innerchildに夢中
「innerchild(インナーチャイルド)」という劇団を主宰する小手伸也(1973年12月25日生まれ。B型)を、わたしが最初に知ったのは1995年、つまり、かれこれ14年も前の話だ。その頃のわたしが最も注目していた劇団といえば、「オハヨウのムスメ」という、「早稲田大学演劇倶楽部」出身のナンセンスコメディ劇団である(が、いまはもうない)。その公演『私の世界』で、ハンサムタワーズなる、ハンサムを自称する風変わりな三人組の一人として彼・小手伸也は登場する。
漫画めいた濃ゆい容貌で「ハンサムタワーズです」と名乗っては他の二人と共に妙なポーズをとる小手! その存在感は強烈無比で、忽ちにしてわたしを魅了した。だから当時ナイロン100℃から、『カメラ≠万年筆』の再演にあたり「誰か面白い若手の役者を推薦してほしい」と相談された際には、すぐさま小手の名前を挙げたほどだ。やがて彼は拙者ムニエルなどにも客演し、小手独特のコテコテの熱血芝居で客席の爆笑を誘発させまくっていた。
その一方で彼は自ら率いる劇団として、「innerchild」を旗揚げする(1998年)。わたしは初期の時代に、二度ほど公演を観に行ったが、役者としての小手が放つコミカルさとは遠くかけ離れたシリアス基調であり、しかも、「精神世界」や「神話」などを題材とする作品内容がいささか難解、…というか、膨大な情報量がまだ小手先で料理されてしまっている感があり、しばらく敬遠するようになった。
しかし皮肉にも、というべきか、私が「innerchild」に足を運ばなくなったあたりから、急速にエンターテインメントとして進化を遂げ、“見せる技=魅せる技”を磨いたようだ。一昨年、久しぶりに観に行った『アメノクニ』という作品、これが驚くほど良かった。古代史の中に20世紀世界史を重ね合わせて描いてゆく手腕が実にスリリングであり、随所の演出的切れ味もこのうえなくシャープなのだ。観ていて興奮を覚えた。いつの間にこんなに面白い劇団になってしまったのか。過去に感じた小手先の芸からは、かなり伸長した也!
そもそもがわたし自身、実は古代史とか神話などは嫌いではない。小手が愛読するという、梅原猛の論考や星野之宣の漫画などは、わたしもまた大いに影響を受けてきた。梅原や星野の如く、鋭い分析力と鮮やかな手つきで、パズルを解くかのように古代史の深層を掘り起こしてゆく快楽を、演劇という見世物の中で、実践的に成功させたのが小手なのだと思う。しかしそれは、「邪馬台国はどこか」論争の如き日本古代史マニアの興味とは動機やプロセスを異にするものである。
「innerchild」のドラマの出発点とは、現代社会に生きる我々が抱える様々な心的問題である。比喩的に説明してみよう。ある人の精神を形成する複数の糸がこんがらがって、にっちもさっちも行かなくなる場合に、それを丁寧に解きほぐす役割を果たす手段が精神分析だったり、あるいは宗教思想だったりする。そこにおいて、その糸がどこから来て、どの段階でどのようにしてこんがらがってしまったのか、その根源を求めて過去に遡る必要性がでてくる。その時に向き合わなければならなくなるものとして、古代史や神話もあるはずだ。ところが、その古代史や神話というものは、えてして謎に満ち溢れている。そうすると、今度は古代史や神話における謎めいた糸の絡み合いを、現代的視点からさらに解きほぐす作業が必要になってくる。こうして複数の方向から徹底的に解きほぐした糸をもとにして、新たに綴られたタペストリーこそ、「innerchild」から発せられる物語にほかならない。
ゆえに、彼らの物語が扱う時間性は古代から現代まで、また地域性も日本のみならず全世界に拡げられている。また、政治・歴史・民俗学・心理学・社会学・倫理学など様々なレヴェルの問題を重層的に織込み、有機的に絡み合わせている。つまり、古代史解明の快楽だけにとどまらない、このようなアクチュアルな姿勢が「innerchild」の作品に貫かれていることは、けっして見過ごしてはならないだろう。そうしたスタイルの集大成とでもいうべき作品として、たとえばチベットの諸問題を複合的なテーマとして描いた『i/c(アイ・シー)』(2008年11月上演)が挙げられる。旗揚げ10周年記念公演にふさわしい、彼らの偉大なる到達点だった。
