関電と裏社会をつないだ豊田一夫とは | 永田町異聞

関電と裏社会をつないだ豊田一夫とは

最終処分場のあてもなく核のゴミを出し続け、自然災害の多いこの国で国民の生命財産を脅かす原子力発電所。


一歩間違えれば国が滅ぶほどの危機を経験したというのに、いまだこの電源を中心としたエネルギー政策がまかり通っているのは、政官業の欲得と、国民騙しの手先に使われるメディア、有識者のせいであることは言うまでもない。


官僚の天下りや政治家への献金を維持するためには、電力会社の経営を守らねばならない。原発の廃止を決めるようなことになれば、その瞬間、原子炉は巨額不良資産に変わってしまう。


それを避けるためには原発再稼働を進めねばならず、核のゴミが増え続けても、「そのうちなんとかなるだろう」と、安倍首相は“無責任男”さながらの能天気を決め込んでいる。


さて、政治家やメディアをカネで動かしてきた電力会社は、経営が悪化すれば国のお墨付きで国民に電力料金の値上げをむりやり受け入れさせる特権をもっている。


悪名高き総括原価方式というやつだが、このほど関西電力は社員の高給を維持したまま、昨年5月に続いて電力料金再値上げを申請した。


カネがなくなったら、国民からむしり取ればいい。まるで、暴力団だ。経営力を生む土壌づくりをしてきたとは思えない。


そういえば、関電と裏社会の関係は関西電力元副社長、内藤千百里が朝日新聞に告白したことで、あらためて浮き彫りになった。


内藤は元関西電力会長、芦原義重の側近として、盆暮れにともに歴代総理や自民党幹事長ら有力政治家のもとへ足を運び、総理には一回1000万円、その他には1回200万~700万円の献金を長年にわたって続けてきた。


その男が、91歳になって「原子力はセキュリティーにかこつけて隠し事が多すぎる」とようやく本音をもらし、右翼の大物、豊田一夫(故人)と関電の関係についても語った。


「暴力団などの裏社会に顔が利くので、表に出せないトラブルを解決してもらったこともある。電力は立地や送電線下の補償費でしよっちゅうトラブルをかかえていますから」


大正期、原敬内閣の内相、床次竹二郎が社会主義運動に対抗するため、ヤクザの右翼的再編を画策し、親分たちの連合体「大日本国粋会」が発足して以来、この国ではヤクザに顔のきく大物右翼といわれる連中が、政財界を裏で動かす黒幕として存在してきた。


だが、豊田とはどんな男なのか。大物と言われながら豊田に関する資料は少ない。


三浦義一と高橋輝男。豊田への手がかりはこの二人に関する資料のなかにあった。三人が出会う舞台は終戦直後の銀座だ。


三浦は北原白秋に詩を学び、頭山秀三に右翼思想をたたきこまれたヤクザ詩人。


「戦勝国民」と称する不良外国人と対決して銀座の街をトラブルから守ろうとし、新聞に「銀座警察」と命名された愚連隊一味のリーダーが、高橋輝男。


その高橋の舎弟となったのが豊田一夫だが、高橋は豊田をたんなるヤクザで終わらすのはもったいないと、三浦に頼んで、三浦の師である頭山秀三に預けた。


豊田は高橋と一線を画し、右翼思想家として頭角をあらわす。殉国青年隊を結成して、はじめてその存在が知られるのは、世にいう「外務省殴り込み事件」によってである。


北京で開催されるアジア太平洋地域平和会議に参加を希望する30人ほどが旅券を求めて外務省の一室を占拠したのに対し、「共産党を利する連中を放置しておくとは何ごとか」と10人ほどの同志とともにその場に出向き、座り込んでいる人々を追い出したのである。


それから殉国青年隊は規模を拡大し、昭和29年11月には日比谷公会堂に約5000人が集まって全国総決起大会を開くほどになった。


三浦と豊田はその後、ヤクザ組織に顔のきく大物右翼として政財界のフィクサーを演じる。


豊田が大物といわれるようになっていったのは、三浦という後ろ盾があり、その人脈を受け継いだことが大きい。


三浦は、日本の右旋回をはかろうとするGHQ参謀第2部(G2)にも食い込み、民主化路線を進めていたGHQ民政局(GS)のチャールズ・ケーディスをスキャンダル暴露で追い落とすのに協力したといわれる。


G2との深い関係から吉田内閣の黒幕的存在となった三浦は、財閥解体にからむ暗躍で三井に恩を売り、そのつながりで日本橋室町の三井ビル内にかまえた事務所には、頼みごとをする訪問客が絶えなかったようだ。


豊田が関西電力とつながりを持つようになったのも、三浦が日本発送電の分割問題で暗躍したことと無関係ではあるまい。


日本発送電が全国9地域の電力会社に分割されるさい、裏の反対勢力として剛腕ぶりを発揮し、電力業界への影響力をたくわえた。


三浦の信頼が厚かった豊田は電力会社に食い込み、とくに関西電力との関係を深めた。


関西電力の芦原義重は1942年の配電統制にともない阪急電鉄から関西配電に移り、1951年の電力再編成(日発分割)で発足した関西電力の常務となり、その後、太田垣士郎から社長ポストを受け継いだ。


おそらく、三浦義一や豊田一夫とは日発と配電会社を9つの電力会社に分割する過程でなんらかの接触があっただろう。


ただ朝日の「原発利権を追う」で内藤は、芦原ではなく太田垣から豊田を紹介された趣旨の発言をしている。太田垣が社長に在任していたのは1959年までであり、かなり早い時期から、裏社会がらみのクレームやトラブルに関電は豊田を使っていたと推測される。


豊田への「お礼」はもちろんのことだが、さまざま、豊田の関連会社に便宜をはかっていたことを内藤は次のように話した。


「芦原の指示で、豊田さんの関係会社にビルの警備を頼んだことがある。関電の関連会社が豊田さんの土地を買収する際にもめた時も私がガタガタ言うなと言い値で買わせた」


有名な「馬毛島疑惑」(1983年)に関連した話もある。その一件より前に、当時平和相銀を牛耳っていた監査役で元検事の伊坂重昭が豊田を通じて関電に接触し、「馬毛島を240億~250億円で買わないか」と持ちかけていた。


その話が立ち消えになったため、政界に顔のきく豊田一夫に工作資金20億円を託し、自民党の大物議員20人ほどの手に渡ったとされるのが「馬毛島疑惑」だ。


豊田と関電の腐れ縁はその死とともに切れたが、電力業界にフィクサー的な動きをする人物が絶滅したわけではない。


東電に代わって原発の地元対策を担い「東電の影」と呼ばれた白川司郎なる人物の関連会社には、東電から破格の条件で仕事を受注したという噂が絶えない。似たようなことは他にもあるだろう。ただ、スケールは昔より小粒になったかもしれない。


石油や原子力などを使った大規模発電所による集中的な電力システムは環境、コスト、安全保障、持続可能性からいっても、もはや古い仕組みになってしまった。


これからは、無尽蔵にある自然エネルギーをいかに人間の生活に取り込み、利用していくかが肝心であり、そのためには再エネを中心とした新しい電力システムに変えていかねばならない。


関電をはじめ大電力会社は新しい仕組みを構築する努力を怠り、カネや既得権、ときには裏社会の力を頼んで、会社を守ろうという、消極的かつ近視眼的な思考に陥っている。


 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)