甦るマルクス
渡辺えり子率いる劇団3○○の昭和57年(1982年)東京公演『夢坂下って雨が降る』が、先週末、NHK-BS2で放映されていて少なからず感慨を覚えた。私もその上演を西武百貨店池袋店内にあったスタジオ200に観に行って、とても面白いと思ったものだ。その頃の記憶が今、突然炎の如く甦ってくる。
当時、学生だった私は、「スタジオ200」や「西武美術館」、また美術館に隣接する「アールヴィヴァン」(現代美術の書籍や現代音楽のレコードを扱う専門店)、さらには現代詩集の専門ショップ「ぽるとぱろうる」、そして尖鋭的な講座が目白押しだった「コミュニティカレッジ」など目当てで、池袋西武には頻繁に通っていた。
とりわけジャン・ボードリアールによる記号論的立場からの消費社会批判の講演会を、スタジオ200で聴き、その内容に感心すると同時に、消費社会の先頭を走る西武がそういう「自己否定」的な講演会を自分の店の中でやってしまう度量というか粋なセンスには、かなりグッと来たものだ。その後、日本国内としては初の本格的なロシア・アヴァンギャルド芸術の紹介となった『芸術と革命展』が西武美術館で開かれ、未来派オペラ『太陽の征服』なんてものまで復刻上演されるに至って、「こりゃスゴイや」と、すっかり打ちのめされてしまった。おかげで「革命万歳!レーニン万歳!トロツキ万歳!」という気分にさせられると同時に、「こんなカッコイイ展覧会をやる西武百貨店の凄さよ」と思うようになり、是非とも、文化事業に携わらせて貰おうと就職面接にゆき、挙句の果てに、本当に西武に就職してしまったのだった。
がしかし、実際にその内部に入ってみると、全然勝手が違うのだった。よくある話だ。地方の店の、普通の売り場に配置され、文化的なことを話せる同僚など、ごく一部の例外を除き、ほとんどいない。すぐに我が幻想は崩壊し、しばらくして、セゾングループも崩壊の道を突き進んでいったわけだ。20世紀初頭、ロシア・アヴァンギャルドを熱狂的に推進した芸術家たちが、ほどなくして革命国家に裏切られ、やがてその国家も20世紀末には解体したように。
そんな私なればこそ、セゾングループの栄枯盛衰が語られる、辻井喬&上野千鶴子の対談本『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)は、非常に面白く読めた。いや、本当は面白く読んではいけないのだ。元西武百貨店の社員としては。しかし、個人的には、堤清二=辻井喬の風変わりな思想(幻想)に踊らされたことは、むしろ快感であったし、それだけが日々の労働の拠り所だったとも言える。だから、堤清二=辻井喬が、いま多少無責任な話をしても、さほど腹立たしくもない。それどころか、「思想としては、いまでも共産主義者をやめているわけではありません」と対談の中で開き直り気味に言ってのける経営者の企業グループで働いていたんだよなぁと考えれば、たとえ結果的にその解体に巻き込まれたとしても、心情的にはなんか許せちゃうって感じ?
