もずくスープね -5ページ目

歴史は違和感から作られる。

「椎名麟三か。むろん知っとるで。むかし読んだことあるぞえ」
「違いますよ、松本さん。椎名麟三じゃなくて、椎名林檎です」
そんな会話を、維新派の松本雄吉さんと交わしたのは、JR中野駅に程近い居酒屋においてだった。当時、私もまた、椎名林檎の登場にはコロッとやられてしまったくちで、会う人会う人に、彼女の魅力を熱心に説いてまわっていた。しかし、矢沢永吉の話をすれば「たしかに谷沢永一はおもろいわ」などと返ってきてしまう松本翁であれば、上記のやりとりも致し方のない成行きではあったのだ…。

椎名林檎は、音楽も衝撃的だったが、なんといっても強烈無比なライブが圧巻だった。思い出されるのは、「無罪モラトリアム」発表を記念しての渋谷クラブクアトロでの公演。にしおかすみこばりの(?)女王コスチュームで鞭を振るいながら現れた彼女は鮮烈このうえなかった。彼女の作り出す過激でシアトリカルな世界に魂レヴェルまで侵食され、狂乱する観客の波に圧死寸前の状況の中、自分もまた、願わくば林檎女王さまに鞭打たれたいし、ハイヒールで踏まれたいとさえ思った。

あれから早10年。先週末(11月29日)、さいたまスーパーアリーナに「椎名林檎 生 林檎博’08 ~10周年記念祭~」を観に行った。「林檎博」というと、私のような古いマック・ユーザーには、最近日本で開催されていないアップルの「マックエクスポ」が懐しく感じられてしまうが、そういう人々に歴史的郷愁を喚起させるのも今回の公演のネーミングの狙いの一つではあったのだろう。

さて、CD封入先行予約で買ったチケットはステージから最も遠い席だったうえ、大スクリーンに映る演奏風景もほとんどが“引き”で撮られていたから(つまり大スクリーンの意味なし)、出演者の顔は全くといってよいほど見えなかった(これは将来発売されるであろうライブのDVDを買え、ということなのかな?)。まあ、ファンクラブに入っているわけでもなし、東京事変になってからはライブそのものにもあまり足を運ばなくなってきてる自分には「ま、こんなもんなんだろう」と思った。

それはともかくも、初期ナンバーを数多く含むセットリスト(林檎単独名義だから必然的にそうなるのだが)は、耳に馴染んだ曲ばかりで幸いであった。しかもそこに、10年間の年季の効いた歌唱力と、斉藤ネコ指揮「林檎博記念管弦楽団」の厚みのあるサウンドが加味され、音楽的な満足感は充分に得られたといえる。曲間のMCはあまりない(それがむしろよい)のだが、SHOWとしての演出は様々な趣向に事欠かない。開演早々、ジェネシス時代のピーター・ゲイブリエルを思わせるような、被り物めいたコスチューム(ヘッド・ドレスと言うそうな)で歌ったり、林檎が包丁を手にしたかと思うと俎板の上でリンゴを高速で切り刻んでいったり…。林檎の10年間の軌跡がスライドショウで紹介されたり、林檎の実子のナレーションによって“母”の生い立ちが紹介されたり…。

ライブ後半、「茎(stem)」以降は、「林檎博記念舞踊団」(イデビアン・クルーの斉藤・依田・菅尾・金子=東京事変「OSCA」PV に出てた4人)が登場、彼女らの伴舞が実に颯爽とキマッており、これを観るだけでもはるばる埼玉まで駆けつけた甲斐があったというものだ。もちろんコレオグラファーは、「OSCA」も振付けた井手茂太(最近ではSAKEROCK「会社員と今の私」PV の踊る会社員としておなじみ)である。

