流山児★事務所を寿ぐ(言祝ぐ)
《寺山「今日、たとえば日本赤軍の学生たち、あるいは西独のバーダー・マインホフの学生たちによるゲリラ活動は、それ自体で変革につながるものだとは考えていません。しかし、彼らをある種の代理人、たとえば<俳優>だと考えることはできると思います。すなわち、彼らの意図することは、<異化の効果>です。大部分の、ブルジョワ・イデオロギーの催眠術にかかっている市民たちに及ぼす彼らの<異化の効果>をあなたは、有効だとお考えですか?それとも全く無効だとお考えになりますか?」》(寺山修司、ミシェル・フーコーとの対談 「犯罪としての知識」(1976年)~情況出版『藁の天皇』所収 より)
「おう、あんどうか」 流山児祥サンは、先に座していた私の右隣に腰をおろしながら声をかけてくれた。12月17日夜、下北沢、居酒屋「ふるさと」3階の座敷。ザ・スズナリでの『田園に死す』(原作:寺山修司、脚色・構成・演出:天野天街、企画:流山児祥)終演後のちょっとした呑み会。「聞いた? 紀伊国屋演劇賞のこと」
その日の本番前、第44回紀伊国屋演劇賞団体賞が流山児★事務所に決定したとの一報が、スズナリのロビーの電話に入ったという。『ユーリンタウン』『ハイライフ』そして上演中の『田園に死す』の成果が讃えられての受賞。賞金200万円。「明日の昼に発表だから、今日はまだ書いちゃダメ」
わたしがお祝いを述べると、「団体賞というのが嬉しい。劇団のみんなに贈られるんだから」と喜んでおられる。演劇団結成の1970年2月から数えて40年近く経った。また、流山児★事務所第一回公演『さらば映画よ ファン篇 ~ボギー、俺も男だ~』(作:寺山修司、演出:流山児祥)の1984年8月からは25年。これまでの活動が、ようやく受賞という形で一定の評価に結実したことは、さぞや感慨深いことであろう。「でも」と彼は言った。「本当にいいのかねえ。昔(1973年)、紀伊国屋ホールに殴り込みにいったことのある俺たちが貰っていいんですかって、思わず訊いたよ(笑)」
《流山児は「疾る演劇チンピラ」「演劇(無名)戦士」を自称した。彼は七一年、劇団俳優座内の造反グループが上演した菅孝行作『はんらん狂騒曲』(中村敦夫・加村赳雄演出)の会場となった俳優座劇場に、約十人の若者とともに「『はんらん狂騒曲』粉砕」を叫んでヘルメット姿で押しかけ、劇場突破をはかったが、警官たちに排除された。また、七三年には、彼は山崎哲ら十数人とともに「68/71黒色テント」公演、佐藤信作・演出『喜劇・阿部定』の会場に三日連続で殴り込みをかけている。流山児によれば、「<左>からの(体制の)補完物と成り下がったダメな先行者(アニキ)達を許しゃしねェ」(「持続せよ、野垂れ死にへの幻視行!」)というのが粉砕の理由だった。彼らは全共闘運動の延長のようなゲバルト(暴力)を演劇の世界に持ち込んだのである。》(扇田昭彦/岩波新書『日本の現代演劇』より)
《(1971年5月、劇団「つんぼさじき」の)旗揚げのチラシに福田善之さん、菅孝行さん、佐藤信さんに寄稿してもらった。公演の最中「演劇団」の流山児祥という男がなぜか「一緒に俳優座に殴りこみに行こう」と誘いに現れた。「反新劇のノロシを掲げた菅孝行が俳優座でやるのは許せない」ということだった。「公演中だし~菅サンには書いてもらってる手前もあるし~」と断ると「そうか」と太い声をのこして帰っていったが、以後、流山児とは長く付き合うことになる。信頼できる数少ない演劇人のひとりだ。》 (山崎哲&新転移21公式ホームページより)
「せっかくですから」と、その酒の席で、イタズラ好きのわたしは流山児サンに提案した。「ヘルメットにゲバ棒で、授賞式に臨んで欲しいですね。流山児さんが、行儀良く、かしこまって受賞するんじゃ、昔からのファンは納得しないですよ。やはり、ここは異化効果が必要です。」 わたしの左隣に座る天野天街氏も「そうそう、異化効果やっちゃいましょう!」と嬉しそうに囃し立てる。
その時わたしは、今年の6月に座・高円寺のオープニング企画で観た流山児★事務所『ユーリンタウン』を思い浮かべていた。今回の受賞理由の一つになった舞台である。『ユーリンタウン』は、ブロードウェイで商業的成功を収め、日本でも、ホリプロの主催興行として、宮本亜門演出によって日生劇場で上演されたこともある。しかし、もともとは、ブレヒトの『三文オペラ』から想を得て作られ、オフブロードウェイ=小劇場から発信された作品なのだ。そして、今年、流山児祥の演出によって、この『ユーリンタウン』は、再び原点に、つまり、商業演劇の側ではなく小劇場の側に、そしてブレヒトの側に回帰したといえる。
しかし、である。ミュージカルないし音楽劇は、音楽が生命線である。流山児演劇は、これまでも数多くの劇中歌を歌って来たが、底流にはアングラ小劇場精神を受け継ぐ「粗削り感」があった。しかし、『ユーリンタウン』においては、音楽が丁寧に、きめ細やかに構築され、そのサウンドも硬質でクリアーに響く。すなわち、ビシッと引き締まった音楽性が、劇全体を支えていたのである。そのことで、作品のベクトルともいうべき、社会に対する批評性や風刺性、そしてブレヒト的異化効果が、強度を高めて、観客の魂に鋭く突き刺さってくる。これは、わたしがずっと心の中に抱いてはいたものの実際に出会えたことのなかった、ブレヒト/ヴァイル音楽劇の、最も理想的模範的な上演に、初めて生で出会えた衝撃的瞬間であった。…いくらお祝いだからって、ちょっと誉め過ぎでは?と思われるかもしれないが、このあとすぐ、わたしは、実に失礼きわまりないことを書くのである。つまり、あの「粗削り」の流山児★事務所が、ああまでも完成度の高い、結晶のような奇蹟の舞台を見せ得たこと、それ自体がわたしにとって大いなる異化効果であった、と…。
