2025年8月21日
文学者は、世間、世の中、世界に対する自分の立ち位置、姿勢、態度を選びとり、その上に立って文学活動を展開する。(エンタテイメントを提供する単なるストーリー・テラーと文学者の分かれ目がここにある。)
ある場合にはそれが自覚され、言葉となって、表わされるが、多くの場合にはそれは曰く言い難く、読者が作品全体から感じ取ることとなる。
言葉となっている典型的な事例として、永井荷風の場合の「無用の者」がある。
江戸戯作者たちから寺門静軒、成島柳北を経て荷風に至るものであり、高い知的教養を誇りながら、世に受け入れられない絶望の表現が「無用の者」であった。
本ブログでたびたび取り上げている小説家・武田泰淳(1912~1976)の場合、それは「恥かしさ」という言葉になると言えるだろう。
泰淳は、その作品のみならず、日常的な挙措においても、そのような態度を周囲に感じさせる人であった。
筆者はその代表作と言える「司馬遷」の再読において、泰淳の「恥かしさ」の原因として従来考えられている諸要素に、付け加えるべき重要な一点を見出したような気がしている。
考証的に妥当とされるか否かは心許ないが、それを報告しておくこととしたい。
泰淳には、小説家である以外に、僧侶として大寺の住職となる可能性のあった人間、非合法社会主義運動の末端運動員としての経験者、従来の支那学、漢学に反発して現代中国文学の研究の必要を説く反主流の中国文学者、という側面があった。
泰淳の「恥かしさ」の原因として従来考えられていたのは、これらの側面が泰淳にもたらしたものであった。
すなわち、自分のことはさておいて人の道を説くという僧職という仕事がもたらす「恥かしさ」、相対的に経済的に恵まれた環境に育ちながら非合法社会主義運動に参加して、他の本格的活動家たちの決死的活動との落差を感じさせられてしまう「恥かしさ」、現代中国を最も理解している立場と自負し、中国近代化に立ち上がる中国の革命的青年たちを知りながら、結局は一兵卒として中国戦線に赴き、帝国主義日本の侵略に加担せざるを得なかったことによる「恥かしさ」、さらに過酷な条件のもとで必死に生きる人々、とりわけ条件の苛酷な女性たちにひきくらべての自分の生き方のいい加減さが迫ってくる「恥かしさ」、これらが泰淳の作品群から彼の「恥かしさ」として通常読み取れるものである。
さて、泰淳の「司馬遷」は彼の事実上のデビュー作で、昭和18年、泰淳31才の時、出版された。(すでに僧職は放棄され、非合法社会主義運動からは離脱し、中国出征から帰国していた。)(司馬遷は前2世紀後半から前1世紀前半の漢の歴史家であり、中国の「正史」のはじめとされる「史記」130巻を完成させた人である。)
その第一篇「司馬遷伝」冒頭は次のようなものである。
「 司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながらえるはずのない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、情けなや、進退谷(きわ)まった、と知りながら、おめおめと生きていた。腐刑と言い宮刑と言う(注:当時の死刑に次ぐ重刑。男子は生殖機能を取り去られる。)耳にするだにけがらわしい、性格まで変るとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く「史記」を書いていた。「史記」を書くのは恥かしさを消すためではあるが、書くにつれかえって恥ずかしさは増していたと思われる。」
まずはこの書きぶりに現われている司馬遷の心情への泰淳の同調に注目せざるを得なかろう。
そして第二篇「「史記」の世界構想」中には次の文章がある。
