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innerchildに夢中

「innerchild(インナーチャイルド)」という劇団を主宰する小手伸也(1973年12月25日生まれ。B型)を、わたしが最初に知ったのは1995年、つまり、かれこれ14年も前の話だ。その頃のわたしが最も注目していた劇団といえば、「オハヨウのムスメ」という、「早稲田大学演劇倶楽部」出身のナンセンスコメディ劇団である(が、いまはもうない)。その公演『私の世界』で、ハンサムタワーズなる、ハンサムを自称する風変わりな三人組の一人として彼・小手伸也は登場する。

漫画めいた濃ゆい容貌で「ハンサムタワーズです」と名乗っては他の二人と共に妙なポーズをとる小手! その存在感は強烈無比で、忽ちにしてわたしを魅了した。だから当時ナイロン100℃から、『カメラ≠万年筆』の再演にあたり「誰か面白い若手の役者を推薦してほしい」と相談された際には、すぐさま小手の名前を挙げたほどだ。やがて彼は拙者ムニエルなどにも客演し、小手独特のコテコテの熱血芝居で客席の爆笑を誘発させまくっていた。

その一方で彼は自ら率いる劇団として、「innerchild」を旗揚げする(1998年)。わたしは初期の時代に、二度ほど公演を観に行ったが、役者としての小手が放つコミカルさとは遠くかけ離れたシリアス基調であり、しかも、「精神世界」や「神話」などを題材とする作品内容がいささか難解、…というか、膨大な情報量がまだ小手先で料理されてしまっている感があり、しばらく敬遠するようになった。

しかし皮肉にも、というべきか、私が「innerchild」に足を運ばなくなったあたりから、急速にエンターテインメントとして進化を遂げ、“見せる技=魅せる技”を磨いたようだ。一昨年、久しぶりに観に行った『アメノクニ』という作品、これが驚くほど良かった。古代史の中に20世紀世界史を重ね合わせて描いてゆく手腕が実にスリリングであり、随所の演出的切れ味もこのうえなくシャープなのだ。観ていて興奮を覚えた。いつの間にこんなに面白い劇団になってしまったのか。過去に感じた小手先の芸からは、かなり伸長した也!

そもそもがわたし自身、実は古代史とか神話などは嫌いではない。小手が愛読するという、梅原猛の論考や星野之宣の漫画などは、わたしもまた大いに影響を受けてきた。梅原や星野の如く、鋭い分析力と鮮やかな手つきで、パズルを解くかのように古代史の深層を掘り起こしてゆく快楽を、演劇という見世物の中で、実践的に成功させたのが小手なのだと思う。しかしそれは、「邪馬台国はどこか」論争の如き日本古代史マニアの興味とは動機やプロセスを異にするものである。

「innerchild」のドラマの出発点とは、現代社会に生きる我々が抱える様々な心的問題である。比喩的に説明してみよう。ある人の精神を形成する複数の糸がこんがらがって、にっちもさっちも行かなくなる場合に、それを丁寧に解きほぐす役割を果たす手段が精神分析だったり、あるいは宗教思想だったりする。そこにおいて、その糸がどこから来て、どの段階でどのようにしてこんがらがってしまったのか、その根源を求めて過去に遡る必要性がでてくる。その時に向き合わなければならなくなるものとして、古代史や神話もあるはずだ。ところが、その古代史や神話というものは、えてして謎に満ち溢れている。そうすると、今度は古代史や神話における謎めいた糸の絡み合いを、現代的視点からさらに解きほぐす作業が必要になってくる。こうして複数の方向から徹底的に解きほぐした糸をもとにして、新たに綴られたタペストリーこそ、「innerchild」から発せられる物語にほかならない。

ゆえに、彼らの物語が扱う時間性は古代から現代まで、また地域性も日本のみならず全世界に拡げられている。また、政治・歴史・民俗学・心理学・社会学・倫理学など様々なレヴェルの問題を重層的に織込み、有機的に絡み合わせている。つまり、古代史解明の快楽だけにとどまらない、このようなアクチュアルな姿勢が「innerchild」の作品に貫かれていることは、けっして見過ごしてはならないだろう。そうしたスタイルの集大成とでもいうべき作品として、たとえばチベットの諸問題を複合的なテーマとして描いた『i/c(アイ・シー)』(2008年11月上演)が挙げられる。旗揚げ10周年記念公演にふさわしい、彼らの偉大なる到達点だった。