日本でブレヒトを目指した、あるいはブレヒトに回帰しようとした演劇人は少なからずいたと思うが、佐藤信もその中の一人だったといえるのではないか。前述の扇田昭彦の著書によれば、佐藤信の黒テントは、<運動の演劇><革命の演劇>を掲げていた。また、「演劇センター68/71」(黒テントの前身)は、その機関誌で「私たちにとって演劇とは何か(中略)、理論をかため、アジテーションを行なうこと」と述べている。
わたしの知人で、現在、少年王者舘の役者として活躍する井村昂氏は、いまから40年以上も前に黒テントに所属していた。当時を回顧して語るに、その中枢メンバーの多くは良家の子女にしてインテリ、何かと言えば会議することを好んでいたらしい。そう聞くと、同じテント芝居でも、その元祖である紅テント(状況劇場)を率いた唐十郎の、「おさな心の発露」(鈴木忠志)と一体の肉体志向の行動原理と比べて、理論・理屈が前面に来る、俗に言うところの「頭でっかち」的な印象を佐藤からは受けてしまう。
一方、実父を炭労副委員長に持ち、自身は青山学院大学で全共闘副議長を務めていた流山児祥もまた<革命の演劇>を掲げていた。しかし、彼の場合は、唐十郎の状況劇場や、鈴木忠志の早稲田小劇場の研究生になるなど、「何よりも肉体を」の側に寄りそっていた。だからというわけではないが、彼のイメージは、頭よりも体あるいは拳が前面に来ている。「武闘派」というべきか。
だから、流山児が紀伊国屋ホールでの佐藤の芝居に殴り込みをかけたというのは、一見、<革命の演劇>武闘派が、<革命の演劇>理論派を襲撃したように受け止められよう。しかし、わたしには、そのことが、例えば連合赤軍の粛清や、中核VS革マルの内ゲバのような深刻で根深い闘争には到底思えない。というのも、後年、流山児★事務所の公演において、流山児と佐藤は仲良く手を組むことになるのだから。
佐藤を招く流山児も流山児なら、快く招かれる佐藤も佐藤に思えるのだが、それ自体が、ある種の異化効果となっていることは明らかだ。だからといって、かつての闘争が、まさか、それ(将来の異化効果)を予め狙った(流山児と佐藤それぞれの)ブレヒト的意匠の壮大な伏線だったわけでもあるまい(ましてや、流山児が佐藤の公演を逆説的に宣伝してやったわけでもあるまい)。要するに、…これは別に批判でも何でもないが、流山児も佐藤も、良くいえば柔軟、悪くいえば節操がないということなのだろう。しかし、とはいうものの、流山児が『ユーリンタウン』において優れたブレヒト的演出家の相貌を色濃く見せ始めたことを思うとき、むしろすべての過去の出来事は流山児-佐藤に仕組まれた壮大な演出であって欲しかったと、わたしの脳内に潜む或る種の(寺山的な)<犯罪的想像力>が呟くのを止めることはできない。
《佐藤信の黒テント(ボルシェビキ志向)が<革命の演劇>を唱えたことに対し、寺山修司は<演劇形式そのものの革命>を唱えていて、論争にもなっている。寺山は私に、「敵は黒テントだ」といったことがあった。「だから黒テントに殴り込んだ流山児祥(演劇団を主宰)は味方にしたい」とも。もっとも佐藤信は、寺山没後、寺山の『青ひげ公の城』演出の時、「本当は寺山ファンだった。論争は佐伯隆幸(演出家。黒テントの理論面を担当)が中心だった」と私に語っている。》(高取英/平凡社新書『寺山修司』より)
晩年の寺山修司は、月蝕歌劇団の高取英を介して、流山児祥と接近するようになる。第二次演劇団による『新・邪宗門』上演に協力を惜しまなかったという。しかし、肝硬変が悪化し、脚本執筆の大部分は、岸田理生と高取英が請負ったと聞く。そして、昭和58年(1983年) 5月4日午後12時5分、阿佐ヶ谷の河北総合病院にて寺山死去。享年47歳。その約1週間後、5月11日(水)から本多劇場で、『新・邪宗門』(作:寺山修司、演出:流山児祥 音楽:千野秀一)が開幕となった。流山児祥は「自分は、寺山の最後の弟子」との思いを持つようになり、その後、流山児★事務所では数多くの寺山作品を手がけるようになる。さらに、寺山没後10年の1993年5月には、評伝劇ともいうべき『ザ・寺山』(作:鄭義信 音楽:宇崎竜童 演出:佐藤信)を上演。 この作品で鄭義信は第38回岸田戯曲賞を受賞した。
「おれはもう喧嘩ができないんだよ」と、流山児サン。循環器系に問題があり、血液をサラサラにする薬を飲み続けているという。「だから、喧嘩をして出血したら、血が固まらなくて死んじゃうんだ」と言う。しかしわたしは「あ、それ一緒。実は、僕も最近心臓の具合悪くなって、同じ薬飲んでますよ!」と、同病意識で俄にシンパシーが高まった。まあ別に、それほど深刻な雰囲気の会話ではない。とにかく、流山児サンとしては、生とは限られたものであるからして、今まで以上に貪欲に色々なことを仕掛けてゆこうと考えているらしい。具体的なプランもあれこれ語ってくれた。わたしはといえば、心臓に爆弾を抱えていても、性格上、のんびりと構えている。ただ、47歳で死んだ、寺山修司の認識の地平が、つまり「不完全な死体」の思考回路が、ここに来て、わずかながら垣間見れた気にはなった。
