2025年8月17日
(朝日新聞俳壇歌壇が休みのため、番外(印象句、印象歌・8月第4週)は休みます。)
(1)
同じ人類同士であるにもかかわらず、人類は悲惨な殺し合いをしてしまう動物である。
他の動物はどうであろうか?
平常時には殺し合いはしないものの、犬も飢えた場合には殺し合うのではないだろうか?
むれ単位で殺し合ったり、個体対個体で殺し合ったりするのではないだろうか?
直接殺し合わなくても、えさ場を奪って間接的に相手を死に追いやるのではないだろうか?
これを考えると哺乳類にとどまらず、鳥類も爬虫類も、動物一般に生存の危機の場合の仲間同士の殺し合いはあると考えられる。
さてしかし、人間以外の動物の場合は飢えという絶対的な生存の危機が殺し合いの契機となるのに対して、人間はそうではない場合にも何らかの理由によって殺し合う。
そこに人間と他の動物との大きな違いがある。
この違いの発生の原因は、いったい人間のどんな性格によるものなのであろうか?
それは人間における「生存危機概念の肥大化」と「知能の過剰・暴走とその不十分性」だと考えられる。
「生存危機概念の肥大化」とは、人間の欲望の無限→文明・生産力の発展→生活内容の高度化→「生活内容維持=生存」という誤認、という連鎖で生じる、生活水準維持の困難を生存の危機のように捉える現象のことである。
「知能の過剰・暴走」とは、人間は高い知能によって時間場所が離れた事象から間接的な生存危機を推測することができるところから、過度の警戒心・恐怖心によって無用の危機を夢想してしまうことである。
「知能の不十分性」とは、人間の高い知能は残念ながら中途半端な水準にとどまっていて、過度の警戒心・恐怖心によって夢想してしまう危機について、その発生確率の正確な把握と対応のシミュレーションを十分に行うことができないことである。
このため、冷静な判断を下すことができない結果の過剰反応として、戦争に踏み切ってしまうのである。
以上からすれば、「生存危機概念の肥大化」と「知能の過剰・暴走とその不十分性」を自覚し、それを合理的に抑制すれば、無用の殺し合いを抑止することができるはずだ。
この「生存危機概念の肥大化」と「知能の過剰・暴走とその不十分性」の克服のためにAIを活用することも考えられるはずだ。(若手研究者のチャレンジに期待したい。)
(2)
戦争を引き起こす原因として上げられるナショナリズムの無根拠性がしばしば指摘される。
ナショナリズムを合理的に説明することの困難性も指摘される。
ナショナリズムの無根拠性、合理的説明の困難性は、ナショナリズムが実は「生存危機概念の肥大化」と「知能の過剰・暴走」がもたらす幻想を共有する集団に形成される、まぼろしの一体化意識でしかないことに基づくのではないだろうか?
ナショナリズムとはもっともらしい体裁(それが神話というもの)で取り繕った、御都合主義的に束ねられた、ナンセンスな基礎の上に立つ集団エゴイズムでしかないのではないだろうか?
だからこそ、ナショナリズムの本質を探ろうと、その皮をいくらむいても、出てくるのは集団エゴイズムでしかないということになるのだ。
ナショナリズムの本質の理解のためには、日本の戦国時代の大名の領地内で形成される、「農民」も巻き込んだ、神話なき一体化意識を想起してみるとよい。
類似のものに指定暴力団の「シマ」で形成される「カタギ」も巻き込んだ一体化意識もある。
特殊歴史的現象であり、発生の経緯論、状況論があってノスタルジックではあっても(物語となって人の心を揺るがすものではあっても)、そこに正当性(正義)も正統性(由緒の正しさ)もへったくれもないのである。(若手研究者による文化人類学的な厳密な研究を期待したい。)
以上のようなものであるナショナリズムは、いずれ克服され、昇華されることになると展望される。