第1回: 109.阿部正弘と島津斉彬の暗殺
第2回: 112龍馬も天皇も将軍も【邪魔者殺して明治維新】
第3回: 117.謎だらけの明治天皇
第4回: 121.長州藩兵の蛮行
第5回: 124.外国の影響
第6回: 127.古代から共産化との戦いだった日本の歴史
第7回: 135.薩長同盟の目的は倒幕ではない【クリスチャン勝・西郷】
第8回: 145.神の国を取り戻す!が「日本を取り戻す」の意味
以下、三つのテーマで10回の記事を書いた。
テーマ:一神教だった日本/破壊された神の国
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/theme-10078963792.html
テーマ:日本は総力戦を仕掛けられている
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/theme-10080042673.html
テーマ:日本近現代史の総括
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/theme-10079169516.html
以上の記事から導き出した結論は、
1 本来の日本は和のこころを持つ神の国であり、日本人特有のYAP遺伝子を持った純粋な日本人は日本に約4割存在する。
2 日本の敗戦は悪魔族・ソ連が主犯であり、戦後の占領政策・総力戦がいまだ継続中である。
3 日本敗戦の根本原因は武士の国を捨てた明治期の失敗にある。
もし、幕末の武士が無益な殺し合いをせずに、生き残っていたなら、その後の日本はどれほど素晴らしい国になっていたことか。
では、「武士の国」を棄てた明治維新とは何だったのか。
それを8回くらいの記事になると思うが、書き進めたいと思う。
もし、はじめてこの記事を読まれる方は、上記3つのテーマの記事を先にじっくりと読んで頂く事をお願いしたい。
□幕末の勢力を今一度整理する。
・佐幕派:幕府を助ける勢力
・倒幕派:幕府を倒す勢力
・攘夷:外国を武力で退ける事
・尊皇:天皇を尊ぶ事
・公武合体:朝廷と幕府が一体となる事
「尊皇」も「攘夷」も「倒幕」ではない。
幕末当初、天皇も諸藩も幕府もみんな尊皇で攘夷。諸藩は全てが佐幕である。
「倒幕」など夢にも思わなかった。
□幕末初期の構図
天皇:攘夷、佐幕
朝廷:攘夷、尊皇、佐幕
諸藩(薩長も):攘夷、尊皇、佐幕
幕府:攘夷、尊皇
vs
過激公家:倒幕
テロ集団:倒幕
一般的に、ペリー来航や桜田門外の変、または薩長同盟の成立ごろには幕府が崩れはじめたとのイメージがあるが、全くそんな事は無かった。
幕府と倒幕派の力の差を例えると、自衛隊と、学校の剣道部くらいの力量差があった。
倒幕派が幕府よりも優位に立ったのは、実に最初の明治政府成立の後である。
鳥羽伏見の戦いの時に岩倉具視が用意した「ニセ錦の御旗」が掲げられた時、朝敵になるのを嫌った幕府側の諸藩がどっと倒幕側に寝返って力が逆転した。
その時に初めて倒幕派が優位に立ったのであり、それまでは少数派でしかなかった。「ニセ錦の御旗」が全てを決したのである。
当時の銃器はまだまだ一発一発を銃口の先から入れる先ごめ式が多かったが、遠距離から撃ち合って勝敗が決まる戦い方ではなく、ある程度の接近戦になるので、兵士の数が多いほうが断然有利。
そういう点から見ても、幕府軍の数の力が倒幕軍を圧倒していたのである。
大政奉還も幕府が降参したのではない。
倒幕派は政治的基盤なく、軍も幕府軍に比べて弱く、諸藩も官僚も掌握しておらず、政権担当能力が全く無いのは誰の目にも明らか。
諸藩・幕府官僚と強力な軍隊を握っている将軍=徳川慶喜は政権交代すれば必ず自分の所に権力が戻ってくる事がわかっていたので、一時手放しただけである。
幕末の真実を突き詰めていくと、一般的に考えられているイメージとは全く違う実像が浮かび上がってくる。
「43.日本の近現代史を総括:江戸期 」で江戸幕府の実際の姿を大まかに説明した。
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11784292410.html
幕府の政策をもう少し詳しく見てみる。
老中=阿部正弘
薩摩藩主:島津斉彬
□老中=阿部正弘の幕末期の政策 (老中=今でいう総理大臣)
1 優秀な人材なら誰でも登用し、諸藩の意見も聞いた。
外様大名でも政治に参加でき、下級武士でも登用された。
薩摩の島津斉彬とその懐刀=西郷隆盛など。
2 軍備増強
・大船建造を解禁。
・江戸湾と大坂湾に砲台設置、防備の強化。
・諸藩に鉄砲と砲術訓練を許可。
・講武所、蕃書調所の設立。(軍事及び外交研究機関)
・海岸防禦御用掛(海防掛)を設置。
・長崎海軍伝習所を設置。
後にフランスから最新式武器と軍事技術を手に入れる。
なぜフランス:英国強すぎ、米国弱すぎ、露は裏切るから。
3 株仲間を再興し経済成長を促す。
後に、米払い制を廃し通貨で給与を払って常備兵を養った。
攘夷は強力な幕府軍が行うという基本方針であるが、各藩にも訓練させているので、いざとなれば全ての藩も協力するという柔軟な挙国一致体制を敷こうとしていた。
ところが、
老中=阿部正弘とそのブレーンであった薩摩藩主=島津斉彬が相次いで死去。西郷隆盛は島流し。
阿部正弘(1857年没)、島津斉彬(1858年没)。1年違いでどちらも暗殺されている。
二人の死去によって、挙国一致体制の構築や諸藩の軍政改革が遅れる事となる。
その後、
幕府は体制強化のため、朝廷と一体化する「公武合体」志向を強める。
この頃から過激派が活発化する。
・水戸藩の過激な集団によるテロが発生。
水戸藩が中心となり大老=井伊直弼を暗殺。(桜田門外の変)
坂下門外の変、東禅寺英国公使館襲撃事件、天狗党の乱を起こす。
桜田門外の変:映画の一シーン
・長州藩では上海留学より帰国した高杉晋作が奇兵隊を結成。
高杉晋作
長州正規軍を襲撃。
久坂玄瑞と共に英国公使館焼き討ち事件。
京都御所への攻撃(禁門の変)で2万7千世帯を焼く。
※武士道が無い奇兵隊は、身分を問わないテロ集団にすぎず、一般人を殺さないという不文律も無い人殺しの集団であった。
※また、長州藩は朝鮮部落が非常に多い土地だった。
敗戦後の山口県では日本人相手の殺人や強姦事件が多発し、占領軍が朝鮮人鎮圧や密入国阻止のモデルケースにした土地でもある。
そのおかげで現在は不良朝鮮人は少なくなった。もちろん全ての朝鮮人が悪人だとは言えないが、不良朝鮮人が非常に多かった土地だというのは事実である。
・過激派公家の岩倉具視、三条実美らが数々の陰謀を働く。
岩倉具視
三条実美
天皇への脅し、恐喝、天皇無視の勅語を連発し過激派有利な社会へ誘導。
□幕末後期
天皇、幕府、諸藩 :尊皇、攘夷、佐幕、公武合体
vs
過激公家、薩長テロ集団:倒幕
当初、長州藩自体は佐幕派であり、高杉晋作の奇兵隊はまだ小集団に過ぎず、過激派はまだまだ少数派でしかなかったが、彼らの動きが活発化し、過激な討幕派の勢力が拡大していく。
112.明治維新は日本破壊のクーデター(2)龍馬も天皇も将軍も【邪魔者殺して明治維新】
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11812771105.html
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