もし寺山が生きていたら74歳の誕生日となったであろう2009年12月10日に、流山児★事務所『田園に死す』(原作:寺山修司、脚色・構成・演出:天野天街、音楽:J・A・シィザー、企画・出演:流山児祥)が開幕した。寺山修司監督作品、長編映画『田園に死す』(配給:ATG)の封切りから35年後にあたるタイミングでもある。その映画は、わたしにとって、生涯のベスト1と言っていいほど、大きな影響を受けた作品だった。そして、それを原作とした舞台は、これまたどえりゃぁことになっていた…
《寺山「さらに、極端に言えば、歴史というものはどうにでも作り変え可能なものだと思う。ぼくは、終わったことは全て虚構に過ぎない。というところから、進行形の偶然性を組織するために芝居をやっているわけですけれども、その意味で歴史というものも史家たちのように信用するわけにはいかない。むしろ歴史はどうにでも組み立て直すことが可能である」》(寺山修司、五木寛之との対談 「<本工の論理>としての近代市民社会」~情況出版『藁の天皇』所収 より)
<サチコの幸> あるいは <理想の果て> その2
人気バンド、オトゥールズのリーダーにして、英国ポップス界随一の偏屈者として知られていたルーク・ヘインズは、1996年に『バーダー・マインホフ』というソロプロジェクトを立ち上げ、同名のアルバムを発表した。そのCDの解説文によると、バーダー・マインホフに興味を抱くルークは「彼らの半生は映画化されるべきだ。アルバムは、その“まだ存在しない映画”のためのサウンドトラックなのだ」と力説していたそうだ。その希望がようやく叶ったというべきか、12年後にバーダー・マインホフの映画は現実のものとなった。ただし、ルーク・ヘインズの音楽はついぞサントラに使われることはなかった…。では、そのバーダー・マインホフとは何なのか、改めて確認しておこう。
1968年にフランクフルト百貨店放火事件を起こしたカップルの極左活動家、アンドレアス・バーダー(男)とグドルン・エンスリン(女)。この二人にシンパシーを寄せる、ジャーナリストのウルリケ・マインホフ(女)や弁護士ホルスト・マーラー(男)らが合流し、1970年春、「バーダー・マインホフ・グルッペ(Baader-Meinhof-Gruppe)」は形成された。ついで同年5月より「ドイツ赤軍派(RAF=Rote Armee Fraktion)」を名乗るようになる。この組織名称は日本の「赤軍派」に倣ったとされる。
彼らは「帝国主義的支配システムに対する武装闘争」として、銀行強盗、爆破、要人誘拐および殺害、ハイジャック、窃盗etc.といった、非道な犯罪行為を次々に繰り広げ、当時の西ドイツを震撼させた。初期の中心メンバー達は1972年までに全員逮捕・投獄され、内部分裂や法廷闘争を経て、いずれも獄中での自殺に至る。しかし、組織自体は、 1998年の解散声明まで30年間近く、三世代にも渡って地下活動を続けたという。
これら一連の史実を、シュテファン・アウストという作家が、1985年に『バーダー・マインホフ・コンプレックス(Der Baader-Meinhof-Komplex)』というノンフィクション小説にまとめた(これはぜひどなたか、日本語に翻訳して欲しい)。
さらに、これを原作として、ベルント・アイヒンガー<製作/脚本>、ウリ・エデル<監督/共同脚本>が2008年、映画化を実現させたのである(ベルント・アイヒンガーは、あの話題作『ヒトラー 最期の12日間』の製作/脚本も手掛けた人物。そしてウリ・エデルは、アイヒンガー製作による『クリスチーネ・F』『ブルックリン最終出口』の監督もおこなっている人物だ)。映画『バーダー・マインホフ・コンプレックス』(以下『バーダー・マインホフ』と表記する)は、ドイツでは記録的な大ヒットとなり、アカデミー賞最優秀外国語映画賞へのノミネートを決める。なお、日本では今年7月25日~9月18日に渋谷シネマライズにおいて、『バーダー・マインホフ 理想の果てに』というタイトルで最初の公開上映がなされた。また、中国語圏では『赤色風暴』というタイトルで日本より早く公開されている。

注目すべきは、日本で若松孝二監督による『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』が公開された同じ年に、ドイツでは『バーダー・マインホフ』が公開されたこと。なんという奇遇であろうか。まるで示し合わせたかの如く、両国赤軍の凄惨な盛衰史がスクリーン上に映し出されたのである。
しかし、両者の質は全く異なっていた。しばしば、日本とドイツの国民性が似ているといった指摘も聞くが、両国赤軍を映画で比較するかぎり、そのベクトルは真逆に思える。連合赤軍には、歪んだストイシズムに導かれた、内向きで湿り気を帯びた狂気、このうえなく息苦しい狂気が渦巻いていたように思える。対するドイツ赤軍派のほうは、無軌道な狂熱性、それこそドイツ表現主義(Expressionism)的なスピリッツが絶えず炸裂しているように感じられたものだ(さすがヴェルナー・ヘルツォークやクラウス・キンスキーといったエキセントリックな才能を輩出した国だけのことはある)。
倫理的観点からは、どちらの赤軍がいいかなどとは言えないけれど(もちろん、どちらもけしからんのである)、しかし、不謹慎と批判されることを承知のうえで、あくまで映画的な観点だけで述べさせてもらうならば、『バーダー・マインホフ』にはアメリカン・ニューシネマやヌーヴェルバーグにも通底する、乾いた躍動感が漲っていて、どちらかといえば自分の趣味に合っていた。
