自分は子供の頃は明治産まれの祖母に見守られた。

 

明治産まれの祖母は江戸時代後期産まれの曽祖父に見守られた。※自分から見て4代前の人

 

曽祖父の自伝を管理していた明治産まれの祖父母の長男が2023年1月に亡くなり、心ない無頓着な親族によって戦争も乗り越えた自伝が捨てられた。

 

いつかこのブログで曽祖父の自伝を公開したいと思っていただけに残念を通り越し今も言葉に出来ない。

 

曽祖父の自伝には当時の長崎の情景、江戸から明治へ移り変わる当時の人々の心情が描かれていた。

 

ペリー来航だけではなく江戸時代後期は日本が揺れ動いていた時代であった。

 

今。ネットでなにかあれば『日本終わった』と吐く人が居るが、江戸後期の曽祖父も「日本は終わった」ような話を自伝に描いていた。

 

曽祖父は長崎でなんでも屋のような特定の仕事はせず、オランダ館に出入りが出来た人で、字も綺麗で学もあり、子供達に字などの習い事を教えていた。

 

 

 

「習う」と「学ぶ」の違いをもっと簡単にすると。

 

「習う」には「人」が必要。

「出来る人」が必要。

 

○[昔]

字が綺麗な人から字を習う

 

○[今]

字が汚い人でも字を教える

 

今は“出来る人”から習うのではなく、“変なもの”から学ぶようになった。

 

人から習わない、見習える人も少なくなった。

「習う」が「学ぶ」となり、それが加速し続けたのが今で。

 

「習う」がなく「学び」になると“伝えるもの”が消えてゆく。


もう既に伝えるものが消えたから、江戸時代の人と今の日本人は別物の日本人であり、今は明治になって作られた日本人の延長上の歩きとなっている。

 

 

“江戸時代”と書いたので一応ご存知かと思うが書いておく。

 

「江戸時代の人は江戸時代だと思っていない」

明治の学校制度が作られたと同時に文部省が天皇を通して過去を時代で分けた。

江戸後期から明治を生きた曽祖父は、寺小屋のみたいな習い事の先生の後に、明治になって学校の先生の依頼を受けた。

 

それまでの過去を時代で都合良く分けた教科書。

捏造された歴史。

とって付けた漢字の変換や英語の和訳。

人体の構造を変えてしまう医学書。

江戸の町を後付けで日本の中心とした。

 

などなどに対して遺憾を自伝に残した。

 

曽祖父は依頼された学校の先生を断った。

 

「“こんなもの”は伝えるべきではない」と。

 

今の日本人は曽祖父が“こんなもの”と懸念した教科書の内容を学び、学歴を欲しがる。

 

 

 

さてさて。

 

既に、随分と前から(故意に)日本では見習えれる人、教える人を減らすのが進んでおり、伝えられる人の数も減らされている。伝統工芸が盛んな土地はなにかしらやられている。

 

AIや法やルールや誰かの案を手本(見習う)にするように向けられてる。身近に見習いたい存在が居ないようになっている。

 

昔はなんでもなかった漬物名人が今後は貴重な人になってゆくように特定の技術などを見習える人が減ってゆく。

 

今の日本で誰も“人”として見習える人が居ない中で

 

それぞれの人がなにを基準にしていたのかが暴露されたのがコロナ禍で、“心なしの世界”は笑顔の暴力と迷走を続けているが。

 

自分でなにかを見つけていくしかない

 

そこが今の面白いところ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☯昔は「菌」しかなかった

 

昔の日本人の発酵技術や生活(食とか)を見てゆくと。

 

数多くの“経験的認識”で「人には菌が必要の心」が諸外国人よりもあったから日本の発酵物が今も残っている。

 

ビタミン、エネルギー、栄養、糖質、脂質、タンパク質などのワードが無い時代で日本の発酵技術は研ぎ澄ませれてきた。

 

小難しい医学的な話も無い。

 

在ったのは..。

 

「菌」だけだった。

 

その「菌」も今のように細分化されていない。

 

 

それでいいんじゃないか?

 

 

 

食べ物の○○は体に良い、○○は△△に効果がある、ビタミン○を摂取する...などなど。

 

世間一般では遠回しにビジネスに繋がる話が出回っているが。

 

「菌」「エネルギー」を摂取する事が人の本質。

 

一般的に出回っている話では。

 

人の体内には30兆個の細胞で形成され、体内外に生息する常在菌の数は40兆から100兆と言われている。

 

食べる物よりも土壌や自然に触れて常在菌を作る方が菌を摂取する。

 

赤ちゃんの時に多くの種類の菌を付ける事をするが、それは大人になってもある程度の菌の摂取は必要で、菌によって体質が改善したりアレルギーが治ったと言う人はおる。

 

 

 

