ブルース・リーの伝記をブログの話題にしたあと、パラパラと久しぶりに読み直してみて、やっぱりちょっと感慨深かったためか、今度はジャッキー・チェンの伝記が読みたくなった。


すぐに思いついたのは、アメリカのランダムハウスから1998年に出版された『I AM JACKIE CHAN』by Jackie Chan & Jeff Yang。


日本では翌1999年に翻訳が近代映画社から出版された。


私はこの当時、なにかと忙しい時期にあたっていて、この本が本屋さんに並んでいるのを見ながら、いつか買おうと思いつつも、時期を逸してしまったのでした。


そして早15年! うわ、早っ。


amazonで中古で出品されていた本書を手に入れることができました。

プレミアついてて定価の倍近くしたけれど、いいんだいいんだ。これが大人買いというやつだ(違うかな?)と自分を納得させて買って、そして届き次第、パラパラとめくっていたら、急に子どもの頃のジャッキー熱が蘇り、一気に読みましたよ。


ホントにマジで朝まで読み続けました。558ページもある本だったのに!




画像はamazonさんより拝借



15年前のジャッキー自伝。


ジャッキー・チェン=成龍=Jackie Chan

当時も今も香港映画界のスーパースターでハリウッドスター。


この本が出た頃は、ちょうどジャッキーは45歳。

本書プロローグは、ジャッキーが自分の言葉で、ロッテルダムのビルの屋上近くから階下へ駆け下りるスタントを回想するところからはじまる。


16階から飛び降りるという危険なスタントを前に、16階から飛び降りるのでは当たり前過ぎる、さらに五階上から飛び降りようと決意する我らがジャッキー。


そのときの本書のト書きは、こんな感じ。


「ということは45歳の老体が、さらに60フィート余分に薄い空気の中をおちていかなければならないということだ。」






うんうん。45歳と言えばアクションやるには老体ですよ。

そりゃあ今まで幾度となく危険なスタントを見せてくれたジャッキーだけど、今回のスタントは勝手が違う。それは彼が45歳という年齢に達していたからに他ならないわけです。



「僕は疲れている。

 僕の心臓は石でも乗せられたように重い。

 僕の体は、過去40年間濫用し続けた僕に抗議している。


  (中略)


 そんな中で僕は自問する。

 『このジャンプをする必要があるのか?』と。

 答えはすぐに返ってくる。

 「イエス」と。」








以上、画像は映画『WHO AM I』より


そうそう。ジャッキーと言えば自らが危険なスタントをやることが真骨頂。

この映画でも、なにか見所を作りたいと思ったらしいんだな。

三度目のハリウッド進出を三度目の正直にするために。。。


冒頭部分からこんなかんじの一人称の語りで始まる自伝。

とっても引き込まれますよね。


本書の流れを整理しますと、500ページ超なのに章構成はシンプルに四つ。

第一章からは幼い頃の記憶から書かれている。とくに離ればなれになった両親への思いと、京劇学校での過酷な特訓に耐える少年たち(つまり、ジャッキーはじめユン・ピョウとか、サモ・ハンたちね)の交流が胸を打つ。

ここらあたりのことが、『七小福』という映画になってますよね。日本ではDVD化されてないけれど。


第二章がスタントマン時代を描く。デブになりすぎて早めに京劇学校を退団したサモ・ハンがいち早く映画界でそれなりの地位を得て、ジャッキーやユン・ピョウに仕事を回しているあたりの事情もわかる。

少年時代に相当いじめられたので、サモのことが大嫌いなジャッキーの、サモに対する愛憎まじった気持ちの告白は、仲良しだと思ってた私にはちょっとびっくりだった。


第三章はロー・ウェイ影業公司で主役級でデビューしてからの苦労。

このあたりは、芸能ジャーナリズム経由でロー・ウェイ監督(社長でもある)との不仲があったことは、知っていたけれど、ここまでローに対するジャッキーの恨みが深いとは驚いた。


第四章はゴールデン・ハーベスト時代そしてハリウッドへの三度の挑戦が描かれます。

一番、夢のある章ですね。テレサ・テンとの淡いロマンスも本人が亡くなっているのをいいことにチラッと公開。


さて、この本、出た時期から言っても映画題名の呼びかけ「Who am I(私は誰?)」が、書籍名「I am Jackie Chan(僕はジャッキー・チェン)」と答える形になっています。


なんかこの本が出た当時もそう思った記憶があるけれど、すっかり忘れていて、これ書いていて「あ、そっか」と今ごろ再確認したよ。


この本については、ブルース・リーの伝記とはまた違う感慨を持ちました。


おそらく実際の執筆はジェフ・ヤンという共著者(中国系アメリカ人。プロフィールには書いてないけれど広東語がわかるんだろうね)がペンをとっているにせよ、ジャッキー・ファン歴が長い私の目から見ても、一つ一つのエピソードは本人でないと語れないものばかり(と、私が感じるものばかり!)。


ちゃんとジャッキーが逐一自分語りしたものを、一つ一つすくいとって本にしたことがわかるのです。


あるいは、忙しいジャッキーのこと、ロー・ウェイ時代から苦楽をともにしてきた敏腕マネージャーであるウィリー・チェンが語ったという部分もあるかもしれない。


でも、どっちにしたって香港映画史を語る上で、本当に貴重な情報ばかり。

サモ・ハンがスタントマンとしてのキャリアを積んだのは、ブルース・リー映画のBIG BOSS役であるハン・インチェであることは、巨匠キン・フーの伝記本で知っていたけれど、こっちの本では、サモ・ハンが映画界に入りたてでジャッキーらにスタントの口を斡旋するシーンなんかもあって、キン・フー映画にジャッキーやユン・ピョウがエキストラというかスタント出演していたこととがキッチリつながった。


大人になった今頃になって読むと、さらに一層の香港映画史に関する興味と知識を持ってきている私にとって、この本は宝箱のような情報ばかりでありました。

きっと15年前に読んでもここまで発見はなかったな。


さて、前置きはさておき本題へ。


子どものときからジャッキー映画のほとんどを映画館で見てきた私・龍虎。


この本を読んでから、見たくて見たくてたまらなくなったジャッキー映画がいくつかありました。


その一つが、映画館で唯一見逃していたジャッキー映画『成龍拳(原題:剣・花・煙雨江南)』です。


なぜか。


実はこの作品。拳シリーズ(と、日本で勝手に読んでいるだけ)の中では最も日本公開が遅れ、なんどか配給会社である東映のラインナップに予定される(確か1983年公開の「カンニングモンキー天中拳」のパンフには近日公開とあったような覚えがあります)も、延期されるなどして、公開されたのは1984年末近く。


あのヒット作「プロジェクトA」も1984年日本公開なんだけど、こっちは春。

成龍拳は大ヒットした作品のあとにひっそりと秋頃の公開になったんです。

しかも、邦題がねぇ。成龍拳なんて、あるはずないじゃんってな子どもなりの「ファンをバカにするな」って心境があったと思う。

東映には世話になっていたんだけどね。


で、なんで大ファンなのに、見なかったかというと、決定的な理由が一つある。


その頃、日本のファン(といっても私はお子様ファンでしたが)の間でも、ジャッキーがロー・ウェイと契約問題でももめていたことは知られていて、ゴールデン・ハーベストに無事に完全移籍して作品を発表するようになったジャッキーが、ロー・ウェイ時代の作品を嫌っていることも知られるようになってきてたんですな。


で、配給しにくかった理由も、ジャッキー映画にしては「暗い」「つまらない」「残酷」ということもあったらしかったのですが、ファンはそんな情報まですでに日野康一さん経由で入ってくる情報で知っていたんですよ。


だから見なかったわけ。きっとそんなファンは多い作品だと思う。


ほんと、この作品と『新・クレージーモンキー大笑拳(ファンには「醒拳」という名前で知られていた)』だけですよ。見なかったのは。


醒拳はジャッキーの替え玉を使ってロー・ウェイが無理矢理作った怪作だから見なくて当然なのですが、成龍拳までそんな映画と一緒の扱いというのは、ファンとしてはちょっと冷たかったかな?


でも、ジャッキー自身が嫌いな映画と言っているんだもの。無理もないでしょう?


