もずくスープね -6ページ目

熊本へ 熊本へ

毎週日曜、欠かすことなく見続けているテレビ番組の一つに『ロンQ!ハイランド』がある。なんといっても「プープー星人の逆襲」は圧巻だ。プープー王子の率いる、ちびプーこと、プー子(巨勢晴香)とプー奈(中津川南美)の愛らしさといったらない…などと書けば、またまた「小学生大好き」みたいな、ヒジョ~にアブナイ印象を人々に刻印してしまうのだろうか。それは厄介だ。しかし、本日の『ロンQ!ハイランド』に出演していたロバートの秋山は、私なんかとは真逆のベクトルの持ち主というべきか、日頃から「熟女好き」を公言して憚らない。今日の番組の中でも共演者の斉藤慶子にしきりにアタックをかけていた。しかし斉藤慶子のほうは、秋山が「自分にとっては、由紀さおりさんも斉藤慶子さんも同じジャンルだ」と言うことに、ムッとしていた。

斉藤慶子といえば、かつては、宮崎美子と共に熊本大学出身の人気アイドル女優だった。そういえば、一昨晩は、熊本大学出身の劇団第七インターチェンジの団員2名、それと、やはり熊本を拠点とする劇団きららの団員2名と酒の席を共にする機会を得た。流山児★事務所公演『双葉のレッスン』(於ザ・スズナリ 作:ごまのはえ 演出:天野天街)の中日打上げでのことだ。熊本の若き演劇人4人は、同公演を観る為にわざわざ東京まで来られたそうである。彼らは、今回の公演を企画製作した流山児祥、そして今回の演出を担当した天野天街が、先月、熊本で「演劇大学」なるワークショップを開催した折の、受講者だったという。

かくいう私は熊本には行ったこともないし、熊本に関する知識もあまりない。ただし、興味はある。だから、熊本の若人たちから、いろいろな熊本事情を聴けたことはとても有意義だった。この酒席には、天野天街や、Kudan Projectの小熊ひでじもいたのだが、Kudan Projectが名古屋で上演した『百人ヤジキタ』(しりあがり寿の漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』を、天野天街作・演出により百人の役者が登場する舞台に仕立てた)の続編を、いつか、熊本城前の広場でやりたいね、みたいな話になって少しばかり盛り上がった。そうなると、我がイマジネーションはどんどん膨らんでゆく。

お伊勢参りに出掛けた弥次喜多が、なぜか江戸に戻ることなく、さらに西方に向かううちに、時代は明治へと移り変わり、いつしか西南戦争に巻き込まれてしまうというストーリーが浮かんだ。そんな中、二人は離れ離れとなり、それぞれ薩軍と官軍に分かれて戦わなきゃならなくなる、みたいな感じ? まあ、弥次喜多が書かれたのは1800年代の初め頃、一方、西南戦争は1877年であるから、設定に少々無理があることは否めないが、天野天街も私も共に大好きな『てなもんや三度笠』が、やはり江戸時代から明治維新にかけてのロードムーヴィー(ロードドラマ?)だったので、それに対するオマージュとなっている。もちろん場所柄、西南戦争の緒戦となった熊本城攻防戦が、この芝居のクライマックスとなる。官軍側の熊本鎮台司令長官の谷干城少将や、これを攻める薩軍側の篠原国幹、村田新八、桐野利秋、別府晋介らも登場することになる。いや、それ以前に、もちろん西郷隆盛や大久保利通も登場しなくては面白くない。こうして、暢気で不条理なロードムーヴィーと、スリリングな政治劇と、壮大な戦闘スペクタクルが入り乱れる不思議な演劇作品となるはずである。あ、そうそう、熊本城の天守閣が炎上する場面では、築城者である加藤清正公の幻影も登場する。

私の、いつも靄がかかったような脳髄が、こういうことを考えるとイキイキとしてくるのは、最近、池波正太郎の『その男』、そして話題沸騰中の和田竜『のぼうの城』『忍びの国』を、短期間のうちに立て続けに読んだせいである。いずれも大変面白い読み物だった。すっかり痛快時代小説モードに染まってしまった。そうなると、熊本城攻防戦も同じようなノリで想像可能となってくる。…ま、そんなことを、酒を呑みながらワイワイと楽しく語らっていると、ちょっと離れた席から流山児祥氏が「今度、長谷川伸をやろうと思っている。演出は天野で」と言ってきた。「どうだ、面白いだろう」と、その目で言わんとしている。ほほう…。意表をつかれた、というべきか。

