もずくスープね -7ページ目

同期の錯乱(1)

前回、青年団演出部・柴幸男の『御前会議』について長々と書いたが、近頃の青年団周辺の若手演劇クリエイターの動きには何かと目を見張らされるものがある。前田司郎の五反田団、松井周のサンプル、そして、いま最も注目度の高い演劇ユニット「ハイバイ」を主宰する岩井秀人もまた、一年前から青年団演出部の演出家なのだそうだ。岩井は、かつては「ひきこもり」だったそうだが、演劇を始めてからは才能が一気に開花し「引っ張りだこ」の存在となっている。その彼もまた、『御前会議』と同じアトリエ春風舎において、青年団若手自主企画 vol.37 『おいでおいでぷす』(4月22日~4月30日)という作品を上演した。これは「口語で古典」というコンセプトのもと、ソフォクレスのギリシャ悲劇で知られる『オイディプス王』を、青年団流の“現代口語演劇”に置き換える試み。作・演出が岩井秀人で、主演(オイディプス王役)が松井周だった(シアターガイドのサイト に詳細あり)。

さて、舞台。何の集まり、どういうつながりのグループだかわからないが、若者の集団が河原でキャンプをおこなう。ワイワイ、ガヤガヤ。その中の1人がリーダーシップを発揮して、グループをまとめるが、次第に食べ物がなくなり、メンバーたちが空腹や病気を訴えるようになる。グループのリーダーの義弟は、“キャンプの達人”なる人物に意見を求めにゆくが、「グループの中にケガレた者がいるので、その者を排除しないと事態が良くならない」という旨のメッセージを受け取ってきた。リーダーは、いろいろ調べるうちに、それと知らずにではあるが、或る三叉路で父親を殺したうえ母親と結婚した「ケガレ」が自分自身であったことに気付き、悲嘆に暮れた挙句、棘に覆われた眼鏡をかけて自らの眼を潰す。これらの舞台上での出来事の節目節目において、プロジェクターで古典『オイディプス王』のあらすじが映し出され、双方の物語が骨組みにおいては完全に同期していることを観客は知らされるのであった。

…などと書けば、ジークムント・フロイトが“オイディプス・コンプレックス”を唱えるまでもなく、オイディプスの悲劇は時代を超えて人類普遍の宿命的DNAとして再現され続けるのか…といった、シリアスな主題を感じてしまう人もいるかもしれない。ま、それはそれで否定はしないのだが、岩井秀人の作った舞台は、どう見てもコミカルなのだ。

一般的に『オイディプス王』といえば、大仰でヘヴィきわまる荘厳な悲劇であり、本来ならば、やはり“世界のニナガワ”(蜷川幸雄)演出あたりがしっくり来るのである。岩井は、それを現代口語演劇の“等身大”に還元するために、設定を“ミニマル化”した。いや、まあ、“ミニマル化”といえばカッコいいが、むしろ、演出家の心の奥底から衝き上げてくる“矮小化”願望というほうが実際の感じに近いかも知れぬ。

河原でのキャンプというちっちゃな共同体における、せせこましい揉め事。それとは知らぬ父親とのいさかいもまた、釣具の上州屋におけるルアーをめぐるショボイ確執から発展した。この、呆れるばかりの器の小さな劇世界を得意とするのは、いまや五反田団の前田司郎か、ハイバイの岩井秀人が双璧といえるが、ここにおいて『オイディプス王』の歪んだ重力を背負えるのは、実際に「ひきこもり」だったという岩井こそ、という感じは確かにある。

ギリシャ悲劇の壮大な運命の竜巻を、お猪口(おちょこ)の中で(DNAの螺旋のように圧縮して)ミニマルに表現する。そのことによって生じる滑稽感、コミカルさ。だが、言うまでもなく、滑稽と悲惨は裏腹なものである。宿命の内部から見あげれば壮大な悲劇が、お猪口の外部から見ればしょぼくれた滑稽に見える。実際に引籠りだったという岩井であればこそ、その内部と外部との裏腹感は身をもって「リアル」な理解を得ているのかもしれぬ。