で、『僕はジャッキー・チェン』にもこんなふうに「成龍拳」についてジャッキーによるこっぴどい言葉が書いてある。



「混乱したメロドラマで(中略)プロットは馬鹿馬鹿しいくらい複雑で、映画の真ん中くらいから、僕には筋がまったくわからなくなっていたにもかかわらず、ローは、できるだけ悲劇的な暗い表情をするようにと主張した。」

(『僕はジャッキー・チェン』335頁より)

「この映画を作るのは楽しくなかった。この映画は見ても余り楽しくない」

(『僕はジャッキー・チェン』548頁より)


これらジャッキー自身のお言葉です。


こう書かれちゃうともう見なくていいか、となるところだけれど、私が目を見張ったのは、548頁にあった映画のクレジットの中に、


ライター:クー・ロン


という表記。


え? これって古龍? あの武侠小説の大家の!

脚本が古龍なの!





これを見つけてからさー大変。

次に、主演女優の欄には、


キャスト:チョイ・フォン(別名スー・フェン)


という表記も発見。


え? これってシュー・フォン(徐楓)のこと? あのキン・フー映画の常連の!


ちなみに徐楓のピンインは、Xu Feng、または、Hsu Feng。

カタカナにするなら、楓の部分は本来はフォンと読むのが本来の発音に近い。

しかしながら、中国語翻訳者ではなく、英語の翻訳者だったから、ピンインをそのままローマ字読みでスー・フェンと翻訳して表記したんだろうね。


いやはや、徐楓、古龍、どちらもお子様の私にはその価値がわからなかったのだけれど、大人になるまでに数々の武侠小説の映画化作品を見てきてる。

今なら、古龍が金庸に匹敵する大家なのは知ってる。

そして、キン・フーの古典的名作も見たあとだったから、シー・フォンには興味を引かれる。




香港ポスター。原題は『剣・花・煙雨江南』で古龍の小説題名そのまま


それでそれで、見ることになったわけですよ。ウン10年のときを超え、いまや1000円で買えるようになったDVDをその他のジャッキー作品とまとめて大人買いしてね。




日本公開時ポスター。嘘八百なコピーが並んでます(笑)


結果、観てどうだったか。


なんというか、ジャッキーが言うほど悪い作品ではない。

というか、もしかしたら一筋縄でない復讐劇と愛憎劇が面白い作品かも。


シュー・フォンの演技は相変わらず味わいがあるし。

試しにスクリーンショットから、徐楓の姐さんの勇姿をどぞ。









なんていうか、この女性のまなざしには、どんな映画も強烈な悲壮感が漂っている。

この映画での役どころは、成龍演じるシャオレイの両親を、親の仇と憎む徐楓演じるツァンヤンが、復讐を果たしたのち、敵の息子であるはずのシャオレイを愛してしまうという、難しい役どころ。


5歳のときから親の敵を憎み、自分の頬につけられた刀傷によって人生が台無しになったと信じて、仇討ちだけを誓って生きてきたという、ものすごい屈折している女性なわけですが、なんというかこの徐楓が演じると、妙に説得力があるというか。

この奇想天外な物語を、この女優ひとりのパワーで納得できるものにしているって気がしてくるわけ。


ま、ジャッキー曰く「プロットは馬鹿馬鹿しいくらい複雑」ってことなんだけれど、そうでもないと思えるのね。


これって、やっぱシュー・フォンの魅力ゆえなのかしらね。


映画本編では、ジャッキーの名前「成龍」よりも前に「徐楓」の名前がある。


言うまでもなく、この頃はジャッキーは無名であり、一方の徐楓はキン・フー作品の常連ということで、「武侠影后」とも呼ばれていた人。

成龍拳の予告編でも武侠影后・徐楓と紹介されていました。




だから、この名前が成龍の前にくるのはわかるんだよね。


私、正直言って、未成年の頃にキン・フーの山中傳奇を観たときは、この徐楓という女優に魅力を感じなかった。

いまでも彼女のことを決して美しいとは思えないんだけれど、画面から伝わってくる気迫のようなものは、わかるようになった。


キン・フーが彼女のことを自分の映画のイメージにぴったりの女優と言った理由もなんとなくわかるわけ。


というわけで、成龍よりも徐楓を観たという感じの「成龍拳」でした。


あ、ラストのアクションシーンのロケ地である韓国の世界遺産でもある古刹・仏国寺では、仏像やら稜やらで大暴れしている成龍と申一龍が、遺産破壊行為寸前までやってくれてます。これ、韓国政府はよく許可したなぁ。まぁワイロを役人にあげたら、何でもありだったんだってね、この頃の韓国は(『キン・フー武侠伝影作法』からの情報)。

(撮影当時は世界遺産じゃないけれどさ)


そうそう、豆知識だけど、この映画の音楽をフランキー・チェン(陳勲奇)が入れてたよ。

音楽だけでなく、俳優・監督・武術指導までマルチな才人だけど、そのキャリアの初期にこんな仕事もしていたのね。すごいわ。




ブルース・リー没後10年のときのうっすらとした思い出のことを先日書いた(リターン・オブ・ザ・ドラゴンとは
)ので、今回はブルース・リー没後20年のときのことを書きます。



没後20年の年は、1993年。



日本ではブルースのあとに、ジャッキー・チェンがプロジェクトA(1984)で爆発的人気に。



香港からは、霊幻道士(1985)でキョンシーが流入し、チャイニーズ・ゴースト・ストーリー(1987)のヒットでジョイ・ウォンをはじめ中国・台湾女優にそれなりのファンがついた。



男たちの挽歌(1987)で香港ノワールという合言葉も定着。



欲望の翼(1992)ではウォン・カーウァイ監督という不可思議な映画を撮る人がひそかに話題に。



同じ頃、香港ニュー・ウェーブ監督の作品もぞくぞくとビデオ化。



もはや香港映画=武術ではなくなっていた90年代初め。


そして、かくいう私・龍虎も香港から流れ着いた映画のエッセンスを残らず浴びて、大人になりつつありました。



以上、( )内は日本での公開年。



今更、ブルース・リーでもなかろう。


そんな気持ち、だったんだけど!




20年目の節目の年、ブルース・リーを再認識することになる書物との出会いがあったのです。



それが、リンダ・リー著『ブルース・リー・ストーリー』(1993、キネマ旬報社)。



言わずと知れたブルース・リー夫人リンダ・リー・キャドウェルさんによるブルース伝記本の決定版です。








もちろん、ブルース・リー・ファンクラブ(日本支部)にまで入っていた私。



ブルースに関して書かれている書物は子どもの頃から飽きるほど読みあさってきた。



例えば日野康一さんの本はほとんど読んでいるのではなかろうか。


いま思うと、日野康一さんは英文経由だけでない、中国語文献からも情報を仕入れて、かなり信頼すべき俳優史を書いていた。


ジャッキーに関する知識もこの人経由で仕入れたものだ。









   日野康一さんの著書(画像はamazonさんより拝借)



筒井道隆のお父さんであるキックボクサー風間健さんによる怪しい(生前のブルースと交流があったという話はこの本で本人が書いた以外にみたことがない)ジークンドー解説本も買って読んだ。






   (画像はamazonさんより拝借)



日本語、英文の活字情報は、手に入る限り読んでいた思う。



しかし、そうした第三者による伝記書の類と、本書ブルース・リー・ストーリーは決定的に異なる。



それはブルース本人に最も近しい妻による直々の書だったという点である。


聞きかじりや取材情報ではない、すべて自分が接してきたブルースその人のありままの姿が書かれていた本であった。



かつて子どもの頃、あまたの伝記本に描かれるブルース像にいまいち納得していなかった私は、日本で翻訳される前から本書の原著の存在は知っていたものの購入の機会はなかったが、翻訳書が出るなり発売日に飛びついた。



そして、その日のうちに読み始め、夢中で次の日の朝まで読んだと思う。



心に残っているのは、walk on という言葉を若かりし日のブルースが座右の銘にしていた逸話。







  (画像はブルース・リー財団サイトより)



リンダはグリーン・ホーネット以後に次の仕事を得るのに苦労していた若かりし日のブルースが、この言葉を自分の名刺の裏に書き記してデスクの上に置いているのを見ていた。



「歩き続けよ」あるいはもっと簡単に「頑張れ」といった感じのたわいのない言葉だが、香港映画で大成功したブルースの超然とした感じではなく、白人社会のハリウッドでは日の目を見ずに、くすぶっていたときに、それに負けまいとしていた時期のブルースのありようが、いつも一緒だった妻の思い出話として出てくるから意味がある。



