人はいろんな問題が起きて、その解決法が見つからないとき、いわゆる【出口が見えない】とき、考えることをやめようという意識が働きます。そして、何か身近にある楽しいことに向かっていこうとします。そんな状態のときは、いろんな【感情】や【感覚】が鈍くなってきたり、突然「どすーん」と落ちていくことがあったりします。それを紛らわすためにより強い刺激を求めていく。

なぜなら、意識的には【考えることをやめている】ように思えるけど、こころの中では変わらず【考え続けている】から。こころの殻を厚くして表に出さないようにしているから、いっしょに【感情】や【感覚】も閉じ込めているということ。突然【落ちていく】のは、緊張が解けた瞬間に閉じ込めていたものが顔を出すからなんでしょう。

【考えても結論がでなくてストレスがたまる】【考えなくてもこころが疲れていく】、なんだか自分自身が袋小路に陥ってしまったように思うかもしれません。結論から言うと、同じであるのだから考えたほうがいいです。ただ、ひとりで考えてはいけません。自分ではずっと考えてきているから、どうしても同じような考え方になってしまって、堂々巡りになっていく。余計に疲れちゃうし、絶望感がつのっていく。でも、もしかしたら、違う見方をすると【ちっちゃい出口】が実はあるのかもしれないよ。自分では気づかないだけ。【袋小路】じゃなかったりする。

いろんな人の話を聞くということでもありません。一見、多くの人から話を聞けば、いろんな見方があってよさそうに感じるけど、そもそもあなたの気持ちをきちんと把握してアドバイスをしてくれる人はそんない多くないはず。興味本位で話をされても困る。ただでさえ、人には話せない悩みのことが多かったりするじゃないですか。

一人でいいと思います。身近にいるのがいいけれど、そうでない場合にカウンセラーがいます。もちろん、カウンセラーとの相性は一番大事だけどね。そして、いっしょに考えていくと、いつのまにか【袋小路】から抜け出ているかもしれませんよ。

『頭がいい人、悪い人の話し方』という本、しっていますか?ベストセラーになっているようなので、週末に読んでみました。要は、人は話し方でその人の知性を判断してしまう。「知的でない」話し方はどんなものがあるかというのがテーマで、話し方というよりは、「こんな性格の人は気をつけろ」という例が100近くも載っています。

「けちばかりつける」「自慢ばかりする」「人の話を聞かない」・・・。なるほど、確かにそうだなあ、と思うところはあった反面、「これって程度の差はあれ、誰もが持っている要素じゃないかな」と思ってしまいました。

人はすごく残酷な面とかネガティブな面を必ず持っている。それを頻繁に出す人もいれば、ずっと溜め込んでいて、何かの拍子にでてしまう人もいる。そして、そのネガティブな面が表に出る人には、それなりの背景や理由があったりして、深く話をしていくと違う一面が見えたりする。そして、人の外側での【見え方】というのも、ちょっとしたきっかけですごく変わったりする。

職業柄でそう考えてしまうのかもしれないですが、短所は見方を変えるだけで長所になりうるだけに、判断が難しいなあと思ってしまったのでした。

会いたくて会いたくて、会えればすごく嬉しくて楽しくて、でもそれと同じぐらい悲しくて寂しい気持ちがあって、その気持ちはどんどん会っている最中にも大きくなってくる。これって何なんでしょうか。

人は常に先のことを考えている。もちろん、すごく先に何が起こるかはわからないけど、すぐ先のことはなんとなくわかる。大事な人のそばにいる瞬間ほど楽しいことはないから、その後のギャップを想像してしまうのでしょう。以前【コインの裏表】でも書きましたが、そんなときに限ってちょっとしたことで喧嘩してしまったりね。

「またすぐに会えるし、そのときはもっと楽しいことがある。だから次に会うのを楽しみにしてればいいさ」、そう考えられるといいよね。でも、そう考えてもなかなか割り切れないのは、人は意外と悲観的で近視眼的だったりするから。分からないことに対しては不安になるから、とりあえず自分の見える範囲で物事を感じがち。

こればっかりは励ましになるような言葉というのはかけられないように思います。なぜなら、この感情は大事な人といることが本当に楽しいことの裏返しで、そうでなければさほど寂しさ、悲しさを感じないものだから。ただ一つ、相手もあなたといることが本当に楽しいのであれば、同様の感情を持っているはず。それであれば、楽しい気持ちと寂しい気持ち、二人で共有しあうことで少しだけ気持ちが安らぐかもしれませんよ。「この気持ちを抱いているのは一人じゃない」と思うときに、人は安心感を抱くことができるからね。
というか、インフルエンザがはやっているみたいですね。私も今週はへろへろです。月曜日に咳がでるなと思っていたのに徹夜とかをしてたら水曜日には鼻水、関節の痛み、熱と症状が広がる広がる。脳みそが「ぼわっ」っと膨らんでる感じ。インフルエンザじゃないかと皆には脅されつつ、金曜日はさすがに仕事を休んで寝ました。寝たら結構すっきり。夜に韓国料理を食べたら、なんだかすごく調子がよくなってきました。これって、睡眠不足と栄養失調???

