000円、たとえ六五〇円の割引があっても、残りの1350円は負担しなけれぱならないので、あまり使う人がいなかったのです。
そのころ嬉野の人口が一万八千人、この半分の人が使ってくれると、年間に何億という金額にのぼるとおもい、この制度を活用することを考えてみました。
せっかく何億の資源が嬉野の役場に眠っている。せっかくの宝の山を掘らない手はないと、この制度の問題点を探しました。
一番の問題点はたとえ六五〇円の補助があったとしても、残りの1350円の負担がネックになり、あまり使われていないことがわかりました。
そこで、六五〇円でマッサージと鍼のできる「スポットマッサージ」を売り出すことにしました。
普通のマッサージは一時間で2000円です。
この新製品のスポットマッサージは20分で650円です。
時間で計算すると、普通は一時間で2000円20分で六五〇円で売れば50円安くなりますが、お客さんの立場で言えば650円の治療費に対して市から650円の補助金がでるので、本人の手出しは0となり、無料で毎日治療が受けられるというシステムになっており、これがブームになって、今まで火の消えていた治療室にいっぺんに活気が出てきました。
元々この制度はあったのですが、料理の仕方で眠っていた宝の山から宝を掘ることが出来ました。
それがきっかけとなり、大繁盛することができました。
この20分マッサージは普通一時間という常識的な発想を打ち破り、補助金に合わせた治療時間と料金を設定したことが成功に導いたように思えます。
現在はあまりスポットは売れていません。なぜならマッサージは一時間はしないと満足できないようになっている様です。
初めは20分で満足していた人がいつのまにか、料金が高くとも1時間のほうが効果があることを知り、長い時間の注文が多くなったようです。
最近では20分の、650円は殆どなく、むしろ90分コースや120分のコースに人気があり、売上もスポットをしている時より伸びています。
いまは消えかかった650円マッサージですが、この650円マッサージが、消えかかっていたマッサージに火をつけてくれたことは事実でした。
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10、一本の電話が企業の基礎になった
義父の突然の死によって私が義父の経営していたマッサージのあとを継ぐことになり、何か義父と異なった経営の やり方を考えていました。
義父の経営のやり方は、義父が中心となって仕事をし、義父のできない仕事だけを従業員にやって貰うという形の経営でした。
そのため義父がいなくなると、今まで来てくれていたお客さんは自然と来られなくなり、今まで活気のあった治療室が火の消えた様にさびれていきました。
何とかしないと私の代になってつぶれたと言われたくはなく、いろんな方法を考えてみました。
そのころ義父のもとで働いていた従業員は数名でした。
これをひとつの企業にするには最低一〇名以上の従業員がいないと企業としては成り立たないと思い、学生時代の友人や知人にお願いをして何とか一〇名の体制を作ることができました。
ところが従業員は揃ったのはよいのですが、肝心の仕事がありません。
なんとか仕事をふやしていきたいと思いました。
そこで、地元のある旅館にお願いして一台の電話を置かせて頂く事にしました。
この電話は私名義のもので使用料はすべて私の負担とすることにして、旅館のフロントに置かせて頂き、少しでもお得意様に電話代の負担をおかけさせずによんで頂く方法を考えてみました。
もちろんその電話は私の所にしかかからない様にセットしました。
この電話でのマッサージの注文はすべて私の所へかかってくる様にしたのです。
その後別な旅館にも直通電話を設置しました。
この直通電話のアイデアが企業の立て直しに大いに役だってくれました。
