*プロローグ
早朝、夏も終わりに差し掛かり、涼しくなってきた頃。
今日はなんとなく登校時間が早かったため、珍しくわたしは一番乗りで教室へと入った。真っ先に教室の隅まで行くと窓を開ける。すると涼しい風がすうっと髪を通り抜けて、わたしは目を細めた。
窓枠に両手を乗っけて体制を楽にすると、まだ控えめなセミの声が遠くから聞こえてきたりする。それ以外は、しんと静まり返っていて誰もいない教室にぽつりと一人、どこか優越感のようなものに浸っていた。
たっぷりとそれを堪能した後、自分の机まで向かうと、ギィと椅子の音を教室に響かせながら席へとついた。カバンから教科書を取り出し、机の引き出しへと入れようとしたのだけど――。
あれ……、とそこで違和感を覚える。何かと思えば、中には既に一冊のノートが入っていたのだ。
昨日忘れて帰ったのかな? と疑問を抱きながらもそのノートを取り出して机の上へと置いた。
なんの変哲もないただのノート。少し灰色がかった地味なもので、友達の誰かが使っていた記憶もない。
そして何気なくページをめくり、中を覗き込んだわたしは思わず椅子から飛び退いた。
「う、うわあ――!?」
……ガタン、と椅子が後ろへと仰け反った音はどこか遠く、それよりもわたしはノートから目を離すことができない。
窓から吹き抜ける風のせいで、パタパタとノートのページが勝手にめくられていく。そこからチラチラと覗き込むものは、黒い鉛筆か何かで書かれた歪な絵。塗りつぶしたような、適当に書いたような抽象的なものだったけれど、どことなく人の形に見える。
さらにはページがめくられるごとに、その人の形が動いているように見えて妙に立体的なのが不気味さを際立たせていた。
なんでこんなものが、わたしの机の中に入ってるの!?
いつの間にか風が止んでいて、強制的にめくられていたページがピタリと最後のところで止まり。そこに書かれていた文字に、息がつまりそうになった。
『あなたは、みえるの?』
ぐにゃりと歪んだその文字に、イタズラ以上のものを感じられずにはいられない。
全身にぶわっと鳥肌がたち、それが頭の真まで達したときにはあまりの怖さに机からノートを払いのけていた。
あっけなく床に落ちたノートを凝視しながら、いつか動き出すんじゃないかという疑心に駆られる。悪寒が体中をムカデのように走り回っていて、これ以上この教室に一人でいることを拒んでいた。
いつの間にかわたしの足は勝手に教室の外へと向かっていて、早歩きから小走りに変わり教室から出ようと廊下へ飛び出した時だった。
ふいに、視界の隅に何かが映ったかと思えば次の瞬間、顔面に鈍い痛みが走る。次いで、きゃあ! と言う女の子の声が耳をつんざいた。
「痛ったいなー、もう……」
わたしは打ち付けてジンジンとする鼻を手で抑えながら、改めて前を見るとそこには髪を茶色に染めたポニーテールの女の子がぶっきらぼうな様子でわたしのことを見ていた。
「み、みのり!」
知っている顔を見た途端、体にぶら下がっていた錘がとれたような安堵を覚えて、思わずみのりの小さな体に抱きついてしまう。
「ちょっ! なにしてんのよあんたは! ……ってなにこれ……、背中汗でびちょびちょじゃない!」
「あ、あのねノートが! わたしの机の中に入ってて……、それで中見たら、見ちゃってさぁ!」
慌てて説明するけど、頭の中がごちゃごちゃになっていて支離滅裂な事を言ってしまう。そんなわたしに呆れたように微笑むと、とりあえず落ち着こうと頭をポンポンと叩いてくれた。
そんな彼女の落ち着いた対応に胸をなで下ろしながらも、心臓の音がバクバクと言っている自分にそこで気付いた。
しばらくしてふう、と息をつくとさっきはまったく耳に入ってこなかったセミの声も鮮明に聞こえてくるようになる。
そこまでわたしはあのノートに狼狽していたのかと思うと自分が少し情けなくなった。というか、今となって見ると本当にバカバカしくて少し笑ってしまう。
そんなわたしの様子を見てみのりは冗談めかして指をさした。
「何笑っているの? …………も、もしかして霊に憑かれたとか……!?」
「違うわよ……、いいから。とりあえず一緒に教室きて」
大げさなジェスチャーをつけながらケラケラ笑うみのりの手を引きながら、自分の席へと少し早足で誘導する。
さっきのは夢だったとか、この蒸し暑さのせいで幻覚を見たのだとか言うことはなく、"それ"はまだ無造作に床の上に落ちていた。
なんのことはなく、ひょいとそれを手で拾うとみのりへと見せつけた。
「ほら! このノート、見てよ……。なんか気持ち悪いでしょ? ギッシリ全部のページに変なラクガキされてるし」
「…………」
「みのり? ほら、このなんか人形見たいなのさ、ページをめくるとパラパラ漫画見たいになって…………」
わたしが思ったよりみのりの反応は薄かった。無言のままノートを見つめていて、心なしか少し顔色が悪い。
顔を覗き込むと、罰の悪そうな顔をしてぽつりと呟いた。
「み、見えない……」
「……え?」
「私には何も見えないわよ? ………………あっ、もしかして麻子あんた私をからかおうとしたんでしょ!」
「い、いやいや! え? 何言ってるの!?」
みのりの言っている意味がよくわからなかった。彼女が冗談を言っているようにも見えないし、自分がおかしいのかと思わずノートにもう一度目を移すが、やはりその奇妙な物体は白いページを支配していて……。
そこで、わたしは最後のページに書かれていた文章を思い出してゾっとする。そんなわたしの思いを知ってか知らずかみのりは、机からノートをぶんどったかと思うと、窓の外めがけて放り投げた。
「も、もうこんなノート捨てちゃえ!」
「ああ! なにしてるの!!」
「いいのいいの! どうせあんなノート使ってる人なんてろくな奴じゃなさそうだし。――それよりも! 宿題写させて!」
どこかみのりの態度に不審を抱きながらも、済んだことだしまあいいか。と思い直すと丁重に宿題を写させるのはお断りした。