『クローバーフィールド/HAKAISHA』に学ぶ、演劇の新しい宣伝方法
ここ最近観た映画で、最も、魂を揺さぶるような凄味を感じさせられたのはなんといっても、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』だったが、それについてはいずれまた別の機会に詳しく触れるとして、もうひとつ、全く別の次元で、脳髄に炭酸をかけられたようなピリピリと心地よい刺戟を受けた映画のことから語り始めたい。映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』である。
『クローバーフィールド/HAKAISHA』は、幾重にも幾重にも、重層的に面白い。本当に巧いと思った。あの部分がこうだから面白い、とか、この部分がああだから面白い、とか、各要素を個々に語り出したらキリがないし、だいいち、現段階でそれを語ることはネタバレとなってしまう。しかし、なによりも、面白さが「重層的」構造の上に成立していること自体に、この映画の勝因はあるのだと思う。そして、更に重要なことは、その「重層的面白味」を貫いている、youtube的感覚の存在だ。
この映画では、素人のビデオカメラで撮影した映像の記録、というメディア特性を、とことんリアルなように「虚実の皮膜」(by近松門左衛門)の上に「再現」してみせている。なかんづく「手ぶれ」という手法によって…。仮に『実録・連合赤軍』が「実」の側から「虚実の皮膜」に投影させた傑作なのだとすれば、『クローバーフィールド/HAKAISHA』は「虚」の側から「虚実の皮膜」に投影させえた傑作といえるのではないか。
そして、この映画、宣伝方法も月並みではなかった。ここでも、youtubeやサイトを巧妙に利用して、人々の好奇心を煽るだけ煽った。人々は、「煽られている」ことを承知のうえで、それをエンジョイし、『クローバーフィールド/HAKAISHA』を見に行って、或る種、スッキリした気分になるのである。つまりこれは、なんというか、エロスとタナトスの絡み合う「仮死の祭典」の疑似体験なんだよね。つまり、宣伝も「前戯」として位置づけられている。「前戯」で暖めてくれないと、「本番」もいまいち盛り上がらない。
いまや、単なる「予告編的な宣伝」「告知としての宣伝」の時代は終焉を迎えつつある。これからは「前戯としての宣伝」で客を巻き込んでゆかねばならない。これは何も「映画」に限った話ではない。日本では(一部の団体を除いては)いざ知らず、欧米では「演劇」でも新しい宣伝手法がいろいろ試み始められつつある。たとえば、、、
1)ブロードウェイミュージカル『リガリーブロンド』は、上演中の舞台をMTVで完全放映させた。ブロードウェイ的には常識破りな作戦だったが、これによって「この名曲の沢山詰まった楽しそうな舞台を生で観てみたい」という気持ちを喚起させ、新しい観客を開拓できたという。生のライブは、TV放送より強いことの証となった。
2)上記『リガリーブロンド』は、さらに、次シーズンの新しい主演女優を、テレビ番組と連動して公開オーディションで選ぶことにした。アイドルオーディション番組「American Idol」の方法を、演劇に連結させた試みである(ちなみに、最近のブロードウェイ作品は、「American Idol」などテレビ番組から流れてきたスターを出演させる例も多くなっている)。英国でも、アンドリュー・ロイド・ウェバーが、彼のプロデュースになる『サウンド・オブ・ミュージック』で、主演女優選びに、テレビのオーディション番組とタイアップさせて話題を呼んだ。
3)ブロードウェイミュージカル『スプリング・アウェイクニング』は、当初より劇中ナンバー「The Bitch of Living」のPVを作り、公式サイトで流し、観客動員に貢献させていた。
4)最近、ブロードウェイミュージカルやウエストエンドのミュージカルの盗撮映像めいたものが、youtube等に流れていることが多いが、興行主催者サイドは「それもプロモーションのうち」と緩やかに考えて、あえて寛大に放置放任しておくことが多いという。たいていの盗撮映像は、「手ぶれ」で、映像内容も画質も音質も粗悪である。そもそもyoutubeにアップされていること自体、粗悪さを免れ得ない。その映像を見て興味を持った人には、むしろ「(粗悪ではない)ちゃんとしたものを観るために劇場に足を運ぼう」と思うようにさせるという戦略なのである。
…などなど。演劇がテレビ番組とタイアップできるのは結構なことではあるが、ちょっと大掛かりである。とくに、日本では少々難しいかも…。もっとも、地上波放送とかでなければ、たとえばCS衛星放送のスカパーのチャンネルの一つである「シアターテレビジョン」と劇団キャラメルボックスが組んで、初日舞台を同チャンネルで完全生放送したり、といった試みもある。ただ、そこまで出来なければ、これからは、やはりyoutubeをうまく活用すればよいのではないか。というか、youtubeをうまく活用できない興行主催者は、これからの時代を渡り歩いてゆけないであろう(ちなみに、劇団キャラメルボックスは、youtubeの活用においても先進的な動きを見せている。さすが、である)。
しかし、まあ、「活用」といっても、さきほど例をあげたように、盗撮映像を放置する、という活用方法だってあるのである。そういう、消極的な活用方法だって、それなりに効果が上がるわけであるが、そこはやはり、映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』並の、「手の込んだ」積極的活用方法にトライしていただきたいものである。それと、映画『靖国』のように、主催者が積極的に仕掛けたわけではないのに、予期せぬ弾圧を被ることによって、人々に「靖国神社には興味はなかったが、上映が自粛されるのであれば観てみたい」という気持ちを起こさせ、結果的に「前戯としての宣伝」が成り立ってしまうこともあったわけだが、今回以降、これが方程式化されることによって、これもまた「手の込んだ」積極的活用として方法のひとつにとりいれられることになるのかもしれない。
もっとも、「前戯」がいくら良くても、「本番」が駄目だったら、この前提は成り立たないことも確かである。明らかに「本番」が駄目駄目なものは、初めっから、目立たぬようにそっと身を引いていただくのが、せめてもの美徳というものだ。
『クローバーフィールド/HAKAISHA』は、幾重にも幾重にも、重層的に面白い。本当に巧いと思った。あの部分がこうだから面白い、とか、この部分がああだから面白い、とか、各要素を個々に語り出したらキリがないし、だいいち、現段階でそれを語ることはネタバレとなってしまう。しかし、なによりも、面白さが「重層的」構造の上に成立していること自体に、この映画の勝因はあるのだと思う。そして、更に重要なことは、その「重層的面白味」を貫いている、youtube的感覚の存在だ。