そのうえ…、何といっても、演者達がみなカッコイイ。ドイツ赤軍派側でいえば、マインホフ(マルティナ・ゲデック)にせよ、バーダー(モーリッツ・ブライブトロイ)にせよ、エンスリン(ヨハンナ・ヴォカレク)にせよ、それぞれに濃厚な“オーラの泉”が湧いているし、彼らを取り締まる側のホルスト・ヘロルド連邦刑事局局長に至っては、『ヒトラー 最期の12日間』でヒトラー総統を演じた、あの名優ブルーノ・ガンツが配役され、絶妙な味わいをこれでもかと醸し出していたのである。そもそも(下の参考画像を見て欲しいのだが)俳優に負けず劣らず、実物のほうも独特のカリスマ的な“見た目”の魅力を有していたのである。西ドイツ内に、彼らの支持者が絶えなかった理由の一端が垣間見える気がする。

それで思い出すのは、これも今年1月に日本で公開されたチェ・ゲバラの映画二部作である。これも、革命の理想に近づいてゆく第1部『チェ 28歳の革命』と、苦難に満ちた<理想の果て>が描かれる第2部『チェ 39歳別れの手紙』という、いまの私の問題意識に深く突き刺さってくる、大変見事な構成の二部作だった。さすがは、名匠スティーヴン・ソダーバーグ監督であり、さすがは名優ベニチオ・デル・トロ(チェ・ゲバラ役)であった。しかしながら、ベニチオ・デル・トロがどんなに素晴らしく魅力的であっても、実物のチェ・ゲバラのカッコ良さには残念ながら到達しえていない。
そうなのだ。ソダーバーグのチェ・ゲバラ映画はけっして失敗作ではないし、紛う方なき傑作と断言できるのだが、観る者に“実際のチェのほうがカッコイイ”というプチプル的=反革命的な邪念を常に纏わりつかせてしまうことにより、チェ・ゲバラの目指した革命を理解しようとする純粋な鑑賞態度を溶解させてしまいかねなかった。チェ・ゲバラを映画化することの難しさはそこにある。と同時に、革命にせよ選挙にせよ、大衆による政治選択のポイントとは、結局のところ、そういう“見た目”に尽きるんだよなあ…ってことを、今度の総選挙(小沢ガールズ、小泉進次郎、etc.)なども振り返りつつ、人間社会の哀しき限界として認めざるを得ないのである。
しかし、少なくとも『バーダー・マインホフ』では、“実際の人物のほうがカッコイイ”といったような邪な問題は回避できていたと思う。その一方で、スクリーンの登場人物達が危険な魅力を発し過ぎるあまり、偶像崇拝的に極左へのシンパシーが強まってしまう危険性を孕んでいたかもしれない。かくいう私だって、グドルン・エンスリンを演じたヨハンナ・ヴォカレクには隷属したいというM心が湧いてくるほどだ。日本にせよドイツにせよ、かつてはファシズムの暴走を許した過去がある。とくにドイツは国民自らが選挙によってナチス党を選択した(…そういえば、レニ・リーフェンシュタール監督によるナチス党大会の記録映画『意志の勝利』、シアターN渋谷にて、2009年10月9日まで上映中)。大衆の理性の脆さは常に忘れないように心がけるべきだ。まあ、何もこれは日独に限った話ではなく、全世界共通にいえることではある。
もっとも、そうした危うい風潮を封じ込めるためなのか、この世界では時として目に見えない何かが動きだすことがある。思い返すがいい。『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』が2008年の日本を代表する映画になるかと思いきや、どこからともなく『おくりびと』が送られてきて、その座を奪っていった。しかも、アカデミー賞最優秀外国語映画賞の最有力候補だった『バーダー・マインホフ』までもが、その『おくりびと』に撃退され世界的なハレの舞台から遠ざけられてしまったのである。こうして、資本主義のほころんだ社会において不満分子が必要以上に左翼化する可能性が、『おくりびと』によって(文字通り)葬ら去れたのだとすれば、常識と理性をわきまえた保守勢力にとっては、とりあえず一安心といったところか(苦笑)。
だが、不都合なものを隠蔽するとか、既に死んだものとしてあの世に送り出してしまうとか、そんな安易な対処だけで世界が平安を保てるわけもない。理想に向けて高揚し、やがて崩壊の道を辿った<あの時代>(60's~70's)の赤色の風暴とは、そして赤色革命の<理想の果て>の残酷なエレジー(哀歌)とは、一体何であったのか。その問いかけは、なおも拡がり続けることを止めない。
今年7月に出版された、小熊英二の『1968』(新曜社)。“全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的に扱い、分析を試みた初の研究書”である。たまたま現在、これが私の手元にあるのだが、上巻1091頁、下巻1010頁の超大作。ランダムにペラペラとめくってみると、かなり面白そうなのだが、持って読むと重すぎて手が痛くなるのが辛い。
それともう一つ、<あの時代>についての直接的な考察ではないものの、近しい臭いを感じさせる作品として気になるのが、いまちょうど渋谷のシアターコクーンで上演中の演劇『コースト・オブ・ユートピア ー ユートピアの岸へ』(作:トム・ストッパード、訳:広田敦郎、演出:蜷川幸雄)である。革命を志した19世紀ロシアの知識人たちの人間模様を描いた作品だ。ロシア文学者・沼野充義が朝日新聞に寄せた劇評(2009年9月22日朝刊)が興味深い。
<…重い思想的内容を正面から受け止めながらも、きびきびした身体性と笑いと抒情の要素も盛り込んで鮮やかな舞台に仕上げた鬼才、蜷川幸雄の演出の力は驚くべきものだった>