いままで電話はかける者が通話料金を払うという常識を、受ける側が負担するという形に変えただけの事ですが、ちょっとした発想の転換で商売繁盛につながる事を教えていただきました。
今、いろんな企業で、受けた側が払うフリーダイヤルがずいぶん普及してきましたが、まさにこの時の直通電話のアイデアが現在のフリーダイヤルの走りになっていた事になります。
もちろん現在は直通電話は外してフリーダイヤルに変更し、お得意様より喜んで頂いております。
こんな苦心の結果、少しづつ仕事も増え、マッサージの従業員さんも二〇数名になり、マッサージ業界では比較的大きな企業に成ってきました。
ところがせっかく従業員さんが増えて喜んでいても、内部の人間関係がうまくいかず、せっかく働きに来てくれた人が長続きせず数か月でやめてどこかに行ってしまったり、逆に仲がよくなりすぎて、いつの間にか古い人と駈け落ちして、せっかく人材を確保してもまた元のもくあみになってしまい、何度も出直しをしてきました。
それもそのはず、私達の業界はみな職人の世界。免許があればどこででもすぐに働く事ができ、どこも人手不足のため働く所には不自由はしません。
そんな状況ですので、マッサージの職人は一ヶ所に長くとどまり、辛抱してやっていく人が少なく、勤め易い所、少しでも条件の良い所と転々と変わって尻が落ち着かない人が多い業界です。
いくら苦心してつれてきても長続きせず、いつも求人募集ぱかりして本来の企業の目的を達成する事ができず、頭を痛めておりました。
なぜ、従業員が職場に定着しないのか、せっかく連れてきてもなぜすぐにやめてしまうのか、その原因を探して見ようと思い、従業員の皆さん一人一人とじっくり話をして、仕事に対してどんな考えなのかを聞いてみる事にしました。
皆さん共通しているのが、目標やビジョンが無く、その日その時が過ごせたら良い、明日の事などあまり真剣に考えていない事がわかりました。
そのために、ちょっとした紹介や少しでも条件の良い所があれば、すぐにそちらに行ってしまうという事に気づきましたので、それぞれひとりひとりに夢や希望を聞いていきました。根気よく聞いていますと、いままで夢など無いと言っていた人が、少しづつ自分の夢やなりたい状況を話してくれ、夢や希望を持ってくれる様になってくれました。
内部でのトラブルや人間関係のもつれがあっても、夢の実現のために辛抱してくれる様になり、いままで定着できなかった人も三年、五年、10年と勤務して下さる様になり、私の目指していた企業の形態が取れる様になってきました。
やはり人間夢や目標があれぱどんな苦しい状況でも我慢ができ、その我慢が我慢ではなくなっていくようです。
岸川美好物語
9、事業の拡大
昭和56年、義父が59歳で亡くなりました。
それまで、義父がマッサージ院の経営、私が整骨院の経営と、それぞれ別な仕事をしていました。
当時のマッサージ院は、義父と義母と、そして二・三名の社員さんで、営業をしていました。
私は、整骨院の経営を続けるか、それとも、昭和三年から続いているマッサージ院を引き継ぐかずいぶん迷いました。
でも、おじいさんの時代から続いたマッサージ院をすてるわけにはいかず、結局、整骨院をやめる事にしました。それからは、マッサージ院の経営を真剣に考えました。
まず、マッサージスタッフの募集から始めました。
マッサージスタッフは、免許がなければ働く事ができません。
私は盲学校時代の同級生や先輩にお願いして、マッサージスタッフを探してもらいました。
また、観光地のホテルに泊まってマッサージさんを呼び、募集活動をしました。
でも、なかなか私のところへ来てくれる人はいません。
でも根気よく探しました。
そのうちに、一人増え、二人増え、最後は二十名以上のスタッフがあつまりました。
今度は、仕事を増やす作戦です。
嬉野町は温泉の町で、町内には50軒以上の旅館があります。
ところが、私の職場は目の見えない人ばかりで、なかなか旅館が呼んでくれません。
