112.明治維新は日本破壊のクーデター(2)龍馬も天皇も将軍も【邪魔者殺して明治維新】 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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■明治維新は日本破壊のクーデター
第1回: 109.阿部正弘と島津斉彬の暗殺
第2回: 112龍馬も天皇も将軍も【邪魔者殺して明治維新】
第3回: 117.謎だらけの明治天皇
第4回: 121.長州藩兵の蛮行
第5回: 124.外国の影響
第6回: 127.古代から共産化との戦いだった日本の歴史
第7回: 135.薩長同盟の目的は倒幕ではない【クリスチャン勝・西郷】
第8回: 145.神の国を取り戻す!が「日本を取り戻す」の意味


□孝明天皇・徳川家茂(いえもち)将軍の暗殺について


孝明天皇と将軍=徳川家茂はどちらも、既に暗殺されている阿部正弘の路線を引き継ぐ公武合体論者。


孝明天皇、唯一の写真


徳川家茂

徳川家茂将軍:写真存在せず



薩長同盟成立後、

・徳川家茂将軍は、第2次長州征伐の最中の1966年に死去(享年20歳)

若いとはいえ、勝海舟が「武勇にも優れており、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。」と評されたほどの人物である。

・孝明天皇は、幕府が第2次長州征伐に失敗した直後の1867年に崩御(享年21歳)。

孝明天皇は、岩倉ら過激派公家たちが天皇の意に反する勅語を作成したり、勝手に人事を行う事に対して激しく糾弾し、過激化する公家との徹底抗戦を続けていた。

過激公家や倒幕派の行動が国を潰すという事をよくよく理解し命がけで戦っていた人物である。



(参考:wikipediaより抜粋)----------
孝明天皇は攘夷の意思が強く、異母妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させる等、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。
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京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計った事等もあり、長州藩には嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。それらの態度は、第二次長州征伐の原因の一つともなった。

文久3年(1863年)4月22日付の中川宮宛の書簡では、4月10日の石清水八幡宮行幸について体調不良にも関わらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている。 このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出するようになる。

第2次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に対する書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、岩倉具視は国内諸派の対立の根幹は天皇にあると暗に示唆して、孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行うことで朝廷の求心力を回復せよと記している。

こうした中で慶応2年(1866年)8月30日には天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている。

-----抜粋終わり----------


孝明天皇が崩御したその日に明治天皇(当時16歳)が即位。


明治天皇即位

明治天皇即位時の写真:真ん中の小さな少年が明治天皇


それは、大政奉還、王政復古の大号令、明治維新直前の出来事だった。


倒幕派は、手を結ぼうとする天皇と幕府が最も邪魔な存在。孝明天皇と家茂将軍の2人が生きている限り倒幕はあり得ない。


家茂将軍の死去は京都滞在中の1866年7月20日。

風邪気味のところ、宮中の医者が処方した薬を飲んで3~4日後に死亡。胸に紫色の斑点ができ、激しく苦しみながら亡くなったという。


孝明天皇は、1867年に天然痘で亡くなったとされているが、症状が出てから一週間後には熱が下がり始め食欲も戻り、10日過ぎには全快に向かっていた。

ところが回復した2日後に激しい下痢と嘔吐、体中から出血して間もなく息を引き取ったと伝えられている。



(参考)
中山忠能日記:「御大便度々御通し、御容体宜しからず、御ゑつき強く、召上がり物御不食」「廿五日後は御九穴より御脱血」

湛海日記:御胸先へ御差込容易ならず
天脈拝診日記:「胸をかきむしってのお苦しみ」「七転八倒の苦しみ」
伊良子光順日記:御痰端の御様子
野宮定功日記:「御痰気相募」「御脈微細、四肢御微冷」


※全部が直接見た訳ではない可能性もあるが。


『孝明天皇は病死か毒殺か』の論文を発表したねずまさし氏は、最期の症状からヒ素による毒殺、首謀者を岩倉具視と推定した。当時、天然痘で暗殺する手法がよく使われていたが、天然痘ではうまくいかなかったので、ヒ素を盛ったということだ。

岩倉具視

首謀者は岩倉具視?


それとは別に、「孝明天皇の暗殺の犯人は伊藤博文と岩倉具視」という当時を知る人物の遺言があるらしい。

岩倉具視が孝明天皇を天然痘で暗殺しようとしたが回復してきたので、伊藤博文が斬り殺したということか。


伊藤博文は、養子で足軽の父を持つ農家の生まれであり、武士の出身ではない。孝明天皇暗殺の物的証拠は無いが、公武合体派の長井雅楽の暗殺を企て、塙次郎、加藤甲次郎を殺害した前科がある。

伊藤博文が暗殺の実行犯である可能性は決して低くはない。

若い頃の伊藤博文

若い頃の伊藤博文


その場合も主犯はやはり岩倉具視という事になる。

岩倉具視

やはりですか?岩倉さん


いずれも証拠が無いので、断定はできないが、老中阿部正弘といい島津斉彬といい、幕府を強化する側に立つ者ばかりが謎の死によって次々に命を落としている。


※新撰組の行った天誅は謀反を企てる者の取り締まりであり、至極当然の仕事であって、暗殺などではない。


そう考えると、公武合体の工作に奔走した坂本龍馬の暗殺も自ずと主犯と動機はわかろうというものだ。


倒幕派にとっての最大の敵=孝明天皇と家茂将軍がいなくなり、若すぎる天皇に代わって、岩倉具視らが徳川慶喜の将軍職を解き幕府・朝廷の政治体制を破棄するニセの勅書を作らせたのが王政復古の大号令であり、明治維新の正体なのである。


戦前の近衛文麿総理大臣の例にあるように、天皇とは公家にとっての傀儡でしか無い。都合が悪ければいくらでも取り替えがきく存在である。


※近衛に関しては 『73.日本の近現代史の総括:日露~昭和・敗戦』を参照

http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11796478007.html



彼らは天皇を表に出しつつ、裏に回って自分たちに都合の良いように世の中を操っているのだ。


倒幕派が力をつけてきたのも、勝手に勅書を乱発して天皇の威光を借りて自由に世の中を操ってきたからであり、決して武士の努力だけ成したわけではない。


それよりも武士どおしを殺させて武士の力を弱体化させたのも幕末の偽らざる姿なのである。


これは明治維新後も同じ。

明治6年の政変から明治12年までの短期間に、士族反乱による戦争、暗殺、病死によって、元武士の大物全員が死んでいる。

 ・士族反乱で戦死:西郷隆盛、江藤新平、前原一誠
 ・暗殺:大久保利通、大村益次郎、横井小楠、廣澤真臣
 ・病死:木戸孝允(桂小五郎)

これによって農民出身の成り上がり者や
まだ若い武士しかいなくなったので、岩倉が憲法制定と議会設置を自由に行える体勢が整ったのである。


これをただの暗殺事件、戦争で死んだだけで済まされるものではない。明確な目的を持った陰謀だったと言う以外にないだろう。


要するに、明治維新は武士達を完全に利用した公家政権樹立のためのクーデター、革命だったのである。



117.明治維新は日本破壊のクーデター(3)謎だらけの明治天皇
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11813727807.html

↑につづく。



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