「いい加減に生きる」
「いい加減に生きる」
— しおぎ (@operaition) March 2, 2024
明治の祖母の伝えでは。江戸時代までは適当な“ほどよし”と“いい加減”が主体の世界観だった。明治初頭から全てにおいて“徹底化”の押し付けの教え込みが始まり「いい加減」の意味を変えたと言う。
いい加減な“ほどよし”は人の理想な生き方。いい加減では困る者達が意味を変えた。 pic.twitter.com/m6L3QK7YwO
「適当」
「適当」もそう。
『冷蔵庫にある物や余り物で“適当”に作る』と言って出来上がる料理は無茶苦茶なものではない。
『適当に作る』と言って旨いものを作る人が無責任な人に対して『適当だな』と言う。
同じ言葉でも全く別の意味の反転解釈になるのは人為的に反転させたとしか思えない。
あまりにも不自然。
「行く」が「行かない」にはならない。
「穏やか」が「荒い」にはならない。
「適当」も明治時代の“徹底化”で反転解釈を作ったのだと思う。
「善い(よい)」+「加減」の「いい加減」がどうして、出鱈目や無茶苦茶の解釈になると言うのだ!
「よくない加減」だから「いい加減」にしてくれよ!
と言うのならばわかる。
出鱈目や無茶苦茶を「いい加減」と言うのは「善い加減」ではない。
「いい加減」「適当」が出鱈目や無茶苦茶の解釈化したのは、“よき塩梅”“ほどよく”をさせないように向けたのだろうと察する。
「徹底」は心構え
「徹底する」とやり過ぎる
「徹底をしない」
— しおぎ (@operaition) March 3, 2024
人は他者からの教えを徹底して実行しようとすると、その人が持つ実力が発揮が出来ない。
例えば。
徹底的なレシピ通りの料理とその人の経験からのさじ加減の料理では、さじ加減の技量ある人の料理の方が旨い。鮨が代表的。
人の魅力は良き塩梅や善い加減の技量。 pic.twitter.com/drjcA9fx4V
「徹底」と言っても「掃除を徹底的にやる」とか範囲や時間が決められたものであれば徹底は出来る。
「徹底」を別の言い換えにすると「しっかり」になる。
一般的に『しっかりした人』とよく使われるが、ある一面だけがしっかりとして見えるだけで、全てにおいて「しっかりした人」など存在はしない。
『しっかりと勉強をした』と言って試験を受けても100点の人も居れば60点の人も居る。
「徹底」「しっかり」はわかりずらい言葉であり、行動に移してもそれぞれとなる...。
結局は。
「徹底」「しっかり」は。
その人の“さじ加減”や“善い加減”に話が戻るのだ。
どうして「徹底」や「しっかり」が出来ないのかは。
「徹底」と「しっかり」は行動ではなく心構えや気持ちだから。
その大間違いの「徹底」と「しっかり」が管理社会や監視社会へと繋がっている。
大間違いな「徹底」「しっかり」をしようとするから、今や駅や道や至る所どこにでも監視カメラがあるようになる。
そして。
「徹底してます」「徹底してやっている」「しっかりやってる」「しっかりしてます」を大きくアプローチすると、“やり過ぎる”“度を超える”“加減を超える”となる。
もう人が
「徹底」「しっかり」の
やり過ぎに麻痺をしてる
「徹底」「しっかり」はいらない
「いい加減」でいい
よく見られたいと思えばやり過ぎる。
— しおぎ (@operaition) March 5, 2024
一生懸命やろうと思えばからまわり。
もっと知りたいと思えばキリがない。
いっぱい欲しいと思えば失ってゆく。 pic.twitter.com/iFlS6TXxxc