普通、マッサージの注文はお客様が旅館のフロントへ注文して、フロントがマッサージ屋さんに電話をかけてマッサージの人が行くのが普通の流れです。
私はこの旅館の仕事を増やす為に二つの事をしました。
一つは、直通電話の設置です。
私の所で電話機を用意して旅館へ置いてもらいました。
マッサージの注文は、その電話で私の所へ掛けてもらいますので、旅館に電話代の負担を掛ける事がなく、旅館からとても重宝がられました。
今で言うと、フリーダイヤルの電話です。
勿論、そのころはフリーダイヤルのサービスなど無い時代でした。
高級老人ホームの見学に行きました
3月1日 五善10時30分に自宅を出発しました
目的地は佐賀のレストラン ブンガで
す。
ブンガは佐賀の大和インターのすぐ近くでフランス料理の素敵なお店です。
今日は長女 伊藤美香の三女の伊藤 心の高校入学祝いの食事会です。
孫三人と 長男 岸川伸資 夫婦と8名の食事会でした
私達夫婦と 息子夫婦と娘と孫の親子三代の食事会でした
ぶんがの食事はとても美味しくみなさんとても嬉しそうに食べていました。
昼12時に開始して 2時30分に食事が終わりました。
その後現地で解散して私たち夫婦と長女 伊藤美香の三人で本日二つ目の目的地の福岡県久留米市の高級老人ホームに見学に行きました。
この老人ホームは西日本鉄道 西鉄が経営している老人ホームで「サンカルナ久留米」と言う施設です
とても大きな施設で鉄筋14階建てで300以上の部屋があると書いてありました
先日高級老人ホームを探してみようと思いインターネットで見つけました
本当は佐賀県内の施設が良かったのですが残念ながら佐賀県には高級老人ホームと言われる施設は一軒もありませんでした
九州では主に福岡県だけにありました
私が、老人ホームに入る可能性はきわめて少なくおそらく99%入らないと思います
なぜなら、私には妻がいるからです。
妻がいる限り自宅で妻にめんどうをみてもらいます。
でも、もし、妻が先に死亡したら私が一人になります
私は全く目が見えません
一人では一歩も外に出る事が出来ません
一番難しいのが食事です
自分で作る事が出来ません
誰かに作ってもらうか、でまいをとるかしかありません
近くに息子夫婦が住んでいますが出来るだけ手をとらないようにしたいと思っております
年よりの世話はとても大変で一日24時間 365日休みがありません
頼む方も 頼まれる方もとても大変です
特に身内は頼みやすい様で頼みにくいものです。
妻も、私と同じ年齢で今年78歳になります
とても元気ですが人の命は分かりません
いつ何かがあるかも分かりません
もし、妻に万一の事があったら私のおりばがなくなります
その時にあわてても遅いと思い可能性はとても低いのですが早めに施設を見ておきたいと思い本日久留米の施設を見学に行って来ました
今迄にも地元の嬉野の施設を見学に行きました
どこも同じ様な施設ばかりでした。
今回工学の為にお金持ちが利用している高級老人ホームが見たくなり
行く事にしました
この施設は入る時に約2000万円ぐらいいるとの事 そして、毎月17万円ぐらいいると書いてありました
とても高値の花で無理と思いました
所が、入所金 0と言うコースがありました
入所金 0の場合 毎月の費用が30万円ぐらいと聴きました
2000万円 拂っても17万円かかります
0円で入っても月に30万円です
普通の老人ホームでも毎月15万円かかります
30万円とあまり変わりません
一か月に15万円ぐらい高いだけです
例えば 1年間で180万円です
10年間で 1800万円の違いです
最高に生きても 10年ぐらいと思います
ですからけっして贅沢とは思えなくなりました
自分が今迄頑張ってきて貯めてきたお金を自分の為に使う事はとても素晴らしい事だと思います
多くの人は老後の為のたくわえと言って贅沢をせずにお金を貯めて死んで行く人が多いと聴きます
折角残した財産が家族のもめごとの種にになるのが一番ばかげた事だと思います