なあに、“世界のニナガワ”にしたって、昔は「俺は役者だから暗幕なんか絶対畳まない」といったショボくて狭い心根の持ち主だったようだ(劇団むっちりみえっぱりの『その男、浮く』において、そういうシーンがあった)。岩井の芝居にもよく、蜷川幸雄ならぬ品川幸雄なる演出家(岩井自身や古館寛治などによって演じられる)が登場するが、これがまた器の小さいことこのうえない人物として描かれる。蜷川幸雄(品川幸雄)もオイディプス王も引籠りも、内側から眺めれば壮大な悲劇だが、外側から見れば滑稽な喜劇と化す。また、その逆に、“世界のニナガワ”ならぬ“世界のナベアツ”のネタだって、もしも「3の倍数と3の数字がつく時だけ神経が異常反応を起こす難病患者」の物語だったとすれば、それを精神分析的視点で取り扱うならば、とても笑ってなどいられない。

マクロとミクロを同期させ、内部と外部を同期させ、悲劇と喜劇も同期させる。幾つのも視点が重なりあう。重層的決定(アルチュセール)、いやむしろ重層的非決定(吉本隆明)。岩井もまた“現代口語演劇”という方法論を素材としながら、「世界は一つでない」ということを表わそうとしたのだと私は受けとめた。そんなことを考えていた頃、もうひとつ、青年団に関係する劇団、東京デスロックの作品『WALTZ MACBETH』(5月8日~5月11日、吉祥寺シアター 構成・演出:多田淳之介)を見て、ここにも同期と重層をめぐる一つの作法を見出した。

東京デスロック『WALTZ MACBETH』の原作は、いわずもがな、シェイクスピアの『マクベス』である。舞台には、何の役だかハッキリわからないし、登場人物同士がどういう関係性があるのかも明らかではないが、なんとなくマクベスぽく見える男、マクベスの妻らしき女、などが登場してくる。そして、無言のまま椅子取りゲームらしき遊戯を始める。次第に登場人物が増え、ある時点からは『マクベス』の台詞が断片的に飛び交うようになる。やがて物語の進行と共に椅子取りゲームも緊迫感を高め、挙句の果てに登場者たちは椅子の周囲を激しく回りだす。それがピークを迎えると、人々は疲労感の中で動きを停滞させ、各々の行動も謙虚な様相を示し始める。

多田淳之介の率いる東京デスロックは、2007年より平田オリザが主宰する青年団内のユニットとなり(青年団リンクという)、同時に、演劇の最大の魅力を「目の前に俳優がいること」と位置づけ演劇の可能性を追求する“unlockシリーズ”をスタート。一貫して「演劇」のあり方、自明性を疑った地点 から、アクチュアルな演劇を立ち上げる活動を行っている…のだそうだ。そして今度は、青年団リンクから離れ、ドラマ「SP」出演やガーディアンガーデン演劇フェス出場などを経て、新たに富士見市民文化会館キラリ☆ふじみのフランチャイズ劇団としてやってゆくらしい。そういえば、以前、『ロミオとジュリエット』をキラリ☆ふじみでやったときは、“だるまさんがころんだ遊戯”の中にロミジュリの台詞をちりばめながら、その世界をうまく同期させ、評判を呼んだそうだ。かくのごとく、非常に自由な解釈で、大胆かつ不親切に、実験的表現をする劇団なので、「なんじゃこりゃ」と見られることも多いようだ。まあ、自明性を疑いながら演劇をやるからには、そういうきわどい綱渡りは避けて通れないもんだよね。

で、今回の『WALTZ MACBETH』においては何故、椅子取りゲームだったか。そもそも『マクベス』は欲望に衝き動かされる人間の物語。欲望がさらなる欲望を生み出し、エスカレートしてゆくドラマ。椅子取りゲームは、まさしく欲望を発動させる装置として、『マクベス』にふさわしい。ということで、この遊戯が作品のフォーマットとなったようだ。そうして、生れ出ずる“欲望”、それは、人間的な、あまりに人間的な主題といえるだろう。動物のDNAにセットされた「本能」というプログラムが壊れて、その欠如部分を埋めるべく、人間には欲望が湧き続ける。とりわけ、性欲。そして、利潤へのあくなき欲望=資本主義。彼らは、椅子取りゲームという身体運動として再生される『マクベス』の中に、セックスと資本主義という、二つの人間的問題を隠喩として多層的に取り込んだと、私は踏んでいる。だから、アップテンポのロック音楽と共に男女たちが回転速度を上げるシーンは、快楽エクスタシーに向かって昂揚する肉体と、資本主義の加速化を同時に見た思いがした(と同時に、「ちびくろサンボ」の虎バターをも彷彿とさせずにはいられない)。また、その後、一転して疲労し、停滞するシーンには、去勢とバブル崩壊後のどんよりとした不況を重ねて見てしまった。