…このように、いまや「innerchild」にすっかりハマってしまった感のあるわたしが、つい先日(2009年5月1日)に観に行ったのが、innerchild vol.16 『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』(作・演出:小手伸也)であった。2009年4月27日~5月3日、東銀座の時事通信ホールで上演されたこの公演の企画趣意書は、劇団の公式サイトhttp://www.innerchild-web.com/ )で読むことができる。その冒頭に、「ごあいさつ」として掲げられた、以下の文章(<カッコ>内)は、彼らの現在の有り様を知るうえで、よく整理されていると思うで、まるまる引用してみる。

<昨年2008年に旗揚げ10周年を迎えた「innerchild」が、「再創」という新たな枠組みで、更なる高みを目指す! 「こころ」の世界に、「ち(血・地・乳・質・霊・魂)」を通わせる新生「innerchild」、11年目の幕開けです!!

『「こころ」を描くエンターテイメント』を合言葉に、現代社会の心性に迫る心理学的なトピックスや、世界(主に日本)の神話的・宗教的テーマといった古来の精神文化から、誰もが心の奥に持ち得る深遠な「内面世界」、更に個人の内面に留まらない、より歴史的・社会的な背景を見据えた「壮大な物語」。それを、知的好奇心とロマンを基に徹底的に描いてきた「innerchild」が、自らの過去作品を原作に新たな新作を生み出す「再演」ならぬ「再創」シリーズ。次なる10年を目指した、新たな試みが今始まります!

(※「インナーチャイルド=Inner child」とは…心理療法、主に自己カウンセリングの手段の事で、自分の中の傷ついている部分を「子どもの時の自分」として具体的にイメージし、その子を癒そうとする事で自分の「心的外傷=トラウマ」と向き合う方法の事をいう。)

日常を舞台としたとした作品が多い昨今、神話や歴史を世界観に据えた大きな物語を、「演劇で魅せる」稀有(けう)な存在としてファンを獲得し続けている「innerchild」が、自らの作品を超え続けるため、「再創」という新たなシリーズを立ち上げました! 単なる「再演」を封じ、常に過去を現在へ、初演を新作へと置き換えていくことを自らに課した「innerchild」の「再創」。その言葉に込めた真価(進化)の様を、是非劇場にてお確かめ下さい!!>


もずくスープね-ククリの空

今回の『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』は、<2004年に上演された『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』を原作に、脚本、キャスト、演出の全てを一新して挑む、実質新作公演>とのことであった。わたしは、2004年の『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』を観ていないので、具体的な変更箇所は、現時点では確認できていない。が、今回は「ククリの空」という題名が前面に踊り出ているように、ククリ=ククリヒメの存在がクローズアップされていると考えてよいのだろうか。

ククリヒメとは…
<「日本書紀」のある一節、しかも異説の部分にただ一度だけ、「ククリヒメ(菊理媛)」という謎の女神が登場する。この女神は、死に別れた創造神イザナギとイザナミの夫婦が、死者の国と生者の国の境目(黄泉比良坂)で、お互いを呪う程の仲違いをした際、その中間に立って両者をいさめたとされる。何故、そのような重大な役割を担ったはずの神が、「異説」にしか語られないのか? 何処の神なのか? 誰が何の目的で祀(まつ)ったのか? その全ては謎である…>(前述の趣意書より)

小手伸也は、このククリヒメを、イザナギとイザナミの夫婦が産もうとして産まれ得なかった子という、斬新な解釈をする。しかも、そのククリを、メーテルリンクの「青い鳥」に見立てるのだ。どうしてそうなるのか?

