☯昔は「菌」しかなかった

 

昔の日本人の発酵技術や生活(食とか)を見てゆくと。

 

数多くの“経験的認識”で「人には菌が必要の心」が諸外国人よりもあったから日本の発酵物が今も残っている。

 

ビタミン、エネルギー、栄養、糖質、脂質、タンパク質などのワードが無い時代で日本の発酵技術は研ぎ澄ませれてきた。

 

小難しい医学的な話も無い。

 

在ったのは..。

 

「菌」だけだった。

 

その「菌」も今のように細分化されていない。

 

 

それでいいんじゃないか?

 

 

 

食べ物の○○は体に良い、○○は△△に効果がある、ビタミン○を摂取する...などなど。

 

世間一般では遠回しにビジネスに繋がる話が出回っているが。

 

「菌」「エネルギー」を摂取する事が人の本質。

 

一般的に出回っている話では。

 

人の体内には30兆個の細胞で形成され、体内外に生息する常在菌の数は40兆から100兆と言われている。

 

食べる物よりも土壌や自然に触れて常在菌を作る方が菌を摂取する。

 

赤ちゃんの時に多くの種類の菌を付ける事をするが、それは大人になってもある程度の菌の摂取は必要で、菌によって体質が改善したりアレルギーが治ったと言う人はおる。

 

 

 

☯アレルギー、花粉症、アトピー

を治す最善策

 

 

自分を攻めるわけでもなく、それまでの“自分”だから、アレルギー、花粉症、アトピーになっていたのだから。

 

今までとは“違う行動”をする事で、アレルギー、花粉症、アトピーは治る。

 

今までとは異なる菌を摂取・身に付けるのが最善策。

 

“自分を反転させる”

 

この世は共有・反転で成り立っている。

 

個人は時間で言えば昨日と今日と明日の共有・反転の毎日を生きている。

 

難しい話でもなく。反転をすれば善い。

 

今までとは違う自分の行動に

「菌」は付いてくる

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しいかな。

 

☯現代人には“知恵”がない。

 

“知る”でいいものを、“わかろう”としたり、“理解”をしようとするから“知恵”が出ない(湧かない)。

 

今の人は知らないものにも“わからない”と言う。

 

昔から言われている。

 

「知識過剰で知恵足らず」は、今や「情報過剰で知恵足らず」の状態。

 

 

☯昔の人は“理解”をしない。

 

“理解をしようとすれば”、余計なものが働き物事の本質を見失う。

 

昔からの「腹八分」「よき塩梅」は「知るの世界観」。

 

塩と梅酢のバランスを知ったから、梅酢を使って料理を味付けして加減を知ろうとした。

 

昔の人は「よき塩梅」の理解をしようとはしていない。

 

 

「知る」は今までに無い意識や情報を得た状態で、「わかる」は今現在わかっているか・わかっていないかの状態を言う。

 

「知る」を大事にすると「知る由もない」を知る。

 

ここが大事なところで。

 

現代は情報過剰になったところで、この世や社会は知る由もないものは数多くある。

 

具体的に。

 

「宇宙」を、人が知る由もない。

 

宇宙はNASAや誰かが作ったものでしかなく自分では知れない。

 

宇宙は存在せず次元が存在するのだが。

 

自分から遠過ぎるものは知る由もない。

 

 

「知る由もない」を知る事で

自分に必要な事を知る

それが知恵に繋がってゆく

 

そして。

「知る由もない」を知る事で

「人はなにも知らず生きるもの」

を知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

バランストレーナー 小関勲さんの「ひも一本でカラダが楽に動き出す!ヒモトレ」が3月6日にリニューアル版として発売されましたので、過去のひもトレ記事を再アップ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いい加減に生きる」

 

 

「適当」

 

「適当」もそう。

 

『冷蔵庫にある物や余り物で“適当”に作る』と言って出来上がる料理は無茶苦茶なものではない。

 

『適当に作る』と言って旨いものを作る人が無責任な人に対して『適当だな』と言う。

 

同じ言葉でも全く別の意味の反転解釈になるのは人為的に反転させたとしか思えない。

 

あまりにも不自然。

 

「行く」が「行かない」にはならない。

「穏やか」が「荒い」にはならない。

 

「適当」も明治時代の“徹底化”で反転解釈を作ったのだと思う。

 

「善い(よい)」+「加減」の「いい加減」がどうして、出鱈目や無茶苦茶の解釈になると言うのだ!

 

「よくない加減」だから「いい加減」にしてくれよ!