この言葉自体は、ブルースが残した言葉として死語まもなくからよく知られていたのだけれど、人間らしさをともなった逸話とともに出てきたのは初めてだったし、青春まっさかりで何かと挫折しがちな頃の私にとって、なにかこうしみじみと心に響くものがあったわけです。



ブルースがありあまる活力を持っていたことも、同書はうまく伝えています。


誰もが期待した死の真相については触れなかったけれど、それでよかった。


リンダがこの本を執筆した時期は既にブルースの死語15年以上経っていた時期だし、再婚もするかしないかって時期で、自分なりにブルースのことが過去の思い出として昇華された頃だったように思う。


これだけの年月が経ったから冷静にかつての夫、偉大な夫について客観的に書けたと思うわけ。



この本がもとになってリンダも関わる形で1993年の没後20年メモリアルイヤーには映画も完成。



それが、『ドラゴン ブルース・リー物語』



この映画の脚本にはいろいろ言いたいことはあるが、それは言うまい。


まぁ、主演のジェイソン・スコット・リーは熱演だったもの。







それに、この映画があることもあって、テレビではブルース特集も組まれたし、ハリウッド映画がこれを作ったということで、ウォーク・オブ・フェイムにブルースの名が刻まれ、さらに名声も高まったと思う。



かえすがえすも残念なのは、息子のブランドンがこの映画の公開前に映画撮影中の事故で亡くなったこと。



リンダさんにとっては、よいことも悪いことも一気に訪れた時期が、この頃だったわけですね。



というわけで、私の1993年は、ふたたびブルースにどっぷりとはまり、バイトで稼いだお金でVHSでブルース映画を買い揃えた。



人生に真剣に取り組みはじめた時期と重なっていたので、この本は私にとって座右の書になっているんだよね。



没後20年なのに、これだけの影響を世界に及ぼす男ってスゲェ!



さて、次は30周年だねぇ。いつか書きます。

この十年、日本映画の韓国リメイクや、日本の漫画・小説の韓国での映画化がひとつの流れになっていたが、最近はその逆も登場した。


カン・ドンウォン主演『超能力者』の日本でのリメイク映画『MONSTERZ』がそれ。





超能力者については、本ブログでもカン・ドンウォン&コ・ス主演『超能力者』 で紹介。

ハリウッドでのリメイクも決まり、脚本そのものも面白いのだけれど、この映画のためにガリガリに痩せたというカン・ドンウォンの迫真の演技も最大の魅力だった。


で、日本でもリメイクされるにあたり、韓国でも主演作『デスノート』が人気のある藤原竜也主演で映画化され、このほど今月末から本邦公開。


監督はデスノートのスピンオフ作品『L change the WorLd』の監督だった中田秀夫。

この映画はデスノートのファンにはちょっとどうよ!って出来だったが、中田監督自体は『リング』シリーズなどで韓国でも知名度が高い。


韓国語版『超能力者』の原案で監督のキム・ミンソクが、このキャストと監督なら、ということでOKしたという報道もあった。



韓国オリジナル超能力者のドンウォン


日本版MONSTERZの藤原竜也

眼力ではドンウォンに叶わない感じですかね



それで、超能力者の最大のライバルとなる超能力の効かない天然男を演じるのは、テレビにはほとんど出ないで邦画界をしょってたつ山田孝之。



韓国オリジナル超能力者のコ・ス


日本版MONSTERZの山田孝之

ウシジマの風貌のイメージが定着しかけたところでイイヒトの役


藤原竜也の起用はなんといってもデスノートをはじめとする主演映画での知名度ゆえだろう。

山田孝之の起用も昨今の活躍を思うと納得できる。


問題は演出的にどうなるか、ということ。


これまで一般的だった日本映画の韓国リメイク映画の場合、日本よりも韓国映画のほうが残酷描写が増えるという傾向があったと思う。

はっきりいえば、見ている人をあおるようなエゲツナイ描写が増える。


『容疑者Xの献身』から『容疑者X』しかり、日本版がテレビドラマだったから一概には言えないけれどテレビドラマだけど『火車』、『凍える刃』の韓国版も残酷度が増していた(もちろん日本の原作小説には直接的な残酷描写はない)。


人物設定なども単純化され、韓国のほうが観客に感情移入しやすくなる傾向もあると思う。

これなどは、テレビドラマに顕著で、『ハケンの品格』から『職場の神』なんかでは、篠原涼子の我が道を行くキャラではなくて、キム・ヘスの正義感丸出しのキャラに変更されている。




ハケンの品格のポスター(孤高のイメージ)




職場の神のポスター(組合闘志のイメージ)


主人公である大前春子の「それが何か?」のセリフの意味がまったく変わっちゃっている感じだけど、たぶん韓国人にとって篠原=大前の孤高のイメージは共感しにくいのかも。

たしかに、単なる自分勝手な人にうつってしまったら全く意味がないキャラになっちゃう。


で、キム=大前(ミス・キム)はジャンヌ・ダルクのポーズで若手社員を引っ張る存在に。


日本人には、他の社員のことはメモくれず5時即帰社の大前春子がツボだったわけですがね。


さて、話はもどって、MONSTERZ。

私もまだ観ていないけれど、結末がおおきく変更されているそうなのです。


いままで日本→韓国(残酷化、極端化)と思ってきたのだけれど、その逆がどうなるかというのはまだ事例が少なくて、なんとも判断がつかなかった。

韓国映画が日本ドラマになった『猟奇的な彼女』っていうのはあったけれどね。


このMONSTERZで、韓国→日本の経路から、いったいどんな要素(たとえば、ドラマ性が増すとか、わかりにくくなるとか、の方程式が生まれるかどうか、ちょっと楽しみにしています。


すいません。まだ観た映画じゃないので推測記事でした!


TWINの配給でシネマートさんを皮切りに上映されていたトニー・レオン&ジョウ・シュン主演『サイレント・ウォー』。


シネマートではゴールデンウィーク前後に上映。

<春のプチ香港・中国エンターテイメント映画まつり>という、ジャッキー・チェン主演の旧作『ツイン・ドラゴン』と二本だけのミニ企画としてひっそり上映されていました。公式サイトもなしです。


けれど、そんな扱いはもったいないくらいの良作だから、もっと注目されていいと思う。


さて、本作の原題は『聽風者 THE SILENT WAR』ということで、日本でのタイトルもそのまま。


トニオさんが電眼を封印、ということで話題になっていた映画で、本ブログでも不謹慎にも特別企画:“電眼”トニー・レオンとBL なる記事を二年前に書いたのでした。あー恥ずかしい。


さて、封切りはあのカーウァイの『グランドマスター』よりも前の作品。

ちょうど『大魔術師Xのダブルトリック』との中間の作品になりますね。ジョウ・シュンとは二作続けての共演ということで、大魔術師はあれれっていう出来だったけれど、本作での二人は息もぴったりで余韻を残します。


さて、本作は監督+脚本は、『インファナル・アフェア』シリーズのアラン・マック/フェリックス・チョンのコンビ。

数年前のスマッシュヒットである『盗聴犯~死のインサイダー取引』(2009)、『盗聴犯~狙われたブローカー~』(2011)もこの二人の仕事である。


ということで本作サイレント・ウォーも彼らの監督・脚本でおくるという意味では、香港映画テイストの作品なんだけれど、資本はたっぷり中国から出資されており、筆頭を中国とする中国・香港合作映画。


実質的に、ほとんど中国映画と言って良いと思う。

というのは、確かに監督・脚本の二人がいままでの作品のように緊張感があって手に汗にぎる物語にまとめてくれているんだけれど、内容がね、やっぱり中国映画らしく体制批判にならないよううまくまとまっているわけです。


ストーリーをざっとシネマートさんのサイトから引用してみると。。。


魔都・上海―“風も聞き分ける”ひとりの盲目のスパイがいた。


中国共産党と国民党が争っていた時代。

国民党は内線に敗れ台湾へ逃れたものの、その残党はまだ深く暗躍していた。


共産党は敵の動向を監視するため部隊を設立し、国民党の無線通信を傍受するが、ある日を境に通信が途絶えてしまう。部隊の責任者・老鬼は新たな通信を探り出すため、聴覚の優れた人材を集めるよう諜報員である張(演じるはジョウ・シュン)に命令。張は上海で盲人の調律師・何兵(演じるはトニー・レオン)と出会う。