(前述の池波正太郎もかつて師事したことのある)長谷川伸が、何故か近頃ちょっとしたブームである。SISカンパニーは『瞼の母』を上演した。また、長谷川伸歿後四十五年記念として「長谷川伸傑作選」全3巻が国書刊行会より出版されつつある。仮に歿後四十五年なのだとしても、いま、なぜ長谷川伸なのかは、その事情を、いまいちよくわかっていない私ではある。が、演歌界随一のディーヴァたる島津亜矢(彼女は熊本県出身である)の「名作歌謡劇場」を常日頃から愛聴してやまない私なればこそ、「一本刀土俵入り」「瞼の母」「沓掛時次郎」など、長谷川伸ワールドにはそこそこ馴染んでいるつもりだ。天野天街氏は、「瞼」という身体の現象学的装置を活用したいという観点から『瞼の母』に興味があるようだが、流山児祥氏によると「『瞼の母』はチャンバラがないからダメ。その意味で『雪の渡り鳥』をやりたい」そうだ。

「それはさておき、あんどうよ」とさらに流山児祥氏、「『双葉のレッスン』は面白かっただろう?」と、訊いてきた。うーむ。『双葉のレッスン』は、「面白かったですね」とひとことで言ってしまうのはもったいないような、奇妙な余韻を残す作品であった。降る雨は止むことを知らず、限りなく洪水に近い状態の中で人々は或る旧家の洋館に避難してくる。その中で謎深いサスペンス・ドラマが男女たちによって繰り広げられてゆく。しかも、その洋館さえも水底へと沈みかかっている…。そこに、天野天街の得意とする反復と差異の運動作用が随所で働いて、観客は物語をどう判断すべきなのか眩惑を覚え始める。

…さて、我が個人的な経験として、和田竜の『のぼうの城』を読んだばかりであったことは前述の通りである。豊臣秀吉による小田原北条攻めの際、別動隊を命じられた石田三成が、北条方につく武州忍城を攻めるにあたり、秀吉の有名な備中高松城攻めに倣って、同様の水攻めを忍城に対しておこなうも、こちらは結果的に失敗に終わったという史実がある。これを魅力あふれる痛快娯楽時代小説として描いたのが『のぼうの城』である。この時、人工湖のどまんなかに浮いたように見えた忍城は「忍の浮き城」と呼ばれたというが、その光景と、今回の『双葉のレッスン』の洋館のイメージが、自分の脳髄の中ではほとんど重なっていったのである。或いは「浮き城」というよりも、辻井喬の詩/小説の題名よろしく「沈める城」のイメージのほうが適切かもしれない。そんな「沈める洋館」の中で、あたかも梅原猛が柿本人麻呂の悲劇を描いた『水底の歌』と、ディズニーランドの『ホーンテッドマンション』が交差するようなイメージで、「水底」での死の舞踏会が繰り広げられる場面は、哀しく怖く美しい。そして、天野作品としては珍しい洋館でのサスペンス、しかも不思議な反復技法で描かれる様は、今年2月に亡くなった仏作家アラン・ロブ=グリエが脚本を書いた傑作映画『去年マリエンバードで』(アラン・レネ監督作品)を思い出させるものでもあった。そういう意味で、『双葉のレッスン』は、『去年マリエンバードで』×『のぼうの城』÷(『水底の歌』+『ホーンテッドマンション』)として楽しめるものであった。

とまあ、そんな極めて個人的な感想を流山児氏に伝えたところ、「あんどうは、どうしてアラン・ロブ=グリエなんか知っているんだ」と意外そうな表情を見せる。「ええ、まあ。学生時代は、ちょこっと現代フランス文学を噛っていたもので…」などと適度にお茶を濁し、その場をやり過ごした。「私が大学時代に所属していた仏文ゼミの教授は、ロブ=グリエ『嫉妬』の翻訳者だった」などと答えようものなら、本当のことではあるけれど、なんだかいやらしい印象を醸し出していたことだろうから、そこまで言わなくて正解だった(その割に今書いているけどなっ)。とはいえ、熊本の若人との語らいも影響してか、ほんの一瞬ではあったが、大学時代の思い出が懐しく脳裏をよぎった。(ついでに書くと、雑誌「新潮」7月号の、浅田彰によるロブ=グリエ追悼エッセイは傑作な内容でした…。)