小手は、2004年の『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』の上演にあたって、現代の男女の問題(とりわけ不妊治療)をテーマに掲げた。そのルーツを記紀神話の中に求めた。そして、記紀神話を扱うのならば、実際の古代史とも重ね合わせたいと小手は考えた。そこで古代史研究に書かせない文献「魏志倭人伝」をあたってゆくうちに、「烏」という文字が「ヲ」と発音されることを知った。同じ頃、小手の頭の中では、次のような言語遊戯が思い浮かんでいた。男(man)と女(woman)を並べると→man woman→man-wo-man→manとmanの中間にはwo(ヲ)がある。すると、中間にいるのは「烏(カラス)」なのか。

<日本神話で「烏(カラス)」といえば有名なのが、「カムヤマトイワレヒコ(初代神武天皇)」の東征を導いた三本足のカラス「八咫烏(ヤタガラス)」です。"鳥が人を導く"というモチーフは全世界に散在しています。今回の「鳥」というイメージは、ここから始まりました。>(劇団HP『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』企画趣意書より)

言葉の連鎖はさらに続く。日本語のルーツであるアイヌ語(≒古代の縄文語)では「中間領域」や「あの世との境としての墓地」を、aw(あを、あお、おお、おぅ、あわ、あぅわ)といった。中間を意味する「あいだ」「あわい」、色としての「青」、濃淡の「あわい」といった言葉は、awを語源とするものと考えられる(ちなみに、渋谷区の「青山」霊園一帯からは大量の縄文土器が出土していることから、縄文時代から墓所だったことがうかがえるそうだ)。

前述の「烏(ヲ)」もアヲと重なりあうので、鳥は鳥でも黒い烏(カラス)ではなく、青の鳥=青い鳥のイメージが浮かび上がる。何かと何かの狭間(アヲ)を飛び交う媒介的な鳥、それが青の鳥=青い鳥、ということになる。そして、何かと何かの「中間」「狭間」に住む媒介者といえば、生と死の境界にいて、生けるイザナギと死せるイザナミの諍いを和解させた(ククッてみせた)ククリヒメそのものではないか。そこで、小手脳内のイメージの三段論法が、ククリヒメを青い鳥にしてみせるわけである。

しかしわたしが思うに、そもそも小手がククリヒメという神を注目した理由は、「innerchild」で主演女優を務めてきた菊岡理紗の存在にあるのではないだろうか。彼女は、役者であり、制作も兼ねている。名刺を貰うと、

菊岡
理紗


と記載されていて、縦に読むと「菊理=ククリ」という字が目に飛び込んでくる。本名なのだそうだ。そういう名の女性が、役者と制作の二つの世界を括るようにして媒介する役割を与えられているのならば、どうしてククリヒメを思わずにいられようか。普段あまり陽の目を浴びることの少ない、しかし重要な役割を果たす女神ククリヒメが、「わたしはここにいる」「わたしをクローズアップして」といわんばかりに、菊岡理紗の姿を借りて、見えざる黄泉比良坂から小手に呼びかけてきたのではないかとさえ思えるのである。もちろん、劇中でククリを演じるのは菊岡理紗であった。

繰り返すが、ククリヒメは狭間に住まう者だ。生と死の狭間、存在と非存在の狭間を行き来する者だから、「いる」けど「いない」、「いない」けど「いる」ものだ。それが、イザナギとイザナミの諍いを仲介するのは、どういうことなのか。それは前述したように、ククリヒメがイザナギとイザナミの夫婦が産もうとして産まれ得なかった子だったからではないか、と小手は想像力を働かせるのだった。そして、その根拠を、菊岡理紗演じるククリの化身というべき現代の女性民俗学者(劇中では、民俗学者・伊佐尚岐教授の娘、伊佐心=イサ・ココロと名付けられている。岩波文庫の「日本書記」の脚注によれば、菊理=ククリが転じてココロとなったという説もある)の口を借りて、小手は次のような自説を展開する。

