117.明治維新は日本破壊のクーデター(3)謎だらけの明治天皇 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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■明治維新は日本破壊のクーデター
第1回: 109.阿部正弘と島津斉彬の暗殺
第2回: 112龍馬も天皇も将軍も【邪魔者殺して明治維新】
第3回: 117.謎だらけの明治天皇
第4回: 121.長州藩兵の蛮行
第5回: 124.外国の影響
第6回: 127.古代から共産化との戦いだった日本の歴史
第7回: 135.薩長同盟の目的は倒幕ではない【クリスチャン勝・西郷】
第8回: 145.神の国を取り戻す!が「日本を取り戻す」の意味


現代日本人は、明治維新を肯定的にしか捉えない傾向が強いが、歴史は全てが善だとか悪だとは言えず、良かった点、悪かった点の両方がある。

明治維新をクーデターだった、革命だったと言うと、日本嫌いだとか非国民だと思われるかも知れない。


しかし、幕末を生きた武士たちは将来の日本が刀を捨て武士道を忘れた社会になるとは夢にも思わなかっただろう。


だが、その夢にも思わなかった事が現実化し、日本は独立国とは名ばかりの占領下にあるも同然の、他国のご機嫌を伺わなければならない国に成り果てているのである。


かつて日本がここまで卑屈になった事は一度もないという体たらくに、今現在、落ち込んでいる。

過去の歴史の失敗を直視して現実をしっかりと見ないと、この状況から抜け出すことはできない。

歴史の全肯定は失敗から目を背けさせ、何度も同じ間違いを繰り返させる元凶である。

歴史から学ぶとはそのような事であってはならないのである。



■明治天皇の謎


孝明天皇の写真

顔全体が引き締まっていて目がつり上がり険しい顔つきをしている。
生前の写真が写りの悪いこの一枚しかない。

しかも、肖像画の実物が現在行方不明であり、なぜか中国系の人間がその写真を公開していて、絵に修正が加えられている。


明治天皇の写真


22歳の明治天皇が、散髪脱刀令が出された時、岩倉具視に指示されて散髪し世間一般に公表された写真だが、お世辞にも端正なお顔立ちではない。


ちなみに15歳の時の写真が下の2枚だ。


観相学の観点から言うと、口が出っ張っている人は乱暴者が多いのだが、やんちゃっぽい感じだ。


非常にシャープな印象がする孝明天皇の写真と見比べると、とても親子には見えない。同じ血統には思えないのだ。

では、母親似か?

母:中山慶子
中山慶子

全く似ていない。


16歳、明治天皇即位の時に撮られた写真↓明治天皇即位

真ん中のホケーっとした少年が明治天皇だが、散髪写真の明治天皇とは似ても似つかない別人である。


一体何がどうなっているのか。



明治天皇の諱名は睦仁親王。


もともとの睦仁親王はひ弱で気も弱く細身の体型で運動能力に劣り、右利きで文字が下手だったと伝えられている。

即位の写真の人物がおそらくそうなのだろう。


なるほど。下手クソだ!


ところが、明治天皇は巨漢で体格良く威風堂々としていて相撲が強く運動が得意、左利きで達筆。馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令したと伝えられている。



何から何まで正反対である。

つまり、16歳で即位した明治天皇と、一般的に知られている明治天皇は別人である。


明治天皇の写真


明治天皇の写真といえば、これがよく使われる。

しかし、これはエドアルド・キヨッソーネによる肖像画を写真機で撮影したものである。

本人はなぜか写真を撮られるのを嫌ったらしく、撮られた写真が殆ど無い。


天皇が何度かすり替えられ、その事実を隠すには、写真を撮られるのは非常にマズい。明治天皇の写真嫌いは、事実を隠す目的だったのではないか。


孝明天皇の肖像画
孝明天皇


一般的に孝明天皇には、この肖像画が良く用いられる。

しかし、実物の写真よりもはるかに面長で口がやや出っ張っており、目も大きく、写真とは大きく異なっている。


明治天皇の親である事を演出するかのようなデフォルメされた描き方だ。


明治天皇 22歳の時の写真

大正天皇の写真

大正天皇2


昭和天皇の写真


大正天皇と昭和天皇はなんとなく似ているので、親子だとわかるが、明治天皇だけが別人種のような雰囲気がある。


明治天皇40歳頃の肖像画


晩年の昭和天皇


男性は、子供の頃は母親に似ていても年齢を重ねると父親に似てくるものである。

だが、明治天皇だけがあまりにも違いすぎる。


明治天皇にまつわる噂は数多い。確かな証拠があるわけではないが、仮説を少し紹介する。



かっての南朝・後醍醐天皇の曽孫、満良(みつなが)親王が長州の萩に身を隠し、長州藩がこの南朝の天皇を立てるためにすり替えたという説。

実際に、長州の地元では、明治天皇を「長州の天皇さん」と呼んでいたらしい。


証言しているのが、田中光顕という、土佐勤王党に加入後、長州へ脱藩、薩長連合の成立に尽力し、維新後は岩倉使節団に加わり、陸軍少将になり、貴族院議員になった人物。



かつて、天皇の系統は南北朝時代に、北朝と南朝に分かれた。

1333年、後醍醐天皇の工作により鎌倉幕府を倒す。
1334年、後醍醐天皇が建武の新政をを始める。
1336年、南北朝に分裂。

その後、足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は失脚し、北朝の天皇を正統と見なす室町幕府が成立し、長い間北朝の皇統が続いてきたのである。



