劇団四季『ウィキッド』開幕近し
だが、その割には、わたしは『WICKED』の完全なる生舞台を、今までに三度しか観ていない(いずれもNYのみ)。「三度しか」という言い方は、たいへん嫌味に受けとめられるかもしれないが、前述したハマりっぷりからすれば本来三度では全然足りない。なにしろ『WICKED』の魅力は底なし、劇中で主人公エルファバも歌うように「unlimited」なのだから。細かい仕掛けのちりばめられたスリリングなストーリー展開、聴く者の魂に染み入る音楽、ファンタジー感全開の美術&衣裳、心憎いほどの巧みな演出テクニック、役者たちのハイレベルな演技&歌唱力、等々、それら一点一点ごとに原稿用紙が何十枚も必要なほどに、謎解きや解釈も含めて、語りたいことは山ほどある。観るたびに新しい発見も増してゆく。そのうえ、NYのみならずあちこちの土地・空間で『WICKED』が展開し、それぞれ演出やキャストが微妙に変化してゆく。かように『WICKED』の世界は奥深く、幅広く、豊饒であり、その妙味を知った者の心を捉えて離さぬ、邪悪なる重力を有している。たとえ第一幕終盤でエルファバとグリンダが「Defying gravity」(重力に逆らって)を歌うにしても、皮肉にも作品の重力にだけは逆らえない。そう考えると、6月17日より劇団四季の上演する『ウィキッド』に、わたしはどれほど通うことになるのか、幾らお金を使ってしまうことになるのか、少々心配である。
さて、『オズの魔法使い(The Wonderful Wizard of Oz)』で描かれた世界が“表面”的事象だとするならば、『WICKED』はその裏側から表面を揺さぶり、わたしたち読者=観客が表面の側から見えなかった部分を炙り出す構図となっている。オズの国において大王=The Wonderful Wizardは、実はマイノリティを弾圧排除しながら、エメラルドグリーンに輝く“美しい国”造りを進めていた。背後の実情は、華やかなポピュリスムの外貌に目が眩むオズの一般大衆にはわからない。だが、2007年の今、現実社会に生きるわたしたちの状況に引き寄せて考えると、それが決してハッピーをもたらさないこと、時代の底辺が鬱化し「Something Bad」な日本の環境と通底することにハタと気付かされもしよう。
そもそも、L・F・ボームの『オズの魔法使い』自体が、執筆当時の、19世紀末アメリカの政治経済の暗喩だったという(wikipediaによる)。現にOZの文字をアルファベットで1文字ずつ前にずらすとNYになる(『2001年宇宙の旅』でHALを一文字ずつ後ろにずらすとIBMになるのと同じ手法だ)。詳しく書く余裕はないが、このように『オズの魔法使い』は、単なるファンタジーではなく、ファンタジーの裏側が現実社会に通じていることを解読させる構造を秘めていた。その前日譚ともいうべき『WICKED』においてもまた、現代アメリカの諸問題を、とりわけ9.11をめぐる観点から、読み取ることが出来ると思う(ただしグレゴリー・マグワイアが原作を著した時点では9.11は起こっていなかった。しかしNYでミュージカル化されたのは9.11の二年後の2003年であった)。それは何か。……いや、劇団四季『ウィキッド』の開幕以前にそれを軽々に論じるのは無粋というものだろう。それに、『WICKED』に流れているのは現代アメリカだけの問題ではなく、前述したようんに日本の状況にも置換可能な、普遍的な問題意識のような気がする。日本人として、『WICKED』をどう受けとめ、どう考えるかが、『WICKED』の新たなる発展形につながってゆく。
ともあれ、このような『WICKED』の魔性は、生きる活力というものを確実に観客に与えてくれる。たとえば、行き詰まった事態を打開するために、エルファバは、一つの表面=一つの価値観だけに覆われた世界を、造反によって解放しようとするのだ。いいかえれば、世界を無限に拡張しようとする試みである。それによって、わたしたちは、大王=The Wonderful Wizardが決してワンダフルではないこと、そして西の邪悪な魔女エルファバ=Wicked Witch of the Westが決してウィキッド(邪悪)ではないことも知りえる。わたしたちの生きる世界は、一つの世界だけではないことを知り、そこに生きる活力がみなぎってゆくのだ。