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心 「…菊理媛は、黄泉の境で伊邪那岐と伊邪那美の仲違いを治めたってことで縁結びの神ってことにもなってる。でも系統的に伊邪那岐と伊邪那美を結びつける動機や役割を担える神が生まれたって記述もない…。ということは、二人が最初に産もうしても生まれなかった子、ここにヒントがあるのかもしれない」
賑児「一人目の水蛭子(ヒルコ)と二人目の淡島(アワシマ)ですね!」
心 「水蛭子は後に蛭子(エビス)として海の神になるけど、淡島のほうは良く分からない。私は、この淡島が山の神として黄泉に下ったんじゃないかって思ってる」
賑児「根拠は?」
心 「淡島の“アワ”は語源的に“アヲ”と同じ。“アヲ”は“狭間”とか“墓場”の意味を持つ…」
(以上、『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』台本より抜粋)
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心の台詞は、古事記上巻の最初の部分に記述された「生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例」に基づいている。このように「ククリ」=「淡嶋」、そして、前述のとおり「ククリ」=「青い鳥」だとすれば、その「ククリ」という媒介項によって「淡島=アワのシマ」と「青い鳥=アヲのトリ」も必然的にククられ同一化してゆく。白川静の漢字学的な観点に立てば、そもそも、「島」=「嶋」の字の中には既に「鳥」が棲んでいる。つまり、「青い鳥」の棲まう島が青く見えて「淡嶋」になるのかもしれない。

そんなスリリングな議論をよそに、わたしにはふと、ククリと青い鳥を同一視する別の動機があるのではないかという思いが湧き起こり、いてもたってもいられず、そのことを終演後、直接、小手に尋ねてみた。「実は小手さんの脳裏には、♪ようこそここへ、クッククック、わたしの青い鳥~という歌が流れていたんじゃないですか? クック、クックリィ~、青い鳥~ってね。」 すると小手「いや、言われて今はじめて気がつきました」だって。

読者の中には、このような思考回路を、くだらない駄洒落、言葉遊び、こじつけ、と、ココロヨク思わない方々もおられよう。しかし、メーテルリンクの「青い鳥」が、チルチル&ミチルの夢の中で探し求められたように、夢の中では、言葉やイメージは、近似するもの同士からククられ溶け合ってゆく。夢はそのように、違和なるものを和合させて、新しい何かを生み出す錬金術的力を持つ。その夢の主舞台は、ココロにある。「AとかけてBととく。そのココロは…」とよく言うように、乖離したAとBを介在し、つなぐのがココロなのだ。

かつて『ドリーミング』という題名で『青い鳥』をミュージカル化した劇団四季は、最近「こころの劇場」ということを唱えているようだが、その概念は実は「innerchild」にこそふさわしいのではないかと思う。『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』についても、たまたまここで紹介したことはほんの氷山の一角で、記紀神話と古代史と現代を融和させながら、普遍的なココロの問題としてククッてゆく、その壮大にして心憎い作劇テクニックは、語り出したらキリがないほどだ。とりわけ記紀ファンなら嬉々としてしまいそうな要素がふんだんにある。が、本日はもう書き過ぎたので、このへんでやめておこう。

とにもかくにも、ククリに光をあてた「innerchild」にならって、いまだ正当な評価が必ずしも得られていない気のする「innerchild」に、いまよりももっと光があたるように、今後は語る機会を増やして行きたいと思う。

そして追伸。小手伸也が、主演をつとめる映画が7月に公開されるそうだ。『不灯港』という。嫁募集中の漁師、万造38歳を演じるそうだ。詳細は、http://manzo-movie.jp/  。観るべし。

73年前、大雪の降りしきる朝、帝都は…。

73年前の今日、すなわち1936年2月26日未明、東京では30年ぶりという大雪の降りしきる中、「昭和維新・尊皇討奸」を掲げる陸軍の急進的な青年将校達が天皇親政を実現すべく蹶起した。千四百数十名の下士官兵を率いて、政府中枢の重臣らを次々と襲撃・殺害し、霞が関・三宅坂一帯を占拠する。報せを受けた昭和天皇は激怒し、ただちに暴徒鎮圧の指示を下した。翌日、戒厳令が出され、九段の「軍人会館」に戒厳司令部が設置される。戒厳司令官に香椎浩平中将(当時)が、戒厳参謀には石原莞爾大佐(当時)が任命された。「叛乱軍は原隊に帰順せよ」との奉勅命令が下されるや叛乱兵たちは動揺し、投稿者が続出。2月29日、首謀者の一人・安藤輝三大尉がピストル自決を図った(未遂)後、遂に全員投降に至った。このクーデター未遂事件こそ世に言う「二・二六事件」である。