井手の手にかかると、例の「あーしくじったぁしくじったぁ」の手振りを含む「積木遊び」さえ、すこぶるファッショナブルに洗練された身のこなしへと変容する。「御祭騒ぎ」では、80人もの阿波踊り集団(高円寺阿波踊り振興協会)が登場、サンバ風に踊る「記念舞踊団」と合流して文字通り“お祭り騒ぎ”状態となるのだが、これがまた「マツケンサンバ」に劣らぬ壮観ぶりで会場全体を興奮の坩堝と化せしめるのだった。さらに、林檎が純平兄とデュエットした「この世の限り」の時であったか、来場者全員に配布された旗を「記念舞踊団」も両手に携え、巧妙な手旗のムーヴメントをチャッチャッと展開させながら左右に移動する。コミカルかつチャーミングでありながらも、しっかりエッジの利いた、ばつぐんに素敵なバックダンスだった。

そんな具合に、「椎名林檎」と「イデビアン・クルー」という、2つの“My Favorite Things”が、我が生なる視界の中で奇蹟の邂逅コラボレイションを遂げている光景を、私は得も言われぬ感慨深さで眺めていた(ちなみに12/18~20には、我が家から遠くない新百合ヶ丘の川崎アートセンターで、イデビアン・クルー・オム「大黒柱」 という公演がおこなわれる。オムというのは、homme、つまり男性陣だけ、男7人でのダンス公演である。「記念舞踊団」とはガラリと印象の違うイデビアン・クルーを楽しめるというわけだ。それと、聞いた話では、一青窈×小林武史×岩松了の音楽劇「箱の中の女」の振付も井手茂太だとか)

ところで、来場者全員に配布された旗であるが、いわゆる“旭日旗”と呼ばれる代物で、満員のさいたまスーパーアリーナで1万8千人もの観客がステージに向かって、これをパタパタと振るわけだ。多少なりとも日本現代史を知る者にとって会場内は、「学徒出陣」などに代表される、戦時中の怪しい雰囲気に見えてくる。かつて「依存症」という曲の歌詞の中に、ヒトラーという言葉があって回収騒動になったこともある林檎である。「東京事変」というバンド名だって、よくよく考えてみりゃキワドイ。そういう危険な香りあっての彼女の魅力なのではあるが、その魅力を享受する側としては、やはり良識との葛藤のうえで、その葛藤が滲み出るような表情でもって旗とか振って欲しいよね。いまどきは集団的エモーションの中で無自覚に全体主義的昂揚に突き進んで行く者が世の中の大部分なわけで、それに物言いをつけることは無粋だとか思われがちだが、むしろ、アッケラカンと全体主義に酔い浸る人々こそ巨大な無粋の塊である。「危険」という名の美酒を味わうことをせずに、皆で一気呑みして酔い騒ぐみたいな、ね。今回のコンサートで配布された“旭日旗”は、そういう感性に対するアイロニカルなリトマス試験紙にも思えて、私は敢えてそれを振ることをしなかった。別に、私が戦後民主主義の申し子だから、というわけではない。もし皆が旗を振らなかったら、敢えてキッチュの美学を示すため、逆に自分は振っていただろう。つまり私は私なりの林檎の味わい方を貫徹したいのだ。

“旭日旗”といえば、朝日新聞の社旗でもある。朝日=旭だから仕方ないのかもしれないが、たとえば朝日新聞主催のマラソン大会ではそれが見物客達に配られるから、見た目、戦時を彷彿とさせてしまう。或る種の世代の人々にとって、それは不快極まりないのではないだろうか。左寄りをモットーとする朝日新聞がそれでいいのか、と、かねてより感じていたが、ネットで調べると同じ疑問は多くの人々に共有されていることがわかった。そもそも、戦前の朝日新聞は、戦後とは正反対の右寄りイケイケドンドンだった。だから敢えて軍旗に似たイメージで社旗としたようだ。だが、それをいまでも改めようとしない理由はわからない。単に無自覚だからなのか、それとも、常に戦前を反省するための自分たちへの戒めたらしめるべく“違和感”を持続させているのか。なるほど、人は“違和感”あってこそ歴史というものに興味を抱き始める。“違和感”は歴史への問題意識の第一歩である。歴史は違和感から作られる。

林檎博に仕掛けられた、そんな違和感は、かくして、林檎史のみならず、昭和史、さらには、そんな昭和に生まれた自分自身の歴史にまで問題意識を拡大させることになる。が、そのことについては、次回以降に改めて書くこととする。

