本来なら、人を育て、自立した一人の社会人として世に送り出す、最も重い責任を持つ崇高な場所こそが、教育現場です。
しかしながら、現実的には、人を育てる場所であるはずなのに、人を殺めてしまうことがあります。大阪市立桜宮高校の生徒(17)が体罰を受けた後に自殺した問題は、おそらく氷山の一角に過ぎないはずです。
あまりに愚劣な蛮行を、一部の教育者が行っているわけです。しかもそれは、今に始まったわけではなく、過去の体罰事件を紐解けば、ずっと野放しになっている現状があります。
そもそも、学校教育とは何なのか、教育とは何を与える場所なのか、きちんと理解及ばない人間を、教育の場に放しているのではないでしょうか。それは、子供たちが人生の師と慕うべき人間ではありません。厳しいことを申し上げれば、ただ教師と言う肩書を持っているだけの、無知蒙昧、あたかも獣のような存在です。
そして、それを、ずっと放置している教育現場に立つ人間たちは何を思い、何を信じて教育の世界に生きているのでしょうか。またそれをたばねる、教育委員会や文部科学省はなぜ、抜本解決を図ろうとしないのか、はなはだ疑問です。
少なくとも、心情として、教育現場で、人が死へ追い込まれる事態が起きたとき、何事もなかったかのように、見て見ぬふりをすることが、健全な教育でしょうか。事後の対応を見るに、皮肉を込めて申し上げますが、それは犯罪にも等しい愚かな事件が起きるのも納得せずにはいられません。
そろそろ日本の公教育は変わる時期にきているではないでしょうか。極端な話、いったんゼロベースにして、教育者としてふさわしい人間を現場に配置させる必要があるのではないでしょうか。そのために望ましい教育制度とは何か模索し、一定の解決策を打ち出す時期は、まさに今なのではないでしょうか。