人は死ぬ時に一番財産を残していると言われている様です
本当は死ぬ時に葬式代だけ残しておけば良いと思います
ところが、多くの人はお金を残して死んで行く様です
とても不幸だと思います
そんな思いで本日サンカルナ久留米に行ってきました
サンカルナ久留米は福岡県久留米市の津福本町と言う所にあり鉄筋14階建ての素晴らしい施設です
一般棟と介護棟の二つがあり300以上の部屋がありました
一般棟は介護のいらない人が対象で普通のマンションの様にしていました
介護棟は介護度の高い人が対象で要介護3以上の人が対象の施設でした
一般棟は半分ぐらいの部屋が空いていました
やはり費用が普通の施設に比べて高額の為にかなり空いていました
担当者の人からお話を聴いて改めて施設の素晴らしさを知りました
まだまだ、私が入る日は遠いいですがその時期になりましたら真剣に考えてみたいと思いました
出来ればどこにも行かずに自宅で最後を迎えたいと思っております。
午後5時30分に施設を出て途中久留米のラーメンを食べて娘の伊藤美香を佐賀の自宅に送って帰ってきました。
自宅についたのは夜の10時でした
朝10時30分に自宅を出て夜の10時 12時間の楽しい旅でした
久しぶりに娘と話す時間がとれて本当に良かったと思いました。
岸川美好物語
8、初めての落成式
昭和53年、整骨院を開業して三年目、ある知り合いの整骨院の先生が、落成式をされました。
私も、その落成式に呼ばれました。
私にとって落成式は、初めての事でとても感動しました。
そして、自分も落成式がやりたくなりました。
ところが、落成式をするには、家を建てなければできません。
私は、落成式をする為に家を建てる決心をしました。
早速、義父に家を立てようと相談しました。
義父は、お金がないから、立てられないとあっさり言いました。
私は、どうしても落成式をしたくてたまりません。
私の頭の中は、落成式の事ばかりです。
会場の事、お招きするお客様の事、料理の事、引き出物の事と落成式のセレモニーの事ばかりです。
でも、ゴールの落成式にたどり着くには、どうしても家を建てる必要があり義父を説得しなければなりませんでした。
結局、お金は、私が作ると言う条件で、なんとか、義父を説得しました。
早速、近くの銀行へ飛び込んで行きました。
私は、今後の見通しや、仕事にかける思いを一生懸命に話しました。
そして、4500万円の融資を約束して頂きました。
実は、融資のお願いに行った銀行は、今までまったく取引のない銀行でした。
でも、私の夢に掛ける思いに賛同してくださいました。
建物は、四階建てのビルで、一階は、駐車場と社員の待機室、二階は、整骨院の治療室とマッサージの治療室、そして待合室です。
三階、四階は、自宅で私達の住みやです。
思い立って、約一年後、夢の四階建のビルが完成しました。
そして、待望の落成式をしました。
当日は、親戚の人、近所の人、同業者、友人、岸川マッサージの社員さん、そして、私の実家の母が落成式に出席してくださいました。
特に、実家の母は、子供のころから、目が悪く、不憫と思っていた、我が子の晴れ舞台を、心から喜んでくれました。
父は、昭和50年、私が整骨院を開業した年に、66歳で亡くなり、私の晴れ舞台を見る事はできませんでした。
でも、きっと、あの世から見てくれていたと思います。
子供のころ、道楽者で母を泣かせていた父を、本当に憎いと思っていました。
でも、よく考えて見ますと私には、とても優しく、良い父親だったと思える様になりました。
特に、16歳の時、パラリンピックの出場がきまったとき心から喜んで、私の練習につきあってくれた優しい父に見てほしいと思いました。
そして、感動の落成式が終わりました。
始めは、遊び心でスタートした本院ビルの建設も、ひょうたんからコマで作る事ができました。
やはり何事も、遊び心をもたないといけないなーと改めて感じました。
