人間人形時代(その1)
聖徳太子による十七条憲法の「以和爲貴」、和を以て貴しと為す、という考えはもちろん重要ではあるが、人間、ただ“和”の中に浸りきっていると鈍ってしまうのも事実である。平和ボケというのもその一つの症例だろう。あるいは、前回、述べたような、「身体的統一感」という“和”の中にひたすら安住していても、やがて身体感覚が鈍り、ひいては世界認識の感覚が麻痺しはじめ、だんだん社会性もなくなり、ボケてゆくしかないのではなかろうか。そのような堕落を回避するためには、ときおり、自分の「身体的統一感」をリセットし、自分自身を、あの「寸断された身体」という“違和”状態に回帰させることも必要なのだ。“違和”とは、新たなる“他者”である。新たなる“他者”との関係を模索することが、新たな世界を拡張することになる。
もちろん、前回とりあげたようなバラバラ殺人事件は実社会においては論外である。鏡像を嫌悪し、それを粉砕しても、前回述べたように「寸断された身体」に戻るわけではないのだし。そうではなく、自分自身の、現在の自明的なる身体機能の中に、新たなる“他者”を見出す努力・工夫をしてみればいい。変わったダンスを習うとか、未経験のスポーツに挑戦するとか。もしあなたが五体満足の健常者だとしたら、不具者の気持ちを味わう疑似体験なんてのもある。片目を見えなくするとか、右手を使えなくするなどの拘束を自らに施して生活してみる。欠如から統一感を解体し、その状態から新しい感覚(何が自由で何が不自由であるか、とか)を発見することもある。
たとえば、宮城聰は、彼の主宰するク・ナウカという演劇集団の表現活動において、身体の“違和”と出会うことで、新たなる世界の構築を試み続けてきたといえるだろう。もっとも、そのクナウカは、今年の4月から宮城が静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督に就任することに伴い、2月の公演『奥州安達原』終了後、しばらく活動を休止するというのだが。そう考えると、『奥州安達原』は要チェック演目である。(ちなみに下記、絵本『奥州安達原 四段目 一つ家』の凄惨な光景は、アート的には身体寸断化の図そのものだ!)
宮城の確立したク・ナウカの表現手法は、一風変わっている。俳優は、スピーカー(語り手)とムーバー(動き手)の二手に分かれ、一つの役を演じる。つまり、言葉と身体が分割される。黒子姿のスピーカーによる台詞回しは情緒たっぷりだが、ムーバーのほうは人形のように無表情のまま動作だけで情緒を演じる。これは、能や人形浄瑠璃の手法によって、東西の古典戯曲を上演するというスタイルだ。近代演劇の手法に慣れてしまっている私たちにとっては、それだけでも“違和”体験なのだが、さらにク・ナウカにおいては、男役の声を女が話し、女役の声を男が話す、といったジェンダーの撹乱をも行ってきた。これは一人の俳優が何かを演じるという演技の自明性を、“違和”によって揺さぶるという実験である。そのことによって観客は、「台詞とは何か」「所作とは何か」「性差とは何か」など、日常生活の中では気にも留めない様々な些末なパラメータを咀嚼しながら、ク・ナウカの上演する“古典戯曲”の味をくまなく賞味することとなるのだ。
演出家・宮城聰は、このように、戯曲というものを、既製の全体的統一感や、思い付きのムード・情緒の類で処理するのではなく、パーツパーツに寸断化して、それら同士の“違和”が、ある絶妙な関係性を結ぶようなコントロールを以て、作品化を成就せしめるということを行ってきた。ク・ナウカという劇団名は、もともとエンゲルスの『空想から科学へ』の中の「科学へ」のロシア語である。そういう意味では、客観的な科学的態度で作劇を追求するわけなのだ。そのような舞台において、俳優は人間的温もりを維持できないのではないだろうか、人間は制御された人形でしかなくなるのではないか、という疑問も湧くかもしれぬ。しかし、実際はどうか……これは、読者の皆さんに実際の舞台を観て判断してもらうしかない。
しかし、改めて考えていただきたい。20世紀音楽において、厳密で数理的とさえいえるセリーの手法を提唱したブーレーズやシュトックハウゼンの音楽は、はたして無機的一辺倒の音楽だったといえるだろうか? あるいは古楽における、ニコラウス・アーノンクールの“違和”ばかりをえぐり出すような演奏手法は、果たして不快感だけを残したのだろうか? いずれも否である。そこに、宮城の方法がもたらす答えもある。そもそも科学=サイエンスは、本来、悦ばしきものだったはずでははないか(「The Gay Science」by Friedrich Nietzsche)。さらに、なんといっても宮城の作品は、感覚の惰性化・硬直化と闘争し続ける軌跡といえる刺戟と活力に満ちたものだった。だから、ク・ナウカの活動休止にあたっても、「僕らがいちばんやってはいけないことは、自己模倣と自己反復です。ある程度のことが出来るようになったいま、改めて自分を壊さなければならないと感じます。そうして自分を見つめ直し、さらに“この先”を歩くことが、僕らの存在意義だろうと思います」と述べているのだ。
今ある常識を壊すことこそが科学的精神だとは、日経新聞で履歴書を連載中の江崎玲於奈博士も述べている。その為には、“違和”を恐れず、重力に叛らって(Defying Gravity)、“違和”と出会う旅へと出かけなければならない。いまや、わたしたちのスローガンは「“違和”を以て貴しと為す」なのだ。