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毎週日曜、欠かすことなく見続けているテレビ番組の一つに『ロンQ!ハイランド』がある。なんといっても「プープー星人の逆襲」は圧巻だ。プープー王子の率いる、ちびプーこと、プー子(巨勢晴香)とプー奈(中津川南美)の愛らしさといったらない…などと書けば、またまた「小学生大好き」みたいな、ヒジョ~にアブナイ印象を人々に刻印してしまうのだろうか。それは厄介だ。しかし、本日の『ロンQ!ハイランド』に出演していたロバートの秋山は、私なんかとは真逆のベクトルの持ち主というべきか、日頃から「熟女好き」を公言して憚らない。今日の番組の中でも共演者の斉藤慶子にしきりにアタックをかけていた。しかし斉藤慶子のほうは、秋山が「自分にとっては、由紀さおりさんも斉藤慶子さんも同じジャンルだ」と言うことに、ムッとしていた。

斉藤慶子といえば、かつては、宮崎美子と共に熊本大学出身の人気アイドル女優だった。そういえば、一昨晩は、熊本大学出身の劇団第七インターチェンジの団員2名、それと、やはり熊本を拠点とする劇団きららの団員2名と酒の席を共にする機会を得た。流山児★事務所公演『双葉のレッスン』(於ザ・スズナリ 作:ごまのはえ 演出:天野天街)の中日打上げでのことだ。熊本の若き演劇人4人は、同公演を観る為にわざわざ東京まで来られたそうである。彼らは、今回の公演を企画製作した流山児祥、そして今回の演出を担当した天野天街が、先月、熊本で「演劇大学」なるワークショップを開催した折の、受講者だったという。

かくいう私は熊本には行ったこともないし、熊本に関する知識もあまりない。ただし、興味はある。だから、熊本の若人たちから、いろいろな熊本事情を聴けたことはとても有意義だった。この酒席には、天野天街や、Kudan Projectの小熊ひでじもいたのだが、Kudan Projectが名古屋で上演した『百人ヤジキタ』(しりあがり寿の漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』を、天野天街作・演出により百人の役者が登場する舞台に仕立てた)の続編を、いつか、熊本城前の広場でやりたいね、みたいな話になって少しばかり盛り上がった。そうなると、我がイマジネーションはどんどん膨らんでゆく。

お伊勢参りに出掛けた弥次喜多が、なぜか江戸に戻ることなく、さらに西方に向かううちに、時代は明治へと移り変わり、いつしか西南戦争に巻き込まれてしまうというストーリーが浮かんだ。そんな中、二人は離れ離れとなり、それぞれ薩軍と官軍に分かれて戦わなきゃならなくなる、みたいな感じ? まあ、弥次喜多が書かれたのは1800年代の初め頃、一方、西南戦争は1877年であるから、設定に少々無理があることは否めないが、天野天街も私も共に大好きな『てなもんや三度笠』が、やはり江戸時代から明治維新にかけてのロードムーヴィー(ロードドラマ?)だったので、それに対するオマージュとなっている。もちろん場所柄、西南戦争の緒戦となった熊本城攻防戦が、この芝居のクライマックスとなる。官軍側の熊本鎮台司令長官の谷干城少将や、これを攻める薩軍側の篠原国幹、村田新八、桐野利秋、別府晋介らも登場することになる。いや、それ以前に、もちろん西郷隆盛や大久保利通も登場しなくては面白くない。こうして、暢気で不条理なロードムーヴィーと、スリリングな政治劇と、壮大な戦闘スペクタクルが入り乱れる不思議な演劇作品となるはずである。あ、そうそう、熊本城の天守閣が炎上する場面では、築城者である加藤清正公の幻影も登場する。