映画『地下鉄のザジ』を観て、パタフィジックに改めて思いを馳せる

「今まで観てきた映画の中でベスト3は何ですか?」なーんて尋ねられることが稀にある。私の場合、その時々の気分次第で、いろいろ返答内容は変わるのだけれども、しかしまあ、比較的不変のものといえば、次の3本が挙げられるであろう。筆頭は『地下鉄のザジ』(ルイ・マル監督 1960年)であり、次いで『僕の伯父さん』(ジャック・タチ監督 1956年)、そして『田園に死す』(寺山修司監督 1974年)だ。『僕の伯父さん』が『僕の伯父さんの休暇』に入れ替わることもしばしばあるが…。

さて、その我がベスト1作品『地下鉄のザジ』が、先週水曜日の深夜NHK衛星BS2で放映されたので、ついつい観てしまった。レーモン・クノーによる同名の原作小説(1959年)の破茶滅茶な味わいを、少しも裏切ることなく、むしろ、より一層増幅させて、見事に映像化に成功した大傑作である。その昔、私が学生の頃は、アテネフランセや日仏会館などの上映会でしか観ることができなかったが、いまでは茶の間で甘い菓子など食しながら、カフェオレと共に、気軽に観ることができてしまう。これは、ちょっとした「至福」のひとときというものだ。





この映画は、何度観ても飽きず、面白くて仕方ない。細部において少しも手を抜いてない凝った作りなのも素晴らしいが、なんといっても少女ザジ役のカトリーヌ・ドモンジョ(Catherine Demongeot)の破天荒さや生意気な表情がこのうえなく愛おしい。比較的最近観た映画では『JUNO』のエレン・ペイジの堂々とした演技に激しく心を奪われた私であったが、両者の間には、どことなく通底する何かを感じてしまう。

さて、映画『地下鉄のザジ』を観た翌日、フランスの演出家ニコラ・バタイユの訃報が舞い込んできた。「フランス語講座などで日本でも活躍し、勲四等旭日小綬章(01年)を受章したフランスの演出家ニコラ・バタイユさんが、10月28日、パリの自宅で大腸がんのため死去した。82歳」とのことである。ニコラ・バタイユは、俳優でもある。そして、『地下鉄のザジ』において、観光バスの運転手フェドール役を演じているのだ。つまり、私は意図せずして追悼鑑賞していたわけか。ちなみに、ニコラ・バタイユは、タチ監督の『僕の伯父さん』にも出演しているし、寺山修司と親しい間柄にあったことも有名である。そう考えると、私の好きな映画ベスト3全てに関係のある人だったんだなあと改めて思う。

が、それだけではない。演出家ニコラ・バタイユの代表的仕事といえば、ウージェーヌ・イヨネスコの『禿の女歌手』(1950年)である。論理性を完全に逸脱した、目眩くようなナンセンス・コメディの金字塔。「反-演劇」を代表する作品と言われる。ニコラ・バタイユはこれを初演以来、今日まで、ずっとパリで継続的に上演させてきた。私はパリには行ったことがないけれど、いつかその舞台を観たいと、ずーっと願ってきた。私にとって、不条理演劇の最高傑作は、ベケットの『ゴドーを待ちつつ』以上に、断然イヨネスコの『禿の女歌手』にほかならないからだ。どちらも無茶苦茶な内容だが、バカ度の高さでは『禿の女歌手』のほうが圧勝であろう。

…と言いつつ、この『禿の女歌手』、最近までは戯曲しか読んだことがなかった。しかし、昨年11月には、久保山真衣という人の主宰する東京フランセーズという劇団が旗揚げ公演でこれを上演したものだから、いそいそと阿佐谷まで観に行き、少々ポップに味付けされた不条理ナンセンス演劇の“実演”を心地よく賞味したものだった。つい先日には同じイヨネスコの『瀕死の王』という戯曲の舞台も観たけれど、個人的にはやっぱり『禿の女歌手』に尽きる。