何兵の異常なまでの聴力を見抜いた張は、彼にモールス信号や通信技術を教え込み、やがて何兵は国民党の通信を発見するまでになるが、抗争は混迷を極めていく…。

という感じ。


中国共産党と国民党の残党と争っていた時代設定なので、現在の中国の正当性を肯定するような内容にならないといけないわけです。

もちろん、原作の中国小説『暗算』の内容がすでにそういう内容なんだろうけれど、スパイを扱っていながら、若干やはり共産党を持ち上げているような気がしないでもありません。


そこに気がいってしまうと日本人や台湾人や香港人の観客はしらけてしまうかもしません。


ただし、映画そのものは、トニーさんも演技は良いのではありますが、それ以上にジョウ・シュン姉さんが一世一代の熱演をしていて、それを見るだけでも価値があります。


まぁ共産党を題材にする作品では、中国人であるジョウ・シュンは失敗できないということももしかするとあるのかもしません。しかし、しかし、そんなことはともかくジョウ・シュンの七変化、非情の女スパイ張を演じながらも秘められた女の気持ちを表現する部分は、とても味わいがあると思いました。


そう。この映画はジョウ・シュンが主演と言ってよいかもしれませんよ。


ロビーカードもたくさん公開されていますが、どれも出来がいいので、ちょっとここでもコレクションしておきます。


共産党の女スパイ・張に見いだされた盲人の調律師・何兵




任務として社交界に潜入するシーンの張




家庭を持った何兵と元暗号解読師の妻


一枚目と二枚目の写真だけでもジョウ・シュンのこの映画での魅力が伝わってきます。

この時代(1949年頃)のファッションがとにかく似合っていたし、スパイとしての非情な雰囲気も、密かに秘めた恋心の感情表現もよかったです。


三枚目の写真でトニーさんの肩を支えているのは、ジョウ・シュンではなく台湾の元歌手で今は女優のメイヴィス・ファン(范暁萱)です。最近はツイ・ハークの『ドラゴンゲート』でもジョウ・シュンと共演していましたね。


そう。この映画ではトニオ演じる何兵と、ジョウ・シュン演じる張は結ばれません。二人の間にも何も起こりません。

でも好き合っているのはわかる。しかしスパイにスカウトしたという人間関係上、二人は上司と部下の関係から逸脱できない。

その後、何兵はスパイ仲間で暗号解読師だった女性と結婚します。

でも、結婚してからも何兵は危険な任務につく張を心配しているし、張も何兵のことをいつも気に掛けている。しかし、だからといってメイヴィス・ファンとの間で三角関係になるわけではなく、同じスパイ仲間として奇妙な友情が三人の中に芽生えるのです。


メイヴィスだってジョウ・シュンとトニーがお互いに好き合っていることはわかっているわけです。

このあたり、普通の「男・女・女」三人の友情とはわけが違う。時代背景が生んだ特殊な関係が説得力を持たせていて、だからこの三人の互いを思い遣る気持ちに心打たれるというわけです。


冒頭でも述べたように、中国共産党を美化し過ぎていると感じられなくもないけれど、こういう題材設定だから登場人物たちの人物造形が魅力的になったとも言えるので、トータル映画としては観るに値するものになっていると思います。トニーさん出演だし、配給はツインだからきっとDVD化はされますので、多くの人に観てもらいたい作品です。


とくにジョウ・シュン好きならきっと満足のはず。

私もジョウ・シュン好きなので、勝手に彼女の代表作に認定(笑)して、DVDで持っておきたい!


最後に、気に入った宣伝ポスターを二枚。







ジョウ・シュン演ずる女スパイ張によって見知らぬ秘密基地につれてこられ、盗聴要員のスパイに仕立てあげられてしまう(巻き込まれてしまう)トニー演じる何兵ですが、スパイ活動という過酷で非情な仕事だけの日々の中で、暗号解読の専門家として生きている女性と知り合い、自分の運命と重なるものを感じているという流れがあることを、この二枚のポスターで説明しておきたいと思います。

あんまり説明するとネタバレになるので、この辺で。

ブルース・リー没後40周年だった2013年の喧騒も一段落。




昨年は、ブルース関連映画ということでイップ・マン伝記映画も、ウォン・カーウァイ『グランドマスター』から、え?あなたもイップ・マン師父を演じるの?と周囲を驚かせたアンソニー・ウォンの『イップ・マン最終章』までもが日本で公開され、DVD化も完了。




年末には「ブルース・リー トレジャー・ブック」なるマニア垂涎のお宝グッズの福袋みたいなものまで書店に登場した(なんと9500円+税金!)。




一年間と少々のメモリアルイヤーは幕を閉じた。




が、あらためてそれらを見直してみると、没後10年、そして没後20年、はたまた没後30年のときの喧騒が脳裏によみがえる。




先日、たまりさんに紹介されて読んだ「語れ! ブルース・リー」なるムック本に触発され、私も語ってみたくなりました「僕たちの李小龍 第一回」として没後10年時の東映企画「リターン・オブ・ザ・ドラゴン」のことを。






「彼は、どうしようもなく強かった。そして、たまらなく優しかった」


秀逸のコピーである。





ブルース・リーの映画はワーナーのマークのついた「燃えよドラゴン」が1973年12月22日に、リーの日本紹介第一作として公開された。




その後、映画チラシのコピーのまま公開作を紹介すると、




●ブルース・リー第二弾「ドラゴン危機一発」(1974年4月13日 日本公開)


●ブルース・リー第三弾「ドラゴン怒りの鉄拳」(1974年7月20日 日本公開):一周忌に合わせて公開


●最後のブルース・リー「ドラゴンへの道」(1975年1月25日 日本公開)


●さらばブルース・リー「死亡遊戯」(1978年4月15日 日本公開)




となる。




このうち、ワーナー映画だった燃えよドラゴンを除く映画は、どこの会社が配給権を取るかの競争になったと聞いている。




このうち東映洋画部は「ドラゴンへの道」の配給権を獲得できたのみ。


あとの作品は全て東宝東和が配給した。




香港映画は日本にとっては洋画であるが、燃えよドラゴンが日本でも半年に及ぶロングラン上映となるスマッシュヒットになったのは周知の通り。


そして、単独映画のヒットとしてだけでなく、その後にあまたのカンフー映画を日本で配給させる原動力となった。




そう、洋画ビジネスにとって、香港映画が新たな草刈り場になったのである。




東映洋画部はしかし、このときには「ドラゴンへの道」しか配給権を取れなかった。しかも、香港ではブルース映画のなかでもっとも観客動員を稼いだ映画だったが、日本で公開された時期が遅く、この間に何本ものブルースでない「ドラゴン映画」が何本も公開されて、熱が冷めてしまったためか、東映はちょっと貧乏くじをひいた形になった。




1972年に東宝東和が配給した「片腕ドラゴン」







ジミー・ウォング作品ですね




で、10周年となった1983年。東映は別途版権を獲得して、かつて東宝東和に取られた二本のブルース作品を上映することに成功。




それが、「リターン・オブ・ザ・ドラゴン」企画で、怒りの鉄拳と危機一発の一挙二本立て上映です。




この企画までの間、ジャッキー・チェン映画の配給に関して、東映は地道に実績をあげてきていた。




日本でジャッキーがブームとなるきっかけを生んだ「ドランク・モンキー酔拳」、そして「スネーキー・モンキー蛇拳」、いずれも東映洋画部の1979年の仕事である。




しかし、ジャッキーがそれまでの弱小制作プロダクション所属から、大手であるゴールデン・ハーベストに移ってからは、これまでの実績から東宝東和に配給権をとられてしまうようになる。




1981年の「ヤングマスター 師弟出馬」以降の新作映画の配給が、すべて東宝東和になっているのは、ジャッキーがゴールデン・ハーベスト所属になったからである。




東映はジャッキーの旧作(残念ながら質はゴールデン・ハーベスト作品に及びない粗い作り)を、日本市場向けに新たに主題歌や劇中歌を施すなどリニューアルして売り出さざるを得なかった。




しかし、古くからのジャッキーファンは、うなづいてくれると思うが、この東映の仕事というのは、それはそれはハイクオリティなものだったのだ。


たとえば、ドランクモンキー酔拳の主題歌(『拳法混乱(カンフージョン)』 唄:四人囃子)や、予告編のモンキーパンチ氏によるアニメ使用、作中BGMの入れ替え作業など、粗い作りの弱小プロの映画を全国公開に耐えるものにブラッシュアップさせていた。




そして、「リターン・オブ・ザ・ドラゴン」もそのスキルを大いに使っている。




まず、主題歌をリバイバル上映用に新たに用意しています。


既に日本公開が行われている映画に、ほんの数年後に別の配給会社が新しい主題歌を入れる例は聞いたことがなかった。




東映はその名も「リターン・オブ・ザ・ドラゴン」という主題曲を、ザ・スーパー・ドラゴン・バンドなる謎のグループに発注。この曲を宣伝に使うだけでなく、ドラゴン怒りの鉄拳の有名なラストシーン(上半身裸のブルースが、拳銃を持った外国人たちの列に跳び蹴りするあれです)にもってきた。




さらには、それまでのジョセフ・クー作曲のBGM音楽についても、新たにザ・スーパー・ドラゴン・バンドに演奏させた新音源に置き換えたほか、ドラゴン危機一発のようにBGMに魅力のなかった作品には新たにザ・スーパー・ドラゴン・バンドによって作曲されたBGMが追加され、映画に新たな命を吹き込んでいた。




現在、Youtubeに当時のザ・スーパー・ドラゴン・バンドによる音源をアップしてくださっている人がいるので、以下にリンクを張っておこうと思う。





(リンク切れの際はご了承ください)



どうでしょう。とっても魅力的な音楽じゃないでしょうか?