明日はまた京都です。寒そうですね。。
先週末に京都に行きました。ぷらぷらとしていたら、梅の花がもうところどころで咲いていました。梅の花って、桜に比べて、なんだかあったかい感じがしますね。周りはまだ寒いのに、梅はきっとこの先にくる暖かな春の訪れを感じてつぼみを咲かせるのでしょう。なんだかたくましい。

まだ外は寒いけど、時折少しだけ「春のような」日差しを感じることがあります。きっと、これからそれを感じる時間が長くなっていくのでしょうね。

自分はひどい人間だと思っています。こんな自分を分かってくれる人はほとんどいないと思っています。人が分かるのは自分の殻の外で作り上げた自分。だから、根本的には相手を信じられないし、信じたときに裏切られるのが怖いから相手に入っていけない、そんなことを思ってしまう人、結構います。

結論を言ってしまうと、自分がひどい人間だったら、ほとんど全ての人はひどい人間です。自分のことを100%わかってくれる人はおそらくいないと思います。相手との距離を自分から置いているから、自分から飛び込んでいかないと【心地よさ】の感覚がなかなか生まれてきません。

それでも、あなたのことを【理解したい】と思う人がいます。人間の【ネガティブな部分】を分かっていて、それでもあなたを受け入れようと思う人はいます。それは信じられないかもしれないけど、必ずいる。それを自分が認めることは怖いよね。自分が弱くなったような気がするからね。

相手があなたのことを【理解して受け入れようとしたいと思っているか】を見分ける方法が一つあります。相手がどんなときにあなたに対して怒る、注意するかというところ。たとえば、あなたがいくらわがままを言っても怒らない、だけど、あなたが嘘をついているとき、あなたが本当に言いたいことを隠して違うことを言ったとき、そんなときに限って怒る人、そんな人はきっと、あなたが本当にこころを許してもいい人なんだと思いますよ。
私の友人から、以下のようなメールがきました。この場を借りて皆様にお知らせさせていただきます。

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私の会社のかつての同期女性の娘さんが、重度の心臓病で長い闘病生活を送っております。
心臓移植を行うことが有効な治療であるとのことですが、日本国内法では15歳以下の臓器提供は認められず米国で手術を行う必要があるそうです。
渡航費用と手術費用で9000万円が必要であり、「あみちゃんを救う会」を中心に支援活動を行っております。

しかし、1月末から、あみちゃんの容態が急変(悪化)し、一刻の猶予も許されなくなってきました。
一刻も早く渡米し手術しないと命が守れない状態にあるそうです。
現在目標金額(9000万円)にまだまだ届かぬ状況で7000万(渡航保証金額)ないと医療ビザが下りないため渡米もできず、緊急支援のお願いがありました。

同じ年頃の娘を持つ者として、看過できず、皆様にご案内した次第であります。
ご趣旨にご賛同いただけましたら、身近なご友人や地元の方々への支援の呼びかけも含めて、ご尽力・ご温情をお願い申し上げます。

下記 あみちゃんを救う会HP
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寂しいときは何かにすがりたくなる。何かにすがることで、その寂しさを紛らわせようとする。それは仕事だったり、恋愛だったり、ギャンブルだったり、酒だったり、Hだったりする。その【寂しさ】がこころの中を満たしているときは、他の感情を隅に追いやっているから、こころが空洞のような感じになっていて、感覚がマヒしたような状態になったりする。だから、外から【楽しさ】とか【気持ちよさ】をもってきてこころの中を埋めようとする。

何かにすがることが悪いとは僕は思いません。実際にそれでこころの中でふくらみきった【寂しさ】のバランスが取れてくることもある。でも決してそれでは埋まらないときもある。その違いは、何かにすがった後に自分がどういう気持ちになるかということ。終わったあともその楽しさが残って、「よかった」と思えるのなら、それはいいこと。一種のストレス解消だからね。でも、終わった後にすごく後悔したり、自己嫌悪に陥るようなことがあったら、それは逆にこころを傷つけちゃっている。