と同時に、である。東京デスロックの俳優たちの身体を通して、マクベス/椅子取りゲーム/セックス/資本主義の時間論的同期を見た私は、東京デスロックのあり方自体にも、同じ欲動の同期を感じたものだ。新しい差異化への野望を、器用なまでに常に絶やすことのない流動体としての彼ら。ならば、彼らは本当に「デスロック」(死錠)から「unlock」(解錠)と名前を変えて、その自在な彷徨を加速化させるべきかもしれない。

…さて、そうなるとだ。つまり、多田淳之介=東京デスロックのありよう自体が『マクベス』の放つ資本主義的なベクトルと同期していると見るならば、だ。岩井秀人のありようもまた『オイディプス』志向というか、オイディプスコンプレックス的ベクトルと同期してるようにも思えてくる。彼の劇世界には常に母親の影がつきまとう。理不尽な暴君としての演出家や店員の登場は、憎むべき父親だろうか。さらに、岩井の「ひきこもり」だったという過去に、胎内回帰願望みたようなものが垣間見えなくもない。とすればだ、もうひとり、前田司郎の作る小さな劇宇宙、布団という名の劇世界、これもまた、胎内イメージに重ねられなくもない。ちなみに前田司郎は、あのグルメ漫画『美味しんぼ』を異様なまでに愛読する男であるが、『美味しんぼ』の士郎の原動力の中がオイディプス・コンプレックス以外のなにものでもないことは誰も否定できないだろう。ああ、だから、岩井と前田は仲がよいのか。そして、多田とは全く向きが違うのか、といえば、いな、そうでもない、と思う。

資本主義はたえず流動化をもたらす一方で、人々にオイディプス・コンプレックスという内なる欲望の歪みをもたらすと、ドゥルーズ+ガタリは、その名も『アンチ・オイディプス』という著作の中で、指摘している。だとすれば、多田と、岩井・前田は実のところ表裏一体の現象といえるのではないだろうか。そして、その意味では、東京デスロックに岩井が客演する、東京デスロック 演劇LOVE in KOBE『3人いる!』という作品(神戸のみで上演)は、見ておくべきかもしれない。まったく、どんな作品なのか知らないけれど、そのタイトル「3人いる」の3人とは、ひょとして、マクベスとマルクスとフロイトだったりするわけではないだろうね?

リアルの彷徨(その2)

“静かな演劇”とか“現代口語演劇”と称せられる、劇団青年団の平田オリザが確立させた演劇スタイルがある。その“静かな演劇”を、その風味を失わせることなく、しかも歌ったり踊ったりすることなしに、ミュージカル化させることは可能か、という試みを、青年団演出部の柴幸男がおこなった。それが、青年団若手自主企画公演、現代口語ミュージカル『御前会議』(4月7日~4月14日、アトリエ春風舎)だった。以下、青年団演出部・柴幸男による宣伝文章をまるまる引用しよう。

「かつて青年団は演劇の恥ずかしさを徹底的に改革して。大声は恥ずかしいので聞こえる程度の声量で話した。前ばかり向いているのは不自然なので後ろを向いた。全員が同じ話をしているのは変なので会話の輪を複数作った。そして“静かな演劇”が生まれた。ミュージカルは恥ずかしい、とよく人は言う。なら作ろうではないか、恥ずかしくないミュージカルを。それはきっと急に踊り出したりしない。大見得を切って歌ったりもしない。しかし、音楽と芝居が融合し、音楽劇として成立している。それが私の考える現代口語ミュージカルであり、静かなミュージカルである。この企画は平田オリザの『御前会議』をテキストに音楽劇と対話劇の両立を目指す。まずはメロディ。ミュージカルの現代劇化を邪魔しているのはメロディだ。楽しいときはアップテンポ。悲しいときはバラード。メロディラインにのせて劇中人物が感情を歌い上げる。この関係を断ち切る。音楽に感情を説明させない、歌わせない。音楽と劇中人物に協調関係を結ばせない。ではどうやって音楽と芝居を融合させるのか。ひとつ、アイデアがある。以上、口から出まかせ。しかし耳ヲ貸スベキ。」(引用、ここまで。)