「 司馬遷は自己の不遇を嘆じ、天道非なりと見た。伯夷、叔斉(注:周の武王を諫めたが聞き入れられず山中に餓死した殷の兄弟)と共に、最初から、否定的な気がまえである。天道は闇であり、現実は黒々としている。「天道、是か否か」。疑いも、これをもってきわまれり、といえよう。「天道、是か否か」。天道すら信じられないならば、人は何を信じたら良いのか?司馬遷は何を信じたら良いのか?自分である。自分の歴史である。「史記」である。天すら棄てたもの、天のあらわさなかったもの。それらの人物をとりあげ、あらわすのは、我司馬遷である。我を信ぜよ。我が歴史を信ぜよ。極端な絶望の淵に沈みながら、もりあがってくる自信力で、「伯夷列伝」(注:「史記」は大きく「本紀」「世家」「列伝」に分かれ、「伯夷列伝」は「列伝」の冒頭に置かれている。)は私達をおどろかすのである。伯夷の絶対否定が、かえって司馬遷の勇気を増すのである。「こころに欝結するところあって、その道を通ずることが出来ず、往事をのべて来者を思うのである」(「太史公(注:司馬遷のこと)自序」)自ら、読者のために「天道」をつくる。自ら「天道」となって、歴史を照明する、不敵な決意である。私は司馬遷が、ことに伯夷を尊んだとは考えない。しかし伯夷の境地を自らに擬し、伯夷の決意に劣らざる決意をかためていたと考える。」
「司馬遷がことに伝(注:「屈原賈生列伝」)をもうけたのは、屈原が「憂愁幽思して離騒(注:屈原作の長編叙事詩)を作った」からである。憂愁幽思、心憂え物思う、ただそのためであった。歴史的事実として見れば、まことにはかない事実である。一つの心理、一つの影にすぎない。しかし司馬遷は、ここに「文学」を認めた。「憂愁幽思」は志の深さを言う。志の深さは、得難いのである。「文学」とは得難いものと、司馬遷は見たのである。
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離騒は屈原が窮して、天を呼び、父母を求めたものである。本に返り、根源に下った。それが離騒である。疲れ果てて、世を怨み、己の「文学」をのべたものである。その「文学」をのべる方法は何であるか?司馬遷によれば、それは歴史である。「離騒」においては、上は五帝王から、中ほどは殷の湯王、周の武王の事ども、下は斉の桓公まで、歴史のあとをのべ「世事を刺(そし)り、道徳の広大崇高、治乱の聯関継起を明らかにする」ことであった。これは、屈原的方法であり、また司馬遷的方法でもあった。世事を批判すること、道徳倫理の大きなすがたをのべること、治乱興亡の複雑なつながり具合を明らかにすること、これは司馬遷が「史記」においてまたなした事であった。それ故、わが身の文学にひきくらべ、司馬遷が離騒を重んじたのは、けだし当然であろう。」
ここにおいて司馬遷の心として述べられていることは泰淳の心でもあると読み取れる。
より言ってしまえば、司馬遷の心か否かは確かではない。にもかかわらず、強く断定的に文章になっているのは、それが泰淳の心だからだ。
すなわち、泰淳は、「天すら棄てたもの、天のあらわさなかったもの。それらの人物をとりあげ、あらわすのは、我である。我を信ぜよ。」「自ら、読者のために「天道」をつくる。自ら「天道」となって、歴史を照明する」「伯夷の境地を自らに擬し、伯夷の決意に劣らざる決意をかためて」いる、「世事を批判すること、道徳倫理の大きなすがたをのべること、治乱興亡の複雑なつながり具合を明らかにする」という「屈原的方法また司馬遷的方法」で自分もまた行く、「歴史的事実として見れば、まことにはかない事実である。一つの心理、一つの影にすぎない」それは承知の上で、と司馬遷の名を借りながら、自分のこれからの文学をここで宣言しているのである。ここで宣言してしまったのである。
何事にも「恥ずかしい」「恥ずかしい」という態度だった泰淳がここにおいて、まったく無名の新人でしかなかったにもかかわらず、大胆にも、歴史上の大人物司馬遷、あるいは大詩人屈原となって、世間、世の中、世界を相手にして一勝負することを宣言してしまったのである。
この泰淳の「大見得」を泰淳の周辺が、そして多くの読者が気づかないはずはないことに泰淳は気づかないではいられない。
泰淳がそれを「恥ずかしい」と考えなかったはずがない。
そして泰淳は「恥ずかしい」との思いを抱きつつ、その宣言に忠実に、作家活動を続けたのだ。
「泰淳=怪物」という評は至当であった。