このリバイバル企画、二本立てで東映系列で上映されたわけですが、配給成績はどうだったか定かではありません。




しかし、私のようにブルース・リーが同時代じゃないファンにとっては、映画館でブルース・リー映画が観られたという意味では本当にありがたかったです。


そして、おそらくは東宝東和で公開されたときよりも(とくに音楽が)ハイクォリティになっていたバージョンでブルース・リーを感じられたことは大きかったですね。




私にとって、このときのバージョンがベストなわけですが、ビデオ化もDVD化もされることがなく、2012年にパラマウントから発売されたエクストリーム版Blu-rayにもこの東映版は収録されなかったので、もはや観ることはできないのかな、とあきらめています。




唯一の救いは、この東映版リターン・オブ・ザ・ドラゴンのサントラLPを大事に保存して持っているということでしょうか。


LPなので厳重に保管していますが、火事とか勘弁!




二作品とも好きな映画なので、後に普及版ビデオが発売されたときに、広東語バージョンの「ドラゴン危機一発」にがっかりしたことを覚えています。




私たちが劇場で観たリバイバル版は英語版の危機一発でした。


そして、1974年に初回日本公開時に観た人も英語版です。




何が違うかというと、主演のブルースが怪鳥音(アチョー)を発しないのが本来正しいのですが、普及版ではブルースの別作品から怪鳥音をコラージュしていて、ちょっと違和感があるのです。




実際の香港で初回上映されたときも怪鳥音はなかったはずで、私たちはそれで観たいのです。




この問題、あとから発売されたDVDもみんなコラージュ済み怪鳥音つきの広東語音源を使っていて、長らく解決されなかったのですが、パラマウントのエクストリーム版がようやく英語版の日本初公開時音源というのを収録してくれて解決。


もちろん、リバイバル時の音源はないけれど、ひとつ胸のつかえがおりたようで嬉しかったです。




英語版の声をあてている人は誰かは知らないけれど、ブルースの実際の声に近い声質ですし、何より懐かしのバージョンなので、私は好きですね。




リターン・オブ・ザ・ドラゴン企画については、ネット上でも情報が少ないです。


私がここにアップした情報を手がかりに、どなたかさらなる情報を教えてくれないかしら。




とくに、ザ・スーパー・ドラゴン・バンドは、このサントラ以外では見たことがなく、企画バンドだったとは思うのですが、音楽センスは光っていて、きっと名うてのスタジオミュージシャンだったのでは?と思わせます。その後どうなったのかが知りたいところです。




さてさて、次は没後20年目ですね。えー、いつか書きます!


しばらく映画館でアジア映画をみていないので、企画記事で間をつなごうってわけ。


といっても、ここのところアジアDVDはたくさん見ていました。


今年の大阪アジアン映画祭では「追悼ランラン・ショウ」って企画がありました。

本ブログでも紹介 したけど、私自身は見に行けなかった。けれど、そのときも書いたけど、往年(1960年代後半~1970年代前半)のショウ・ブラザーズ映画からピックアップされていた三本はどれもDVD化されていて、一本が1500円、三本で3千円で買えるってことで、この機会に全部買ったのでした。


ショウ・ブラで活躍していた三人の巨匠といえば、キン・フー、チャン・チェー、リー・ハンシャンをあげるのが普通だけれど、実際にはこのなかでキン・フーは二本の作品を撮っただけでショウ・ブラを離脱しています。


二本のなかでも『大酔侠』は、もともと私も好きな映画ですが、アン・リー監督が『グリーン・ディスティニー』で、本作にオマージュを捧げているのは有名な話です。


アジアン映画祭で追悼できなかったので、個人的にDVDを観て追悼しました。

久しぶりに見直してみたわけです。




上記のDVDジャケットにもある食堂での戦いは、グリーン・ディスティニーではチャン・ツイイーが食堂で大暴れするシーンで再現されている。




このシーンです


また、グリーン・ディスティニーでチャン・ツイイー演じる玉嬌龍に武術を教えた碧眼狐狸を演じていたのが、大酔侠の主演女優であるチェン・ペイペイ(鄭佩佩)。


いくつかのアクションシーンで同じシチュエーションを再現しているから、アン・リーさんのキン・フー好きがわかろうというもの。




チャン・ツイイーとチェン・ペイペイ


アン・リーは、オーディオ・コメンタリーで、新旧三世代武侠女優そろい踏みと言っていた。


これは、1960年代に武侠の女王と呼ばれたチェン・ペイペイ、1980年代にサモ・ハンに見いだされててアクション女優としてデビューしたミシェール・ヨー、2000年代にこのグリーン・ディスティニーでハリウッド・デビューしたチャン・ツイイーの三人ということ。




チャン・ツイイーとミシェール・ヨー


ミシェールはグリーン・ディスティニーの撮影のとき、アキレス腱を切る大けがをしている。


私の観るところ、上記のシーンは映画史に残る名シーンながら、ミシェールは足を引きずっているように見える箇所がある。おそらく、この撮影のときはけがが治っていなかったのだろう。

それでも、優れたアクションシーンに見せてしまうのだから、ユエン・ウーピンという武術指導者は天才だと思う。


さて、武術指導という職種が出たけれども、この武術指導というクレジットを初めて映画で使ったのは、キン・フーだそうだ。


キン・フー映画のアクション振り付けと言えば、ブルース・リーのドラゴン危機一発で大ボスを演じたハン・インチェ。


ハン・インチェとブルース・リー(ドラゴン危機一発より)


このハン・インチェが、大酔侠にも出演しているのだが、同時に武術指導を兼ねていて、この映画で香港初、世界初の武術指導者としてクレジットされた。




大酔侠の予告編よりハン・インチェ


もちろん、同じような仕事をする人は当時の香港映画界には何人かいた。

たとえば、ショウ・ブラでは後に監督になるラウ・カーリョンなどもそうだ。チェン・チェー映画でもアクション振り付けを担当していた。


キン・フーはハン・インチェとの仕事を好んだようで、大酔侠のほかにも、カンヌ映画祭高等技術委員会グランプリを取った「侠女」、全アジアで大ヒットした「龍門客棧」などでハン・インチェの力を借りている。


また、ハン・インチェの助手だったのはあのサモ・ハンである。

侠女ではハン・インチェとともに悪役を演じているし、ハン・インチェが参加できなかったときに、キン・フー作品の武術指導を担当している。たとえば『忠烈図』では、サモ・ハンは悪役の倭寇の役で武術指導を兼任している。


ハン・インチェのアクションはトランポリンを使うことが多いのだが、ハン・インチェが武術指導だったせいか、ドラゴン危機一発ではブルース・リー映画では唯一トランポリンアクションが含まれている。