実は、妻は子供の時から、家の後を継ぐ事を義務づけられており、大人になったら、三階建てのビルを建てたいと思っていたそうです。
そして、小学校三年生の時の作文に「大人になったら父の為に三階建てのビルを建てる」と書いたそうです。
お陰で、私の夢、妻の夢をはたす事が出来ました。
これはつけたしですが、それから一年後、再び別な人の落成式に行きました。
そして、また、落成式をやりたくなりました。
早速義父に、二本目のビル建設の相談をしました。
勿論、大反対です。
でも、私はあきらめる事が出来ずに再びチャレンジしました。
そして、一年後、二本目のビルが完成しました。
ビルは、2DK・4戸、1DK6戸の集合住宅で四階建ての建物です。
わずか、二年で、四階建てのビルが二本も出来ました。
将来、この二つのビルが大きく事業に貢献してくれました。
特に、二本目のビルは、従業員の宿舎として大変役に立ちました。
私のところの社員さんは、90パーセントが目の見えない人で、なかなかアパートを貸してもらう事ができません。ところが、自社ビルであれば、どんな人でも受け入れる事ができ、将来の事業の拡大に大いに役に立ちました。
一本目のビルも二本目のビルも落成式がやりたいばかりに立てたビルでしたが、今ふりかえって見て、本当によかったと思っています。
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7、整骨院の開業
昭和48年3月、妻の協力で、なんとか柔道整復師の免許をとる事ができ嬉野へ帰ってきました。
四年前、いやでいやでたまらなかった嬉野の妻の実家も、四年間の歳月が思い方を変えてくれていました。
おそらく、宇部での出前マッサージの体験や、大阪でのマッサージの開業、海苔売りの体験など、いろんな体験の中で、小さな自信を手にしていたからかもわかりません。
当時の岸川マッサージは、父と母と、後二人の職人さんの四人で営業をしていました。
私も、マッサージのスタッフとして、働く事になりました。
そして、二年がたちました。
そんなある日、医療器械のセールスの人がたずねてきました。
そして、私の整骨師の免許を見ました。
彼は、私に整骨院の開業を勧めました。
私は、その人へどうしたら整骨院が開業できるかをたずねました。
当時の整骨院は、資格を取って、二年以上のインターンをしなければ開業ができませんでした。
ところが、私は、卒業後、嬉野町へもどり、マッサージの仕事をしていましたので整骨のインターンは、しませんでした。
もし、整骨院を開業しようとすれば、どこかの整骨院にいき二年間以上のインターンをしなければなりません。
かといって、いまさらインターンに行く事もできず、どうしようかと悩みました。
でも、開業はぜひしたいと思い、いろいろ方法を考えました。
そして、一つの方法を思いつきました。
それは、どこかの整骨院の先生にお願いして、架空のインターンの証明を書いてもらう事でした。
早速、山口県のある整骨院に飛び込んで行きました。
そして、架空のインターンの証明書の発行をお願いしました。
まったく、見ず知らずの者が、飛び込んで来て、しかも、一日もインターンもせずに、二年間インターンをした事にして、証明を書いてほしいとの話ですから、だれも首を縦にふる人はいません。
当然の事です。
でも、私は、その先生になんとか証明書の発行をしてほしいと一生懸命にお願いしました。
ずいぶんお願いしたのですが、まったく取り付く島はありませんでした。
仕方なく、私は、座り込みをする決心をしました。
早速、その先生のお宅の庭先で座り込みをしました。
その日は、午後8時ぐらいまで座っていました。
そして、ご挨拶をして、帰りました。
翌日午前8時、再び整骨院に行き、先生にご挨拶をして、昨日と同じ場所に座りました。
午後8時、先生にご挨拶をして帰りました。
三日目、午前8時、整骨院に行き、ご挨拶をして同じ場所へ座りました。
その日の夕方、、私の前に先生が立たれました。