私の、いつも靄がかかったような脳髄が、こういうことを考えるとイキイキとしてくるのは、最近、池波正太郎の『その男』、そして話題沸騰中の和田竜『のぼうの城』『忍びの国』を、短期間のうちに立て続けに読んだせいである。いずれも大変面白い読み物だった。すっかり痛快時代小説モードに染まってしまった。そうなると、熊本城攻防戦も同じようなノリで想像可能となってくる。…ま、そんなことを、酒を呑みながらワイワイと楽しく語らっていると、ちょっと離れた席から流山児祥氏が「今度、長谷川伸をやろうと思っている。演出は天野で」と言ってきた。「どうだ、面白いだろう」と、その目で言わんとしている。ほほう…。意表をつかれた、というべきか。

(前述の池波正太郎もかつて師事したことのある)長谷川伸が、何故か近頃ちょっとしたブームである。SISカンパニーは『瞼の母』を上演した。また、長谷川伸歿後四十五年記念として「長谷川伸傑作選」全3巻が国書刊行会より出版されつつある。仮に歿後四十五年なのだとしても、いま、なぜ長谷川伸なのかは、その事情を、いまいちよくわかっていない私ではある。が、演歌界随一のディーヴァたる島津亜矢(彼女は熊本県出身である)の「名作歌謡劇場」を常日頃から愛聴してやまない私なればこそ、「一本刀土俵入り」「瞼の母」「沓掛時次郎」など、長谷川伸ワールドにはそこそこ馴染んでいるつもりだ。天野天街氏は、「瞼」という身体の現象学的装置を活用したいという観点から『瞼の母』に興味があるようだが、流山児祥氏によると「『瞼の母』はチャンバラがないからダメ。その意味で『雪の渡り鳥』をやりたい」そうだ。

「それはさておき、あんどうよ」とさらに流山児祥氏、「『双葉のレッスン』は面白かっただろう?」と、訊いてきた。うーむ。『双葉のレッスン』は、「面白かったですね」とひとことで言ってしまうのはもったいないような、奇妙な余韻を残す作品であった。降る雨は止むことを知らず、限りなく洪水に近い状態の中で人々は或る旧家の洋館に避難してくる。その中で謎深いサスペンス・ドラマが男女たちによって繰り広げられてゆく。しかも、その洋館さえも水底へと沈みかかっている…。そこに、天野天街の得意とする反復と差異の運動作用が随所で働いて、観客は物語をどう判断すべきなのか眩惑を覚え始める。

…さて、我が個人的な経験として、和田竜の『のぼうの城』を読んだばかりであったことは前述の通りである。豊臣秀吉による小田原北条攻めの際、別動隊を命じられた石田三成が、北条方につく武州忍城を攻めるにあたり、秀吉の有名な備中高松城攻めに倣って、同様の水攻めを忍城に対しておこなうも、こちらは結果的に失敗に終わったという史実がある。これを魅力あふれる痛快娯楽時代小説として描いたのが『のぼうの城』である。この時、人工湖のどまんなかに浮いたように見えた忍城は「忍の浮き城」と呼ばれたというが、その光景と、今回の『双葉のレッスン』の洋館のイメージが、自分の脳髄の中ではほとんど重なっていったのである。或いは「浮き城」というよりも、辻井喬の詩/小説の題名よろしく「沈める城」のイメージのほうが適切かもしれない。そんな「沈める洋館」の中で、あたかも梅原猛が柿本人麻呂の悲劇を描いた『水底の歌』と、ディズニーランドの『ホーンテッドマンション』が交差するようなイメージで、「水底」での死の舞踏会が繰り広げられる場面は、哀しく怖く美しい。そして、天野作品としては珍しい洋館でのサスペンス、しかも不思議な反復技法で描かれる様は、今年2月に亡くなった仏作家アラン・ロブ=グリエが脚本を書いた傑作映画『去年マリエンバードで』(アラン・レネ監督作品)を思い出させるものでもあった。そういう意味で、『双葉のレッスン』は、『去年マリエンバードで』×『のぼうの城』÷(『水底の歌』+『ホーンテッドマンション』)として楽しめるものであった。