安藤輝三大尉。1905年慶応義塾舎監だった安藤栄次郎の三男として生れ、1926年陸軍士官学校卒業後、陸軍第一師団歩兵第三連隊に勤務、1934年に大尉となり、1935年には第六中隊長に任ぜられる。当時の日本は、1929年のウォール街株暴落に端を発する世界的な大不況のまっただ中。都市には失業者が溢れ、農村では貧窮が深刻化。その一方、軍部は内部抗争に明け暮れ、政治も無力化するばかりだった。正義心の強い安藤は、国家社会主義者・北一輝の影響を受け、次第に「昭和維新」の断行に傾くも、2.26の蹶起には時期尚早として最後まで反対していたという。しかし蹶起の後は、叛乱軍の中で最後まで頑なに降伏を拒み、その挙句に、ピストル自決を図ったのであった。また、彼が蹶起直後に担当した鈴木貫太郎侍従長官邸襲撃では、侍従長をピストルで撃つも、夫人に助命懇願され、とどめは刺さなかった。かくのごとく強固な意志と温かい人情とを持ち合わせた彼のキャラクターに、多少なりとも好意を寄せる歴史ファンは少なくない。かくいう私自身も、同じ「安藤」の姓を名乗るものとして、それとない親近感を覚えてしまうのである。その一方で、安藤らを討伐する側に回った石原莞爾(満州事変の首謀者)のことも実は敬愛してやまない私なのだが…。

安藤輝三大尉の所属していた「陸軍第一師団歩兵第三連隊」の兵舎跡には、現在「国立新美術館」が建っている。黒川紀章の設計になる、美術ファンにはおなじみの場所である。私自身も何度も足を運んでいる。今の美術館が建てられる以前、2001年までは「東京大学生産技術研究所」として、過去の「歩兵第三連隊」兵舎がそのまま利用されていた。私はそこを、かつて一度だけ訪ねたことがある。1995年、当時、東大の大学院生だった西角直樹さんという人が、研究所のサーバーを使って、「えんげきのぺーじ」という、日本で最初の演劇ポータルサイトを立ち上げた。それを雑誌「演劇ぶっく」で紹介すべく、坂口真人編集長と共に取材に行ったのである。古めかしい建造物の内部に漂う「負の昭和史」の臭いを嗅ぎとりながら、「嗚呼この建物から、安藤輝三大尉に率いられし兵士達が大雪の中を出発したのか」と、ちょっとばかり感傷的な気分に浸ったものである。そしてまた「その同じ場所から日本のインターネット演劇史が始まったのか」と、今にして改めて感慨深く思う次第なのである。

一方、戒厳司令部参謀・石原莞爾の陣取った九段の「軍人会館」とは、現在の「九段会館」である。日本武道館のお隣なり、そして靖国神社の斜向かいに位置する、その帝冠様式の建物は、昔日の帝都の面影を今に伝えている。そこへは、つい4日ほど前(2月22日)、「あがた森魚とZIPANG BOYZ號の一夜~惑星漂流60周 in 東京~」というコンサートを、私は見に行ったばかりであった。この私も個人的にお世話になったことのある「あがた森魚」さんの還暦祝いとして、鈴木慶一、武川雅寛、和田博巳、駒沢裕城、本多信介、渡辺勝、かしぶち哲郎(以上、元はちみつぱい)、久保田麻琴、浜口茂外也、矢野顕子、緑魔子らが集まり、もちろんあがたさんメインボーカルで往年の名曲を次々と再現してゆくという、すこぶる貴重なライブであった。終盤では、元ベルウッドレコードの三浦光紀氏が、あがたさんに呼ばれて登壇、「日本少年(ジパングボーイ=あがた)と日本少女(ジャパニーズガール=矢野)の共演は夢のよう」などと語っていた。私は、これら伝説の復元のような光景を、何故か最前列の席で見ることができた。そして我が左隣には萩原健太&能地祐子夫妻が坐っていた(お二人と面識こそないが、この並びは、大昔、ピエール・ブーレーズ指揮ロンドン響をサントリーホールに聴きにいって以来のことだ)。また終演後、会場内でKERAさんとばったり会い、最新監督作品「罪とか罰とか」の二種類のチラシをいただいた(チラシをいただく以前から「これは絶対に見るぞ」と心に決めていたのではあったが)。また、名古屋から駆けつけた少年王者舘の天野天街さんや映像作家の濱嶋さんとも出くわし、NHK教育テレビ「バケルノ小学校」ディレクター後藤さんも合流して皆で楽しく呑んだのであった…(ちなみに、この日のあがたさん、「バケルノ小学校」校歌は歌わず終いであった)。