この映画では、素人のビデオカメラで撮影した映像の記録、というメディア特性を、とことんリアルなように「虚実の皮膜」(by近松門左衛門)の上に「再現」してみせている。なかんづく「手ぶれ」という手法によって…。仮に『実録・連合赤軍』が「実」の側から「虚実の皮膜」に投影させた傑作なのだとすれば、『クローバーフィールド/HAKAISHA』は「虚」の側から「虚実の皮膜」に投影させえた傑作といえるのではないか。
そして、この映画、宣伝方法も月並みではなかった。ここでも、youtubeやサイトを巧妙に利用して、人々の好奇心を煽るだけ煽った。人々は、「煽られている」ことを承知のうえで、それをエンジョイし、『クローバーフィールド/HAKAISHA』を見に行って、或る種、スッキリした気分になるのである。つまりこれは、なんというか、エロスとタナトスの絡み合う「仮死の祭典」の疑似体験なんだよね。つまり、宣伝も「前戯」として位置づけられている。「前戯」で暖めてくれないと、「本番」もいまいち盛り上がらない。
いまや、単なる「予告編的な宣伝」「告知としての宣伝」の時代は終焉を迎えつつある。これからは「前戯としての宣伝」で客を巻き込んでゆかねばならない。これは何も「映画」に限った話ではない。日本では(一部の団体を除いては)いざ知らず、欧米では「演劇」でも新しい宣伝手法がいろいろ試み始められつつある。たとえば、、、
1)ブロードウェイミュージカル『リガリーブロンド』は、上演中の舞台をMTVで完全放映させた。ブロードウェイ的には常識破りな作戦だったが、これによって「この名曲の沢山詰まった楽しそうな舞台を生で観てみたい」という気持ちを喚起させ、新しい観客を開拓できたという。生のライブは、TV放送より強いことの証となった。
2)上記『リガリーブロンド』は、さらに、次シーズンの新しい主演女優を、テレビ番組と連動して公開オーディションで選ぶことにした。アイドルオーディション番組「American Idol」の方法を、演劇に連結させた試みである(ちなみに、最近のブロードウェイ作品は、「American Idol」などテレビ番組から流れてきたスターを出演させる例も多くなっている)。英国でも、アンドリュー・ロイド・ウェバーが、彼のプロデュースになる『サウンド・オブ・ミュージック』で、主演女優選びに、テレビのオーディション番組とタイアップさせて話題を呼んだ。
3)ブロードウェイミュージカル『スプリング・アウェイクニング』は、当初より劇中ナンバー「The Bitch of Living」のPVを作り、公式サイトで流し、観客動員に貢献させていた。
4)最近、ブロードウェイミュージカルやウエストエンドのミュージカルの盗撮映像めいたものが、youtube等に流れていることが多いが、興行主催者サイドは「それもプロモーションのうち」と緩やかに考えて、あえて寛大に放置放任しておくことが多いという。たいていの盗撮映像は、「手ぶれ」で、映像内容も画質も音質も粗悪である。そもそもyoutubeにアップされていること自体、粗悪さを免れ得ない。その映像を見て興味を持った人には、むしろ「(粗悪ではない)ちゃんとしたものを観るために劇場に足を運ぼう」と思うようにさせるという戦略なのである。
…などなど。演劇がテレビ番組とタイアップできるのは結構なことではあるが、ちょっと大掛かりである。とくに、日本では少々難しいかも…。もっとも、地上波放送とかでなければ、たとえばCS衛星放送のスカパーのチャンネルの一つである「シアターテレビジョン」と劇団キャラメルボックスが組んで、初日舞台を同チャンネルで完全生放送したり、といった試みもある。ただ、そこまで出来なければ、これからは、やはりyoutubeをうまく活用すればよいのではないか。というか、youtubeをうまく活用できない興行主催者は、これからの時代を渡り歩いてゆけないであろう(ちなみに、劇団キャラメルボックスは、youtubeの活用においても先進的な動きを見せている。さすが、である)。
しかし、まあ、「活用」といっても、さきほど例をあげたように、盗撮映像を放置する、という活用方法だってあるのである。そういう、消極的な活用方法だって、それなりに効果が上がるわけであるが、そこはやはり、映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』並の、「手の込んだ」積極的活用方法にトライしていただきたいものである。それと、映画『靖国』のように、主催者が積極的に仕掛けたわけではないのに、予期せぬ弾圧を被ることによって、人々に「靖国神社には興味はなかったが、上映が自粛されるのであれば観てみたい」という気持ちを起こさせ、結果的に「前戯としての宣伝」が成り立ってしまうこともあったわけだが、今回以降、これが方程式化されることによって、これもまた「手の込んだ」積極的活用として方法のひとつにとりいれられることになるのかもしれない。
もっとも、「前戯」がいくら良くても、「本番」が駄目だったら、この前提は成り立たないことも確かである。明らかに「本番」が駄目駄目なものは、初めっから、目立たぬようにそっと身を引いていただくのが、せめてもの美徳というものだ。
いつまでもデブと…。バンコ、ヘアスプレー、他
ひと月ほど前のこと、飛行機の中で『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』を観て、遅まきながら、突然炎の如く、ジェシカ萌えしてしまった私です。これから「ジェシカ・アルバ」様の過去出演作を少しづつ踏破してゆくべく、『ダークエンジェル』『シン・シティ』『ファンタスティック・フォー』『イントゥ・ザ・ブルー』などを見て参ろうという、新たなる人生の生き甲斐が生まれておる次第です。
とまあ、外国人に眼を奪われているうちに、我が最注目アイドル、即ち、元おはガールのみづき、こと、「菅澤美月」様がいろいろ活動を始めました。ところが現在、多忙すぎて、なかなかチェックがおっつかない。TBS『3年B組金八先生』は録画だけしてまだ見てない。同じくTBS『24のひとみ』は超面白いんだけど、あまりに深夜すぎるうえに、テレビ欄にも載ってないから、ときどき見逃してしまうことがあります。こりゃファン失格でしょうか。11月には写真集も出るようであります。
また、これもかねてより秘かに注目していた「山岸舞彩」様(元・東レ水着キャンペーンガール、元JJ専属モデル)が、所属事務所をセントフォースに移籍、テレビ朝日『やじうまプラス』の天気を担当するようになりました。こちらは早朝すぎて、やはりチェックが大変であります。
もうひとりわたくしの大好きなアイドル、「鈴木あきえ」様は、TBS『王様のブランチ』で活躍中ですが、これは番組が4時間半もあるので、これまたチェックが大変。録画するにも、時間が長過ぎ!
