流山児★事務所を寿ぐ(言祝ぐ)
《寺山「今日、たとえば日本赤軍の学生たち、あるいは西独のバーダー・マインホフの学生たちによるゲリラ活動は、それ自体で変革につながるものだとは考えていません。しかし、彼らをある種の代理人、たとえば<俳優>だと考えることはできると思います。すなわち、彼らの意図することは、<異化の効果>です。大部分の、ブルジョワ・イデオロギーの催眠術にかかっている市民たちに及ぼす彼らの<異化の効果>をあなたは、有効だとお考えですか?それとも全く無効だとお考えになりますか?」》(寺山修司、ミシェル・フーコーとの対談 「犯罪としての知識」(1976年)~情況出版『藁の天皇』所収 より)
「おう、あんどうか」 流山児祥サンは、先に座していた私の右隣に腰をおろしながら声をかけてくれた。12月17日夜、下北沢、居酒屋「ふるさと」3階の座敷。ザ・スズナリでの『田園に死す』(原作:寺山修司、脚色・構成・演出:天野天街、企画:流山児祥)終演後のちょっとした呑み会。「聞いた? 紀伊国屋演劇賞のこと」
その日の本番前、第44回紀伊国屋演劇賞団体賞が流山児★事務所に決定したとの一報が、スズナリのロビーの電話に入ったという。『ユーリンタウン』『ハイライフ』そして上演中の『田園に死す』の成果が讃えられての受賞。賞金200万円。「明日の昼に発表だから、今日はまだ書いちゃダメ」
わたしがお祝いを述べると、「団体賞というのが嬉しい。劇団のみんなに贈られるんだから」と喜んでおられる。演劇団結成の1970年2月から数えて40年近く経った。また、流山児★事務所第一回公演『さらば映画よ ファン篇 ~ボギー、俺も男だ~』(作:寺山修司、演出:流山児祥)の1984年8月からは25年。これまでの活動が、ようやく受賞という形で一定の評価に結実したことは、さぞや感慨深いことであろう。「でも」と彼は言った。「本当にいいのかねえ。昔(1973年)、紀伊国屋ホールに殴り込みにいったことのある俺たちが貰っていいんですかって、思わず訊いたよ(笑)」
《流山児は「疾る演劇チンピラ」「演劇(無名)戦士」を自称した。彼は七一年、劇団俳優座内の造反グループが上演した菅孝行作『はんらん狂騒曲』(中村敦夫・加村赳雄演出)の会場となった俳優座劇場に、約十人の若者とともに「『はんらん狂騒曲』粉砕」を叫んでヘルメット姿で押しかけ、劇場突破をはかったが、警官たちに排除された。また、七三年には、彼は山崎哲ら十数人とともに「68/71黒色テント」公演、佐藤信作・演出『喜劇・阿部定』の会場に三日連続で殴り込みをかけている。流山児によれば、「<左>からの(体制の)補完物と成り下がったダメな先行者(アニキ)達を許しゃしねェ」(「持続せよ、野垂れ死にへの幻視行!」)というのが粉砕の理由だった。彼らは全共闘運動の延長のようなゲバルト(暴力)を演劇の世界に持ち込んだのである。》(扇田昭彦/岩波新書『日本の現代演劇』より)
《(1971年5月、劇団「つんぼさじき」の)旗揚げのチラシに福田善之さん、菅孝行さん、佐藤信さんに寄稿してもらった。公演の最中「演劇団」の流山児祥という男がなぜか「一緒に俳優座に殴りこみに行こう」と誘いに現れた。「反新劇のノロシを掲げた菅孝行が俳優座でやるのは許せない」ということだった。「公演中だし~菅サンには書いてもらってる手前もあるし~」と断ると「そうか」と太い声をのこして帰っていったが、以後、流山児とは長く付き合うことになる。信頼できる数少ない演劇人のひとりだ。》 (山崎哲&新転移21公式ホームページより)
「せっかくですから」と、その酒の席で、イタズラ好きのわたしは流山児サンに提案した。「ヘルメットにゲバ棒で、授賞式に臨んで欲しいですね。流山児さんが、行儀良く、かしこまって受賞するんじゃ、昔からのファンは納得しないですよ。やはり、ここは異化効果が必要です。」 わたしの左隣に座る天野天街氏も「そうそう、異化効果やっちゃいましょう!」と嬉しそうに囃し立てる。