…このように、いまや「innerchild」にすっかりハマってしまった感のあるわたしが、つい先日(2009年5月1日)に観に行ったのが、innerchild vol.16 『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』(作・演出:小手伸也)であった。2009年4月27日~5月3日、東銀座の時事通信ホールで上演されたこの公演の企画趣意書は、劇団の公式サイト
(http://www.innerchild-web.com/
)で読むことができる。その冒頭に、「ごあいさつ」として掲げられた、以下の文章(<カッコ>内)は、彼らの現在の有り様を知るうえで、よく整理されていると思うで、まるまる引用してみる。
<昨年2008年に旗揚げ10周年を迎えた「innerchild」が、「再創」という新たな枠組みで、更なる高みを目指す! 「こころ」の世界に、「ち(血・地・乳・質・霊・魂)」を通わせる新生「innerchild」、11年目の幕開けです!!
『「こころ」を描くエンターテイメント』を合言葉に、現代社会の心性に迫る心理学的なトピックスや、世界(主に日本)の神話的・宗教的テーマといった古来の精神文化から、誰もが心の奥に持ち得る深遠な「内面世界」、更に個人の内面に留まらない、より歴史的・社会的な背景を見据えた「壮大な物語」。それを、知的好奇心とロマンを基に徹底的に描いてきた「innerchild」が、自らの過去作品を原作に新たな新作を生み出す「再演」ならぬ「再創」シリーズ。次なる10年を目指した、新たな試みが今始まります!
(※「インナーチャイルド=Inner child」とは…心理療法、主に自己カウンセリングの手段の事で、自分の中の傷ついている部分を「子どもの時の自分」として具体的にイメージし、その子を癒そうとする事で自分の「心的外傷=トラウマ」と向き合う方法の事をいう。)
日常を舞台としたとした作品が多い昨今、神話や歴史を世界観に据えた大きな物語を、「演劇で魅せる」稀有(けう)な存在としてファンを獲得し続けている「innerchild」が、自らの作品を超え続けるため、「再創」という新たなシリーズを立ち上げました! 単なる「再演」を封じ、常に過去を現在へ、初演を新作へと置き換えていくことを自らに課した「innerchild」の「再創」。その言葉に込めた真価(進化)の様を、是非劇場にてお確かめ下さい!!>
今回の『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』は、<2004年に上演された『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』を原作に、脚本、キャスト、演出の全てを一新して挑む、実質新作公演>とのことであった。わたしは、2004年の『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』を観ていないので、具体的な変更箇所は、現時点では確認できていない。が、今回は「ククリの空」という題名が前面に踊り出ているように、ククリ=ククリヒメの存在がクローズアップされていると考えてよいのだろうか。
ククリヒメとは…
<「日本書紀」のある一節、しかも異説の部分にただ一度だけ、「ククリヒメ(菊理媛)」という謎の女神が登場する。この女神は、死に別れた創造神イザナギとイザナミの夫婦が、死者の国と生者の国の境目(黄泉比良坂)で、お互いを呪う程の仲違いをした際、その中間に立って両者をいさめたとされる。何故、そのような重大な役割を担ったはずの神が、「異説」にしか語られないのか? 何処の神なのか? 誰が何の目的で祀(まつ)ったのか? その全ては謎である…>(前述の趣意書より)
小手伸也は、このククリヒメを、イザナギとイザナミの夫婦が産もうとして産まれ得なかった子という、斬新な解釈をする。しかも、そのククリを、メーテルリンクの「青い鳥」に見立てるのだ。どうしてそうなるのか?