<…こういった急進的思想家たちの努力が積み重ねられた結果、ロシアではついにレーニンに率いられたロシア革命が1917年に実現した。(中略)ユートピアの岸辺を目指して前進しようとする運動が、20世紀の歴史を通じて逆に全体主義の恐怖を生み出したことを知っている現代人に、この作品は問いかける。原点に立ち返って勇敢な「航海者」たちの航跡の輝かしさを見直すとともに、なぜユートピアの夢が恐るべき悪夢に転化したのか、いま一度真剣に考えるべきではないのか。彼らは、いや、私たちは、いったい何を間違えたのか、と。>
ここでも<理想を果て>をめぐる、同じ問題意識が共有されていることは明らかだ。そのことを確認したいがゆえに、この舞台を観にゆきたい気持ちが膨らむものの、上演時間がなんと10時間、料金も30,000円近いと聞けば、少々及び腰にならざるをえない自分の弱さがここにある(テレビでやってくんないかな~)。大体が、2000頁の本を読んだり、10時間の演劇を観るだけの余裕とパワーなんて、一般庶民にはなかなか確保しづらいものなのだ。…おっと、話が逸れてきた、元に戻そう。
私は『バーダー・マインホフ』を観て、「そういえば」と、今年の正月明けに観たTPTによる最後のベニサンピット公演のことを思い出した。オーストリア出身の女流作家エルフリーデ・イェリネクが書いた戯曲『ウルリーケ メアリー スチュアート』を、川村毅が脚色・演出して日本語上演したのである。当時これを観た私は、なんだかよく理解できなかったのだが、それも無理からぬことではあった。当時の『ウルリーケ メアリー スチュアート』の公演パンフレットでドイツ文学者・山本裕子は次のように解説している。
<イェリネクの作品『ウルリーケ メアリー スチュアート』は、シラーの悲劇『メアリー・スチュアート』でのスコットランド女王メアリー・スチュアートvsイギリスの女王エリザベス一世という構図が、ドイツ「赤軍派」第一世代の主要メンバーである、ウルリーケ・マインホーフvsグードルン・エンスリーンという構図に重ね合わせられているのである。「赤軍派」の他のメンバーから孤立してゆくウルリーケと、率先してウルリーケを追いつめてゆくグードルン。(中略)長大なセリフはどれもモノローグに近く、その内容は矛盾にみちている。それどころか語っている人物が、本当にその人物なのかすらはっきりしない。この作品のモノローグは、実は多声的なのである…>
そもそも、今年1月の段階で、まだ『バーダー・マインホフ』を見ていない私は、ドイツ赤軍派のことも、マインホフやエンスリンのことも全然知らなかった。ましてや、それが、どうして、メアリー・スチュアートとエリザベス一世の確執に重なるのかイメージすることなど、ほぼ不可能だった。ただ、メアリー・スチュアートのことは、ダーチャ・マライーニの戯曲上演や映画『エリザベス』などを通じて、私自身はかろうじてわかってはいたけれど、日本では必ずしも一般的に知られている事柄ではないような気もする。そして、それ以上に、作者エルフリーデ・イェリネクのこと、その時、どれほどの人がどれほどのことをわかっていたであろうか。私もまた、そのうちの一人にすぎなかった。もちろん、恥じ入るべきは己の不勉強にこそあることは重々承知しているが…。
1946年オーストリアのミュルツツーシュラークに生まれたエルフリーデ・イェリネクは、ウィーンで育ち、60年代末ウィーン大学在学中に作家デビュー。小説『したい気分』『欲望』はベストセラーに。『ピアニスト』はミヒャエル・ハネケ監督により映画化されて2001年カンヌ映画祭グランプリを受賞。劇作家としても『ブルク劇場』『雲。家』『汝、気にすることなかれ』などの戯曲群がことごとく人気を博してきた。その特徴としては、(1)多層多義的で難解。(2)膨大な量の引用の織物。(3)ポルノともいうべき性的挑発に満ちている…等々。ドイツ語圏を中心に名だたる文学賞や戯曲賞を総舐めにし、2004年には遂にノーベル文学賞を受賞している。そんな彼女の戯曲は、ドイツ演劇研究者・谷川道子によれば、あの<ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』のレヴェルをも、はるかに超えている>ほどの難解きわまるものだという。
それほどの厄介な作家のテキストを、川村毅が悪戦苦闘して舞台化させた労苦は今更ながらにして偲ばれる。ドイツ赤軍派の問題を、日本の連合赤軍の問題に引き寄せようとして、『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』公開記念トークショーのテキストをそのまま引用した、大雑把で強引なインターテクスチュアルの試みも微笑ましく感じられる。難解で訳のわからない戯曲は、そのくらいのユルさで調理するのが丁度いいのかもしれない。
だが、そうだとしても、私たちに『ウルリーケ メアリー スチュアート』を観劇する前の情報があまりに不足していたことは否みようのない事実であり、まことに勿体ないことであった。まずは『バーダー・マインホフ』の映画を見て、その人間模様をある程度把握したうえで、16世紀の英国史もおさらいし、さらにエルフリーデ・イェリネクの小説や戯曲なども何冊か読んで彼女の文体に慣れてから、『ウルリーケ メアリー スチュアート』の観劇に臨むことができたら、さぞや内容を深く味わうことができたのであろう。ま、さすがにそれは理想論に過ぎるであろう。ならば、少なくとも、せめて芝居の上演開始前に15分程度、そうしたレクチャーがあってもよかったかもしれない。TPTには、そういうサービス精神が望まれる。