さて、熊本の若き演劇人たちとの語らいはさらに続く。話題は阿蘇山へと向かった。私が、阿蘇山から出現した空の大怪獣ラドンの話をすると、熊本の若人は「知らない」という。しかし、ゴジラやモスラのことは「知っている」という。「えっ、そうなのか」…世代差を改めて痛感する。しかし、他県の人間ならいざ知らず、「熊本演劇人ならば、ラドンのことは知っておく必要がある」と忠告しておいた。その後、熊本と名古屋の気候の共通性に関する話になり、天野天街氏は「愛知県には伊吹おろしという風が岐阜のほうから吹いてきます」と話した。伊吹おろしといえば、前回紹介した谷川健一の『青銅の神の足跡』に登場する、たたら製鉄と関係する風のことである。伊吹と伊福部家と古代金属との関係。そして、伊福部家といえば、自らも仕事中に放射能に被爆した経験のある作曲家、伊福部昭。もちろんゴジラやラドンの音楽は伊福部氏の仕事にほかならない。そういう連鎖話を熊本の若人に聴かせて、「その意味でも、やはり熊本県人だったらラドンはおさえておかないといけないよね」としつこく念押しした次第であった。すると天野氏は「ラドンというのは、本来、放射性元素だよね」と指摘した。となると、水爆実験で第五福竜丸と共に被爆して巨大化した怪獣ゴジラみたいに、翼竜プテラノドンが(例えば長崎原爆などで)被爆した結果巨大化した空の大怪獣がラドンなのだろうか(ちなみにプテラノドンという固有名詞の中にはラドンやノドンという単語が含まれているのが興味深い)。そして、阿蘇山といえば、これも前回言及した星野之宣の、『ヤマタイカ』を抜きにして語れないだろう。「阿蘇山をめぐる火山信仰が重要な主題となっている『ヤマタイカ』もぜひ読んでおくように」と、熊本の若人の、彼らの遺伝子に組み込まれているはずの火の国の郷土意識をさらに焚きつけておいた。と同時に、またしても「伊福部昭を聴きながら星野之宣を読んでみたい」と思ったのだった。

とりあえず、その時その場ではそこまでしか考えが及ばなかったが、帰りの電車の中でよくよく考えたら、伊吹おろしの伊吹山、そしてクマソタケルの熊本県。いずれもヤマトタケルの重要な足跡ではないか。愛知県の天野天街と、熊本の若人たちとの間には、そんな歴史の古層における不思議な縁が見え隠れする。なんだか、面白くて、ゾクゾクっとしてくる。結局朝まで呑んでしまったので、昼過ぎまで寝ていたら、電話がかかってきて目が覚めた。大学時代の友人で、今は国書刊行会(例の長谷川伸の傑作戯曲集も出している出版社である)の編集長をやっている磯崎純一さんから「今度、仏文科の同窓会をやるんで出席せよ」との連絡であった。「前向きに検討します」と答えたが、いささか寝ぼけ気味であったため、「いま何故、長谷川伸がこんなにもてはやされているのか」という昨日来の疑問をぶつけることをうっかりして忘れてしまった。

「伊福部昭を聴きながら星野之宣を読んでみたい」と思った日のこと

後藤ひろひと作・演出の『恐竜と隣人のポルカ』を、数日前にパルコ劇場で観た。これぞ後藤の真骨頂が発揮されている作品だと、素直に楽しめた。…ちなみに「真骨頂」って何だ。もちろん、使用法としての意味はわかるが、単語そのものの成り立ちはよくわからなかったので、気になってネットで調べてみると、「真=本当の/骨=物事の核心/頂=これ以上はないという状態」ということらしい。よって「最良の本質的姿」という意味をあらわすそうだ。

通常、世間一般的に、後藤ひろひとの「最良の本質的姿」たる真骨頂は、「笑い」「泣かせ」「マニアック」の三本柱とされている。ただし、私は、「泣かせ」とか「センチメンタリズム」とか「人情話」といった類いがすこぶる苦手なタチなので、後藤の脚本ものでも、そういうのが入ってくると、これまでいささかの当惑を禁じ得なかった。一方、彼のナンセンスコメディのセンスたるや、これは卓抜なものがある。私としては、純粋に「笑い」だけを追い求めていたい。よく、ステーキラーメンとか蟹ラーメンみたいな贅沢グルメがテレビ番組で紹介され、「うわっ、なんて美味しいんでしょう!」とリポーターはのたまうが、私からすればそれは大いなる疑問であって、ステーキはステーキだけ、蟹は蟹だけ、ラーメンはラーメンだけで、それぞれ集中して食べることで、それぞれの真の旨味を理解することができると考える。だから、お芝居にしたって、「涙あり笑いあり」は、私の個人的な趣味嗜好からすると、同じ皿に盛りつけないで欲しいのだ。

で、話を戻すと、今回の『恐竜と隣人のポルカ』は、ほぼコメディに徹しているし、もうひとつの後藤の特質である「マニアック」さも、コメディにとっての相性のいい調味料たりえているので、個人的には「これぞ後藤の真骨頂」だと思えた次第である。いやもう、私は「泣かせ」抜きの後藤は、本当に大好きで、もし『The Office』(英国BBCのコメディドラマ)の日本版が作られるようなことがあるとしたら、リッキー・ジャーヴェイス演じるセクハラ支社長デヴィッド・ブレントの役はぜひとも後藤で見てみたい、とさえ思っているほどなのだ。