イヨネスコ『禿の女歌手』も、レーモン・クノー『地下鉄のザジ』も、第二次大戦後の1950年代にフランスで花開いたパタフィジック文学の代表的な傑作といえるだろう。パタフィジック('Pataphysique)とは、もともと、元祖「反-演劇」ともいうべき『ユビュ王』の著者としておなじみのアルフレッド・ジャリが、『フォーストロール博士言行録』(1898年)という作品の中で提唱した造語で、「想像力による解決の科学」なのだそうだ。「形而上学そのものの内であれ外であれ、形而上学に付帯するものの科学であり、形而上学が自然学の彼方に展開しているのと同じだけ形而上学の彼方に展開している」というわけで、超形而上学または形而超学と訳す人もいるのだが…まあ、これを読んでる人には、何のことやら理解不能であろう。実のところ私もわからない。わからないが、しかし、必ずしもわからないでもない。

1948年には、ジャン・モレ男爵なる人物によって「コレージュ・ド・パタフィジック」なる秘密結社がパリで結成された。思うに、これ、バカ田大学みたいなものとでもいおうか。ジャリの精神を継承し、バカなことアホなことを真剣に、学術的に取り扱う方法あるいは態度、それがパタフィジックなのだ。これでいいのだ。「コレージュ・ド・パタフィジック」は、レーモン・クノー、ボリス・ヴィアン、ウジェーヌ・イヨネスコ、マルセル・デュシャン、マックス・エルンスト、マン・レイ、ルネ・クレール、ミシェル・レリス、ジャック・プレヴェールなどが参加していた。いずれも私の好きな芸術家ばかりである。馬鹿げたことに真剣に取り組める人達。このパタフィジック魂はやがてヨーロッパ、南米にも波及し、1960年代には、(これまた私の大好きな)英国カンタベリーロックの中心的存在であるソフトマシン(とりわけケヴィン・エアーズやロバート・ワイアット)にも伝播していった(「Pataphysical Introduction」なんて曲もある)。





「コレージュ・ド・パタフィジック」のシンボル・マークは、クルクルの渦巻きなのだが(ジャリのユビュ王の、お腹に描かれた渦巻きに因む)、映画『地下鉄のザジ』には随所に渦巻くような回転が見られる。そういうところにもパタフィジック性の発露を感じずにはいられない。そこで、世の中に誰かそういうことを指摘している人はいないだろうかと、『地下鉄のザジ』と「パタフィジック」という言葉の組み合わせでgoogle検索をしてみたところ、真っ先に出てきたのが「レーモン・クノー,パタフィジシアン -『地下鉄のザジ』におけるユーモアの射程」 という論文であった(PDFファイル)。これは別に、映画のことを論じているわけではないのだが、しかしながら、すこぶる面白い内容だった。目からウロコが落ちるようなことがふんだんに書かれている。広島大学の原野葉子さんという人によって2007年に著されたものだ。

ザジが何かにつけ発する言葉「Mon Cul」(モンキュ)というのがある。直訳すると「我が尻」ということになるが、生田耕作による原作の訳あるいは映画の訳も、「けつ喰らえ」である。といっても、いまどき、世間で実際に「けつ喰らえ」などと罵詈を浴びせている人など、とんとお目にかかれない。大昔、欽明天皇の時代、伊企儺という者が新羅の捕虜になり、褌を脱がされた挙句に「日本の大将、我が尻を喰らえ」と言うよう命じられたが、彼は抵抗し「新羅の王、我が尻を喰らえ」と叫んだ、という逸話が日本書紀に載っている。有名な話だ。が、そうした古い用例の他には、あまり見聞きしたことがない。「くそ喰らえ」のほうがまだしも普通であろうが、その場合はフランス語の「Merdre」(くそったれ)の方が雰囲気が近いだろう(いうまでもなくジャリの『ユビュ王』の冒頭の台詞である)。ちなみに前掲の論文の中では、原野葉子さんは現代風に「うぜー」と訳しておられる。しかし「Mon Cul」の語感にイメージとして近いのは、やはり「けつ喰らえ」のほうかな、という気はする。

参考までに小説『地下鉄のザジ』の中から用例を;

【原文】Napoléon mon cul, réplique Zazie. Il m’intéresse pas du tout, cet enflé, avec son chapeau à la con.