果たして、そのアイデアとは、ラップであった。しかしまあ、普通、ラップと言われて、すぐに頭に思い浮かべるのは、キャップを後ろ前に被り、ダボダボのバミューダ・ショーツを穿いた不良ぽい三人組が「なんとかでYO!かんとかでYO!」とわめきながら前進し続けるみたいな?、あるいは、新宿駅東口のメガネスーパーの名物呼び込み(参考映像 )みたいな?、そんなイメージだが……つまり何が言いたいのかっつうと、要するに、ラップというものが(資本主義的商品として流通されるようになって以来)それ自体、ハタから見て、けっこう恥ずかしい、反リアルな表現形態ではあるのだ。が、しかし、青年団演出部・柴幸男の目指したものは、“恥ずかしくないミュージカル”なわけだから、そこは、ラップ効果も不自然に突出することなく、デリケートに滲み出る仕掛けを周到に心がけていたと考えられる。

さて、舞台。町内会なのか何の集まりなのか、会議が始まる。しかし、その会議がまたひどく迷走している。だが、会議は続けなければならない。そんな不条理な空虚をたたえた空間の中に、時おり規則正しいビートがBGMとしてインサートされてくる。すると、数人で応酬される台詞が、すんなりとリズムに同期して、ビミョーなラップが出現する、といった按配なのである。徹底的に日常性に則した演技スタイルを持つ青年団が、ドリフ的といえそうな、奇妙な磁力によって、非日常の方角へとビミョーに歪められてゆく違和感は、これ、ビミョーであればあるほどワビサビチックに可笑しい。

しかし、さらに、である。舞台も終盤に近づくにつれ、会議の方向性が狂気度をエスカレートさせてくるのだが、これに伴走するようにラップ表現も徐々に慎み深さを欠いてくるように、私にはきこえた。もちろん、今回のテキスト自体、平田オリザ作品の中では、やや異色なナンセンス・コメディーであり非日常的方向に開けた戯曲、というか、もっとも遊び易い戯曲であり、それを選択したことも戦略的周到さの一貫に違いない。そのことで、台詞とリズムを同期させるという局地的関係にとどまらず、戯曲内容の非日常度とラップ濃度をも同期させるという方法論的関係性を作り上げることができた。すなわち、“現代口語演劇”という手法自体をマテリアル化してみせたといえるだろう。

かくして、リアリズムに則った“静かな演劇”と、反リアリズムに則った“ミュージカル”は、ラップによる同期化を通じて構造的レヴェルでの融合を果たしたといえる。それを実現した柴幸男の功績はもちろんあるのだが、もっと考えれば、平田オリザ自体が、自らのドラマトゥルギーを「マテリアル化」させるためのベクトルを、手法・戯曲・組織といった、様々な面において(意識的ないしは無意識的に)潜ませていたのかもしれず、だとすればその周到ぶりはなかなかなものだなあと思った。

ところで今回の柴幸男、「ミュージカルの現代劇化を邪魔しているのはメロディだ」「メロディラインにのせて劇中人物が感情を歌い上げる」として、“メロディ”を悪役と仮定し、手っ取り早く、その部分を切除した。また、“踊り”も恥ずかしいものと見なしているのであろう、その要素も除去して、結果的に、言葉を無機的なリズムにだけ寄り添わせることにした。ただ、そうすることによって“ミュージカル”と呼ぶには、“ミュージカル”の側での犠牲部分が大きいという印象も残る。それはただ、ラップ調の“静かな演劇”であって、昨今流行の、ラップ調のリズミカルなお笑いと大差ないようにも受け取られかねないだろう。“ミュージカル”というからには、メロディとリズムによって成る歌、そしてダンス、これらが最低限揃っていてこその“ミュージカル”であって欲しいとも思う。しかも、そこから“恥ずかしさ”を取っ払う試み。そこまで考えるとするならば、どんなことが考えられるか。

たとえばメロディに関していえば、スティーヴ・ライヒが『ディファレント・トレインズ』(1988)で試み始めて、『ザ・ケイヴ』(1993)で大きな完成を見せた手法、というものがひとつの参考になる。言葉というものは外部のメロディにのせなくとも、言葉そのものの中にメロディが含まれている。しかし、普段の会話は音楽性が顕在化されないので、言葉をフレーズで切り取って、それをメロディの素材として再構成することで音楽として生まれ変わらせる。『ディファレント・トレインズ』では、「from CHICAGO」「to NEW YORK」という生の言葉の切片が、そのまま、けっして大袈裟でなく、自然かつ含蓄のあるメロディとしてサンプリングされ、その後の展開のキーとなる。『ザ・ケイヴ』では、アラブとユダヤの両民族が崇拝する「ヘブロンの洞穴」という場所をめぐる、両民族の関係者のインタビュー映像から、これまたやはり言葉に対応するメロディが抽出され、それが宗教・歴史・政治の根源を垣間見せる音楽として、思いがけない「リアル」の深みへと我々を誘ってゆくのだ。ここにおいて、音楽とは、あるいはメロディとは、人間文化の根源的なものであって、必ずしもナチスばりに恥ずかしい感情的誇張をおこなうだけの表現装置ではないことを改めて認識させられる。