                  もずくスープね-国立新美術館&九段会館


それにしても、平成の東京の光景を目の当たりにしながら、その皮膚をついペロリとめくり上げ、「負の昭和史」の記憶を剥き出しにしなければ気が済まない私の性分とは一体何なのであろうか。それはきっと、私の生まれたのが、1936年2月26日ならぬ昭和36年2月26日であることに起因するものなのかもしれぬ。その奇妙な因縁から「二・二六事件」に共振するDNAを持ち合わせて、この世に生を受けてきたのが自分なのではないかと思っている。そもそも「二・二六事件」は私の誕生した時からたった25年前の出来事ではないか。時間軸としては、私が生まれ今日まで過ごしてきた年月よりも、よっぽど短いのだから。…こうして「二・二六事件」の記憶を二重螺旋の中に刻み込まれて生まれてきた自分、あんどうみつおは、その後の人生においても、鼓膜の裏側で「軍靴の響き」が絶えず聴こえていたように思えてならない。しかし、それについて語り出せば、また長くなるので、今後にまわすこととする。

(追記;自分以外には、いかなる人物が2月26日生まれなのであろうか。インターネットで調べてみると、以下のとおり結果が出た。ヴィクトル・ユゴー、岡本太郎、竹下登、五社英雄、川内康範、山下洋輔、日高敏隆、桑田佳祐、三浦知良、山崎樹範、土田よしこ、多岐川裕美、加賀美早紀、藤本美貴、クリスタル・ケイ、篠崎愛、etc.…うーむ、なんともコメントのしようがない!)

12月8日を記憶せよ。

昨日、椎名林檎のコンサートにより自分自身の中に「負の昭和史」が掘り起こされた旨を書いたばかりだが、それに輪をかけるかのように、本日は、わが意識に更なる昭和の暗雲が立ち込める。というのも、12月8日は、言うまでもなく開戦記念日なのだ。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃がおこなわれ、太平洋戦争が始まった。詩人・高村光太郎が「記憶せよ、12月8日。この日世界の歴史改まる」と称讃した本日は、ご存知のとおり、反戦を訴え続けたジョン・レノンが暗殺された日でもある(昭和55年)。脳裏の奥底から爆撃音やら銃声やらが響いてくるような気がするのは果たして幻聴のせいか。

そんな、ざらついた昭和への歪んだ郷愁に浸りながら、一昨日はテレビ朝日で放映された「男装の麗人~川島芳子の生涯~ 」を食い入るようにして見てしまった。黒木メイサの川島芳子はイメージ的に文句なし。彼女こそは、川島芳子の男装が最も絵として映える女優だと思った。過去の様々な川島芳子役の中でもダントツに適役だったと思うし、黒木メイサ的にも代表作たりえるものではないだろうか(ちなみに、1989年フジテレビ「さよなら李香蘭」では山田邦子が、2003年テレビ朝日「流転の王妃・最後の皇弟」では江角マキコが、2007年テレビ東京「李香蘭」では菊川怜が、それぞれ川島芳子を演じてきている)。