☯アレルギー、花粉症、アトピー

を治す最善策

 

 

自分を攻めるわけでもなく、それまでの“自分”だから、アレルギー、花粉症、アトピーになっていたのだから。

 

今までとは“違う行動”をする事で、アレルギー、花粉症、アトピーは治る。

 

今までとは異なる菌を摂取・身に付けるのが最善策。

 

“自分を反転させる”

 

この世は共有・反転で成り立っている。

 

個人は時間で言えば昨日と今日と明日の共有・反転の毎日を生きている。

 

難しい話でもなく。反転をすれば善い。

 

今までとは違う自分の行動に

「菌」は付いてくる

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しいかな。

 

☯現代人には“知恵”がない。

 

“知る”でいいものを、“わかろう”としたり、“理解”をしようとするから“知恵”が出ない(湧かない)。

 

今の人は知らないものにも“わからない”と言う。

 

昔から言われている。

 

「知識過剰で知恵足らず」は、今や「情報過剰で知恵足らず」の状態。

 

 

☯昔の人は“理解”をしない。

 

“理解をしようとすれば”、余計なものが働き物事の本質を見失う。

 

昔からの「腹八分」「よき塩梅」は「知るの世界観」。

 

塩と梅酢のバランスを知ったから、梅酢を使って料理を味付けして加減を知ろうとした。

 

昔の人は「よき塩梅」の理解をしようとはしていない。

 

 

「知る」は今までに無い意識や情報を得た状態で、「わかる」は今現在わかっているか・わかっていないかの状態を言う。

 

「知る」を大事にすると「知る由もない」を知る。

 

ここが大事なところで。

 

現代は情報過剰になったところで、この世や社会は知る由もないものは数多くある。

 

具体的に。

 

「宇宙」を、人が知る由もない。

 

宇宙はNASAや誰かが作ったものでしかなく自分では知れない。

 

宇宙は存在せず次元が存在するのだが。

 

自分から遠過ぎるものは知る由もない。

 

 

「知る由もない」を知る事で

自分に必要な事を知る

それが知恵に繋がってゆく

 

そして。

「知る由もない」を知る事で

「人はなにも知らず生きるもの」

を知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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「いい加減に生きる」

 

 

「適当」

 

「適当」もそう。

 

『冷蔵庫にある物や余り物で“適当”に作る』と言って出来上がる料理は無茶苦茶なものではない。

 

『適当に作る』と言って旨いものを作る人が無責任な人に対して『適当だな』と言う。

 

同じ言葉でも全く別の意味の反転解釈になるのは人為的に反転させたとしか思えない。

 

あまりにも不自然。

 

「行く」が「行かない」にはならない。

「穏やか」が「荒い」にはならない。

 

「適当」も明治時代の“徹底化”で反転解釈を作ったのだと思う。

 

「善い(よい)」+「加減」の「いい加減」がどうして、出鱈目や無茶苦茶の解釈になると言うのだ!

 

「よくない加減」だから「いい加減」にしてくれよ!

 

と言うのならばわかる。

 

出鱈目や無茶苦茶を「いい加減」と言うのは「善い加減」ではない。

 

「いい加減」「適当」が出鱈目や無茶苦茶の解釈化したのは、“よき塩梅”“ほどよく”をさせないように向けたのだろうと察する。

 


 

「徹底」は心構え

「徹底する」とやり過ぎる

 

 

「徹底」と言っても「掃除を徹底的にやる」とか範囲や時間が決められたものであれば徹底は出来る。

 

「徹底」を別の言い換えにすると「しっかり」になる。

 

一般的に『しっかりした人』とよく使われるが、ある一面だけがしっかりとして見えるだけで、全てにおいて「しっかりした人」など存在はしない。

 

『しっかりと勉強をした』と言って試験を受けても100点の人も居れば60点の人も居る。

 

「徹底」「しっかり」はわかりずらい言葉であり、行動に移してもそれぞれとなる...。

 

結局は。

 

「徹底」「しっかり」は。

 

その人の“さじ加減”や“善い加減”に話が戻るのだ。

 

どうして「徹底」や「しっかり」が出来ないのかは。

 

「徹底」と「しっかり」は行動ではなく心構えや気持ちだから。

 

その大間違いの「徹底」と「しっかり」が管理社会や監視社会へと繋がっている。

 

大間違いな「徹底」「しっかり」をしようとするから、今や駅や道や至る所どこにでも監視カメラがあるようになる。

 

そして。

 

「徹底してます」「徹底してやっている」「しっかりやってる」「しっかりしてます」を大きくアプローチすると、“やり過ぎる”“度を超える”“加減を超える”となる。

 

 

 

もう人が

「徹底」「しっかり」の

やり過ぎに麻痺をしてる

 

 

「徹底」「しっかり」はいらない

 

「いい加減」でいい