小手は、2004年の『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』の上演にあたって、現代の男女の問題(とりわけ不妊治療)をテーマに掲げた。そのルーツを記紀神話の中に求めた。そして、記紀神話を扱うのならば、実際の古代史とも重ね合わせたいと小手は考えた。そこで古代史研究に書かせない文献「魏志倭人伝」をあたってゆくうちに、「烏」という文字が「ヲ」と発音されることを知った。同じ頃、小手の頭の中では、次のような言語遊戯が思い浮かんでいた。男(man)と女(woman)を並べると→man woman→man-wo-man→manとmanの中間にはwo(ヲ)がある。すると、中間にいるのは「烏(カラス)」なのか。
<日本神話で「烏(カラス)」といえば有名なのが、「カムヤマトイワレヒコ(初代神武天皇)」の東征を導いた三本足のカラス「八咫烏(ヤタガラス)」です。"鳥が人を導く"というモチーフは全世界に散在しています。今回の「鳥」というイメージは、ここから始まりました。>(劇団HP『青ゐ鳥(アヲヰトリ)man-wo-man』企画趣意書より)
言葉の連鎖はさらに続く。日本語のルーツであるアイヌ語(≒古代の縄文語)では「中間領域」や「あの世との境としての墓地」を、aw(あを、あお、おお、おぅ、あわ、あぅわ)といった。中間を意味する「あいだ」「あわい」、色としての「青」、濃淡の「あわい」といった言葉は、awを語源とするものと考えられる(ちなみに、渋谷区の「青山」霊園一帯からは大量の縄文土器が出土していることから、縄文時代から墓所だったことがうかがえるそうだ)。
前述の「烏(ヲ)」もアヲと重なりあうので、鳥は鳥でも黒い烏(カラス)ではなく、青の鳥=青い鳥のイメージが浮かび上がる。何かと何かの狭間(アヲ)を飛び交う媒介的な鳥、それが青の鳥=青い鳥、ということになる。そして、何かと何かの「中間」「狭間」に住む媒介者といえば、生と死の境界にいて、生けるイザナギと死せるイザナミの諍いを和解させた(ククッてみせた)ククリヒメそのものではないか。そこで、小手脳内のイメージの三段論法が、ククリヒメを青い鳥にしてみせるわけである。
しかしわたしが思うに、そもそも小手がククリヒメという神を注目した理由は、「innerchild」で主演女優を務めてきた菊岡理紗の存在にあるのではないだろうか。彼女は、役者であり、制作も兼ねている。名刺を貰うと、
菊岡
理紗
と記載されていて、縦に読むと「菊理=ククリ」という字が目に飛び込んでくる。本名なのだそうだ。そういう名の女性が、役者と制作の二つの世界を括るようにして媒介する役割を与えられているのならば、どうしてククリヒメを思わずにいられようか。普段あまり陽の目を浴びることの少ない、しかし重要な役割を果たす女神ククリヒメが、「わたしはここにいる」「わたしをクローズアップして」といわんばかりに、菊岡理紗の姿を借りて、見えざる黄泉比良坂から小手に呼びかけてきたのではないかとさえ思えるのである。もちろん、劇中でククリを演じるのは菊岡理紗であった。
繰り返すが、ククリヒメは狭間に住まう者だ。生と死の狭間、存在と非存在の狭間を行き来する者だから、「いる」けど「いない」、「いない」けど「いる」ものだ。それが、イザナギとイザナミの諍いを仲介するのは、どういうことなのか。それは前述したように、ククリヒメがイザナギとイザナミの夫婦が産もうとして産まれ得なかった子だったからではないか、と小手は想像力を働かせるのだった。そして、その根拠を、菊岡理紗演じるククリの化身というべき現代の女性民俗学者(劇中では、民俗学者・伊佐尚岐教授の娘、伊佐心=イサ・ココロと名付けられている。岩波文庫の「日本書記」の脚注によれば、菊理=ククリが転じてココロとなったという説もある)の口を借りて、小手は次のような自説を展開する。