そんな今日このごろですが、岡田斗司夫「いつまでもデブと思うなよ」を買おうかどうか書店で迷いながら、結局まだ買うには至っておりません。伊集院光はダイエットに成功したら仕事が減ってしまった、という過去の苦い経験があるそうですが、岡田斗司夫はどうなのでしょう。ま、なんといっても仕事よりなにより、健康第一ではありますが。
そんなことを考えつつ、昨日は川崎はクラブチッタに、「バンコ・デル・ムトゥオ・ソッコルソ」のライブを聴きに行きましたよ。イタリアン・プログレシヴ・ロックを代表するバンドであります。宣伝文には「フル・ラインナップによる10年振りの来日決定!クラシック音楽に根ざした見事な構築美、破天荒なポリリズムの応酬と、確固たる演奏技術、巨漢フランチェスコ・ディ・ジャコモの憂いのあるファルセット・ヴォイスに涙」とあります。本当は5月に来日するはずだったのですが、ヴォーカリストのフランチェスコ・ディ・ジャコモが病気をしてしまい、10月に延期になったというわけなのでした。
クラブチッタ! そこは、後期フェリーニ映画のようなキッチュさで、不思議なイタリアっぽさを醸し出す「川崎チッタ」の一角を占めるライブハウスです。この場所において、私は過去に、PFM、ニュートロルス、アルティメスティエリ、といった伝説的なイタリアン・プログレ・バンドを次々と観てきました。ヴィヴァ、イタリア!と心の底から叫んでしまいたい。(ま、実は、クラブチッタはイタリアものに限らず、ハットフィールドアンドザノースだとかソフトマシンレガシーだとかイングランドだとか、プログレ全般に力を注いでくれている稀有なライブハウスなんですけどね)。ともかく、そんなわけで、チッタでは初のバンコ公演であります。かつて、渋谷オンエアウエストでのライブも圧巻だったバンコを約10年ぶりに味わえる喜び。
フランチェスコ・ディ・ジャコモは、相変わらずデブはデブだったのですが、しかしながら、思っていたほど巨漢ではなくなってました。10年前に見た時は、たしかもっとでかかったと記憶しているのですが。もしや縮んだ? しかし、これ以上縮むと、伊集院光よろしく人気に悪影響がでるかもしれません…。一方、本当に巨漢だなと認識できたのは、キーボード奏者にして実質的リーダーであるヴィットリオ・ノチェンツィのほうでありました。フランチェスコ・ディ・ジャコモより一回りでかい。電子ピアノはもちろんのこと、シンセサイザーの演奏も、やけにパワフルでワイルドです。音楽の圧倒的な素晴らしさは言うまでもない。なんというか、観客はイタリア料理でもガツガツ喰らっている気分になれる。これは、デブのプログレです。音楽でお腹いっぱいになりました。ジャコモとノチェンツィのお二人には、早死にしない程度には、いつまでもデブであって欲しいと思いました。
さて、一夜あけて、本日は映画『ヘアスプレー』を見てきました。これが思っていた以上に、大傑作だったのです。同ミュージカルの舞台版は、今年の7月にオーチャードホールで観ましたが、これがまた、でかいホールということもあり、そして私の座席が後ろのほうだったこともあり、どうしてもステージとの距離感が感じられてしまったんです。せっかくの肉塊少女が肉迫感に欠けるとなると、見方が少々クールにならざるをえない。しかし、映画の『ヘアスプレー』のほうは、当然のごとく肉迫的であり、それでいて無駄がない、しかも拡がりのある、見事な仕上がりのフィルムとなっていました。
オープニング・ナンバー「グッドモーニング、ボルチモア」からして、映画版では、もう、かなり、グッと来ちゃう作りなのです。ボルチモアの街並み、そして生活の中に、すこしづつリズムが刻まれ、盛り上がり始めたところでトレイシーの寝室! おっと、ネタばれは控えなければなりません。こういう映画でしか出来ない構成だとか、カメラワークとか、あと露出狂の変質者が「あの人」だったりするとか、もう最初の数分間だけでジュンジュワッと涙があふれてきてしまうのです。そんな具合ですから、後半の人種差別反対に至る展開など、いちいち魂が揺さぶられてしまった私です。
トニー賞をとった舞台版ももちろん素晴らしいのですが、この最新の映画版は、舞台版を上回るテンポの良さがあり、退屈な箇所も全くありません。さらに、涙腺を緩ませる良き場面が多々ありました。それは決して、近ごろ日本で流行りの安っぽいお涙頂戴ではありません。人間のひたむきさに魂を揺り動かされる、そんな涙なのです。ともあれ、全ミュージカルファン、必見の傑作映画だと思います。
『ハイスクールミュージカル』の人気俳優ザック・エフロンが演じる人気タレントの「リンク」などは、最初はダンスに夢中なだけの頭からっぽの少年だったのが、情熱あふれるデブ少女トレイシーの魅力を知ってからは、人道問題を考えるようになったりして、まるで『Wicked』におけるフィエロだなと思いました。そして、彼の言葉がリアルな説得力を醸し出すほどに、トレイシー役のニッキー・ブロンスキー嬢は、デブなのに超チャーミングなのです。昨今、柳原可奈子もデブながら大変チャーミングですが、ニッキー・ブロンスキー嬢こそ、ほんとに素ばらしい!!