また、ブルース・リーがキン・フーを敬愛していたことも有名で、一緒にとった写真もある。




キン・フー監督とブルース・リー


ブルース・リーとキン・フーが同じ仕事をしたら本当に面白いものになったと思う。

そのような機会はブルースが早世したため実現しなかったが、キン・フー作品でキャメラマンだった西本正を起用してブルースは映画を撮っている。


それが『ドラゴンへの道」だ。



ドラゴンへの道のローマでのロケハンにて西本正とブルース・リー


西本正はキン・フー作品では、キン・フーの監督第一作である『大地兒女』、そして大女侠でタッグを組んでいる。


残念ながらその後は台湾に渡ったため、西本正の撮影作は撮られていない。


どうでしょう。

キン・フー監督から、どんどん香港映画の豆知識が出てくるでしょう。


私は子供の頃はキン・フー作品は退屈な印象をもっていたのですが、大人になったら好きになりました。

寡作だったので、少ない作品しか残していないのが本当に残念です。


実はキン・フーの信者はたくさんいて、ツイ・ハークなんかは自分のテキサスの大学時代の卒業論文がキン・フー論。

ついでにプロデュース作品である『ドラゴン・イン』は、キン・フー作品『龍門客棧』のリメイクだ。

しかし、キン・フーによると、ツイ・ハークからは何も言ってきていないとか。

つまり無断リメイクです。


ツイ・ハークはもう一回『ドラゴン・ゲート』っていうジェット・リー主演作品で『ドラゴン・イン』をリメイクしたけれど、やっぱりキン・フー筋の許可は得ていないんだろうなぁ。ちなみにキン・フーは香港返還の頃に亡くなりました。西本正もその頃に亡くなったから、1997年前後って、やっぱり香港映画にとって大きな節目だったんだなと今更ながらに思います。


と、今回はまとまりのない企画記事で恐縮ですが、また頃合いをみて往年の名監督について書いてみたいと思います!

台湾に来ています。


2月27日から台湾で公開中の『KANO』を観てきました!



この作品、日本の報道機関でも公開前から公開後までニュースになっていますね。

台湾から甲子園 映画「KANO」公開」(NHKの見出し)ですって。

報道の通り、いまからおよそ80年前、日本統治下の台湾で嘉義農林高校(現在の国立嘉義大学の前身)が甲子園の決勝まで進んだという実話をもとにしたストーリー。


日本統治下だから教育も日本語で行われていて、野球の練習、試合も日本語でやってます。

実在の人物で、嘉義農林(=かぎのうりん、略してKANO)を甲子園に導いた近藤兵太郎監督を、演技派・永瀬正敏が演じています。


セデック・バレや海角七号の監督ウェイ・ダーシェンが製作にまわり、セデック・バレに出演していた俳優、馬志翔(マー・ジーシャン)が監督を務めています。


この映画、そろそろ始まる大阪アジアン映画祭のオープニング作品(三月七日)にもなっていますが、聞くところによると既にチケットがソールドアウトとのこと。

へっへ、私なんか日本の映画祭で公開される前に観ちゃったもんね。映画祭に行っても、チケット売り切れで観れないこと考えたら、台湾に来てよかったよ。

もちろん、現地でも大人気で、台北のシネコンでは複数シアターをこの映画にあてて、30分おきくらいに上映していましたよ。


私が観た回も超満員。しかも老若男女が観ていたのですが、映画の性質上はそれほど若い人は多くないかしら、と思ったら全然そんなことはなく、10代くらいのかなり若い層も鑑賞していたことが驚きでした。


KANOのFacebookページによると、台湾を代表する映画人・政治家がこの映画に賛辞を寄せています。

ちょっと引用させてもらうと、


『KANO』上映5日目になります。各界の皆さんから応援していただき、ありがとうございます。
映画界では陳玉勳(チェン・ユーシュン)監督、九把刀(ギデンズ)監督、李烈(リー・リエ)プロデューサー、林書宇(トム・リン)監督、侯季然(ホウ・チーラン)監督、政界からは台北市長郝龍斌(ハオ・ロンビン)、嘉義市長黃敏惠(ホアン・ミンフイ)、高雄市長陳菊(チェン・ルー)、前副總統蕭萬長(ワン・チャン)各氏などから推薦をいただきました。

許銘傑(シュウ・ミンチェ)選手は招待されたワールド・ビジョンの子ども達と一緒に映画を見て「泣いた!本当に意義深い映画です。私に野球の初心を蘇らせてくれました。そして闘志をもらいました」と絶賛。

もう一度、皆さんの応援に心から感謝します。果子電影はこの物語を更に多くの人々に知ってもらえるよう引き続き努力していきます。(以上、「KANO」公式Facebookページより)


けっこう有名な監督が賛辞をよせていて、ギデンズ監督なんて最近自らのネット小説の監督をした「あの夏、君を追いかけた」が大ヒット。日本でもミニシアター系で公開されてますね。


実際の観客動員とかはまだ上映5日目でわからないけれど、肌感覚ではものすごい人気と感じます。台湾の普段は映画を観ない友達も、この映画だけは見に行こうとしていたしね。


これだけ当地で話題になっているし、きっとアジアン映画祭では多くの映画好きたちが鑑賞して日本語でも「すごい」「感動した」って声が出てくるとは思うけれど、私もあえて声を大にしていいたい。


この映画、日本人だったら観るべきです!!


だってさ、台湾の発展に心血を注いだ日本人の話は、八田 與一(八田与一)さんの逸話を挿入させることで代表させているんだけれど、この農林高校にとっては重要な嘉義地区の農業水利工事に技術面から大きな貢献をして、台湾(とくに台中)の人にとって偉人的な扱いをうけている、この八田さんを日本人のどのくらいの人がしっているかしら?


きっと知らないでしょ!

こういう台湾の発展に重要な役割を果たした日本人、そして台湾から甲子園に出て決勝まで進んで当地の高校生に大きな夢と勇気を与えたであろう高校が存在したことを知っておいて損はないはず。


物語としては、親日国・台湾にとっての日本ネタであること、そして野球好きの台湾人の心をくすぐる球児ネタであること、そしてここまで台湾原住民(漢族と先住民を含む)のネタをていねいにあつかってきたウェイ・ダーシェン作品であること、などなどとヒットする要素を完璧に備えた作品で、泣けるシーンと笑えるシーンにあふれています。


日本統治下なので映画全編にわたって日本語で物語は進みますが、漢族と高砂族(日本からみた場合の原住民の呼び名)が会話するシーンでは台湾語がつかわれています。


台湾で映画をみているのに、字幕を読まなくても映画がわかるという不思議な体験をしました。

字幕のほうが先に読まれてしまうので、私が笑う前に台湾の観客が先にどっと笑っちゃうので、少々悔しかった(笑)。。。

有名な俳優は主役格で甲子園への導き手となる近藤監督役の永瀬正敏を除き、まったく出ていません。

八田与一役の大沢たかおも出番はわずか。近藤監督の女房役は坂井真紀ですが、こちらもそんなに出番は多くありません。


個人的にツボだったのは、甲子園で嘉義農林のエースである呉投手のライバルを演じる札幌商業のエース錠者博美を演じた日本人俳優・青木健。彼、とっても味があった。


もちろん永瀬正敏もよし!

一緒にみた友人曰く、永瀬の演技がとても良くて「永瀬ってこんなにいい俳優だったんだ!」だって。永瀬映画好きの私は永瀬さんの実力は十分知ってたから、安心してみていて、ほかの俳優さんに目がいっていただけです。。。


この映画のレビューはストーリーにかかわることはまだ公開前なので書けないのですが、日本人なら観るべきってことに尽きるかな。だって台湾でこんなに多くの人が観ている作品だし、実際とても感動する作品なんだもの。


さーて、いつころに日本で公開にあいなるか。

今年の台湾興行収入ナンバーワンはおそらく間違いなし。配給会社は自信をもって獲得すべし。。。




(つづき)


(3)1970年代以降、広東語映画の時代へ


北京語映画主流の状況を打ち破ったのが、1970年代に台頭するブルース・リーのカンフー映画、マイケル・ホイらによる「ミスター・ブー」もの香港現代喜劇映画である。


1972年に「ドラゴン危機一発」では、アメリカ帰りのブルース・リーの人気が爆発する。映画としても香港最高記録を塗りかえた。


製作したのが新興のゴールデン・ハーベスト社だったために、本作は広東語映画として撮られていた。

しかも、ブルース・リーが残した四本の主演作は、上海租界が舞台の「ドラゴン怒りの鉄拳」をのぞき、いずれも現代劇であった(舞台が香港だったのは「燃えよドラゴン」のみだが)。

もちろん、ブルース・リーブームによって、台湾向けの北京語版。そして日本を含む欧米マーケットに対して、英語版が作られた。


当時、香港出身の俳優が北京語を操れないということもあって、俳優の声には別人の声優のアフレコがつくのが当たり前であった。これは広東語映画についても同様で、どうせアフレコがあるために、忙しい俳優に代わって声優が声をあとから入れるという習わしが当時の香港映画にはあった。