最近、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』を観たり、山本直樹の『レッド』を読んだりして、かつての共産主義運動の成行きというものに対して、絶対に肯定はできないものの、しかしこれも心情的にはハナッから否定することもできない自分がいることに改めて気付かされる。現実としての共産主義は「ありえないっつーの」だが、「思想としては、いまでも共産主義者をやめているわけではありません」と私もまた言いたいのだと思う。私は全共闘世代ではないものの、その余韻の中で思想や感性を育んできた者である。それゆえか、微かな共産主義幻想が身体の奥底に澱んでいるらしい。
だから、であろうか、サッカーに何の興味も知識も持ち得ない私が、浦和のほうにある「レッズ」なる赤色の名を冠した球団を、最近気にするようになった。というのも、エンゲルスという名の監督が就任して、マルクスという名の選手が以前にもまして活躍するようになったそうではないか。しかも、エンゲルス監督の方針が、「空想的サッカーから科学的サッカーへ」だとか、サポーターの多くが格差社会のワーキングプアたちで、『蟹工船』片手に、応援に際してはインターナショナルの歌を歌っているというのは本当なのか。凄い! まさかこんな形で、マルクスの赤い思想が甦ってこようとは、誰が予想しえただろう。かくして、一つの妖怪が埼玉県を徘徊しつつある。共産主義の妖怪が。
当時、学生だった私は、「スタジオ200」や「西武美術館」、また美術館に隣接する「アールヴィヴァン」(現代美術の書籍や現代音楽のレコードを扱う専門店)、さらには現代詩集の専門ショップ「ぽるとぱろうる」、そして尖鋭的な講座が目白押しだった「コミュニティカレッジ」など目当てで、池袋西武には頻繁に通っていた。
とりわけジャン・ボードリアールによる記号論的立場からの消費社会批判の講演会を、スタジオ200で聴き、その内容に感心すると同時に、消費社会の先頭を走る西武がそういう「自己否定」的な講演会を自分の店の中でやってしまう度量というか粋なセンスには、かなりグッと来たものだ。その後、日本国内としては初の本格的なロシア・アヴァンギャルド芸術の紹介となった『芸術と革命展』が西武美術館で開かれ、未来派オペラ『太陽の征服』なんてものまで復刻上演されるに至って、「こりゃスゴイや」と、すっかり打ちのめされてしまった。おかげで「革命万歳!レーニン万歳!トロツキ万歳!」という気分にさせられると同時に、「こんなカッコイイ展覧会をやる西武百貨店の凄さよ」と思うようになり、是非とも、文化事業に携わらせて貰おうと就職面接にゆき、挙句の果てに、本当に西武に就職してしまったのだった。
がしかし、実際にその内部に入ってみると、全然勝手が違うのだった。よくある話だ。地方の店の、普通の売り場に配置され、文化的なことを話せる同僚など、ごく一部の例外を除き、ほとんどいない。すぐに我が幻想は崩壊し、しばらくして、セゾングループも崩壊の道を突き進んでいったわけだ。20世紀初頭、ロシア・アヴァンギャルドを熱狂的に推進した芸術家たちが、ほどなくして革命国家に裏切られ、やがてその国家も20世紀末には解体したように。
そんな私なればこそ、セゾングループの栄枯盛衰が語られる、辻井喬&上野千鶴子の対談本『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)は、非常に面白く読めた。いや、本当は面白く読んではいけないのだ。元西武百貨店の社員としては。しかし、個人的には、堤清二=辻井喬の風変わりな思想(幻想)に踊らされたことは、むしろ快感であったし、それだけが日々の労働の拠り所だったとも言える。だから、堤清二=辻井喬が、いま多少無責任な話をしても、さほど腹立たしくもない。それどころか、「思想としては、いまでも共産主義者をやめているわけではありません」と対談の中で開き直り気味に言ってのける経営者の企業グループで働いていたんだよなぁと考えれば、たとえ結果的にその解体に巻き込まれたとしても、心情的にはなんか許せちゃうって感じ?
最近、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』を観たり、山本直樹の『レッド』を読んだりして、かつての共産主義運動の成行きというものに対して、絶対に肯定はできないものの、しかしこれも心情的にはハナッから否定することもできない自分がいることに改めて気付かされる。現実としての共産主義は「ありえないっつーの」だが、「思想としては、いまでも共産主義者をやめているわけではありません」と私もまた言いたいのだと思う。私は全共闘世代ではないものの、その余韻の中で思想や感性を育んできた者である。それゆえか、微かな共産主義幻想が身体の奥底に澱んでいるらしい。
だから、であろうか、サッカーに何の興味も知識も持ち得ない私が、浦和のほうにある「レッズ」なる赤色の名を冠した球団を、最近気にするようになった。というのも、エンゲルスという名の監督が就任して、マルクスという名の選手が以前にもまして活躍するようになったそうではないか。しかも、エンゲルス監督の方針が、「空想的サッカーから科学的サッカーへ」だとか、サポーターの多くが格差社会のワーキングプアたちで、『蟹工船』片手に、応援に際してはインターナショナルの歌を歌っているというのは本当なのか。凄い! まさかこんな形で、マルクスの赤い思想が甦ってこようとは、誰が予想しえただろう。かくして、一つの妖怪が埼玉県を徘徊しつつある。共産主義の妖怪が。