彼女は、実生活において、NYのコールドストーンアイスでバイトをしながら(歌いながらアイスを作る仕事です)ノドとリズム感を鍛えただけあって、パフォーマンスも圧巻。きっと、職場でアイスばかり食べて、いまの体型となっているのでしょうが、彼女に対しては「いつまでもデブ」でいて欲しいと願わずにはいられません。そして、いつの日か、ブロードウェイの生舞台にも立って欲しいものです。ま、そんな夢の話はともかく、今は、できるだけ何度も、映画館のスクリーンで、肉迫的に『ヘアスプレー』を堪能したいな、と思うばかりです。
とまあ、外国人に眼を奪われているうちに、我が最注目アイドル、即ち、元おはガールのみづき、こと、「菅澤美月」様がいろいろ活動を始めました。ところが現在、多忙すぎて、なかなかチェックがおっつかない。TBS『3年B組金八先生』は録画だけしてまだ見てない。同じくTBS『24のひとみ』は超面白いんだけど、あまりに深夜すぎるうえに、テレビ欄にも載ってないから、ときどき見逃してしまうことがあります。こりゃファン失格でしょうか。11月には写真集も出るようであります。
また、これもかねてより秘かに注目していた「山岸舞彩」様(元・東レ水着キャンペーンガール、元JJ専属モデル)が、所属事務所をセントフォースに移籍、テレビ朝日『やじうまプラス』の天気を担当するようになりました。こちらは早朝すぎて、やはりチェックが大変であります。
もうひとりわたくしの大好きなアイドル、「鈴木あきえ」様は、TBS『王様のブランチ』で活躍中ですが、これは番組が4時間半もあるので、これまたチェックが大変。録画するにも、時間が長過ぎ!
そんな今日このごろですが、岡田斗司夫「いつまでもデブと思うなよ」を買おうかどうか書店で迷いながら、結局まだ買うには至っておりません。伊集院光はダイエットに成功したら仕事が減ってしまった、という過去の苦い経験があるそうですが、岡田斗司夫はどうなのでしょう。ま、なんといっても仕事よりなにより、健康第一ではありますが。
そんなことを考えつつ、昨日は川崎はクラブチッタに、「バンコ・デル・ムトゥオ・ソッコルソ」のライブを聴きに行きましたよ。イタリアン・プログレシヴ・ロックを代表するバンドであります。宣伝文には「フル・ラインナップによる10年振りの来日決定!クラシック音楽に根ざした見事な構築美、破天荒なポリリズムの応酬と、確固たる演奏技術、巨漢フランチェスコ・ディ・ジャコモの憂いのあるファルセット・ヴォイスに涙」とあります。本当は5月に来日するはずだったのですが、ヴォーカリストのフランチェスコ・ディ・ジャコモが病気をしてしまい、10月に延期になったというわけなのでした。
クラブチッタ! そこは、後期フェリーニ映画のようなキッチュさで、不思議なイタリアっぽさを醸し出す「川崎チッタ」の一角を占めるライブハウスです。この場所において、私は過去に、PFM、ニュートロルス、アルティメスティエリ、といった伝説的なイタリアン・プログレ・バンドを次々と観てきました。ヴィヴァ、イタリア!と心の底から叫んでしまいたい。(ま、実は、クラブチッタはイタリアものに限らず、ハットフィールドアンドザノースだとかソフトマシンレガシーだとかイングランドだとか、プログレ全般に力を注いでくれている稀有なライブハウスなんですけどね)。ともかく、そんなわけで、チッタでは初のバンコ公演であります。かつて、渋谷オンエアウエストでのライブも圧巻だったバンコを約10年ぶりに味わえる喜び。
フランチェスコ・ディ・ジャコモは、相変わらずデブはデブだったのですが、しかしながら、思っていたほど巨漢ではなくなってました。10年前に見た時は、たしかもっとでかかったと記憶しているのですが。もしや縮んだ? しかし、これ以上縮むと、伊集院光よろしく人気に悪影響がでるかもしれません…。一方、本当に巨漢だなと認識できたのは、キーボード奏者にして実質的リーダーであるヴィットリオ・ノチェンツィのほうでありました。フランチェスコ・ディ・ジャコモより一回りでかい。電子ピアノはもちろんのこと、シンセサイザーの演奏も、やけにパワフルでワイルドです。音楽の圧倒的な素晴らしさは言うまでもない。なんというか、観客はイタリア料理でもガツガツ喰らっている気分になれる。これは、デブのプログレです。音楽でお腹いっぱいになりました。ジャコモとノチェンツィのお二人には、早死にしない程度には、いつまでもデブであって欲しいと思いました。
さて、一夜あけて、本日は映画『ヘアスプレー』を見てきました。これが思っていた以上に、大傑作だったのです。同ミュージカルの舞台版は、今年の7月にオーチャードホールで観ましたが、これがまた、でかいホールということもあり、そして私の座席が後ろのほうだったこともあり、どうしてもステージとの距離感が感じられてしまったんです。せっかくの肉塊少女が肉迫感に欠けるとなると、見方が少々クールにならざるをえない。しかし、映画の『ヘアスプレー』のほうは、当然のごとく肉迫的であり、それでいて無駄がない、しかも拡がりのある、見事な仕上がりのフィルムとなっていました。
オープニング・ナンバー「グッドモーニング、ボルチモア」からして、映画版では、もう、かなり、グッと来ちゃう作りなのです。ボルチモアの街並み、そして生活の中に、すこしづつリズムが刻まれ、盛り上がり始めたところでトレイシーの寝室! おっと、ネタばれは控えなければなりません。こういう映画でしか出来ない構成だとか、カメラワークとか、あと露出狂の変質者が「あの人」だったりするとか、もう最初の数分間だけでジュンジュワッと涙があふれてきてしまうのです。そんな具合ですから、後半の人種差別反対に至る展開など、いちいち魂が揺さぶられてしまった私です。
トニー賞をとった舞台版ももちろん素晴らしいのですが、この最新の映画版は、舞台版を上回るテンポの良さがあり、退屈な箇所も全くありません。さらに、涙腺を緩ませる良き場面が多々ありました。それは決して、近ごろ日本で流行りの安っぽいお涙頂戴ではありません。人間のひたむきさに魂を揺り動かされる、そんな涙なのです。ともあれ、全ミュージカルファン、必見の傑作映画だと思います。
『ハイスクールミュージカル』の人気俳優ザック・エフロンが演じる人気タレントの「リンク」などは、最初はダンスに夢中なだけの頭からっぽの少年だったのが、情熱あふれるデブ少女トレイシーの魅力を知ってからは、人道問題を考えるようになったりして、まるで『Wicked』におけるフィエロだなと思いました。そして、彼の言葉がリアルな説得力を醸し出すほどに、トレイシー役のニッキー・ブロンスキー嬢は、デブなのに超チャーミングなのです。昨今、柳原可奈子もデブながら大変チャーミングですが、ニッキー・ブロンスキー嬢こそ、ほんとに素ばらしい!!