さて、『恐竜と隣人のポルカ』。今回の公演パンフレットをめくると、後藤は、『空想科学読本』の著者である柳田理科雄と対談している。柳田は、実在した恐竜も、空想上の怪獣も、つまり、ティラノサウルスもゴジラも同じ土俵の上で分け隔てなく科学的に論じる。だから後藤にも「柳田さんは特撮・空想系の話と科学の至極真面目な話を、同じトーンで話されている。聞いているとどこまでが空想かわからなくなりますね(笑)」と指摘されるほどだ。これに対して柳田「基本的に僕の話は、“ウルトラマンは本当にいるんだ”と信じるところから始まっていますから」と答え、また「僕は学問として恐竜に接するのではなく、憧れでアプローチしていますから」とも述べている。後藤もまた、「どうも僕は(自分の作品の中で)恐竜やロボット、宇宙人なんかを使いたいという衝動が抑えられない」といった心情を吐露している。二人とも、少年時代と現在が同じ心理でつながっている感じがして微笑ましい。

ときに恐竜の話といえば、星野之宣の傑作恐竜漫画『ブルーホール』そして『ブルーワールド』を抜きに語ることはできないが、星野は中学生の時すでに、星新一の『午後の恐竜』という小説を、恐竜漫画として(それもけっこう巧みに)描いているのだ(…ちなみに、前述の公演パンフレットの対談の中で、後藤は「人類滅亡の際には“地球の走馬灯”が見えるかもしれない。進化や恐竜のスゴイ秘密まで見て、この星がパタッと終わるような気がします」と、星新一『午後の恐竜』さながらのヴィジョンが現実化する可能性をも指摘している)。

こういう人たち、つまり、後藤にしても柳田にしても星野にしても、少年時代に芽生えたマニアックな好奇心を大人になってから、自分自身で切り拓いたフィールドにおいて改めて追求できる人たちってのは、なんとも羨ましいかぎりだなあ、と思った。後藤に至っては、今回の芝居では、そのマニアックの対象が、必ずしも恐竜だけでなく、アイドル石野真子だったりもするわけで、これがまた嫌味なまでに羨ましく見える。きっと石野真子は、後藤の少年時代のアイドルだったに違いあるまい(かくいう私も、石野真子のことは、そこそこ好きだった。とりわけ筒美京平作曲の『日曜日はストレンジャー』はいまだに愛聴歌のひとつだ)。その石野真子に、彼女の往年のヒットソングの歌詞が多数ちりばめられた戯曲のうえで、よりにもよって石野真子という役で、かなりぶっ飛んだ、そう、“羽曳野の伊藤”(後藤が遊気舎時代に作り、久保田浩が演じた狂気のキャラ。これを持ち出すこと自体が相当にマニアックというべきか)を彷彿とさせるような芝居をやらせているのである。後藤的には、さぞや「願望充足」というか「ドリームズカムトゥルー」あるいは「長淵剛に勝った」といった感慨に浸っていることであろう。

観劇後に、気鋭のクラシック音楽評論家・片山杜秀による『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング刊)という本を買った。片山杜秀の書く文章は、博覧強記、そして、そのイメージ連鎖的な思考回路が実に面白い。既刊の『音盤考現学』も大変イマジネーションを刺戟される名著だった(吉田秀和先生も絶賛したという)。また、私は以前、朝日カルチャーセンターで片山杜秀が講師をした「シュトックハウゼン」という講座も聞きに行ったことがあるのだが、この時は人柄にも親しみがもてた。なんとも品格がある。

…そうそう、品格といえば、昨今、『○○の品格』といった「“品格”本」がやたら多い。最初は『国家の品格』だった。著者の藤原正彦は鼻毛を抜きながら“品格”を論じる原稿を書くそうだが、私も鼻毛を抜くのが好きなので、その“品格”の無さは、まあまあ微笑ましいと思う。とにかくこの本は売れた。だが、そのあとからがいけない。『女性の品格』という本がでて、大ベストセラーになった。この著者の坂東眞理子は、さらに『親の品格』なんてものまで出した。その裏では、渡部昇一が『日本人の品格』『自分の品格』なんて本を出している。あまり知られていないが川北義則著『男の品格』というのもあるようだ。これらのもの一切合切を読んでいない私であるが、かつて評論家の福田和也が何かの週刊誌で、坂東眞理子のことを「そもそもタイトルからして『国家の品格』のパクリでしょう。そんなパクリをするような人に品格云々を説かれても…」とコメントしていたことに尽きると思う。『○○の品格』とつければ売れるから、と、平気でパクリっぽいタイトルで本を出す感性とは、いかがなものか。そこに“品格”はない。だから、ほとんどの「“品格”本」は、「“品格”なき“品格”本」なのだ。あのねのねの「赤とんぼの唄」に倣えば、「“品格”なき“品格”本」はただの「本」である。何? ただの「本」だって? ただの「本」とは、かのマラルメが追求した「純粋なる書物」みたいじゃないか。「純粋なる書物」ならば、至上の“品格”を備えているはずだ。全くわけがわからない。