【原野訳】「本物のナポレオンうっぜー,あんなでぶゼンッゼン興味ないし。バカ丸出しの帽子かぶっちゃってさあ」。

【生田訳】「ナポレオンけつ喰らえ」ザジは剣もほろろに。「ぜんぜん興味ないわよ、あんな水ぶくれ、おまんこみたいな帽子をかぶってさ」

話がちょっと脇道にそれてしまったので、軌道を元に戻そう。ザジが「モンキュ」という汚語を吐くたびに、そこに作者Raymond Queneau自身が召喚される仕掛けになっている、と原野葉子さんは指摘する(最初に指摘したのはジョルジュ・エマニュエル・クランシエという人だそうだが)。私には、これは新鮮な衝撃であった。ショスタコーヴィチ(Dimitri Schostakowitsch)が自らの頭文字D・S・C・Hを自作曲のモチーフに使うことで、曲中に頻繁に作者自身が召喚されるという例はあるにしても、よりにもよって「けつ喰らえ」で作者が召喚されるとは。なんとも屈辱的な…。しかし、原野葉子さんが説くに、「作者」とは往往にして「創造主」=「神」にたとえられるものの、所詮は「間抜けな小説家」=「贋の神」でしかない。その、贋の神としてのいかがわしさには、なるほど「けつ喰らえ」がお似合いというものだ。さらに、原野さんによれば、ザジ(Zazie)は贋のJesus(ジーザスを幼児語でいうとザジとなるそうだ)、彼女にパリを案内するガブリエル伯父さんは贋の大天使ガブリエル、人々に言葉を喋れと吹き込む鸚鵡の緑は贋の聖霊。そんなこんなでザジは贋の聖三位一体を形成してゆく…と論じられる(ちなみに、クノー自身の日記にも、ザジの行動はイエス・キリストの生涯を反復している、という記述があるらしい)。なんとまあ、そんな構造だったのか、と私は戦慄した。

とまあこのように、贋の神が作り上げた、贋の物語、贋の文学によって、既成の文学を冒涜し、「反-小説」として“小説の死”を生きようとする。それこそが、パタフィジシャンとしての態度だと、原野さんは『地下鉄のザジ』を通して、鋭い考察を展開するのである。なるほど、地下鉄に乗りたいザジなのに、彼女が起きている間はついぞ地下鉄には乗れない、という内容の『地下鉄のザジ』は、もちろん小説としてはかなりキテレツで、パタフィジックの真骨頂を示す快作に違いない。そしてまた、レーモン・クノーが他の作品においてもパタフィジカルな実験を色々行っていることを私たちは知っている。書きかけの小説原稿の中から作中人物が失踪してしまう小説(『イカロスの飛行』)とか、或るちょっとした出来事を99通りの文体で表現してみせる小説(『文体練習』)とか、14行のソネットを、10種類用意したうえで、各行を切り離すことで、10の14乗=100兆通りの組み合わせ方=読み方」を可能にする詩集(『百兆の詩篇』…ちなみに人間の一生では百兆通り全てを読むことは時間的に不可能なのだが…)などなど。

なんにせよ、映画『地下鉄のザジ』を観たり、ネットで原野葉子さんの見事な論文を読んだりして、いまや私の気分はすっかりレーモン・クノーMODEである。1980年代、つまり四半世紀前に自分が大学生の頃、卒論のテーマでクノーを取り上げようと考えたこともあったが、諸資料が不足していたので断念し、クノーの盟友、ボリス・ヴィアンのほうを論じることにしたのだった(ま、それはそれでよかったと思っている)。しかし、現代のように、ビデオやらDVDやら衛星放送やらネットが普及し、様々な情報ソースが氾濫している時代だったら、きっとクノーを論じることに挑戦していただろうと思う。…まあ、とはいえ、21世紀まで生きてきたことで、クノーの魅力を、改めて、よりいっそう広く深く味わえたことは、本当によかった、時代に感謝だ。(なんだ、この薄っぺらな結論、けつ喰らえ!)