一方、ダンスに関していえば、昨今のチェルフィッチュ(作・演出:岡田利規)のアプローチはやはり無視すべからざるものであろう。普通に考えれば、口語の中の無駄な喋り、そして無駄な身振り手振りの、その敢えて無駄な部分に、特殊な焦点をあてることによって、不思議なダンス性やリズム性を浮き彫りにさせてゆく。しかも、そこを通じて、時代の構造的問題を「リアル」に共感させるのである。つまり、ダンスもまた、表現主義的な装飾ではなく、人間それ自身の内側、根源にあるものなのだと、改めて思えてくる。ダンスなるもの、やっぱり人類学の領域なのですねえ。

そういえば、思想家にして音楽家でもあったジャン・ジャック・ルソーは、日常語から詩が作られて更に音楽へと発展したという一般的な考え方を持たず、音楽と詩と日常語が一挙に現れたと考えていたそうだ。人類学者クロード・レヴィ=ストロースも、その考えに共鳴し、人間の精神の基本は、神話と詩と音楽によって作られたと説いていたそうだが(『網野善彦を継ぐ』講談社刊)、そこにダンスも加えていいのではないかと私は思う。つまり、人間文化の根源に、そもそもミュージカルは存在する。…それに近い考えを、たしか、アントナン・アルトーも述べていたのではないかと思い出し、『演劇の形而上学』という文献を、わが家の積ん読(ツンドク)の山々を探し始めたところ、いましがた、書物のものすごい雪崩が発生した。これから私は、賽の河原の石積む子供のように、本を積み直さねばねばならないので、今回の考察はここまでとさせていただく。

リアルの彷徨(その1)

酒の席では、仕事の話をするのはイヤで(酒がまずくなるから)、文化や政治の話とかするのがやはり楽しい。それも、思いっきり青臭い議論に発展してゆけばご機嫌だ。ほろ苦い青春からズルズルと脱却できない、青い臭みを肴に、温めの燗などチビチビあおる。ま、そんなこと書く以前に、そもそもこのブログ自体からして、なんともガキっぽい尻の青さを露呈しているわけで…。

先日、空間ゼリーという新進劇団の芝居を観劇した後の飲み会の席でも、そこの演出家である深寅芥と、少年王者舘主宰の天野天街と、そして私とで「演劇におけるリアルとは何か」という、とてつもなく「青い」、というか、むしろ「蒼い」とさえいえるテーマを語り合ったのは、恥ずかしながら楽しかった。そんな、もはや語り尽くされたような議論を今更蒸し返して何になる? 「リアリズム」と「リアル」の違い、とか、「リアリズムの新劇は本当にリアルか」「静かな演劇は本当にリアルか」みたいな話を、深夜に、酔っ払いながら、ダラダラやる。ついさっきまで、同じテーブルに坐っていたはずのシベリア少女鉄道・土屋亮タンなどは、いつの間にか、向うのテーブルの毛皮族・江本純子のテーブルのほうに移ってるし…。

そもそも、何が「リアル」なのか。「リアル」の基準はどこにあるというのか。そして何故「リアル」でなければならないのか。…そういえば、空間ゼリー主宰の坪田文が成人式の日に観たという天野天街演出の『真夜中の弥次さん喜多さん』(しりあがり寿の漫画の舞台化)では、しきりに弥次喜多が自分達のいる、紙のように薄っぺらな現実世界を「リアルじゃねえ」と嘆いていたものだ。これを裏返すならば、或る人々にとっては、痛み、悪臭、欲情、湿り気、粘り気、野生的…などといった濃厚な生々しさが、「リアル」なのかもしれない。その方向性なら、今ならポツドールが断然チャンピオンだろう。一方で、平田オリザ=青年団の「静かな演劇」系タイプはどうなのか。繊細な息遣い、曖昧模糊とした日常性、非物語性、小声の会話。これらも、或る意味、都市生活における「リアル」には違いない。「リアル」の振り幅は大きい。