それから、ここでさらに注目すべきは、イェリネクもまた、<あの時代>(60's~70's)にウィーンやベルリンで学生運動やフェミニズム運動に関わり、1974年~1991年にはオーストリア共産党に入党していた経験さえあったということ(「赤いポルノ作家」などと揶揄された所以である)。つまり、彼女の通過した、彼女自身の赤色革命の<理想の果て>の残酷なエレジー(哀歌)が、ひょっとするとウルリケ・マインホフ/メアリー・スチュアートという、孤立の果てに死んでいった歴史上の女性の中に投影されていたのではないだろうか。悔しいことに、いまや芝居の内容をほとんど覚えていないので、そのあたりの検証がどうにもできない。また、川村毅は、たとえばあの芝居の中で日本の女性闘士、永田洋子や重信房子などをどう取り込んだのだったろう…申し訳ないが、その記憶も模糊としている。TPTさん、上演台本を貸してもらえないだろうか。そして、願わくば、なんとか再演してもらえないだろうか。ベニサンピットはもう存在しないけれど、何処か別の場所で。
そして…そうだ。あの舞台で私が微かに記憶していることの一つは、原サチコが、ナレーションとして声の参加をしていたことだ。彼女は現在、ウィーンきっての名門劇場たる「ブルク劇場」の専属俳優として活躍している。『ブルク劇場』といえば、その昔、同名映画もあったが(1936年)、そしてまた、なんとイェリネクの劇作家としての出世作(1985年)のタイトルでもあって、その絶妙な因縁を今更ながらに発見して私は驚いてしまった。そんな「ブルク劇場」の専属俳優、ウィーンではハンパなく相当なステイタスらしい。嗚呼、原サチコ恐るべし!
原サチコ(本名:原幸子)は、演劇舎蟷螂、オプティカル・マリンカ、ロマンチカの女優を経て、20世紀末には京都のKBS深夜お色気番組『世紀末TV・倫理の谷間』の中でカエル課長とOLの不倫を描いた超馬鹿馬鹿しいパペット寸劇シリーズ『サチコの幸』をやっていた。その彼女が、いまやドイツ語圏演劇界では大変な有名人となっているのである。この場合、彼女にとっての幸福とは、すなわち原<サチコの幸>は、実は思いがけない遠き“虹の彼方”で花開いたといえるかもしれない。
つまりは、込められた理想を裏切らない名前というのも、この世には存在したということか。
<サチコの幸> あるいは <理想の果て> その1
その題名は『斎藤幸子』(作:鈴木聡、演出:河原雅彦)。斉藤由貴(サイトウユキ)が主演した舞台ではあるが、タイトルは「サイトウユキコ」ではなく、「サイトウサチコ」と読ませる。「幸せであるように」という親の願いで付けられたその名前は、実のところ姓名判断では最悪の画数だった。そして占い通りに、不幸の道を突き進む斎藤幸子。そんな<サチコの幸>は何処にあるのか。ざっと、そういう話である。
幸福の探求といえば、やはり『青い鳥』が思い出される(しかし今回は、innerchildの『青ゐ鳥』にあらず)。チルチルとミチルが、「此処ではない何処か」に探しにいったがどうしても捕まえることのできなかった幸せの青い鳥は、結局のところ最も身近な場所、自分んちの鳥籠の中にいた。しかしそれさえも、やがて飛んでいってしまう。つまり、幸福とか理想なんてものは、意識して追い求めた途端に、掴もうとした両手の間を、うなぎみたいにスルリと抜けて行ってしまうのだ。
そんな人生の教訓を、かつてメーテルリンクの童話劇から学んでいた私たちは、『斎藤幸子』においても、改めて同様のメッセージを受け取ることになる。物語の終盤、色々な苦難の末に“地球の生態系を守る”という口実でニュージーランド行きを思い立つ斎藤幸子(斉藤由貴)に、七年間に渡って彼女への好意を抱き続けてきた高校時代の同級生・坂本卓也(中山祐一朗)が、言う。
<いくな、もうどこにもいくなよ。さっき健さんが言ったよ。自分と目の前の人間のことしかわからないって。お父さんが言った。どこにもいかなくても、この場所に全部があるって。だいじなのは、きっとそういうことだけなんだよ。人間と人間の間にあるものだよ。それを楽しむことがぜんぶだ>
メーテルリンクのファンタスティックな象徴主義的手法によってではなく、下世話で通俗的な人情喜劇の中から、そんな、案外と深味のある台詞が不意に襲ってくれば、我が涙腺も思わず緩みかける。しかし、とりたてて恥じ入りもしない。劇全体としては説教臭いものではなく、活気溢れるドタバタコメディなのであればこそ、そんな、たまさかの不意打ちも許せるというものであった。
思えば、私が見た斉藤由貴の主演舞台の中では、1995年の『君となら』(於・パルコ劇場 作:三谷幸喜演出:山田和也)に、今年6月に観たばかりの『ゼブラ』(於・シアタークリエ 作・演出:田村孝裕)、そして今回の『斎藤幸子』と、一見心温まる家族ドラマかと思いきや実は不条理感に満ち溢れた痛快ドタバタコメディというのが、圧倒的傑作として印象が強い。斉藤由貴という人間に、そうした悲喜劇を呼び寄せる特権的な“オーラの泉”が内在しているということなのだろうか。そこが気になるところだ。
ところで、いま改めて『斎藤幸子』の公演パンフレットをめくってみると、「究極の姓名判断」なる広告が掲載されていることに気付く。今回の『斎藤幸子』を主催したのはパルコ劇場だが、近年のパルコ劇場といえば、美輪明宏や江原啓之の公演をヒットさせているので、『斎藤幸子』にも何かその種の神秘主義的な影がちらついているのか? …なんて思うのは、もちろん私の下衆の勘ぐりには違いあるまい。