その時わたしは、今年の6月に座・高円寺のオープニング企画で観た流山児★事務所『ユーリンタウン』を思い浮かべていた。今回の受賞理由の一つになった舞台である。『ユーリンタウン』は、ブロードウェイで商業的成功を収め、日本でも、ホリプロの主催興行として、宮本亜門演出によって日生劇場で上演されたこともある。しかし、もともとは、ブレヒトの『三文オペラ』から想を得て作られ、オフブロードウェイ=小劇場から発信された作品なのだ。そして、今年、流山児祥の演出によって、この『ユーリンタウン』は、再び原点に、つまり、商業演劇の側ではなく小劇場の側に、そしてブレヒトの側に回帰したといえる。
しかし、である。ミュージカルないし音楽劇は、音楽が生命線である。流山児演劇は、これまでも数多くの劇中歌を歌って来たが、底流にはアングラ小劇場精神を受け継ぐ「粗削り感」があった。しかし、『ユーリンタウン』においては、音楽が丁寧に、きめ細やかに構築され、そのサウンドも硬質でクリアーに響く。すなわち、ビシッと引き締まった音楽性が、劇全体を支えていたのである。そのことで、作品のベクトルともいうべき、社会に対する批評性や風刺性、そしてブレヒト的異化効果が、強度を高めて、観客の魂に鋭く突き刺さってくる。これは、わたしがずっと心の中に抱いてはいたものの実際に出会えたことのなかった、ブレヒト/ヴァイル音楽劇の、最も理想的模範的な上演に、初めて生で出会えた衝撃的瞬間であった。…いくらお祝いだからって、ちょっと誉め過ぎでは?と思われるかもしれないが、このあとすぐ、わたしは、実に失礼きわまりないことを書くのである。つまり、あの「粗削り」の流山児★事務所が、ああまでも完成度の高い、結晶のような奇蹟の舞台を見せ得たこと、それ自体がわたしにとって大いなる異化効果であった、と…。
日本でブレヒトを目指した、あるいはブレヒトに回帰しようとした演劇人は少なからずいたと思うが、佐藤信もその中の一人だったといえるのではないか。前述の扇田昭彦の著書によれば、佐藤信の黒テントは、<運動の演劇><革命の演劇>を掲げていた。また、「演劇センター68/71」(黒テントの前身)は、その機関誌で「私たちにとって演劇とは何か(中略)、理論をかため、アジテーションを行なうこと」と述べている。
わたしの知人で、現在、少年王者舘の役者として活躍する井村昂氏は、いまから40年以上も前に黒テントに所属していた。当時を回顧して語るに、その中枢メンバーの多くは良家の子女にしてインテリ、何かと言えば会議することを好んでいたらしい。そう聞くと、同じテント芝居でも、その元祖である紅テント(状況劇場)を率いた唐十郎の、「おさな心の発露」(鈴木忠志)と一体の肉体志向の行動原理と比べて、理論・理屈が前面に来る、俗に言うところの「頭でっかち」的な印象を佐藤からは受けてしまう。
一方、実父を炭労副委員長に持ち、自身は青山学院大学で全共闘副議長を務めていた流山児祥もまた<革命の演劇>を掲げていた。しかし、彼の場合は、唐十郎の状況劇場や、鈴木忠志の早稲田小劇場の研究生になるなど、「何よりも肉体を」の側に寄りそっていた。だからというわけではないが、彼のイメージは、頭よりも体あるいは拳が前面に来ている。「武闘派」というべきか。
だから、流山児が紀伊国屋ホールでの佐藤の芝居に殴り込みをかけたというのは、一見、<革命の演劇>武闘派が、<革命の演劇>理論派を襲撃したように受け止められよう。しかし、わたしには、そのことが、例えば連合赤軍の粛清や、中核VS革マルの内ゲバのような深刻で根深い闘争には到底思えない。というのも、後年、流山児★事務所の公演において、流山児と佐藤は仲良く手を組むことになるのだから。