 

と言うのならばわかる。

 

出鱈目や無茶苦茶を「いい加減」と言うのは「善い加減」ではない。

 

「いい加減」「適当」が出鱈目や無茶苦茶の解釈化したのは、“よき塩梅”“ほどよく”をさせないように向けたのだろうと察する。

 


 

「徹底」は心構え

「徹底する」とやり過ぎる

 

 

「徹底」と言っても「掃除を徹底的にやる」とか範囲や時間が決められたものであれば徹底は出来る。

 

「徹底」を別の言い換えにすると「しっかり」になる。

 

一般的に『しっかりした人』とよく使われるが、ある一面だけがしっかりとして見えるだけで、全てにおいて「しっかりした人」など存在はしない。

 

『しっかりと勉強をした』と言って試験を受けても100点の人も居れば60点の人も居る。

 

「徹底」「しっかり」はわかりずらい言葉であり、行動に移してもそれぞれとなる...。

 

結局は。

 

「徹底」「しっかり」は。

 

その人の“さじ加減”や“善い加減”に話が戻るのだ。

 

どうして「徹底」や「しっかり」が出来ないのかは。

 

「徹底」と「しっかり」は行動ではなく心構えや気持ちだから。

 

その大間違いの「徹底」と「しっかり」が管理社会や監視社会へと繋がっている。

 

大間違いな「徹底」「しっかり」をしようとするから、今や駅や道や至る所どこにでも監視カメラがあるようになる。

 

そして。

 

「徹底してます」「徹底してやっている」「しっかりやってる」「しっかりしてます」を大きくアプローチすると、“やり過ぎる”“度を超える”“加減を超える”となる。

 

 

 

もう人が

「徹底」「しっかり」の

やり過ぎに麻痺をしてる

 

 

「徹底」「しっかり」はいらない

 

「いい加減」でいい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京 国分寺「どりっぷ」を久しぶりに訪れた。

 

 

店主 川中さんの珈琲の淹れ方を参考、お手本としている。

 

 

「どりっぷ」に初めて来た時。

店内の焙煎機が衝撃的だった。

 

珈琲は少しぐらい豆が悪くても焙煎で旨い珈琲を淹れる事が出来る。

 

珈琲は“焙煎が命”だと思う。

 

 

 

 

 

実家が一時は珈琲に拘りを持った喫茶店を経営していた。

 

喫茶店の裏には珈琲の豆だらけ。学校へ行くと『コーヒー臭い』と言われたほど、喫茶店の上の部屋で過ごすだけで珈琲の豆の匂いが染み付いたものだが、今の珈琲豆はすっかり洗練されてしまった。

 

その珈琲だが。

 

本当に勘違いをしてる人が多い。

 

 

因みにー。今はどうか知らないが。自分が南米放浪をしていた頃と、それとは別でブラジルへ行った1989年・91年の体験では。

 

珈琲の生産地ブラジルで珈琲を楽しもうと思っていると「珈琲ショック」を受ける。

 

ブラジルの良質な珈琲豆の輸出用で金になるので、珈琲農園で働いていても良い珈琲豆は飲めない。

 

ブラジル国内で出回っている珈琲も香りだけが良い味が悪い珈琲を飲む。世界一の珈琲豆の輸出量の国が消費は世界一で無いのが実態を語っている。

 

ブラジルでは一般的にエスプレッソかカフェオレで、エスプレッソは一口サイズのカップに真っ黒な濃縮されたものでブラジル人は砂糖をたっぷりと入れる。

 

日本の珈琲とブラジルの珈琲は全く別物と捉えた方がいい。

 

ペルーやボリビアの飲食店でへ珈琲を頼むとカップとネスカフェとお湯をテーブルにドン!と出されるだけ。

 

 

日本でおかしな喫茶店の珈琲やコンビニ珈琲は論外・評価外のもの。評価が出来るレベルではない。

それを評価する・評価しようとするのはどうしたものかと思う。

 

本物の珈琲は。

“珈琲の花”の匂いがする。

 

ほのかにジャスミンの香りがする。

珈琲の花は短命なので見た事がないのも仕方ないが。
そこが珈琲の基準。

 

5年前だったか。

 

「どりっぷ」店主の川中さんが『豆を輸送する時の管理の仕方が悪くなっている』と言っていたが、珈琲の香りにも影響をしていると思うので、正統珈琲でも“花の匂いがしない珈琲”が多くなったと思う。

 

 

 

 

 

今や街には“花の匂いがしない珈琲だらけ”。

 

「正統珈琲」と「珈琲もどき」はハッキリと分かれているが、“もどき”がなにをやろうが“正統”を超えられないのに街では大きな顔をしている。

珈琲だけの話でなくー。

人自体が“人間もどき”になっているので“もどき”を許している。

 

“もどき”を許さないと自分が“霞む”からだ。

 

今。“本物”“正統”がどんどん霞んでゆくが。

既に人が霞んでいる。

 

外は晴れてるのに雨の中を歩くかのように霞んでいる。

 

オレは正統珈琲しか飲まない。