ただ、そう思うに至ったのには訳がある。つい先日、そのパルコ劇場で寺山修司の『中国の不思議な役人』(演出:白井晃)を観たのをきっかけに、寺山修司のことを色々と考えていた。そういえば数年前に同劇場で同じ寺山の『青ひげ公の城』を演出した「J・A・シーザー」は、最近「J・A・シィザー」と表記を改めていて、これは何故なのかなあ、と。ひょっとして「渡辺えり子」を「渡辺えり」に改めさせた美輪明宏が、寺山/パルコ繋がりで、シーザーに何かアドヴァイスでもしたのかしらん、なんてことをつらつら思っていたところに、前述の広告が飛び込んできたことが、わが想像力を下衆な方角へと向かわせたのだ。しかるに、私には改名も、ある種の幸福追求行為のように思え、だとすれば、『青い鳥』で得た教訓に従えば、その先に必ずしも幸福が待っているとは言い切れないのではなかろうか…などと考えるのも、所詮は素人的な発想なのだろうけれど。
ときに、“<サチコの幸>は何処にある”というフレーズは、『斎藤幸子』宣伝のためにオリジナルで用意されたものではなく、あがた森魚の代表曲『赤色エレジー』の歌詞であることは言うまでもない。あがたは、林静一が「ガロ」1970年1月号~1971年1月号に連載した漫画『赤色エレジー』に大いなる感銘を受け、同名の“主題歌”を勝手に作って歌ったところ、思いがけず大ヒットとなってしまった(1972年)。その勝手に作った“主題歌”とは、あがた森魚にとっては、おおかた“まだ存在しない映画”のためのサウンドトラックといったような意味合いがあったのではないだろうか。
というのも彼は、ヒット曲『赤色エレジー』で得た巨万の富を、すかさず映画製作に注ぎ込むのだが、それこそは林静一の漫画『赤色エレジー』の映画化にほかならなかった。脳内ヴィジョンの実体化が叶う時であった。そうして出来た作品が、あがた自身が監督・脚本・主演および音楽(一部を除く)を務めた『僕は天使ぢゃないよ』(1974年)である。いまはDVDで観ることが出来る。(ついでに述べれば、林静一自身も同作品をアニメ映画化している。また、先日私がイメージフォーラムで観た、これも「ガロ」に連載された安部愼一の漫画を実写化した『美代子阿佐谷気分』という映画には、なんと林静一が役者として登場している。林静一は、安部愼一にも多大なる影響を与えているのだった)。
漫画『赤色エレジー』は、幸子と一郎という、若き女と男の貧しい同棲生活がもたらす、ほろ苦さに満ちた青春幻想譚である。そして、映画『僕は天使ぢゃないよ』の主人公も、同じく幸子と一郎であるが、そのヒロインのほう、すなわち幸子を演じた女優が、まさに「サイトウサチコ」という名前だったのである。といっても、あの「斎藤幸子」ではなく、こちらは「斉藤沙稚子」であった。いまインターネットで彼女のことを調べても、この映画に出演したこと以外に何も出てこず、杳として消息が知れない。かろうじて「幸子」ではなかったにせよ、“マッチ擦る束の間”の女優でしかなかったこの「斉藤沙稚子」の<サチコの幸>についても、私はなんだか思いを馳せてみたくなる。
(一部のマニアックな人ならば、<サチコの幸>と聞いて、今から10年ほど前に放映されていたKBS深夜お色気番組『世紀末TV・倫理の谷間』における『サチコの幸』というミニドラマを思い出すかもしれない。OLとカエル課長の不倫を描いた、中野貴雄監督、原サチコ主演の超くだらないパペット寸劇だった。まさか『赤色エレジー』へのオマージュなんかではなかったとは思うのだが…)
さて、林静一の『赤色エレジー』は、いま小学館文庫で手軽に読むことができるが、その巻末の解説文であがた森魚が書いている文章を少しだけ引用してみよう。
<…林静一がこの二人(※幸子と一郎)にこそ込めたのは、当時の若者達が自由や理想への共同闘争(※反ベトナム戦争運動、全共闘運動、カウンターカルチャー、等)に託そうとしたものと同じものではなかったか、と僕らは読んだのです。政治闘争も表現闘争も彼らのものではなかったが、「これだけが全てじゃないよね?」「このまま終わっていくわけじゃないよね」という希求。海へ行くことも、旅に行くこともままならなかったけど、自分達にはよりよい何かが、よりあうべきヴィジョナブルな何処かが待ちうけているはずだ…という心情が、幸子と一郎に託されている、と読んだはずです>
<ヴィジョナブルな彼方のヴィジョナブルな王国への希求、それはむしろ、何らかの意味での豊かな環境と豊かな感受性に恵まれた者のみのもてるエルドラドではなかろうか>
(※は当ブログ筆者=あんどうによる注釈)
こんなグッと来る文章を読めば、とっくに若者ではなくなっている自分でさえ、今から40年近くも前の若者の理想に共感・共鳴し、疲弊し果てた身体の内部に生気の蘇りを感じてしまうものだ。私の印象では、林静一やあがた森魚におけるエレジー(哀歌)とは、その赤貧の悲哀をバネに、現実と格闘し、必死にあがいていたものとして捉えられる。
しかし、である。2009年に生きる私たちは哀しいかな、その後の歴史の推移、<理想の果て>までも充分に認識してしまっている。だから、先だって下北沢で接した、もう一つの『赤色エレジー』において、私は、より絶望的な虚しさの漂うエレジー(哀歌)を耳にせざるをえなかった。その、もう一つの『赤色エレジー』とは、別役実による同名戯曲のことだ。1981年に文学座によって初演がなされ、今年2009年7月に下北沢スズナリでProject Natter(プロジェクト・ナッター)によって再演された。