閑話休題。片山杜秀の新刊、『音盤博物誌』に戻る。さっそく私はペラペラとページをめくった。それによると、片山の音楽趣味の原点は、子供の頃、『ゴジラ』や『大魔神』の映画鑑賞を通じて出会った伊福部昭(いふくべあきら)の映画音楽にあるそうだ。言うまでもなく、伊福部昭は、日本の20世紀音楽界のパイオニアでもある。片山は伊福部昭の世界に惹かれ、追求するうちに、学生時代から伊福部本人と交流を持つようになった。伊福部から相談を受けることもあったそうだ。そんな片山なればこそ、日本の現代音楽を論じる際には、伊福部への言及が頻繁になされるわけだ。とすれば、彼(片山)もまた、少年時代に怪獣と共に憧れた対象と、大人になってから自分のフィールドにおいて、さらなる強固な関係性を持ち得た、羨ましい人種の一人といえるだろう。

そんなことを私は思いつつ、今度は帰りの電車の中で、日経新聞を開き、本日の「私の履歴書」を読んだ。今月は、民俗学者の谷川健一である。谷川はかつて肺を患い、生田緑地の一角に建つ稲田登戸病院に長期入院していたそうだ。そこで感じた己の情けなさがバネとなって、その後の旺盛な活動のエネルギーへと転じたらしい。私もまた7年ほど前に、肺炎をおこして同病院に1週間ほど入院した思い出がある(私の場合は、どちらかといえば快適なバカンスのような療養だったが)。そして、その思い出の病院が、昨年、閉院してしまった。なんとも淋しいかぎりだ。時代こそ違え、今はなき同じ病院に、肺の病で入院したことのある者としての共感を、私は谷川に対して抱いていた。

そんな谷川が、1975年、岐阜県不破郡垂井町にある南宮神社のふいご祭りを見に行った。南宮神社の近くには金生山という鉱山があり、かつて「たたら」という製鉄がおこなわれていた。そして、そのあたりには「伊吹おろし」と呼ばれる冬の西北風が吹く。その風が、昔は製鉄炉の炭を自然におこしてくれていたという。これを地元の宮司から聞いた谷川は、南宮神社の近くにある伊富岐神社(いぶきじんじゃ)も、また、それを氏神とする古代の伊福部(いふくべ)氏も、金属精錬に関係があるのではないかと思いついた。それをきっかけに著したのが、たたらと関係の深い伊福部氏の謎に迫った『青銅の神の足跡』だった。これは、谷川民俗学の代表作となった。

その『青銅の神の足跡』には、柳田理科雄、もとい、柳田国男の『一目小僧その他』批判も含まれていた。柳田国男は、「目一つの神」=「天目一箇神」について、祭りのときのいけにえとして予め一眼をつぶしておかれた習俗の名残としていたが、谷川はそれをたたら師の職業病の投影とする。すなわち、胴や鉄を溶解する仕事に携わる労働者が、炉の火を見つめ過ぎて一眼を失したものであると。

「私の履歴書」を読みながら私が興奮したのは、無理もない。片山杜秀によって論じられた伊福部昭の、そのルーツに係わる論考が、同日のうちに、私の目に飛び込んで来たからである。片山の『音盤博物誌』によれば、伊福部昭は、因幡国一宮は宇部神社の神官の家系という。その始祖は、国津神の大国主命とされる。谷川の『青銅の神の足跡』によると、その宇部神社の近くで銅壺や銅鐸が出土している。だとすれば、なるほど、伊福部昭の音楽、つまり皆さんもご存知の、一連の「ゴジラ」シリーズの音楽には、古代の製銅や製鉄の遺伝子的記憶が投影しているようにも聴こえてくる。そういえば、ゴジラの鳴き声も、金属的な響きがあるし…。

片山によれば、伊福部昭の父は北辺の開拓地・北海道に落ち、そこで昭が誕生する。昭はその地で、「被差別少数民族」だったアイヌ民族の文化に入れ込み、そのようなものの価値を認めようとしない当時の日本人の常識と対立した。また、戦時期には、放射線を使った木製飛行機素材用強化木の開発研究に従事し、そこでゴジラよろしく被爆してしまう。それほど苦労したのに、科学力の差でアメリカに敗けてしまい、そこから転じて破壊的・暴力的な近代科学に支えられた現代文明を嫌悪し、アイヌとの交流の中で培った原初的生命力への憧憬をつのらせ、そうした(先祖・大国主命以来の)「負の怨念の相乗が伊福部の音楽の熾烈な強度につながっている」のだそうだ。そして、そんな「熾烈な強度」の源泉を改めて確認するには、谷川健一を読むことが何よりも重要だと、私は思うのだった。伊福部昭の被爆エピソードにしたって、「胴や鉄を溶解する仕事に携わる労働者が、炉の火を見つめ過ぎて一眼を失した」という「天目一箇神」のイメージと、どうしたって重なりあう。