佐藤を招く流山児も流山児なら、快く招かれる佐藤も佐藤に思えるのだが、それ自体が、ある種の異化効果となっていることは明らかだ。だからといって、かつての闘争が、まさか、それ(将来の異化効果)を予め狙った(流山児と佐藤それぞれの)ブレヒト的意匠の壮大な伏線だったわけでもあるまい(ましてや、流山児が佐藤の公演を逆説的に宣伝してやったわけでもあるまい)。要するに、…これは別に批判でも何でもないが、流山児も佐藤も、良くいえば柔軟、悪くいえば節操がないということなのだろう。しかし、とはいうものの、流山児が『ユーリンタウン』において優れたブレヒト的演出家の相貌を色濃く見せ始めたことを思うとき、むしろすべての過去の出来事は流山児-佐藤に仕組まれた壮大な演出であって欲しかったと、わたしの脳内に潜む或る種の(寺山的な)<犯罪的想像力>が呟くのを止めることはできない。
《佐藤信の黒テント(ボルシェビキ志向)が<革命の演劇>を唱えたことに対し、寺山修司は<演劇形式そのものの革命>を唱えていて、論争にもなっている。寺山は私に、「敵は黒テントだ」といったことがあった。「だから黒テントに殴り込んだ流山児祥(演劇団を主宰)は味方にしたい」とも。もっとも佐藤信は、寺山没後、寺山の『青ひげ公の城』演出の時、「本当は寺山ファンだった。論争は佐伯隆幸(演出家。黒テントの理論面を担当)が中心だった」と私に語っている。》(高取英/平凡社新書『寺山修司』より)
晩年の寺山修司は、月蝕歌劇団の高取英を介して、流山児祥と接近するようになる。第二次演劇団による『新・邪宗門』上演に協力を惜しまなかったという。しかし、肝硬変が悪化し、脚本執筆の大部分は、岸田理生と高取英が請負ったと聞く。そして、昭和58年(1983年) 5月4日午後12時5分、阿佐ヶ谷の河北総合病院にて寺山死去。享年47歳。その約1週間後、5月11日(水)から本多劇場で、『新・邪宗門』(作:寺山修司、演出:流山児祥 音楽:千野秀一)が開幕となった。流山児祥は「自分は、寺山の最後の弟子」との思いを持つようになり、その後、流山児★事務所では数多くの寺山作品を手がけるようになる。さらに、寺山没後10年の1993年5月には、評伝劇ともいうべき『ザ・寺山』(作:鄭義信 音楽:宇崎竜童 演出:佐藤信)を上演。 この作品で鄭義信は第38回岸田戯曲賞を受賞した。
「おれはもう喧嘩ができないんだよ」と、流山児サン。循環器系に問題があり、血液をサラサラにする薬を飲み続けているという。「だから、喧嘩をして出血したら、血が固まらなくて死んじゃうんだ」と言う。しかしわたしは「あ、それ一緒。実は、僕も最近心臓の具合悪くなって、同じ薬飲んでますよ!」と、同病意識で俄にシンパシーが高まった。まあ別に、それほど深刻な雰囲気の会話ではない。とにかく、流山児サンとしては、生とは限られたものであるからして、今まで以上に貪欲に色々なことを仕掛けてゆこうと考えているらしい。具体的なプランもあれこれ語ってくれた。わたしはといえば、心臓に爆弾を抱えていても、性格上、のんびりと構えている。ただ、47歳で死んだ、寺山修司の認識の地平が、つまり「不完全な死体」の思考回路が、ここに来て、わずかながら垣間見れた気にはなった。
もし寺山が生きていたら74歳の誕生日となったであろう2009年12月10日に、流山児★事務所『田園に死す』(原作:寺山修司、脚色・構成・演出:天野天街、音楽:J・A・シィザー、企画・出演:流山児祥)が開幕した。寺山修司監督作品、長編映画『田園に死す』(配給:ATG)の封切りから35年後にあたるタイミングでもある。その映画は、わたしにとって、生涯のベスト1と言っていいほど、大きな影響を受けた作品だった。そして、それを原作とした舞台は、これまたどえりゃぁことになっていた…
《寺山「さらに、極端に言えば、歴史というものはどうにでも作り変え可能なものだと思う。ぼくは、終わったことは全て虚構に過ぎない。というところから、進行形の偶然性を組織するために芝居をやっているわけですけれども、その意味で歴史というものも史家たちのように信用するわけにはいかない。むしろ歴史はどうにでも組み立て直すことが可能である」》(寺山修司、五木寛之との対談 「<本工の論理>としての近代市民社会」~情況出版『藁の天皇』所収 より)