彼女は、実生活において、NYのコールドストーンアイスでバイトをしながら(歌いながらアイスを作る仕事です)ノドとリズム感を鍛えただけあって、パフォーマンスも圧巻。きっと、職場でアイスばかり食べて、いまの体型となっているのでしょうが、彼女に対しては「いつまでもデブ」でいて欲しいと願わずにはいられません。そして、いつの日か、ブロードウェイの生舞台にも立って欲しいものです。ま、そんな夢の話はともかく、今は、できるだけ何度も、映画館のスクリーンで、肉迫的に『ヘアスプレー』を堪能したいな、と思うばかりです。
『三文オペラ』そして、世界とお近づきになるために…
Intel Macの登場後、マック機でウィンドウズを動かすことなど特段珍しくもなくなったが、昔はそうではなかった。敢えて、そうしようとするならば、マック機の中にDOS/V環境を構築するエミュレーターソフトなるものをインストールして、さらにその上にウインドウズをインストールしなければならない。しかし、わざわざそんな面倒なことをしても、エミュレーターの上だけに、その動きはとても鈍かった。そう、かつて「DOSのマック」は鈍かったのだ。
…などと書きながら、自分の書いた言葉にいささか違和感を感じてしまうのは、「ドスのマック」といえば、「マック・ザ・ナイフ」、つまり、ブレヒト/ヴァイルの『三文オペラ』の主人公である盗賊「メッキ・メッセー」、鮫の歯にも匹敵するほど鋭い男のことではないか。「ドスのマック」(千田是也訳だと「ドスのメッキー」)は鈍くちゃいけねえ!
そして、どんな古典的作品であろうと、「演劇」たるもの「社会の鏡」として、時代に鈍くちゃいけねえ!という、演出家の意志を強く読み取れたのが、昨日、世田谷パブリックシアターで観た『三文オペラ』(白井晃演出)である。そこで演出家がとった方法は「設定も、言葉も、音楽も、全てをわれわれの身体に近づけた」(パンフレットより)というもの。
思えば『三文オペラ』は、過去にいろいろなタイプの上演を観てきたが、いずれも自分との間に距離が感じられてしまうものばかりだった。それは空間的な距離ばかりではなく、時代の距離、言葉の距離、音の距離…。それが今回の『三文オペラ』では違った。
白井演出版『三文オペラ』において、時代設定は、インターネットPCや携帯電話などがでてくるから明らかに21世紀である。場所設定は、本来原作ではロンドンのソーホーだが、今回はいずことも知れぬ国のソーホーなる街ということになっている。とはいえ、ロフトめいた鉄骨と梯子からなる舞台装置は多分にNYのソーホーをイメージさせる(作り手は上海あたりのアジア的イメージもあるらしい)。そして、その舞台装置は、舞台の前面のほうに三層構造で配置され、奥行きを出さない代わりにどの客席からも役者の動きが見えやすいようにしている(ちなみに奥行きの部分には楽団を置くことで、常に役者越しにミュージシャンの存在を認知できる構造となっている)。
そして、なんといっても言葉である。戯曲は、気鋭のドイツ文学者・酒寄進一による新訳で、これが実にイキイキとした現代の「生きた日本語」であり、新劇にありがちなぎこちなさがほとんど感じられない。それは、三宅純編曲の音楽ともいい按配で溶け合っている。だから、旋律も歌詞(ROLLYも加担している)も、演奏のシャープさや音響の明朗さにしっかりと裏打ちされつつ、観客である私たちの耳にストレートに入ってくる。
これらの工夫は確実に効力を発揮したといえよう。その結果、作品の舞台である18世紀ロンドンや、『三文オペラ』初演当時の1920年代ベルリン、そして現代のニューヨーク、はたまた上海、のみならずその他の様々な猥雑都市の、幾つもの「ソーホー」的なる時空間が、多層的レイヤーを形成し、そして普遍的な「一」として統合され、私たちの身体(カラダ)を包み込もうとしてくる。こうして観客一人一人が、「私は世界と繋がっている」という実感を持ちえるに至るのだろう。ヴァーチャルとリアルの狭間で…。
ときに、ブレヒトが『三文オペラ』を発表して好評を博したのは、ワイマール末期のベルリンにおいてであった。そして、その時期その地を舞台にし、同じ空気を吸っているといってもいいミュージカルこそ、『キャバレー』なのである。ちょうど私は、松尾スズキ演出版『キャバレー』を数日前に青山劇場で観たばかりだった。
松尾版『キャバレー』はどうだったか。ここでも、「現代日本の世相」に通じる孔を穿とうという意匠は随所にちりばめられており、その結果として作品を松尾カラーに染め上げることには成功したと思う(その点、『三文オペラ』が白井ワールドに染め上がっていたのかは定かでない。そもそも私には白井ワールドというものがよくわかってないからであろう)。しかるに、せっかくのその松尾作品が、観る者へと接近しきれていなかった。
これはやはり、ひとえに青山劇場という空間のでかさゆえなのであろうか。同様の意見として、朝日新聞の劇評にも「装置や演技全般にも、空間に見合ったスケールの大きさが欲しい」と出ていた。まあ、だからといって松尾スズキに蜷川幸雄のような演出を求めようとは誰も思うまい。だとすれば、そこはむしろ、あの『キャバレー』は、もうひとまわり小さい劇場で上演されたらよかったなあ、ということなんだろう(商業的な諸事情はともかくとしてね)。そうしたら作品世界をより強く「体感」し得たろうし、また堪能できたことだろう。