民俗学者・谷川健一の有名な仕事といえば、古代と金属をめぐる研究、そして白鳥伝説、また沖縄の研究などだが……こう書けば、そのすべてにリンクする漫画を私たちは知っているはずだ。そう、星野之宣の『宗像教授伝奇考』『宗像教授異考録』にほかならない! 一日の間に二度、星野之宣の話題に辿りついてしまったことに小さな驚きをおぼえつつ、星野之宣の一連の作品(たとえば『ヤマタイカ』なんかも含めて)を読む時には、伊福部昭の音楽がBGMとして合うのではないか、なんてことを、ふと思いながら、いまや不気味な廃虚と化した稲田登戸病院を横目に、生田緑地にほど近い我が家へと帰路を急ぐ私であった。

同期の錯乱(2) 或いは、MAD演劇の行方

かれこれひと月ほど前、ネット界を熱狂の渦に巻き込んだニコニコ動画の「IKZO祭り」。そのきっかけを作ったのは、言わずとしれた『StarrySky - IKZOLOGIC Remix』 (全農連P氏による)だった。が、まずその前段階として、『Capsule x Daftpunk x Beastieboys - StarrySky YEAH! Remix』 (Novoiski氏による)があったわけである。

Capsuleの『StarrySky』、Daftpunkの『Technologic』、Beastie Boysの『Ch-Check It Out』、いずれもとびぬけてカッコイイ、これらの楽曲およびPVを、このうえなく絶妙に切り貼りした結果、なんと、各原曲以上のカッコよさを放つ名作に仕上がってしまった。これだけでも凄いことだったのに…そこに全農連P氏は、吉幾三『俺ら東京さ行ぐだ』をさらに重ねた。するとどうだ、面白いだけじゃない、意外にも、切実でコクのある社会派ラップに仕上がってしまった。超カッコいいテクノ・サウンドに乗った、吉幾三の魂の叫びが、聴く者の心に鋭く突き刺さってくる。コミックソングの趣があった原曲よりも、遥かに感動的だ。Novoiski氏から全農連P氏への連携プレーの産んだ奇蹟の賜物というべきか。

こういうものに接すると、マッシュアップとかMAD動画の技術的進歩(そのためのフリーソフトもいろいろ出てきている)に加え、“職人”たちのセンスの向上ぶりにもまためざましいものがあるなあと改めて思い知らされる。そして、なにがしかの素材を誰かが、ミックスする。それを別の誰かが、さらなるミックスを重ねて面白くさせるという連携。作品とは、本来オリジナルなものとして個人に帰属するものだという「近代」的思考を超克し、かつての日本の「連歌」の如く、リレー的な共同創作行為によってそれが成り立つという発想。これすなわち、リナックス精神とでもいうか。本来、プロのオリジナル表現者にとって諸権利が重要なことは充分に承知している。承知はしているけれども、しかし、ネット社会でアナーキーに進行してゆく見事な表現民主革命に心躍らされてしまう自分がいることも正直に告白せねばなるまい。

マッシュアップとかMAD動画といわれるコラージュ作品を作るうえで、重要なポイントは「同期を図る」ことだろう。全農連P氏が使用している「trakAxPc」というフリーソフトなどは、BPM(Beats Per Minute=テンポの単位)を自動的に同期させる機能が付いている。こういう便利なものが誰でも使えるようになったればこそ、MAD動画の「祭り」も可能となるであろう。一方、MAD演劇はどうなのか?

…MAD演劇? もちろん、そんなジャンルはない。しかしである。前々回そして前回と、たて続けに演劇における「同期」のことを考察するうちに、シベリア少女鉄道のことを抜きにしては語れないんじゃないかと思った。そして、シベリア少女鉄道のやってきた、ひどく馬鹿げたことに思いっきり脳力を注ぐような、ある種の偏執狂的ともいうべき「同期」化への傾倒ぶり。それこそは、その創作精神の地平において、MAD動画とまさしく「同期」するものであって、これをMAD演劇と称してもよいのではないか、と考えた次第である。

土屋亮一率いるシベリア少女鉄道(以下、シベ少)は、2000年の6月、青春の恋愛模様を描いたシリアスなドラマが、後半からバラエティ番組『笑っていいとも』の進行と完全に「同期」してしまう『笑ってもいい、と思う』なる作品で旗揚げをした。私はこれを観て、見たことのないタイプの新しい演劇の出現に大変な衝撃をおぼえたものだった。以降、少しづつ作風が研かれてゆき、2002年3月の第5回公演で、一つの完成度に達した。作品名を『耳をすませば』という。