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心 「…菊理媛は、黄泉の境で伊邪那岐と伊邪那美の仲違いを治めたってことで縁結びの神ってことにもなってる。でも系統的に伊邪那岐と伊邪那美を結びつける動機や役割を担える神が生まれたって記述もない…。ということは、二人が最初に産もうしても生まれなかった子、ここにヒントがあるのかもしれない」
賑児「一人目の水蛭子(ヒルコ)と二人目の淡島(アワシマ)ですね!」
心 「水蛭子は後に蛭子(エビス)として海の神になるけど、淡島のほうは良く分からない。私は、この淡島が山の神として黄泉に下ったんじゃないかって思ってる」
賑児「根拠は?」
心 「淡島の“アワ”は語源的に“アヲ”と同じ。“アヲ”は“狭間”とか“墓場”の意味を持つ…」
(以上、『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』台本より抜粋)
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心の台詞は、古事記上巻の最初の部分に記述された「生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例」に基づいている。このように「ククリ」=「淡嶋」、そして、前述のとおり「ククリ」=「青い鳥」だとすれば、その「ククリ」という媒介項によって「淡島=アワのシマ」と「青い鳥=アヲのトリ」も必然的にククられ同一化してゆく。白川静の漢字学的な観点に立てば、そもそも、「島」=「嶋」の字の中には既に「鳥」が棲んでいる。つまり、「青い鳥」の棲まう島が青く見えて「淡嶋」になるのかもしれない。
そんなスリリングな議論をよそに、わたしにはふと、ククリと青い鳥を同一視する別の動機があるのではないかという思いが湧き起こり、いてもたってもいられず、そのことを終演後、直接、小手に尋ねてみた。「実は小手さんの脳裏には、♪ようこそここへ、クッククック、わたしの青い鳥~という歌が流れていたんじゃないですか? クック、クックリィ~、青い鳥~ってね。」 すると小手「いや、言われて今はじめて気がつきました」だって。
読者の中には、このような思考回路を、くだらない駄洒落、言葉遊び、こじつけ、と、ココロヨク思わない方々もおられよう。しかし、メーテルリンクの「青い鳥」が、チルチル&ミチルの夢の中で探し求められたように、夢の中では、言葉やイメージは、近似するもの同士からククられ溶け合ってゆく。夢はそのように、違和なるものを和合させて、新しい何かを生み出す錬金術的力を持つ。その夢の主舞台は、ココロにある。「AとかけてBととく。そのココロは…」とよく言うように、乖離したAとBを介在し、つなぐのがココロなのだ。
かつて『ドリーミング』という題名で『青い鳥』をミュージカル化した劇団四季は、最近「こころの劇場」ということを唱えているようだが、その概念は実は「innerchild」にこそふさわしいのではないかと思う。『ククリの空~青ゐ鳥(アヲヰトリ)』についても、たまたまここで紹介したことはほんの氷山の一角で、記紀神話と古代史と現代を融和させながら、普遍的なココロの問題としてククッてゆく、その壮大にして心憎い作劇テクニックは、語り出したらキリがないほどだ。とりわけ記紀ファンなら嬉々としてしまいそうな要素がふんだんにある。が、本日はもう書き過ぎたので、このへんでやめておこう。
とにもかくにも、ククリに光をあてた「innerchild」にならって、いまだ正当な評価が必ずしも得られていない気のする「innerchild」に、いまよりももっと光があたるように、今後は語る機会を増やして行きたいと思う。
そして追伸。小手伸也が、主演をつとめる映画が7月に公開されるそうだ。『不灯港』という。嫁募集中の漁師、万造38歳を演じるそうだ。詳細は、http://manzo-movie.jp/
。観るべし。