一方、『三文オペラ』は、作品と観客の身体を有効に肉迫させえた。一体感を持たせたといってもいい。しかし、である。今回の出演者で警視総監タイガー・ブラウンを演じた佐藤正宏がパンフレットの中で述べていることにも耳を傾けたい。「この『三文オペラ』は、登場人物と一緒に泣き笑いするのではなく、建築物を眺めたり、ジャズを聴いたり、マチスやピカソの絵を見たりする、そんな“構造のカッコ良さ”を味わい楽しむタイプの芝居に思えてならない」。佐藤の、その受け止め方にはもちろん私は大賛成である。
演出家は、観客に対して、様々な手法を駆使して作品を観客に「近づける」が、その際、同時に様々な違和感をも送り込むのだ。違和感によって観客を刺戟し、覚醒させ続ける。これにより観客は、作品を相対的に眺め、その構造をも見透かし、骨の髄までとことん「賞味」できるようになる。ましてやブレヒトの「異化効果」を扱うならば、演出家はさらなる演出的「異化効果」を盛り込まなければならないだろう。それによって、「一」にして「多」である矛盾に満ちた猥雑な世界の構造を私たちは醒めながら熱く体感できるというわけだ。
だとすれば、である。戯曲をそれらしく上演形に仕立てあげるのも、演出家の仕事だろうが、それ以上に、戯曲の潜在的な可能性を、よりイキイキとしたものとして引き出すべく、刺戟的な工夫をセンスよく加えることこそ、演出家の最も重要な役割だと思っている。最近、そのことを強く意識したのは、今年、ニューヨークでミュージカル『Spring Awakening(春の目覚め)』を観たことによる。19世紀ドイツの戯曲『春の目覚め』(ヴェデキンドによる)を、時代設定はそのままに、普遍性を帯びたロックミュージカルに仕立てあげたその作品は、とにかく、目が醒めるような驚くべき演出的工夫の連続であり、それをきっかけに観客はグイグイ劇世界の内部に引きずり込まれて行く。そして、おそらく白井晃も、そのミュージカル『Spring Awakening(春の目覚め)』に大いなる感化を受けた1人ではないか、と私は推測する。
というのも、『三文オペラ』において、『Spring Awakening』との類似ポイントが幾つか散見されるからである。開演前に、私の隣にジェニー役のROLLYが座っていて、芝居が始まるといきなりそこから舞台へ飛び出していったこと。歌のシーンになると、登場人物たちがロックコンサートのようにマイクを持って歌うこと。メッキ・メッサー役の吉田栄作に至っては、スタンドマイクを振り回して歌ったこと。照明が、吊り照明をあまり使わずに、ネオン管や壁に張巡らされた電球を効果的に点灯させていたこと。役者たちの背後にミュージシャン達が配置され、しかもピアノの女性(荻野清子)が指揮をしながら演奏すること。いま、パッと思いつくのはこのくらいであるが、これらすべて、現在ブロードウェイで上演中のミュージカル『Spring Awakening』の中で確認できる要素である。「盗んできたの?」と『三文オペラ』登場人物のポリー・ピーチャム嬢ならば心配するかもしれないが、私は「悪を滅ぼそうとやっきになるのはよそう」と歌いつつ首を横に振る。それは、『Spring Awakening』へのオマージュというか、啓蒙主義的な「引用」であると、好意的に受けとめている。『Spring Awakening』はそれほど影響力の強い作品なのである。
そういえば、『三文オペラ』パンフレットの中では、白井晃が酒寄進一に、ヴェデキンドの『春の目覚め』の翻訳を勧めている箇所も見出される。もしかすると白井は、自分の手で『Spring Awakening』をやりたいのかもしれない。それも「生きた日本語」で上演されるべきだとの思いが強いのかもしれない(ひょっとして白井は、「生きた日本語」よりも「聞き取りやすい日本語」のほうを、理念として優先する某劇団が、日本での『春の目覚め』上演権を取得したことに、複雑な気持ちを抱いているのではないだろうか…と述べる知人もいるのだが、そのへんのことは私にはわからない。
さて『三文オペラ』については、『Spring Awakening』以外にも、随所において他からの影響を受けているように見える点がある。例えば鉄骨や梯子の舞台装置は『Rent』を少々彷彿とさせる。また、電光掲示板や映像などマルティメディア的な要素は、白井自身が出演したロベール・ルパージュや、TPTが日本に招いて評判をとったルネ・ポレシュ、その他の現代の欧米の著名演出家からの影響を如実に感じさせる。白井晃は『三文オペラ』の現代性を高めるために、敢えて、そういう同時代舞台の引用やコラージュを試みているのであろう。引用や借用、または影響を与えたり受けたり、インスパイアされたり、そういう間接的な交通行為によっても、私たちが世界文化の同時代に繋がってゆけるのだとすれば、それは結構なことである。
そもそも、『Rent』はプッチーニの『La Bohème』を下敷きにしているし、ミュージカル『Spring Awakening』だって、前述の通り、ドイツ19世紀の同名戯曲を思いっきり現代的な言葉と音楽で加工したものだ。それどころか、ブレヒトの『三文オペラ』にしても、18世紀にジョン・ゲイによって書かれた『ベガーズオペラ』を下敷きにしている。これらを過去と現代という時間的差異を融合させるための通時的な引用と見なすならば、同時代の欧米とアジアという空間的差異を融合させるための共時的な引用だって、おおいにアリであろう(著作権法を侵食しない程度に、ではあるが)。