右手には、二年間のインターンの証明書を持っておられました。
そして、私に手渡してくださいました。
私は、「ヤッター」と心の中で思いました。
私は先生にお礼を言って、妻の待つ嬉野町へ帰りました。
これで、整骨院の開業をする事ができます。おそらく先生は、三日間、私の本気さを見ておられたのではないかと思いました。
二年間のインターンが、三日間の座り込みで完了する事が出来ました。
ちなみに、現在は、免許があれば、インターンをしなくとも開業ができます。
当時は、業者間の規定で、そんな規則がありました。
はれて、整骨院の開業です。
それまで、義父の経営しているマッサージ院の一スタッフとして働いており、常にナンバーツーのポジションでした。
ですから、全ては義父の経営方針に従うしかありませんでした。
ところが、整骨院は私が院長であり経営者です。
なんでも自分が決めて思うようにやる事ができます。
当時は、整骨院の数も少なく、しかも健康保険も使え、特に社会保険の加入者は、一割負担、70歳以上の老人は、負担金ゼロと、とても良い時代でした。
ですから、行列ができるほどの大繁盛でした。
特に午前中などは二時間待ちと言うのは普通で、お年寄りが待合室にいつも十名以上待っておられました。
そのうち、岸川整骨院の患者会なるものが出来て、ますますお客様が増えていきました。
中には、治療をそっちのけで患者会だけ入る人も増えて患者会は大きくなっていきました。
元々、元気なお年寄りばかりですので、待合室は唄ったり踊ったりで毎日が宴会気分です。
その内、月に一回、懇親会の日ができ、それぞれお酒など持ち寄って、楽しい会になりました。
この事が話題になり、遠くから沢山の患者さんが来てくれる様になりました。
岸川美好物語
6、整骨学校の入学
大阪の整骨学校の入学が決まり、いよいよ大阪に行く事になりました。
私は、働くところ、住む所を探す為に一人で夜行列車で大阪に行きました。
私にとって大阪は初めての町で、西も東もさっぱりわかりませんでした。
私は、大阪の南と言う、最もにぎやかな所へいきました。
そして、あるマッサージのお店に行きました。
幸い、マッサージ師をさがしているとの事で、やとってもらう事になりました。
初めは、住むところがありませんので、住み込みで働かせて頂きました。
妻は家がみつかるまで、嬉野の実家にいました。
勿論、長男も妻と一緒にいました。
私は午後から学校へ行って、夜はマッサージ院で働いていました。
勤務して約10日ぐらいたった時、西成区の岸里と言う所のアパートを探しました。
実はこの年、妻の妹も高校を卒業して大阪の整骨学校へ行く事になっていました。
私が行く学校と妹が行く学校は、まったく方向違いで、どちらの学校へも行きやすい場所をと思い岸里のアパートを探しました。
アパートは、二階建てのアパートで、六畳と四畳半のふたまで、三畳ぐらいの台所とトイレが付いていました。
お風呂は無く、銭湯に行っていました。
家賃は一ヶ月、一万九千円でした。
驚いたのは、敷金が40万円だったことです。
九州地区や山口県は、どこでもアパートの敷金は、家賃の三ヶ月分と言うのが常識です。
でも、さすがに大阪は大都会、家賃の20ヶ月分というのが当時は、常識でした。
アパートの敷金は、嬉野の父が出してくれました。
アパートが見つかり、妻と長男、そして妻の妹が大阪に出てきました。
奥の六畳の部屋は、妹が使い、手前の四畳半は、私達親子三人で使いました。
整骨学校は昼の部と夜の部の二つのコースがあり、私は、昼の部に行きました。
妹は、昼は鍼灸科に行き、夜は整骨科に行きました。
私は、アパートの近くのマッサージ院を探しましたが、あいにく住宅地の為に人をやとって営業しているお店はなく、働くところがありませんでした。
かといって中心部で働くと帰りの電車がなく、タクシーに乗って帰ると、赤字になってしまいます。
しかたなく、一人で開業する事にしました。
早速不動産屋に行き、電話を買いました。