甦るマルクス

渡辺えり子率いる劇団3○○の昭和57年(1982年)東京公演『夢坂下って雨が降る』が、先週末、NHK-BS2で放映されていて少なからず感慨を覚えた。私もその上演を西武百貨店池袋店内にあったスタジオ200に観に行って、とても面白いと思ったものだ。その頃の記憶が今、突然炎の如く甦ってくる。

当時、学生だった私は、「スタジオ200」や「西武美術館」、また美術館に隣接する「アールヴィヴァン」(現代美術の書籍や現代音楽のレコードを扱う専門店)、さらには現代詩集の専門ショップ「ぽるとぱろうる」、そして尖鋭的な講座が目白押しだった「コミュニティカレッジ」など目当てで、池袋西武には頻繁に通っていた。

とりわけジャン・ボードリアールによる記号論的立場からの消費社会批判の講演会を、スタジオ200で聴き、その内容に感心すると同時に、消費社会の先頭を走る西武がそういう「自己否定」的な講演会を自分の店の中でやってしまう度量というか粋なセンスには、かなりグッと来たものだ。その後、日本国内としては初の本格的なロシア・アヴァンギャルド芸術の紹介となった『芸術と革命展』が西武美術館で開かれ、未来派オペラ『太陽の征服』なんてものまで復刻上演されるに至って、「こりゃスゴイや」と、すっかり打ちのめされてしまった。おかげで「革命万歳!レーニン万歳!トロツキ万歳!」という気分にさせられると同時に、「こんなカッコイイ展覧会をやる西武百貨店の凄さよ」と思うようになり、是非とも、文化事業に携わらせて貰おうと就職面接にゆき、挙句の果てに、本当に西武に就職してしまったのだった。

がしかし、実際にその内部に入ってみると、全然勝手が違うのだった。よくある話だ。地方の店の、普通の売り場に配置され、文化的なことを話せる同僚など、ごく一部の例外を除き、ほとんどいない。すぐに我が幻想は崩壊し、しばらくして、セゾングループも崩壊の道を突き進んでいったわけだ。20世紀初頭、ロシア・アヴァンギャルドを熱狂的に推進した芸術家たちが、ほどなくして革命国家に裏切られ、やがてその国家も20世紀末には解体したように。

そんな私なればこそ、セゾングループの栄枯盛衰が語られる、辻井喬&上野千鶴子の対談本『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)は、非常に面白く読めた。いや、本当は面白く読んではいけないのだ。元西武百貨店の社員としては。しかし、個人的には、堤清二=辻井喬の風変わりな思想(幻想)に踊らされたことは、むしろ快感であったし、それだけが日々の労働の拠り所だったとも言える。だから、堤清二=辻井喬が、いま多少無責任な話をしても、さほど腹立たしくもない。それどころか、「思想としては、いまでも共産主義者をやめているわけではありません」と対談の中で開き直り気味に言ってのける経営者の企業グループで働いていたんだよなぁと考えれば、たとえ結果的にその解体に巻き込まれたとしても、心情的にはなんか許せちゃうって感じ? 

最近、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』を観たり、山本直樹の『レッド』を読んだりして、かつての共産主義運動の成行きというものに対して、絶対に肯定はできないものの、しかしこれも心情的にはハナッから否定することもできない自分がいることに改めて気付かされる。現実としての共産主義は「ありえないっつーの」だが、「思想としては、いまでも共産主義者をやめているわけではありません」と私もまた言いたいのだと思う。私は全共闘世代ではないものの、その余韻の中で思想や感性を育んできた者である。それゆえか、微かな共産主義幻想が身体の奥底に澱んでいるらしい。

だから、であろうか、サッカーに何の興味も知識も持ち得ない私が、浦和のほうにある「レッズ」なる赤色の名を冠した球団を、最近気にするようになった。というのも、エンゲルスという名の監督が就任して、マルクスという名の選手が以前にもまして活躍するようになったそうではないか。しかも、エンゲルス監督の方針が、「空想的サッカーから科学的サッカーへ」だとか、サポーターの多くが格差社会のワーキングプアたちで、『蟹工船』片手に、応援に際してはインターナショナルの歌を歌っているというのは本当なのか。凄い! まさかこんな形で、マルクスの赤い思想が甦ってこようとは、誰が予想しえただろう。かくして、一つの妖怪が埼玉県を徘徊しつつある。共産主義の妖怪が。