ところで、真っ当な流れとしては、川島芳子が徐々に落ちぶれて、敗戦で漢奸として逮捕され、41歳で処刑されるところまで、ずっと黒木メイサが演じると誰もが思うはず。なのに、ドラマでは38歳~41歳の最期の短い部分だけ、何故か真矢みきが芳子を演じたのである。ドラマの大部分をさんざんメイサ=芳子に感情移入させておいて、悲劇性の最も高まる部分で主役が突然変わってしまうのだ。見るほうとしては、それまでの集中力が完全に砕け散り、本来得られるべき最良のカタルシス効果を取り上げられてしまうわけだ。そこには、ただやり場のないモヤモヤした気持ちが残るだけ。真矢みきは素晴らしい女優だと思うが、今回の役回りは彼女にとってもあまり得ではあるまい。そこに一体どのような制作側の意図があったのか、或いは如何なる制作的事情があったのか。川島芳子の謎めく生涯以上に、謎めいた気持ちを多くの視聴者は抱いたに違いない。

他のキャスティングについては、高島政伸の皇帝溥儀は実に結構。堀北真希の李香蘭はまあまあ良し(「何日君再来」を歌うところは特に良し)。平幹二郎の川島浪速や仲村トオルの甘粕正彦は悪くはないものの、髪型に疑問あり。そして吹越満の田中隆吉はさすがにイメージから遠過ぎたなあ。かつて津川雅彦が東條英機を演じた「プライド・運命の瞬間」(1998年)という東映映画があって、そこではパチパチパンチの島木譲二が田中隆吉を演じたのだが、これが一番実物のイメージに近かった。現代史をドラマ化するにあたっては、表面上は実在者にイメージを近づけることに最大限努力して欲しいなあ。そのうえで大胆に虚構を演じてくれると、見るほうも虚実の皮膜に騙される快楽を味わいながら、物語を堪能できるのだ。なんというか、私達は民放の歴史ドラマには、あまり前衛的な手法など求めたりはしないわけで、古来の、ベタで基礎的なドラマトゥルギーさえ全うしてくれれば満足なのである。川島芳子をドラマ化した心意気は高く評価したいが、どうせなら「カタルシス」なり「虚実の皮膜」なり、視聴者にわかりやすく受入れやすい外形を整えて貰いたかった。それでこそ、川島芳子の数奇な運命を、歴史的問題意識を抱くとっかかりになるというもの。
もずくスープね-田中隆吉

…さてさて、そんなことを考えながらも、今日12月8日はとても大事な日、画家・橋本倫さんの「新作展」初日 ということで、会社の仕事終わりで銀座のなびす画廊に行った。橋本倫さんとは、ネット上では数年前から出会っていたが、現実に本人と会ったのは今年の6月22日、多摩美術大学美術館の「絵画のコスモロジー」 という展覧会の初日に招いていただいた。「絵画のコスモロジー」は、小山利枝子・黒須信雄・橋本倫という3人の作家による、文字通り宇宙論的な拡がりや深みを感じさせる企画展だった。その時、橋本倫という作家と実際に話をして、凡百の現代アート作家とは一線を画した、なんとも特異で反時代的ともいうべき人物性に大いなる畏れの感情を抱いた。その詳細は後日改めて述べるが、彼の内部には数多の言葉と数式を伴う壮大な宇宙が渦巻いていたのである。以来、その渦が放つ磁力に私も吸い寄せられ、今回の個展にもさっそく駆けつけた次第。2008年に創られた新作ばかり7点を集めた今回の個展、小規模ながらも意匠は強烈。橋本さん本人も会場にいて、懇切丁寧に自己解説をしてくださり、作品に秘められた奥行きの深さを知らされると、私の狭くて雑然とした脳内でも色々な想像力が活発に作動するようになった。それについても語り出すと長いので、後日の楽しみにとっておく。で、そのこととは別に、今日は、橋本さんの或る心遣いに感動させられた。私が会場に着くなり、「どうぞ」と差し出してくださったのは、最近の読売新聞の、「陸軍登戸研究所」に関する記事の切り抜き。読売新聞をとっていない私には大変有難い情報提供である。というのも、実は私に“負の昭和”を強く意識させるきっかけを作り、橋本さんともあながち無関係とは言えない“昭和の遺物”、それこそが「陸軍登戸研究所」なのだから。それは我が家のすぐ近くにあった。そして、川島芳子が馬で駆け抜けた落日の曠野・満州は、「陸軍登戸研究所」のすぐ先に拡がっていた…。


もずくスープね-橋本倫