なお、今回の『三文オペラ』で、唯一気掛かりだったのは、白井版『三文オペラ』において、井手茂太という大変有能な振付家が起用されているにも係わらず、ダンス部分がそれほど強烈な「異化効果」を発揮していなかったように見えたことだ。白井版『三文オペラ』に多大なる影響を与えたとおぼしき『Spring Awakening』では、ビル・T・ジョーンズの振付が新鮮このうえない効果を生み出していただけに、『三文オペラ』においては、その部分の物足りなさがマイナスの印象として残った。うむむ。どうしちゃったのかしらん。
…などと書きながら、自分の書いた言葉にいささか違和感を感じてしまうのは、「ドスのマック」といえば、「マック・ザ・ナイフ」、つまり、ブレヒト/ヴァイルの『三文オペラ』の主人公である盗賊「メッキ・メッセー」、鮫の歯にも匹敵するほど鋭い男のことではないか。「ドスのマック」(千田是也訳だと「ドスのメッキー」)は鈍くちゃいけねえ!
そして、どんな古典的作品であろうと、「演劇」たるもの「社会の鏡」として、時代に鈍くちゃいけねえ!という、演出家の意志を強く読み取れたのが、昨日、世田谷パブリックシアターで観た『三文オペラ』(白井晃演出)である。そこで演出家がとった方法は「設定も、言葉も、音楽も、全てをわれわれの身体に近づけた」(パンフレットより)というもの。
思えば『三文オペラ』は、過去にいろいろなタイプの上演を観てきたが、いずれも自分との間に距離が感じられてしまうものばかりだった。それは空間的な距離ばかりではなく、時代の距離、言葉の距離、音の距離…。それが今回の『三文オペラ』では違った。
白井演出版『三文オペラ』において、時代設定は、インターネットPCや携帯電話などがでてくるから明らかに21世紀である。場所設定は、本来原作ではロンドンのソーホーだが、今回はいずことも知れぬ国のソーホーなる街ということになっている。とはいえ、ロフトめいた鉄骨と梯子からなる舞台装置は多分にNYのソーホーをイメージさせる(作り手は上海あたりのアジア的イメージもあるらしい)。そして、その舞台装置は、舞台の前面のほうに三層構造で配置され、奥行きを出さない代わりにどの客席からも役者の動きが見えやすいようにしている(ちなみに奥行きの部分には楽団を置くことで、常に役者越しにミュージシャンの存在を認知できる構造となっている)。
そして、なんといっても言葉である。戯曲は、気鋭のドイツ文学者・酒寄進一による新訳で、これが実にイキイキとした現代の「生きた日本語」であり、新劇にありがちなぎこちなさがほとんど感じられない。それは、三宅純編曲の音楽ともいい按配で溶け合っている。だから、旋律も歌詞(ROLLYも加担している)も、演奏のシャープさや音響の明朗さにしっかりと裏打ちされつつ、観客である私たちの耳にストレートに入ってくる。
これらの工夫は確実に効力を発揮したといえよう。その結果、作品の舞台である18世紀ロンドンや、『三文オペラ』初演当時の1920年代ベルリン、そして現代のニューヨーク、はたまた上海、のみならずその他の様々な猥雑都市の、幾つもの「ソーホー」的なる時空間が、多層的レイヤーを形成し、そして普遍的な「一」として統合され、私たちの身体(カラダ)を包み込もうとしてくる。こうして観客一人一人が、「私は世界と繋がっている」という実感を持ちえるに至るのだろう。ヴァーチャルとリアルの狭間で…。
ときに、ブレヒトが『三文オペラ』を発表して好評を博したのは、ワイマール末期のベルリンにおいてであった。そして、その時期その地を舞台にし、同じ空気を吸っているといってもいいミュージカルこそ、『キャバレー』なのである。ちょうど私は、松尾スズキ演出版『キャバレー』を数日前に青山劇場で観たばかりだった。
松尾版『キャバレー』はどうだったか。ここでも、「現代日本の世相」に通じる孔を穿とうという意匠は随所にちりばめられており、その結果として作品を松尾カラーに染め上げることには成功したと思う(その点、『三文オペラ』が白井ワールドに染め上がっていたのかは定かでない。そもそも私には白井ワールドというものがよくわかってないからであろう)。しかるに、せっかくのその松尾作品が、観る者へと接近しきれていなかった。
これはやはり、ひとえに青山劇場という空間のでかさゆえなのであろうか。同様の意見として、朝日新聞の劇評にも「装置や演技全般にも、空間に見合ったスケールの大きさが欲しい」と出ていた。まあ、だからといって松尾スズキに蜷川幸雄のような演出を求めようとは誰も思うまい。だとすれば、そこはむしろ、あの『キャバレー』は、もうひとまわり小さい劇場で上演されたらよかったなあ、ということなんだろう(商業的な諸事情はともかくとしてね)。そうしたら作品世界をより強く「体感」し得たろうし、また堪能できたことだろう。
一方、『三文オペラ』は、作品と観客の身体を有効に肉迫させえた。一体感を持たせたといってもいい。しかし、である。今回の出演者で警視総監タイガー・ブラウンを演じた佐藤正宏がパンフレットの中で述べていることにも耳を傾けたい。「この『三文オペラ』は、登場人物と一緒に泣き笑いするのではなく、建築物を眺めたり、ジャズを聴いたり、マチスやピカソの絵を見たりする、そんな“構造のカッコ良さ”を味わい楽しむタイプの芝居に思えてならない」。佐藤の、その受け止め方にはもちろん私は大賛成である。