ミュージカル『ウィキッド』には、絶望と虚無感の漂う原作の小説とは違って、希望や救済も描かれている。そんな、生命と世界をつなぐ希望の装置として機能する魔法は、いま演劇にこそ求められているのではないかとも思う。…うーむ、柄にも似合わず、なんとまっとうなことを書いてしまうわたしであろう。それもこれも『WICKED』を知ってしまったがゆえの、「For Good」な変化といえるだろう。
人間人形時代(その1)
聖徳太子による十七条憲法の「以和爲貴」、和を以て貴しと為す、という考えはもちろん重要ではあるが、人間、ただ“和”の中に浸りきっていると鈍ってしまうのも事実である。平和ボケというのもその一つの症例だろう。あるいは、前回、述べたような、「身体的統一感」という“和”の中にひたすら安住していても、やがて身体感覚が鈍り、ひいては世界認識の感覚が麻痺しはじめ、だんだん社会性もなくなり、ボケてゆくしかないのではなかろうか。そのような堕落を回避するためには、ときおり、自分の「身体的統一感」をリセットし、自分自身を、あの「寸断された身体」という“違和”状態に回帰させることも必要なのだ。“違和”とは、新たなる“他者”である。新たなる“他者”との関係を模索することが、新たな世界を拡張することになる。
もちろん、前回とりあげたようなバラバラ殺人事件は実社会においては論外である。鏡像を嫌悪し、それを粉砕しても、前回述べたように「寸断された身体」に戻るわけではないのだし。そうではなく、自分自身の、現在の自明的なる身体機能の中に、新たなる“他者”を見出す努力・工夫をしてみればいい。変わったダンスを習うとか、未経験のスポーツに挑戦するとか。もしあなたが五体満足の健常者だとしたら、不具者の気持ちを味わう疑似体験なんてのもある。片目を見えなくするとか、右手を使えなくするなどの拘束を自らに施して生活してみる。欠如から統一感を解体し、その状態から新しい感覚(何が自由で何が不自由であるか、とか)を発見することもある。
たとえば、宮城聰は、彼の主宰するク・ナウカという演劇集団の表現活動において、身体の“違和”と出会うことで、新たなる世界の構築を試み続けてきたといえるだろう。もっとも、そのクナウカは、今年の4月から宮城が静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督に就任することに伴い、2月の公演『奥州安達原』終了後、しばらく活動を休止するというのだが。そう考えると、『奥州安達原』は要チェック演目である。(ちなみに下記、絵本『奥州安達原 四段目 一つ家』の凄惨な光景は、アート的には身体寸断化の図そのものだ!)
宮城の確立したク・ナウカの表現手法は、一風変わっている。俳優は、スピーカー(語り手)とムーバー(動き手)の二手に分かれ、一つの役を演じる。つまり、言葉と身体が分割される。黒子姿のスピーカーによる台詞回しは情緒たっぷりだが、ムーバーのほうは人形のように無表情のまま動作だけで情緒を演じる。これは、能や人形浄瑠璃の手法によって、東西の古典戯曲を上演するというスタイルだ。近代演劇の手法に慣れてしまっている私たちにとっては、それだけでも“違和”体験なのだが、さらにク・ナウカにおいては、男役の声を女が話し、女役の声を男が話す、といったジェンダーの撹乱をも行ってきた。これは一人の俳優が何かを演じるという演技の自明性を、“違和”によって揺さぶるという実験である。そのことによって観客は、「台詞とは何か」「所作とは何か」「性差とは何か」など、日常生活の中では気にも留めない様々な些末なパラメータを咀嚼しながら、ク・ナウカの上演する“古典戯曲”の味をくまなく賞味することとなるのだ。