次に印刷屋に行きチラシを作りました。
そして、妻と長男と三人で、アパートやマンションの郵便受けにチラシを入れて歩きました。
一軒、一軒、祈る様な思い出チラシを入れて歩きました。
幸い、近くにマッサージの出前をする所が無く、重宝がられてマッサージの注文も少しづつ増えてきました。
昼は学校、夜は出前のマッサージと一生懸命に頑張りました。
ところが、学校は、春休み、夏休み、冬休みと長期休暇があります。
この休みの時は、嬉野に帰らないといけませんでした。
特に、夏休みなどは40日以上もあり、折角お得意様ができても、帰った時には、またゼロからのスタートで仕事のない日々が続きました。
整骨院の学校は、視覚障害者を対象にした学校では無く、健常者を対象にした学校ですので、大変苦労しました。教科書もテストも普通の字が書いてあります。
私は小学校、中学校と普通の学校へ行ったのですが、まったく勉強ができず、文字の読み書きができませんでした。
でも、小学校も中学校も義務教育ですので、とにかく学校へ行っておきさえすれば卒業だけはできます。
ところが整骨学校は国家試験があり、たとえ卒業しても国家試験に合格しなければ免許をを貰う事ができず、とても大変な思いをしました。
妻が、教科書をテープに録音して、通学中の電車の中で聞いていました。
夜は、妻が私の家庭教師で、妻から勉強を教えてもらっていました。
こうして、妻の協力のお陰で無事国家試験に合格する事ができました。
学校の方は、何とかなったのですが、仕事の方がなかなか増えずに、毎月お金が足りず、家計のやりくりが大変でした。
私は、何とかお金をかせぎたいと思い、実家の母に頼み、海苔を大量に仕入れました。
山口県は瀬戸内海に面し、海苔の産地でもありとても美味しい海苔がとれます。
部屋の中は、海苔の入ったダンボールが山積みです。
海苔を仕入れる資金は、母に立て替えてもらいました。
私は、海苔を売って、この厳しい財政を立て直したいとおもいました。
ところが、今まで物を売った事がなく、どのようにしたらよいかまったくわかりませんでした。
いろいろ、考えた結果、スーパーの前で海苔を販売する事にしました。
幸い、スーパーの前のたばこ屋さんが場所を提供してくださり、海苔の販売をしました。
小さな七輪の上で海苔を焼いて、通行人に試食して頂き買ってもらいました。
少しは売れたのですが、仕入れた量が多すぎて、いっこうに海苔がへりません。
私は何とかしたいとあせるのですが、なかなか売れません。
当然です。商店街に買い物にくる人は、一般家庭の奥様ばかりで、そんなに沢山の海苔は必要ありません。
私は、海苔を大量に使う所はどんな所があるかと考えました。
そして、答えがでました。
海苔を大量につかう所は寿司屋さんだ、と言う事に気付きました。
早速、周辺のすし屋さんを一軒、一軒尋ねて行きました。
「これは、山口県でとれた美味しい海苔です。
沢山、仕入れすぎて困っています。
どうか、この海苔を買ってください」と、お願いしました。
初めに飛び込んだすし屋さんでは、あっさりことわられました。
次に行った所も断られました。
三件目に飛び込んだすし屋さんは、買ってくださいました。
実は、私達親子三人で、七輪を囲んで海苔を売っている姿を見ておられ、かわいそうと思われたのでしょう。沢山買ってくださいました。
また、知り合いのすし屋さんを紹介してくださり、山の様にあった海苔も少しづつ減っていつの間にか、なくなりました。
そして、母に立て替えてもらっていた海苔の代金をはらう事ができました。
こんな、いきさつで海苔売りが終わりました。
正直言って、海苔売りは、あまり儲かりませんでした。
でも、露天での海苔売りあきないは、とても勉強になりました。
そして、人様のやさしさ、ぬくもりを感じる事ができました。
昭和48年3月、無事、整骨学校を卒業して、針のむしろの嬉野町へ帰ってきました。
夜逃げをして、三年半が経過していました。