でも、それが分かっていたとしても、その一瞬は【寂しさ】を忘れていられるから、どこかでそれを求めちゃうよね。【一瞬でも寂しさを紛らわせることができるならそれでいい】と思う自分がいる。寂しさに耐えることは辛いものね。ただ、そうした刺激には人間は慣れちゃうから、だんだん大きな刺激を求めるようになって、その分大きな傷がこころについていっちゃうよ。

【自分がなぜ寂しいのか】、【何が寂しいのか】、これを自分の中で考えることが第一歩。それだけでも気持ちが軽くなります。本当は誰かと話をするのがいいけどね。
失って初めて【大事なもの】と分かるものがあります。いや、正確には、こころの中では大事なものとわかっていながら、【失うはずがない】という想いが先に立って、失ったときに初めて【失うもの】として認識するのかもしれません。

それが【本当に取り戻せないもの】であれば、しばらくはただひたすら後悔することになる。こころの中には【大事なものに対する想い】は決して消えないという話を以前しましたが、その【想い】とともにずっと生きていくことになる。ただし、そんなときはその【想い】を自分の中で認め、その【想い】を抱えたまま生きていくことを決めたとき、こころの中の何かが軽くなるということがある。忘れようとするのではなく、その【想い】と共存する。それはすごく辛いことのように思えるけど、忘れられないものを忘れようとすることのほうがきっと辛い。

ひとつ。あなたにとって、それは【本当に取り戻せない】もの?もしかしたら、形を変えたらその【大事なもの】は取り戻せるかもしれない。人はそれまでの形や出来事にどうしても固執してしまう。そのままを取り戻そうとしがち。でも、大事なことは、形でも、過去の出来事でもなく、それが【大事なものである】という想いそのもの。時間はかかるかもしれないよね。結果的には取り戻せないかもしれないよね。でも、形にこだわってしまって、その可能性を狭めてしまっていませんか?

【想い】に忠実になって、それを実現できる方法、それは全然違った形になるかもしれません。それでも自分が【取り戻したい】と思ったとき、それこそが本当にあなたにとって【大事なもの】。そこまで自分の中で認識して、その【想い】と共存することを決めることは、【取り戻せないもの】に対する想いと同じ。でも違うのは、それは取り戻せる可能性があるということ。そう思ったときに何かが変わってくるかもしれませんよ。
こころの中にはいろんな感情が詰まっています。好き、嫌い、楽しい、寂しい、幸せ、不安。一つのことに対して相反する感情が同居している場合もしばしば。どれが嘘でどれが本当とかじゃなくて、どれも事実として抱いている感情。実際に表に出てくる感情は、何か外からの出来事や、頭の中で考えたことがきっかけで引っ張りだされたものにすぎなかったりする。そこで時々困るのは、自分が望んでいるものとは違う感情が思わずでてしまうということ。好きなのに嫌われるようなことを言ってしまう、優しくしたいのに冷たくしてしまう、そんな経験は皆さん、ありませんか?

その感情を受けとめる人がショックを受けるだけではなくて、自分がそんな感情を表に出してしまったことにびっくりして、傷つき、悩んでしまう。自分のこころの中にどんな感情があるのかはなかなかわからなくて、表にでた、予想外の感情に自分を責めてしまいがち。

でも、さっき言ったとおり、一つの物事には相反する感情が同居していることが多いんですよ。幸せで楽しいほど、不安で悲しくなる。相手のことが好きであるほど、憎しみの感情が裏にある。「愛憎」という言葉はまさにそんなことかと思います。

実は逆のことも言えて、嫌いだった人をふとしたときに好きになってしまうこともある。きっと、こころの中にある感情は【コインの裏表】のようなもの。コインを手にした時点で、いろんな、時に相反する感情がこころの中に生まれるのでしょう。

実際、あなたのそんな感情を受け止める相手は戸惑ってしまう。でも、あなたのことを本当に大事に思っている人は、そんなあなたを理解してそれすらも受け止めようとしてくれるはず。そこであなたがしなくちゃいけないことは、自分を責めることでも、絶望することでもない。自分で理解のできないその感情を、うまくいえなくてもいいから、相手に対して伝えること。勇気はいるよね。でも、表にでてきた、あなたのほんのわずかな一面だけで勘違いや誤解を与えてしまうよりはいいと思いますよ。