演出家・宮城聰は、このように、戯曲というものを、既製の全体的統一感や、思い付きのムード・情緒の類で処理するのではなく、パーツパーツに寸断化して、それら同士の“違和”が、ある絶妙な関係性を結ぶようなコントロールを以て、作品化を成就せしめるということを行ってきた。ク・ナウカという劇団名は、もともとエンゲルスの『空想から科学へ』の中の「科学へ」のロシア語である。そういう意味では、客観的な科学的態度で作劇を追求するわけなのだ。そのような舞台において、俳優は人間的温もりを維持できないのではないだろうか、人間は制御された人形でしかなくなるのではないか、という疑問も湧くかもしれぬ。しかし、実際はどうか……これは、読者の皆さんに実際の舞台を観て判断してもらうしかない。
しかし、改めて考えていただきたい。20世紀音楽において、厳密で数理的とさえいえるセリーの手法を提唱したブーレーズやシュトックハウゼンの音楽は、はたして無機的一辺倒の音楽だったといえるだろうか? あるいは古楽における、ニコラウス・アーノンクールの“違和”ばかりをえぐり出すような演奏手法は、果たして不快感だけを残したのだろうか? いずれも否である。そこに、宮城の方法がもたらす答えもある。そもそも科学=サイエンスは、本来、悦ばしきものだったはずでははないか(「The Gay Science」by Friedrich Nietzsche)。さらに、なんといっても宮城の作品は、感覚の惰性化・硬直化と闘争し続ける軌跡といえる刺戟と活力に満ちたものだった。だから、ク・ナウカの活動休止にあたっても、「僕らがいちばんやってはいけないことは、自己模倣と自己反復です。ある程度のことが出来るようになったいま、改めて自分を壊さなければならないと感じます。そうして自分を見つめ直し、さらに“この先”を歩くことが、僕らの存在意義だろうと思います」と述べているのだ。
今ある常識を壊すことこそが科学的精神だとは、日経新聞で履歴書を連載中の江崎玲於奈博士も述べている。その為には、“違和”を恐れず、重力に叛らって(Defying Gravity)、“違和”と出会う旅へと出かけなければならない。いまや、わたしたちのスローガンは「“違和”を以て貴しと為す」なのだ。
「寸断された身体」をめぐって
精神分析学者ラカンによれば、乳幼児は初め、神経の未発達状態により、自分の身体がバラバラのように感じる(「寸断された身体」)。やがて鏡の中に自分の姿を見出し、統一イメージを想像的に得る(身体の不統一感はそのままに、視覚イメージだけを先取りする)。これを「鏡像段階」という。しかし、このときに得る統一性は、もちろん鏡の中の虚像である。鏡に映った自己という名の他者である。いいかえれば他者を鏡として自己イメージをそこに見出すのだ。しかし人は、自己と他者を明確に切り分けなければ社会の中で生きてゆけない。そこで介入してくる大きな他者こそが父であり言葉なのである。この他者によって社会の法を命じられ、そのことで自分の全能感を除去されるとき、これを「去勢」という。本日は、このようなラカンの理屈を浅~く踏まえながら、わたしなりの素人考えを展開してみるとしよう。
今回の2つの事件の各加害者にとって、自分の妹であるとか、自分の夫であるとか、自分と至近距離にある異性存在というもの、潜在的(無意識的)にせよ顕在的(意識的)にせよ、もしも、かつて愛という名の下に同一化対象であったとするならば、彼女(彼)らは他者でありながら同時に自己の延長でもあったではないだろうか。つまり、妹や夫は、本来は理想的な自分を映し出す鏡としての他者だったのではないか。しかし、時を経るにつれて、その鏡には自分の理想を裏切る像が映し出されてくる。もしくは、そこには、醜く歪んだ自分自身の像が映し出されたのだ。そうなると、そんな鏡は砕いてしまえ、という気になる。
確たる根拠はないのだが、いろいろな報道を見聞するに、亜澄さんと勇貴、そして、祐輔さんとカオリンには、それぞれ相似形的な要素を見出せるのだが、どうだろう。後者の夫婦はW不倫だったというし。このことから、件の兄妹、夫婦は、それぞれ相互に鏡像的な関係が生じていたのではないかと推測されるのである。そして、前述したような感情の中で、「被害者」意識を抱いた側が反転して「加害者」となる。相手を殺害する。しかし、相手は死んでも全体像はそのままである。鏡による自己同一性以前に戻すには、死体をバラバラに寸断しなければならない。この寸断こそが、歪んだ鏡を割ることにほかならないのだ。