演出家は、観客に対して、様々な手法を駆使して作品を観客に「近づける」が、その際、同時に様々な違和感をも送り込むのだ。違和感によって観客を刺戟し、覚醒させ続ける。これにより観客は、作品を相対的に眺め、その構造をも見透かし、骨の髄までとことん「賞味」できるようになる。ましてやブレヒトの「異化効果」を扱うならば、演出家はさらなる演出的「異化効果」を盛り込まなければならないだろう。それによって、「一」にして「多」である矛盾に満ちた猥雑な世界の構造を私たちは醒めながら熱く体感できるというわけだ。
だとすれば、である。戯曲をそれらしく上演形に仕立てあげるのも、演出家の仕事だろうが、それ以上に、戯曲の潜在的な可能性を、よりイキイキとしたものとして引き出すべく、刺戟的な工夫をセンスよく加えることこそ、演出家の最も重要な役割だと思っている。最近、そのことを強く意識したのは、今年、ニューヨークでミュージカル『Spring Awakening(春の目覚め)』を観たことによる。19世紀ドイツの戯曲『春の目覚め』(ヴェデキンドによる)を、時代設定はそのままに、普遍性を帯びたロックミュージカルに仕立てあげたその作品は、とにかく、目が醒めるような驚くべき演出的工夫の連続であり、それをきっかけに観客はグイグイ劇世界の内部に引きずり込まれて行く。そして、おそらく白井晃も、そのミュージカル『Spring Awakening(春の目覚め)』に大いなる感化を受けた1人ではないか、と私は推測する。
というのも、『三文オペラ』において、『Spring Awakening』との類似ポイントが幾つか散見されるからである。開演前に、私の隣にジェニー役のROLLYが座っていて、芝居が始まるといきなりそこから舞台へ飛び出していったこと。歌のシーンになると、登場人物たちがロックコンサートのようにマイクを持って歌うこと。メッキ・メッサー役の吉田栄作に至っては、スタンドマイクを振り回して歌ったこと。照明が、吊り照明をあまり使わずに、ネオン管や壁に張巡らされた電球を効果的に点灯させていたこと。役者たちの背後にミュージシャン達が配置され、しかもピアノの女性(荻野清子)が指揮をしながら演奏すること。いま、パッと思いつくのはこのくらいであるが、これらすべて、現在ブロードウェイで上演中のミュージカル『Spring Awakening』の中で確認できる要素である。「盗んできたの?」と『三文オペラ』登場人物のポリー・ピーチャム嬢ならば心配するかもしれないが、私は「悪を滅ぼそうとやっきになるのはよそう」と歌いつつ首を横に振る。それは、『Spring Awakening』へのオマージュというか、啓蒙主義的な「引用」であると、好意的に受けとめている。『Spring Awakening』はそれほど影響力の強い作品なのである。
そういえば、『三文オペラ』パンフレットの中では、白井晃が酒寄進一に、ヴェデキンドの『春の目覚め』の翻訳を勧めている箇所も見出される。もしかすると白井は、自分の手で『Spring Awakening』をやりたいのかもしれない。それも「生きた日本語」で上演されるべきだとの思いが強いのかもしれない(ひょっとして白井は、「生きた日本語」よりも「聞き取りやすい日本語」のほうを、理念として優先する某劇団が、日本での『春の目覚め』上演権を取得したことに、複雑な気持ちを抱いているのではないだろうか…と述べる知人もいるのだが、そのへんのことは私にはわからない。
さて『三文オペラ』については、『Spring Awakening』以外にも、随所において他からの影響を受けているように見える点がある。例えば鉄骨や梯子の舞台装置は『Rent』を少々彷彿とさせる。また、電光掲示板や映像などマルティメディア的な要素は、白井自身が出演したロベール・ルパージュや、TPTが日本に招いて評判をとったルネ・ポレシュ、その他の現代の欧米の著名演出家からの影響を如実に感じさせる。白井晃は『三文オペラ』の現代性を高めるために、敢えて、そういう同時代舞台の引用やコラージュを試みているのであろう。引用や借用、または影響を与えたり受けたり、インスパイアされたり、そういう間接的な交通行為によっても、私たちが世界文化の同時代に繋がってゆけるのだとすれば、それは結構なことである。
そもそも、『Rent』はプッチーニの『La Bohème』を下敷きにしているし、ミュージカル『Spring Awakening』だって、前述の通り、ドイツ19世紀の同名戯曲を思いっきり現代的な言葉と音楽で加工したものだ。それどころか、ブレヒトの『三文オペラ』にしても、18世紀にジョン・ゲイによって書かれた『ベガーズオペラ』を下敷きにしている。これらを過去と現代という時間的差異を融合させるための通時的な引用と見なすならば、同時代の欧米とアジアという空間的差異を融合させるための共時的な引用だって、おおいにアリであろう(著作権法を侵食しない程度に、ではあるが)。
なお、今回の『三文オペラ』で、唯一気掛かりだったのは、白井版『三文オペラ』において、井手茂太という大変有能な振付家が起用されているにも係わらず、ダンス部分がそれほど強烈な「異化効果」を発揮していなかったように見えたことだ。白井版『三文オペラ』に多大なる影響を与えたとおぼしき『Spring Awakening』では、ビル・T・ジョーンズの振付が新鮮このうえない効果を生み出していただけに、『三文オペラ』においては、その部分の物足りなさがマイナスの印象として残った。うむむ。どうしちゃったのかしらん。