とまあ、そんな極めて個人的な感想を流山児氏に伝えたところ、「あんどうは、どうしてアラン・ロブ=グリエなんか知っているんだ」と意外そうな表情を見せる。「ええ、まあ。学生時代は、ちょこっと現代フランス文学を噛っていたもので…」などと適度にお茶を濁し、その場をやり過ごした。「私が大学時代に所属していた仏文ゼミの教授は、ロブ=グリエ『嫉妬』の翻訳者だった」などと答えようものなら、本当のことではあるけれど、なんだかいやらしい印象を醸し出していたことだろうから、そこまで言わなくて正解だった(その割に今書いているけどなっ)。とはいえ、熊本の若人との語らいも影響してか、ほんの一瞬ではあったが、大学時代の思い出が懐しく脳裏をよぎった。(ついでに書くと、雑誌「新潮」7月号の、浅田彰によるロブ=グリエ追悼エッセイは傑作な内容でした…。)

さて、熊本の若き演劇人たちとの語らいはさらに続く。話題は阿蘇山へと向かった。私が、阿蘇山から出現した空の大怪獣ラドンの話をすると、熊本の若人は「知らない」という。しかし、ゴジラやモスラのことは「知っている」という。「えっ、そうなのか」…世代差を改めて痛感する。しかし、他県の人間ならいざ知らず、「熊本演劇人ならば、ラドンのことは知っておく必要がある」と忠告しておいた。その後、熊本と名古屋の気候の共通性に関する話になり、天野天街氏は「愛知県には伊吹おろしという風が岐阜のほうから吹いてきます」と話した。伊吹おろしといえば、前回紹介した谷川健一の『青銅の神の足跡』に登場する、たたら製鉄と関係する風のことである。伊吹と伊福部家と古代金属との関係。そして、伊福部家といえば、自らも仕事中に放射能に被爆した経験のある作曲家、伊福部昭。もちろんゴジラやラドンの音楽は伊福部氏の仕事にほかならない。そういう連鎖話を熊本の若人に聴かせて、「その意味でも、やはり熊本県人だったらラドンはおさえておかないといけないよね」としつこく念押しした次第であった。すると天野氏は「ラドンというのは、本来、放射性元素だよね」と指摘した。となると、水爆実験で第五福竜丸と共に被爆して巨大化した怪獣ゴジラみたいに、翼竜プテラノドンが(例えば長崎原爆などで)被爆した結果巨大化した空の大怪獣がラドンなのだろうか(ちなみにプテラノドンという固有名詞の中にはラドンやノドンという単語が含まれているのが興味深い)。そして、阿蘇山といえば、これも前回言及した星野之宣の、『ヤマタイカ』を抜きにして語れないだろう。「阿蘇山をめぐる火山信仰が重要な主題となっている『ヤマタイカ』もぜひ読んでおくように」と、熊本の若人の、彼らの遺伝子に組み込まれているはずの火の国の郷土意識をさらに焚きつけておいた。と同時に、またしても「伊福部昭を聴きながら星野之宣を読んでみたい」と思ったのだった。

とりあえず、その時その場ではそこまでしか考えが及ばなかったが、帰りの電車の中でよくよく考えたら、伊吹おろしの伊吹山、そしてクマソタケルの熊本県。いずれもヤマトタケルの重要な足跡ではないか。愛知県の天野天街と、熊本の若人たちとの間には、そんな歴史の古層における不思議な縁が見え隠れする。なんだか、面白くて、ゾクゾクっとしてくる。結局朝まで呑んでしまったので、昼過ぎまで寝ていたら、電話がかかってきて目が覚めた。大学時代の友人で、今は国書刊行会(例の長谷川伸の傑作戯曲集も出している出版社である)の編集長をやっている磯崎純一さんから「今度、仏文科の同窓会をやるんで出席せよ」との連絡であった。「前向きに検討します」と答えたが、いささか寝ぼけ気味であったため、「いま何故、長谷川伸がこんなにもてはやされているのか」という昨日来の疑問をぶつけることをうっかりして忘れてしまった。