一般に演劇は、ナマの表現であるから、本来が「リアル」志向である。テレビや映画やパソコンなどの「ヴァーチャル」に較べて、生々しい筈である。しかし、テレビや映画やパソコンに到底かなわない、薄くて、白々しく、浮かれた演劇も数多い。しかも、それが必ずしも「全部悪い!」というわけでもない。例えば、現在、活動を休止している、野鳩はどうか。学芸会のような平たい演技。ご都合主義的な物語。「リアルじゃねえ」といいたくなる。キッチュといってもいい。しかし、戦略的に貫かれたキッチュの美学は、いかに「反リアリズム」であっても、それなりに観る側の魂に何かが響いてくる。一方で、「リアリズム」を掲げる新劇の、観る側に何にも響いてこない、戦略なき優等生的な舞台なぞに時おり接すると、「リアリズム」なのに「リアルじゃねえ」と思わせるのはいかがなものか、と苛立ちを覚えずにはいられない。やはり、戦略だとか、もっといえば悪企みとでもいおうか、さらには悪意の類いといってしまってよいか、そういうことが、「リアル」に近づく重要な要素なのだと思う。

そういう意味では、最近観たディズニー映画『魔法にかけられて』は、全編に悪意が漂っていて、私にもなかなか楽しめるディズニー映画だった。…というか、正直言って私は、ディズニー映画は、ほとんど観ていなかった。そんな私が何故、これを観に行ったかといえば、一つには、『Rent』のモーリーン、『Wicked』のエルファバでおなじみ、イディナ・メンツエルが出演するからであり、もう一つには、ディズニー映画でありながら、セルフパロディによって自らをおちょくる内容になっていると聞いたからであった。この映画は、「ニューヨーク」という現実空間の中に、「ディズニーファンタジーアニメ」という非現実空間を混入させることで生じるカオスを面白可笑しく描いたものだ。あるいは、リアリズムと反リアリズムを衝突させて、その化学反応の中に一抹の(もしくは、一瞬の)「リアル」(?!)を浮かび上がらせる映画と言い換えてもよい。

「ディズニーファンタジーアニメ」界の中の重要な日常的要素といえば、「魔法」と「ミュージカル」である。ニューヨークに“落ちてきた”ジゼル姫(彼女はその瞬間から、“アニメ”でなく“実写”の存在となる)が、彼女にとっての日常的振る舞い(すなわち「魔法」と「ミュージカル」)を示すたびに、それが「ニューヨーク」という現実空間にとっては非日常的事件となる(ちなみに、魔女顔のイディナ・メンツエルは、我々の期待を完全に裏切って、ごく普通の「日常」の住人として登場していた)。

ところで、昨年公開されたディズニー映画で『レミーのおいしいレストラン』という、可愛らしい鼠がレストランの厨房で料理を作るアニメがあったのは憶えておいでか。ところが、『魔法にかけられて』においては、実写の、リアルな鼠の群れ、そしてリアルなゴキブリや鳩の群れが、ミュージカルの調べにのって、料理や掃除をしてくれる。悪趣味の極みといえる。そんな、「きれい(ファンタジーミュージカル)」と「きたない(グロテスクな現実)」の交叉するところに、思いがけず、まるで火花を散らせるがごとくに鮮やかに「リアル」を浮かび上がらせる手法は、さしづめゴキブリコンビナートのミュージカルに近かった(かのミュージカル『CATS』の中にもゴキブリたちが踊るシーンてのがありましたけどね)。

「きれいはきたない、きたないはきれい」という『マクベス』の魔女の言葉にあるような、両義性を同時に認知できるような、悪意ある仕掛けが成功する時、人はそこに魔法のように「リアル」を見出すのではないか、と私はその時思った。ガルシア・マルケスらラテンアメリカ文学に代表される“マジック・リアリズム”に連なる。そしてまた、以前、維新派の松本雄吉がポツドールのことを評して「ウンコを喰ったことのある者にしかわからないファンタジーがある」と言ったことも思い出される。もちろん松本雄吉は、かつて本当に劇中でウンコを喰ったことがあるからこそ、そういう錬金術的な詩的言語を吐けるのだ。

しかし、リアリズムと反リアリズムをミックスさせるにしても、必ずしも過剰で表現主義的な“マジック・リアリズム”にはしない手法もあるようで、その実験的試みとして興味深かったのが、最近上演された、青年団若手自主企画、現代口語ミュージカル「御前会議」(作:平田オリザ 潤色・演出:柴幸男)という舞台であった。(次回に続く)