香港のスタジオがうるさく、同時録音すると喧噪音が入るためにアフレコが行われた側面もあったらしい。


実際、ブルース・リーの自声の台詞が聞けるのはアメリカ映画である「燃えよドラゴン」のみ。

ただ、ブルース本人はそれが不満であったようで、どうにか自分の声の存在感をフィルムに焼き付けられないかと試行錯誤した結果、「ドラゴン怒りの鉄拳」から入れられたのがあの「アチョー」という怪鳥音である。

あの声は並の声優には発せられない。


広東語版、北京語版、英語版のそれぞれで、ブルースの声をあてている声優は違う。

しかし、怪鳥音だけは本人のものである。なんとも素晴らしい発明だ。

(ドラゴン危機一発には怪鳥音は入れられていないが、後に別映画の怪鳥音を合成したバージョンが出回ってしまった)


ちなみに、当時キャセイの映画興行成績はショウ・ブラとの競争に負けて落ち込んでおり、ゴールデン・ハーベストはキャセイの映画スタジオを買収して自社スタジオにしていた。

つまり、北京語映画の一方の雄が消えつつあったのである。


ブルースが1973年に亡くなると、マイケル・ホイの時代が到来する。


マイケル・ホイはもともとはショウ・ブラに所属していたが、同社との契約が切れた後に独立して製作会社をつくり、日本では「ミスター・ブー」シリーズとして知られる一連の作品(日本市場でシリーズ化されただけで、実際はなんのつながりもない作品群)をゴールデン・ハーベストとの共同製作でつくり、いずれも香港歴代記録を次々と塗り替えるヒットとなった。


マイケル・ホイは現代劇にこだわったことはもちろん、広東語映画にすることにもこだわった。会話の面白さ、現代の香港人の滑稽さを描く映画だったため、広東語でしかも自分が声を入れることで面白さをだそうとした。

マイケル・ホイの成功が広東語コメディという主流の映画路線を確立したのである。


「Mr.BOO!」の有名なブルース・リーのパロディシーン


マイケル・ホイは物理教師からコメディアンになったインテリ

結果的にブルース・リーにしても、マイケル・ホイにしても広東語映画として当初は作られながら、日本を含む全アジアでヒットした。


その後もゴールデン・ハーベストは1980年代にジャッキー・チェンを得て、さらに現代アクションをヒットさせる快進撃を続け、ショウ・ブラの息の根を完全に止めることになる。

(ただし、ジャッキーの自声が映画で聞けるようになるのは、1990年に入ってから)


この時期には、すっかり武侠ものや文芸ものの人気はなくなっていたので、北京語でつくる必然性も減ってきていた。

キャセイに続き、ショウ・ブラも映画製作を終えることで、製作・配給の一貫した流れで市場を支配するよりも、香港映画の現代的魅力をアジアに拡げることに意味が出てきたということもあったと思われる。


80年代にはすでに、上海映画人の世の中から、香港ニューウェーブと呼ばれる新しい映画人へと世代交代がすすんでいたこともあって、香港映画の製作者に北京語話者が少なくなっていた時代がきていた。まさに、香港人による香港映画界になっていたのである。


ショウ・ブラの看板監督だったキン・フーは60年代に台湾に渡り、チャン・チェも70年代の一時期を台湾に行って映画製作していた。彼らはそれぞれ北京出身、上海出身であったが、彼らが香港を一時でも離れねばならなかったことこそ、香港映画界が広東語話者世界へと世代交代していく前触れのように感じるのは私だけだろうか。


以上、香港における北京語映画と広東語映画の略史はいったん終わり。


90年代、00年代をはさみ、純粋な香港映画が少なくなって大陸との共同製作が普通になったいま、再び北京語優勢時代が来ているのではないだろうか。

2010年代が終わる頃、もういちど通史として香港映画の言語マップを総括してみたいものである。


(つづき)

戦中の香港映画空白期が空ける1945年以降、映画作りがいったん停滞してしまったかに見えた香港だが、映画人は大陸からどんどん流入してくる。


(2)1949年中華人民共和国成立期をはさむ大陸文化人の香港流入、シンガポール発の香港映画会社の誕生


まずは、満影や中華電影に関わった映画人たち。

大日本帝国の国策映画に協力し、戦後に粛正されることを恐れた映画人が、上海から追放されるということがあったようだ。また、処罰されないまでも、上海そのものに映画産業の基盤がなくなってしまい、どこかに移住せざるを得なくなったということもあろう。移住先としては、国民党員であれば台北という選択肢もあったかもしれないが、そうでなければ英領香港に、と考えるのが自然であろう。

国民党の敗北が濃厚になってくると、共産党による統制を嫌った映画人もいたかもしれない。


また、日本のもとで培った技術が香港で求められていたということもあったらしい。


実際、終戦直後の1946年の上海映画人の香港流入。共産党による中華人民共和国が成立する前年の1948年にも上海映画人は香港に流入してくる。


中華電影のプロデューサーとして川喜多長政に信頼されていた張善琨は、重慶に逃亡。その後に香港に流れ着く。これによって漢奸裁判を逃れている。

張はその後に永華影業公司という香港で設立された映画製作会社の顧問になっている。実質的には設立者だったらしいが漢奸容疑があったため、表舞台に名前を出さなかったのだという。彼はのちの1952年頃に新華という映画会社を設立した。

新華は1958年頃に香港映画界のトップに躍り出ている。


永華影業のような会社に上海映画人が流れ着くわけである(たとえば、永華影業にいた監督・ト萬蒼も上海映画人)。


さて、上海映画人や北京文化人が流れ着いたから香港に国語映画(北京語映画)が多いのか、というとちょっと違うようだ。


確かに彼らの母語は広東語ではないが、市場である香港人に北京語は通じない。

市場で通用する言語で作ったほうがいいに決まっている。


この点について、明確な答えをもたらしてくれる文献は少ないのだが、もっとも大きな理由は配給の問題である。


中国大陸が共産党の中華人民共和国になったことによって、自由な映画作りができなくなった。しかし、それまで上海で作られる映画は東南アジアの華僑向けに流通していた。


そのなかには、その後にアジア全域を支配することになるショウブラザーズ前身会社で上海に設立された天一影片公司のような会社が作っていたフィルムも含まれている。

天一影片公司は、後のショウ・ブラザーズの経営者であるランラン・ショウ(邵逸夫)の長兄が上海に設立した会社である。


ランラン・ショウ自身は、天一が製作した映画をシンガポールやマレーシアで華人向けに配給する業務を1926年から行っていた。1937年には現地にて映画製作を行う会社も設立していた。


こういった東南アジア配給ルートを、そのまま香港映画界が引き継いで使うには、北京語の映画を作ったほうが都合がよかったわけである。


また、共産党政権においても、1966年から始まる文化大革命までは、映画人たちが大陸市場を念頭に置いていたのかもしれない。だが、その希望も文革によって完全に絶たれることになる。


北京語映画の大市場の中国大陸は失ったが、かわりに資本主義陣営には台湾という新市場が生まれた。


台湾もまた国営の映画会社しかなく、香港映画を買わなければ映画の興行というビジネスが成立しなかったため、国語映画(北京語映画)を求めていた。


台湾は台湾で戒厳令が80年代後半まで続き、国民党による検閲があって、自由な映画製作というわけにはいかなかった。一方で香港映画については検閲はあまかった(そもそも思想性が含まれる映画を香港に移った上海映画人たちは作らなかった)。

こうして台湾映画と香港映画の密接な関係はこの時期に生まれた。


東南アジア市場で成功したランラン・ショウが、1959年に香港にもどって来たのは、落ち込んでいた天一の経営を立て直すためであった。このときにランラン・ショウの投じた資本で誕生したのがショウ・ブラザーズである。シンガポールで稼いだ財が投じられたシンガポール系の会社ということもできる。


ショウ・ブラザーズとともに戦後の香港映画界で大チェーンになったのは、やはり東南アジア一帯に配給網を持つキャセイ(国泰)であった。キャセイもまたショウ・ブラザーズと同様、シンガポールで生まれた会社であったが、1953年に香港進出しているのでショウ・ブラよりも早い。

ただし、ショウ・ブラはシンガポールで映画製作をしていたと言えるし、ランラン・ショウの長兄が上海で経営していた天一があるから、一族としては邵氏のほうが映画への関わりの歴史は深い。