3つの短編ドラマが順繰りに演じられる。それらを仮にA・B・Cとしよう。その後に、再びAが上演される。その途中から、同じ舞台上で全く違うBが並列的に上演される。二つの異なるドラマが同時上演されるので、最初は見ていて訳がわからない。が、Aのほうで或る役者によって「命」という台詞が発せられている時に、Bのほうでは別の役者によって、「TIM」による「命!」という人文字ギャグのポーズが作られている。私達は、このような微細な「同期」がおこなわれていることに最初は気付かされるのだ。そこに、さらにCのドラマも加わって、やはり同じ舞台上で並列上演される。混濁度合いが強まる一方で「同期」への諸試みも散見されてくるのだが…或る時ついに、舞台上に突然スクリーンが降りてきて、そこから新しい流れが始まる。アニメ『アルプスの少女ハイジ』の有名な「クララが立った」の回が映し出されるのだ。しかし、その音声は、アニメドラマのオリジナルではなく、先程来のA・B・Cという異なる3つのドラマが重なったことによって発せられる台詞そのもの、それが今なお続いて、アニメの進行内容とピッタリ合致しているのである。この驚異の「同期」化を眼前にして私達は腰が抜けそうになる。

『耳をすませば』はスタジオジブリのアニメ映画として知られるが、シベ少の同名作品では、3つのドラマが同時進行する舞台に対して文字通り耳をすませば、その混濁の中から、かつてジブリのスタッフたちが係わっていた『アルプスの少女ハイジ』の物語が立ち上がってくる、という仕組みなのである。きわめて複雑な構造を実現させた作品であり、この一作で彼らの名は世に知れ渡った。ただ、或る種の人々が演劇という表現に期待するメッセージ性が皆無なだけに、「これは演劇とはいえない」といった批判も浴びせかけられたことも確かだ。だが、果たして、そうだろうか。下世話なメッセージなどなくとも、その独特な作劇術の根底に横たわる思考は、私たちに新しい「認識の枠組」をもたらしており、そういう意味で、そこいらに氾濫する普通のメッセージ演劇なんかよりは、よっぽど重要で革新的な演劇といえるのではないか、と、私はその時、ぼんやりと思ったものである。或る種の人々の批判や蔑視を見ると、かのロシアアヴァンギャルドに対して「社会主義リアリズムがない」として、「形式主義はけしからん」と弾圧したスターリンの思考に近いようにも感じるのだが、どうだろうか。

しかし、シベ少の躍進は続いた。翌年(2003,1/24~2/2)、さらにとんでもない作品を発表した。シベリア新喜劇『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』(於・王子小劇場)である。「シベリア新喜劇」という副題が示すとおり、この劇はまるで吉本新喜劇のような様式で進行する舞台だった。つまり、登場人物たちは何か事あるごとに、そのキャラに特有の「ギャグらしきもの」を発するのである。残念ながら、それらは必ずしも笑えるギャグではないという点において「ギャグらしきもの」なのだが、「新喜劇的舞台では、どんなにつまらないギャグでも、何度も発するうちに笑われるようになるものだ」という、作者・土屋亮一の持論が検証されるべく、登場人物たちの笑えないギャグは劇中において、いささか不自然ではあったが、たしかに幾度も繰り返されることによって、次第にギャグとしての体裁が整えられていった。

一方、それとは別に、登場人物たちの名前に注意する必要があった。一ノ瀬、二階堂、三鷹、四谷、五代、六本木、七尾と、これは高橋留美子の傑作漫画『めぞん一刻』と同じであり、その性格づけや描かれる人間関係も同漫画と共通している。つまり、新喜劇の系列が、『めぞん一刻』の登場人物たちによる別系列の物語に、明らかに「同期」しているのである。

が、新喜劇と人気漫画の「同期」を見せることだけが、シベ少の最終目的ではなかった。真の醍醐味は、この後に現れる。劇の後半部から、登場人物たちは競馬の実況中継をテレビで見るという展開になる。テレビ画面は観客に見えないが、その内容がわかりやすく反映された大きなボードが舞台の上方に現れる。そうすることによって、観客は競馬の状況をつぶさに確認できる。

すると、どうだろう。各登場人物が、それぞれの持ちギャグを発するたびに、各人物の名前に対応した数字の枠で走る、各ギャグに対応する名の馬が前に進む仕掛けになっているではないか。たとえば七尾が「ウレシインザスカイ」というギャグを三回発すれば、七枠の競走馬「ウレシインザスカイ」が三頭分前進して、いきなり先頭に躍り出る、といった具合だ。