林静一やあがた森魚の『赤色エレジー』から10年近く後に発表された別役実の『赤色エレジー』においては、原作漫画の設定をある程度は下敷きにしつつも、主にそこに描かれているのは、袋小路に陥った左翼闘争=内ゲバの世界だ。こちらに登場する幸子と一郎は新左翼組織のメンバーであり、敵対する党派からの襲撃に常に注意を払わねばならない。しかも一郎は生きることに自暴自棄となり、周囲の人々に嘘をつく。結果的にそのせいで、同志のアラカワや(一郎と別れてアラカワと結婚した)元恋人の幸子が内ゲバの犠牲となり重傷を負う。その後、仲間達の花見に参加する一郎。桜の木の下の場所がとれず、電信柱の下で花なき花見をしながら世俗的なカラオケに興じる仲間たち。彼らに逆らうように、電信柱にのぼり、一人「ワルシャワ労働歌」を歌う一郎。いつしか他の仲間もつられて、それを歌い出すが、そこに幸子が現れ、自分の夫アラカワが自殺したことを告げる…。
彼方への理想をいつしか見失い、もてあまされたエネルギーだけが閉鎖的に屈曲して消費される状況を、ある意味“象徴主義”的に描写した傑作戯曲である。そして、ここにおいて『赤色エレジー』というタイトルには、いうまでもなく、赤色革命の<理想の果て>の残酷なエレジー(哀歌)、という意味が付与されている。だから、花なき花見で歌われる「ワルシャワ労働歌」の虚しい響きにこそ、『赤色エレジー』という題名の意味を重ねて聴く観客も多いはずだ。
Project Natterで演出を担当したのは東ドイツ出身のペーター・ゲスナーである。彼は、東ドイツのライプツィヒ出身、国立ベルリン俳優学校エルンスト・ブッシュで学び、ハレのターリア劇場で4年間演出、俳優、助監督として活躍した後、1993年より北九州で劇団「うずめ劇場」主宰。現在は調布市に在住し、桐朋学園芸術短期大学准教授、調布市せんがわ劇場芸術監督、という経歴を持つ。18歳から労働党のメンバーだったが、28歳のときに東ドイツが消滅したという。つまり、共産主義の理想を追い求めていたのに挫折を味あわされた人間なのだ。一方、作者の別役実も60年安保闘争に参加し、その後、東京土建一般労働組合港支部の専従書記として七年間勤務するなど、60年代には労働運動のまっただ中を真摯に生きた人である。
60年代、国中の若者たちが理想に向けて燃えあがった、あのエネルギーはどうなったのか。左翼運動を続けた者は、70年代以降、目標や目的を見失い、内ゲバや粛清、テロといった迷走に陥ってゆく。そんな時代を経て80年代初頭に書き下ろされたテキストを、90年代に社会主義国家の崩壊を内側で体験した演出家が、2009年という名の資本主義が限界を迎えつつある現代において演出するということ。こうした複数の時代的・地理的な位相の絡み合った回路から発せられるメランコリックな黄昏気分を、私は非常に興味深く賞味することができた。だが、それだけではない。私の観た日は、終演後のアフタートークに、還暦を迎えたあがた森魚が登場し、代表曲『赤色エレジー』を実演で聴かせてくれたので、相当に重層的な充実感を得ることができた。
(ただ一点、演出に対する疑問。本編のエンディングで別役実作詞、小室等作曲の『雨が空から降れば』を流したことだけは、その楽曲がMy Favorite Songであるにもかかわらず、ちょっと余分だと思った。別役戯曲の上演とはいえ、林=あがたラインに連なる世界に、しかも複雑な絶望感を内包した戯曲に、「しょうがない、雨の日はしょうがない」という歌は文脈的に少々似つかわしくないと感じられたからである)
それにしても、別役実版の『赤色エレジー』的文脈における<理想の果て>をめぐる歴史の検証作業は昨今、各方面で繰り広げられている。すなわち、<あの時代>(60's~70's)の若者たちの挑戦と挫折の物語が、ここに来て、色々なメディアで取り上げられるようになった。昨年(2008年)は若松孝二監督渾身の映画『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』。また、同題材で並行するように進行中の漫画作品、山本直樹の『レッド』。これらはいずれも、赤色革命の<理想の果て>の残酷なエレジー(哀歌) といえるものだ。<あの時代>に小学生だった私がもっぱらニュースでしか知り得なかった一連の事件の流れが、新たな人間ドラマとして肉付けが施されて再構築されることは大変ありがたいことである。また、これらの作品をきっかけに当事者たちによる回想録もいろいろ読むようになった私は、少しづつ当時の諸事情に詳しくなりつつある。
昨年ドイツで大ヒットし、今年のアカデミー賞外国語映画賞で『おくりびと』に敗れたドイツ映画『バーダー・マインホフ・コンプレックス(Der Baader-Meinhof-Komplex)』も私は観た。日本での公開初日、さぞや大入り満員のことであろうと思い早々とシネマライズ渋谷に駆けつけたが、それほど混んでいなかったのには少々気が抜けたが。この映画、日本公開での題名は、『バーダー・マインホフ 理想の果てに』である。そう、ここにも赤色革命の<理想の果て>の残酷なエレジー(哀歌)が描かれていたのだ。これは、ペータ・ゲスナーの出身ではない側のドイツ、すなわち西ドイツに実在したドイツ赤軍派の闘争史を描いた作品なのである。(…長くなったので、次回に続けることとしたい)