キャセイもまた、東南アジアの華人向けに配給することを考えると、北京語映画を作ったほうが効率がよかったのである。


また、香港上映なのに、北京語映画で構わない積極的な理由としては、当時製作された映画が文芸もの・歴史ものが多かった点であろう。

香港の現代劇では、アジア全域の華人社会に受け入れられない。


また、60年代にアジアを席巻するショウ・ブラザーズの看板監督たちも、武侠、クンフー、文芸もので世に出てきていた。

ショウ・ブラは日本の技術を導入して独自に「ショウ・スコープ」を開発し、英語字幕と漢字字幕を必ず本編に付け加えるようになり、他社も追随した。


ショウ・ブラザーズ映画のオープニング画面


ショウ・スコープとの表記がある


華僑は実際には広東語話者も多いのだが、字幕が添えられることによって、香港内はもとより多くの華人社会に受け入れられる映画にしていったことも、北京語でよしとする風潮を作ったと考えられる。

こうして1950年代に上海から移って誕生した華人映画の中心地・香港では、1960年代までずっと北京語の作品が主流を占めていく。

もちろん、広東語映画も作られていたがそれらは中小映画製作会社のものであった。

二大映画製作会社でかつ二大アジア配給チェーンであったショウとキャセイが北京語映画だったのだから、必然的に北京語映画であふれるという状態である。


ショウとキャセイの競争は、1964年にキャセイの主要重役陣が台湾の飛行機事故に巻き込まれて死亡し、映画製作が停滞したこと。そして1966年と1967年にショウ・ブラザーズ映画二本が爆発的にヒットしたことによって勝敗が決した。


そのショウ・ブラ映画二本とは、


キン・フー監督の「大酔侠(原題同じ)」(1966)と、チェン・チェ監督の「片腕必殺拳(原題:獨臂刀)」(1967)である。

前者はいわゆる武侠もので、後者は剣戟もの。つまり双方が時代物である。

大酔侠も香港映画ナンバーワンヒットとなり、東南アジア全域で人気だったが、片腕必殺拳は初の100万香港ドル突破映画となる。


実はショウ・ブラでは1966年に広東語映画製作本数を拡大していた。

しかし、この二本のヒットによって、再び北京語映画の製作にシフトするのである。

1969年の香港映画のうち、実に70%が剣戟映画であったという(グループNUTS編『ザ・香港ムービー 上巻』より)。


香港映画の動きを大きく変えたこの二作品が、今年の大阪アジアン映画祭で久々に上映されるわけである。


(つづく)

香港映画と言えば広東語。

そう思っている人がほとんどのはず。


もちろん、今ではそれで正解なんだけど、かつては香港で制作されて、香港人が見る(=広東語話者がいつの時代も概ね九割な)のに、北京語映画が全盛だった時期があります。


今年の大阪アジアン映画祭では「追悼ランラン・ショウ」っていう今年無くなった香港映画界のかつての盟主ショウ・ブラザーズ映画の企画もあるし、最近になってDVDショップで往年のショウ・ブラザーズ映画が格安で手に入れられるようになっているしで、あらためて昔の香港映画を見る人が増えると思う。


けれども、

「あれ、香港映画なのに登場人物たちが広東語で話してない!」

「北京語版じゃん、騙された!」

などと思われないように。


香港なのに、みんな北京語がわからないのに、北京語映画が大量に作られていた時代がかつての香港映画界にはあったんです。


頼まれてもいないけれど、本ブログがちょこっと香港映画における北京語映画と広東語映画の略史を整理しておきたいと思います。



(1)1936年、国民政府が広東語映画の製作・上映を禁止。1937年末、上海映画人の南下


映画が無声映画の時代からトーキーと言われる音付き・セリフ付きに変わったのは、世界的にみても1930年代。

日本初の本格的トーキー映画は五所平之助の『マダムと女房』(1931年)。

香港では、完全トーキー映画は『傻仔洞房』(1933年)という映画だそうな。

(以上の情報は邱淑婷著『香港・日本映画交流史』巻末年表に基づく)


だから、香港でこの1930年代初期に作られたトーキーは広東語だったわけ。

その後に国民党政府が1936年春に広東語映画の製作および上映を禁止するまでは広東語映画時代ということになります。

こうみると、わずか三年くらいのことに見えますが、国民党政府が安定していなかったのと、禁止令そのものが日本に対するポーズだったこともあり、禁止令開始が延期(1936年末のはずが、1937年7月に、また3年後に延期)されたり、徹底はそれほどされていなかった模様です。もっとも香港はこの時点でもイギリスの植民地だったわけですしね。


香港で作られた広東語映画については、1935年から1937年にかけて全157本という数字があります。

(こちらの情報も邱淑婷著『香港・日本映画交流史』より)

1936年に国民政府から広東語映画禁止のお触れが出たにしては多い数字ですね。


で、この時代は言うまでもなく戦争中(日中戦争、のち太平洋戦争。1937年が盧溝橋事件の年)だから、中国における映画産業の中心地であったのは上海だったわけですが、日本の干渉を受けていたので、それを嫌った上海映画人が香港に逃げてきていた。


話は前後するけれど、満州国が出来たのが1932年。日中戦争中は、日本が戦争宣伝をするために、メディアとしての映画に干渉。

満州では日本資本の満州映画(満映)が、上海では日本・満州・華中政府の合資会社として「中華電影」が1939年に設立されている。ここの専務理事(最高責任者)が川喜多長政。上海映画界を語る上で無視できない人です。


満州映画協会のスター女優・李香蘭(山口淑子)



戦後は香港映画でも活躍する(写真はWikipediaより)



この時代、中国は政権が揺れ動いていて、

・国民政府 1925-1949(国民党による中華民国政府。1928-1931間は蒋介石による新南京国民政府)

・共産党政府 1949-現在

が中国側の大筋の流れ。


だけれど、同時に、

・中華民国北京臨時政府 1937-1939(日本の傀儡と言われる。1939南京国民政府が出来ると解散)

・中華民国南京国民政府 1939-1945(日本傀儡と言われた汪兆銘による政権。戦後は消滅)

という流れが一方であった。


このあたりの詳しい政治的説明は難しいので、本ブログには無理なんだけれど、1939年に中華電影が設立されてからの上海製作映画は、基本的に日本が牛耳ることになる。

上記の『香港・日本映画交流史』によると、日本が英米に宣戦布告した1941年に12月には、日本軍が英米の租界に進入。租界内の映画事業はすべて中華電影の管理下にはいったと書かれてある。

1945年の終戦までに中華電影は83本の映画を製作、という記述もあった。


国民政府による禁止令が直接の原因でなかったが、1937年の政変で、上海における日本の影響力を避けて、香港に南下した映画人たちが発生し、彼らが香港において北京語映画が増える土台をつくったと言えるが、彼らがすぐに香港で北京語映画を作ったわけではない。

1939年には香港で北京語の抗日映画が作られたりもしたが、決して主流とは言えない。


1939年には親日の汪兆銘が南京国民政府を置くが、そのときに中国電影製片廠という上海の映画会社が香港に北京語抗日映画製作基地となる大地影業公司を作っている。

大地には上海から1937年に南下した映画人である蔡楚生が参加している。

この蔡楚生は南下してから広東語の抗日映画を撮っていたが、大地では北京語抗日映画を撮ることになる。それが香港初の北京語抗日映画『孤島天堂』である。

しかし、大地はもう一本の抗日映画を撮り終えないうちに国民党によって閉鎖される。

(邱淑婷著『香港・日本映画交流史』の記述に基づく)


その香港そのものが、日本軍によって1941年末に陥落。

香港の映画市場は、日本映画会社が配給社を置き、中華電影の支社が置かれるなどした。

しかし、日本軍は上海ほどには香港での映画工作の必要性を感じていなかったようで、消極的だったという(『香港・日本映画交流史』による)。


香港人が日本映画に興味を持つわけもなく、現地映画にもフィルム検閲もあったので、広東語映画は抗日映画くらいしかなくなってしまったようだ。香港映画の中断期である。

1937年に流入した上海映画人だったが、戦後にあと2回(1946年と1948年)も上海映画人が香港に大量流入している。この積み重ねが香港において、1950年代以降に北京語映画を増やす一つの要素として機能することになるようだが、文字ばかりで長くなってきたので、いったんここで区切ります。


(つづく)