(つづき)

戦中の香港映画空白期が空ける1945年以降、映画作りがいったん停滞してしまったかに見えた香港だが、映画人は大陸からどんどん流入してくる。


(2)1949年中華人民共和国成立期をはさむ大陸文化人の香港流入、シンガポール発の香港映画会社の誕生


まずは、満影や中華電影に関わった映画人たち。

大日本帝国の国策映画に協力し、戦後に粛正されることを恐れた映画人が、上海から追放されるということがあったようだ。また、処罰されないまでも、上海そのものに映画産業の基盤がなくなってしまい、どこかに移住せざるを得なくなったということもあろう。移住先としては、国民党員であれば台北という選択肢もあったかもしれないが、そうでなければ英領香港に、と考えるのが自然であろう。

国民党の敗北が濃厚になってくると、共産党による統制を嫌った映画人もいたかもしれない。


また、日本のもとで培った技術が香港で求められていたということもあったらしい。


実際、終戦直後の1946年の上海映画人の香港流入。共産党による中華人民共和国が成立する前年の1948年にも上海映画人は香港に流入してくる。


中華電影のプロデューサーとして川喜多長政に信頼されていた張善琨は、重慶に逃亡。その後に香港に流れ着く。これによって漢奸裁判を逃れている。

張はその後に永華影業公司という香港で設立された映画製作会社の顧問になっている。実質的には設立者だったらしいが漢奸容疑があったため、表舞台に名前を出さなかったのだという。彼はのちの1952年頃に新華という映画会社を設立した。

新華は1958年頃に香港映画界のトップに躍り出ている。


永華影業のような会社に上海映画人が流れ着くわけである(たとえば、永華影業にいた監督・ト萬蒼も上海映画人)。


さて、上海映画人や北京文化人が流れ着いたから香港に国語映画(北京語映画)が多いのか、というとちょっと違うようだ。


確かに彼らの母語は広東語ではないが、市場である香港人に北京語は通じない。

市場で通用する言語で作ったほうがいいに決まっている。


この点について、明確な答えをもたらしてくれる文献は少ないのだが、もっとも大きな理由は配給の問題である。


中国大陸が共産党の中華人民共和国になったことによって、自由な映画作りができなくなった。しかし、それまで上海で作られる映画は東南アジアの華僑向けに流通していた。


そのなかには、その後にアジア全域を支配することになるショウブラザーズ前身会社で上海に設立された天一影片公司のような会社が作っていたフィルムも含まれている。

天一影片公司は、後のショウ・ブラザーズの経営者であるランラン・ショウ(邵逸夫)の長兄が上海に設立した会社である。


ランラン・ショウ自身は、天一が製作した映画をシンガポールやマレーシアで華人向けに配給する業務を1926年から行っていた。1937年には現地にて映画製作を行う会社も設立していた。


こういった東南アジア配給ルートを、そのまま香港映画界が引き継いで使うには、北京語の映画を作ったほうが都合がよかったわけである。


また、共産党政権においても、1966年から始まる文化大革命までは、映画人たちが大陸市場を念頭に置いていたのかもしれない。だが、その希望も文革によって完全に絶たれることになる。


北京語映画の大市場の中国大陸は失ったが、かわりに資本主義陣営には台湾という新市場が生まれた。


台湾もまた国営の映画会社しかなく、香港映画を買わなければ映画の興行というビジネスが成立しなかったため、国語映画(北京語映画)を求めていた。


台湾は台湾で戒厳令が80年代後半まで続き、国民党による検閲があって、自由な映画製作というわけにはいかなかった。一方で香港映画については検閲はあまかった(そもそも思想性が含まれる映画を香港に移った上海映画人たちは作らなかった)。

こうして台湾映画と香港映画の密接な関係はこの時期に生まれた。


東南アジア市場で成功したランラン・ショウが、1959年に香港にもどって来たのは、落ち込んでいた天一の経営を立て直すためであった。このときにランラン・ショウの投じた資本で誕生したのがショウ・ブラザーズである。シンガポールで稼いだ財が投じられたシンガポール系の会社ということもできる。


ショウ・ブラザーズとともに戦後の香港映画界で大チェーンになったのは、やはり東南アジア一帯に配給網を持つキャセイ(国泰)であった。キャセイもまたショウ・ブラザーズと同様、シンガポールで生まれた会社であったが、1953年に香港進出しているのでショウ・ブラよりも早い。

ただし、ショウ・ブラはシンガポールで映画製作をしていたと言えるし、ランラン・ショウの長兄が上海で経営していた天一があるから、一族としては邵氏のほうが映画への関わりの歴史は深い。


キャセイもまた、東南アジアの華人向けに配給することを考えると、北京語映画を作ったほうが効率がよかったのである。


また、香港上映なのに、北京語映画で構わない積極的な理由としては、当時製作された映画が文芸もの・歴史ものが多かった点であろう。

香港の現代劇では、アジア全域の華人社会に受け入れられない。


また、60年代にアジアを席巻するショウ・ブラザーズの看板監督たちも、武侠、クンフー、文芸もので世に出てきていた。

ショウ・ブラは日本の技術を導入して独自に「ショウ・スコープ」を開発し、英語字幕と漢字字幕を必ず本編に付け加えるようになり、他社も追随した。


ショウ・ブラザーズ映画のオープニング画面


ショウ・スコープとの表記がある


華僑は実際には広東語話者も多いのだが、字幕が添えられることによって、香港内はもとより多くの華人社会に受け入れられる映画にしていったことも、北京語でよしとする風潮を作ったと考えられる。

こうして1950年代に上海から移って誕生した華人映画の中心地・香港では、1960年代までずっと北京語の作品が主流を占めていく。

もちろん、広東語映画も作られていたがそれらは中小映画製作会社のものであった。

二大映画製作会社でかつ二大アジア配給チェーンであったショウとキャセイが北京語映画だったのだから、必然的に北京語映画であふれるという状態である。


ショウとキャセイの競争は、1964年にキャセイの主要重役陣が台湾の飛行機事故に巻き込まれて死亡し、映画製作が停滞したこと。そして1966年と1967年にショウ・ブラザーズ映画二本が爆発的にヒットしたことによって勝敗が決した。


そのショウ・ブラ映画二本とは、


キン・フー監督の「大酔侠(原題同じ)」(1966)と、チェン・チェ監督の「片腕必殺拳(原題:獨臂刀)」(1967)である。

前者はいわゆる武侠もので、後者は剣戟もの。つまり双方が時代物である。

大酔侠も香港映画ナンバーワンヒットとなり、東南アジア全域で人気だったが、片腕必殺拳は初の100万香港ドル突破映画となる。


実はショウ・ブラでは1966年に広東語映画製作本数を拡大していた。

しかし、この二本のヒットによって、再び北京語映画の製作にシフトするのである。

1969年の香港映画のうち、実に70%が剣戟映画であったという(グループNUTS編『ザ・香港ムービー 上巻』より)。


香港映画の動きを大きく変えたこの二作品が、今年の大阪アジアン映画祭で久々に上映されるわけである。


(つづく)