観客は、ここでようやくタイトルの『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』の意味がわかってくる。競馬の各枠数の数字を名前に含む登場人物が、別の場所でたまたま発するギャグが、そのギャグを名前として持つ馬への声援となって、馬が奮起して前進する、という仕組みになっているのだ。この作品において土屋亮一は、新喜劇と人気漫画と競馬の3つの系列を「同期」させることによって、一つの大きな有機生命体のように作動する複雑なシステムを完成させたのである。作家=創造主だとすれば、劇世界の内部から見れば、作家とは神だ。だとすれば、『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』は、土屋亮一が神の視点で劇世界の上空から眺め、「同期」させる「必然」を複雑に絡み合わせて、神の手で描いた、いわば神の悪戯のような作品だった。

このようにますます手の込んだ「同期」化を見せつけられて、つい最近の私がそうであったように、当時の私もまた、「演劇における同期の問題」を考えていた。その意味とは何か。その先に何が見えるのか。作家の土屋亮一当人は、ただひたすらに、面白いことを考えていればいい。だが、私は、シベ少を見守って来た観客の一人として、「シベ少は演劇ではない」などといった無理解な批判や蔑視に対抗しうる意味とか意義めいたものを、なにがしか用意しておきたかった。

ちょうどその頃、シベ少とほぼ同時期(2003,1/22~2/2)の、同じ東京の空の下の、三軒茶屋シアタートラムなる劇場では、宮沢章夫の主宰する遊園地再生事業団が『トーキョー・ボディ』という作品を上演していた。これは、都市空間で繰り広げられる複雑な同期性を浮かび上がらせた作品であった。多様な空間での登場人物のセリフや動きが、多様な文学・映像・戯曲などの断片と次々にシンクロしてゆく。それにより東京が、一つの大きな有機生命体のように見えてくる。これは宮沢章夫が或る種の神の視点で東京の上空から眺め、「同期」させる「必然」を複雑に絡み合わせて、神の手で描いた、“東京物語”だった。こちらは、教養にあふれた知的実験というべき作風で、いかにも真面目なインテリゲンチャ達の称讃を浴びそうだなあという印象を抱いたものだが、実際、新聞などで高い評価を受けていたと記憶する。

だが、そんなこととは違う次元で、私は気付いてしまったのだ。三軒茶屋シアタートラムにおける遊園地再生事業団の『トーキョー・ボディ』の中で、コンビニ店員が執拗に「いらっしゃいませ」と繰り返す時、ちょうど王子小劇場におけるシベ少の『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』の劇中では、それまで無口だった喫茶店マスターの四谷が突然「いらっしゃいませ」を連呼し始め、それによって、4枠のイラッシャイマセという馬が一気に先頭に躍り出てゆくことを。つまり、現実の東京都の同じ空の下で、「同期」を描いた一つの演劇(『トーキョー・ボディ』)が、「同期」を描いたもう一つの演劇(『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』)に対して“同じ空の下で贈る声援”を作動させて、あたかも一つの身体=“トーキョー・ボディ”であるかのように「同期」化させてしまったのである。「同期」を扱う演劇は、やはり「同期」を扱う演劇と、「同期」してしまうのだ。その「偶然性」の意味は、もはや人智の及ぶところで考えられるものではないような気さえしてきた。

そこで九鬼周三の『偶然性の問題』という著作を紐解くと、こんなことが述べられている。「必然」は人智の及ぶ範囲内での因果の成り行きだが、「偶然」は人智を超えた領域における「一の系列と他の系列との邂逅」である、と。

…人智を超えた領域とは、すなわち未知なる領域ということだ。また、「一の系列と他の系列との邂逅」とは、すなわち「同期」ということである。その一方で、MADとは「キチガイ」という意味だが、私にとって「キチガイ」とは、「既知外」=「既知の外部にあるもの」であって、これすなわち「未知」である。だから、私は思うのだ。人智を超えた「未知」なるMAD演劇の行う「同期」は、錯乱しながら、何か、人智の及ぶメッセージなどの計り知れない、何かとてつもない真理を運んでくることだろう、と。…しかしまあ、一体私は何を言いたいのだろう。MAD演劇を正当化する論理を考えようとすると、私自身が、MADな錯乱に同期してしまいそうなのである。うーむ。そんな時には、やっぱり、花田清輝に頼りたいものである。

「地獄には地獄の法律があり、錯乱には錯乱の論理がある。こういう錯乱の論理を把握しないで、どうして狂人の論理の錯乱を笑うことができようか」(花田清輝『錯乱の論理』より)


※そして、下記URLは、最近フジテレビの『POP屋』という深夜番組で放映された、シベリア少女鉄道『How are you?』というコント。やはり、何かに同期してます。くだらないです。MADです。