しかし、鏡というものは割っても、そこに映る像は消えない。消えないどころか、割れた破片の数だけ増殖してしまうのだ。物理的時間がけっして後ろに戻せないように、一度認識された鏡像は、「寸断された身体」としての“自分以前の自分”へと単純に戻すことはできない、ということを殺人者は気が付かされるのである。だから解体された死体は、鏡像以前の自分のようでいて、その実は、自分の憎悪した自分が増殖しているのである。そして、このイメージを先取りした作品こそ、伊藤潤二のホラー漫画『富江』なのではないか、とわたしは思っている。『富江』シリーズを未読の方は、この機会に一読されることをオススメする。
さて、父親の敷いた「去勢」的レールに乗るべく歯科医をめざしていた三浪予備校生・勇貴は、熱帯魚鑑賞だけが趣味だったという。水槽の中で泳ぐ魚は、まるで鏡の割れた破片のように、美しく、きらきらひかる。父親に規定された自己同一性以前の「寸断された身体」へのリセット欲と、忌まわしい鏡像の破壊願望を、同時にいざない出す熱帯魚たち。「勇貴」と名付けられたにもかかわらず「去勢」的人生の中でさしたる“勇気”ある振る舞いを見せることもできなかった自分が、まがりなりにも(もちろん間違った)“勇気”をふりしぼって、ついに亜澄さんという鏡を割ってしまった。しかし、実際には、漫画『きらきらひかる』の監察医さながらに、「巧みな遺体切断術」で姉を解体したことで、彼は歯科医ではなく、解剖医にこそ向いているという適性を、つまりあるべき自己同一性を、この期におよんで見出してしまった、という皮肉な成行き。
…ここでさらにわたしは、実際には起こらなかったものの、可能性としてはあり得たかもしれない或るとんでもない妄想を、ついつい高い峯の上まで駆けさせてしまうのだが(それはかつてパリで或る日本人が起こした忌まわしき殺人事件と、亜澄さんの所属していた劇団の名とをつなぐ事柄である)、死者に対してあまりに不謹慎な記述は人として断じて慎まねばなるまい(後日談;当時、このようにブログには書いたものの、その後、勇貴が姉の一部分を口にしたらしいという記事を各種雑誌で何度かみかけたものだ 2009.5.12記)。
一方、カオリンの顛末にも精神分析的妄想は膨らむばかりである。カオリンは、祐輔さんの死体に土をかけたり、下半身死体の臀部の上に植木鉢を乗せるなどした。そこに、園芸や農耕のイメージを重ねてしまう人も少なくないだろう。死体を切り刻むうちに、芋の切り株でも植えるような感覚をもってしまったのだろうか。粉砕した鏡の破片とでもいうべき「寸断された身体」を、鏡像の中で統一化される以前の自分自身のパーツと見立てるならば、自分自身のありえたかもしれない多元的な未来可能性を、この期に及んで栽培/増殖しようという無意識でも働いたのであろうか。その発想は、『富江』的というべきか。
しかしまた、それ以上に農耕イメージから連想されるのは、ラカンにも大きな影響を与えた、サルバドール・ダリの“偏執狂的批判的”論考「ミレー『晩鐘』の悲劇的神話」なのだ。ミレーが農民夫婦を描いたあまりにも有名な絵画『晩鐘』においては、女性による男性去勢のイメージが見出されるとダリは述べる。一つは、女性の傍らに手押し車が置かれていること。開拓時代のフォークロアイメージとして、性器を剥き出した男性を農耕用の手押し車に見立てて女性が押す戯画があることから、その発想がもたらされたらしい。もう一つは、男性の傍らで鍬が屹立しているが、男性自身は臀部の上に帽子をおいてうなだれていること。『晩鐘』におけるこれらのイメージは、いずれも男性の去勢を思い起こされるものだとダリは喝破した。そのような“偏執狂的批判的”思考を受け継ぐならば、今回の事件でカオリンが、祐輔さんの下半身死体に植木鉢をのせて、その男性器を隠したという光景もまた、『晩鐘』における男性臀部に置かれた帽子と、そのままダブって見えやしないだろうか。
そんなわけで、歯科医院での兄妹の事件は『きらきらひかる』というタイトルで、セレブ夫婦の事件は『晩鐘』というタイトルで、それぞれ映画化して欲しいと思うのだ。前者の主役、浪人生・勇貴の役は、河本準一あたりがよいか。そして後者の主役、主婦カオリンの役は、なんといっても小雪がふさわしいだろう。