しかし、田中光顕なる人物が、岩倉人脈の中で出世してきた人物だけに、実にうさんくさい。

2人目の天皇としてすり替えた人物が本当に後醍醐天皇の子孫かどうかは疑わしい。長州が勝手に連れてきた人物かも知れない。



薩摩も長州も、岩倉が天皇を道具として使ってきた事は百も承知なので、いかに天皇を自分達の勢力圏に置くかが権力闘争の重要な鍵となる事も心得ている。

天皇を自分達の息のかかった者にすり替えようと考えたとしても何ら不思議ではない。



○明治天皇が南朝の系統である状況証拠

・孝明天皇の意志である公武合体を破棄し、倒幕へ方針変更をしている。
・後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立せよと命じた。
・正妻を「皇后」とは呼ばず「昭憲皇太后」という天皇の母の称号で呼ぶ。
・明治天皇は明治42年に「南朝が正統」と述べた。



孝明天皇は北朝の天皇である。北朝の皇統は長い間、南朝側との結婚を避けてきた。

明治維新によって、北朝の皇統が途絶えたのは事実であろう。



さらにもう一つ、大室寅之祐という人物が明治天皇となったという説がある。出自については諸説あるが、一応長州人という事になっているらしい。


西郷隆盛は16歳の大室寅之祐が言う事を聞かないとき「昔の身分にかえすぞ」と叱りつけたという。

その逸話を大宅壮一が『実録天皇記』に書いている。

大室寅之祐

大室寅之祐と呼ばれる人物


この写真は西郷隆盛や木戸孝允、坂本龍馬ら幕末の武士達と一緒に映っている写真を拡大したものである。

↓以下リンク先に元の写真あり(フルベッキ写真)
124.明治維新は日本破壊のクーデター(5)外国の影響
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11818825431.html



散髪写真の明治天皇は、22歳の段階では散髪脱刀令を率先してやらされるなど、岩倉具視の操り人形として使われているが、大室はその時の明治天皇ではない。



もし、この人物が明治天皇にすり替えられたのなら2人目の明治天皇であり、3人目が散髪写真の明治天皇という事か。



それに関連する事として、
王政復古の大号令の時に立てられた議会のメンバーを見ると、おもしろい特徴がある。


総裁・議定・参与という3つの職があり、総裁は有栖川宮熾仁親王。議定は公家と旧幕府の重鎮たち。

参与には、岩倉具視ら公家衆と共に、尾張藩士、越前藩士、安芸藩士、土佐藩士、薩摩藩士をそれぞれ3名ずつである。

なぜか長州藩だけが蚊帳の外に置かれ誰も登用されていないのだ。



この頃は長州藩が朝廷から嫌われ、薩摩の力が大きかった事が伺える。(長州藩に暗殺者が多かったためか)



その時の勢力図からすると、薩摩藩に近い人物が明治天皇になったと見るべきであろう。

だから大室を教育していたのが薩摩藩士だったのである。


その後の権力闘争か大室を暗殺したのかはわからないが、結果的に長州人の天皇にすり替わったので、大室の情報が消され、大室の写真もその時に焼却されて現在に至っていると考えられる。


大室が映った写真も所有者が長い間隠し持っていたものである。



彼が中年になった時の姿を想像すると、40歳の肖像画の明治天皇のようになるとは考えにくく、すり替えられたのは間違いないだろう。

また、「大室寅之祐」という名も、長州人が適当な人物を選んで勝手に付けたのかもしれない。



こうした天皇を私物化する明治政府のやり方に対して、孝明天皇の実の子、本来の明治天皇=睦仁天皇の生母である中山慶子が、父・忠能に宛てた手紙が残っている。


要約すると、「世が乱れて、国内外に悪魔が徘徊している中、睦仁天皇が神様より守られて強運で悪魔が遠ざけられる事を祈っている」という内容である。


「何分にも世は末に及び、御所中悪魔えいまんにて恐れ入り候。当今様おん事(睦仁天皇)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず・・・かかるご時節に当今様の御代にならせられ候おんことなんと申し上げておんよろしく候や。ただただ神慮にかなわせられ、ご強運強く、神明のご加護にて早々内外の悪魔を遠ざけられ候よう、祈り入り祈り入り上げ候。なかなか紙上に尽くしがたき事ども日々御座候いて、浅間しきごようす、嘆き入り、嘆き入り参らせ候」。


明治天皇の正体は誰で、何度入れ替わったか、入れ替わる時に殺されたのか、などの詳細はわからない。


しかし、自分達の目的のためなら、天皇まで変えてしまう明治維新のどす黒さ、しかも、それらの事実を隠して明治維新を日本の近代化を成し遂げた栄光の歴史の一コマとする捏造に、たちの悪いうさんくささを感じざるを得ない。



そういう面から見ても、明治維新は日本歴史最大の大陰謀だと言っても過言ではない。


↓続きます
121.明治維新は日本破壊のクーデター(4)長州藩兵の蛮行
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11817289892.html


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