2024年7月22日
7月20日(土)のNHKニュースの水死事故の報道で「原因は「溺水」と見られる。」という表現があった。
これは「馬から落ちて落馬する」「山に登って登山する」とちょっとは違うが、それ並みのムダな二重の表現ではなかろうか。
「溺」にサンズイがあるように「溺」は「水」によって起こるのであってほかには考えられない。
「溺死」といえばそれで十分なのであって、原因に言及するとすれば、酩酊して泳いだためとか、深みにはまったためとか、更なる詳細に踏み込むべきなのである。
「溺愛」「○○に耽溺」の類は、「水」によって起こる「溺」を譬えに使っているもので、本来の「溺」の意味に影響を与えるものではない。
「溺水」は、無意味な、たぶん和製漢語である。
このようなナンセンスな言葉づかいを、なぜNHKがしたのか?
当然のことながら、筆者が調べた辞書に「溺水」なる言葉は掲げられていない。国語の世界としてまことに結構なことである。
しかし、驚いたことに、パソコンで検索してみると、「溺水」は堂々と登場していたのである。
警察、海上保安庁、また救急医学の世界で「溺水」なる単語が普通に使われている様子である。
これら専門的分野での使用がNHKに漏れ出してきたというのが今回だったということのようだ。
「言霊の幸(さきは)う国」の公共的放送機関として、日本語への責任感を維持確保してもらいたいNHKが、その責任を果たせなかった事例として筆者は今回の事態を受けとめざるをえない。
なお、かねてより筆者は、自衛隊、警察、消防の世界の用語において、無理やりの漢語化を感じていた。その源は帝国陸海軍にさかのぼるものでもあろう。今回の「溺水」登場のA級戦犯もたぶんこの流れにちがいないと推測している。(残念ながら「溺水」の初出を発見できていない。)
それまでの日本には存在していなかった新しい事物、また概念を導入するのに、新しい表現を見つけ出してくるということには、必然性があり、頭から否定すべきものとは考えられない。
明治の西洋化の過程での漢語の導入、転用、作出、また今日に至るまでのカタカナ外来語の導入等も、そのような意義を有すると考えられる。
しかし、一方でこのような新しい言葉の採用は、中央政府による国民支配の手段として機能してきたという側面(文化文明のお上からのお下げ渡し)があることが考えられなければならない。
そして、我が国のインテリゲンチャが、この新しい表現、新しい言葉の採用、普及、更に氾濫の中で、彼らの優越的地位を確保してきた(インテリゲンチャの反人民的性格)ということも考えられなければならない。
さらにITの世界の拡大という状況の中で、インテリゲンチャの急激な地殻変動が起きていることも考えられなければならない。
政治は「溺水」的言葉によって統治的観点から国民支配を続けて行こうとするのか?
その道は国民を愚民視するもので、国民の愚民化をもたらす道でもある。
(「コンプライアンス」という言葉を消化できないために発生している悲劇的事件が頻発していることが想起される。)
国民に自らの言語の創出能力を育ててこそ、「言霊の幸(さきは)う国」としての新たな発展の可能性が生まれるのではなかろうか。
光輝あるナショナリストの諸君、奮励努力されたい!