劇団四季『ウィキッド』開幕近し | もずくスープね

劇団四季『ウィキッド』開幕近し

 いろいろなものにハマりやすいわたしではある。その一つの顕著な例として、かねてよりミュージカル『WICKED』にハマっている自分がいる。ブロードウェイオリジナルキャスト盤CDはiPodに入れて日々繰り返し聴いている。ちょっとしたプライベートの外出にはガーシュイン劇場で買った「シズ大学」Tシャツなんぞを着て行く。『WICKED the GRIMMERIE』という公式ガイドは折りにふれ眺めている。原作本の邦訳『オズの魔女記』(今は絶版)も既に読んだ。その原書および続編『SON of a WITCH』も購入した。少々よこしまな(Wicked な)領域にも踏み込み、非公式なカラオケCDを数種類購入したり、ネット上で拾える関連諸映像の探索に日々余念がなかったりする。さらに、当然のこととして、『ウィキッド』の根幹たる『オズの魔法使い』も、映画DVD(500円)とシリーズ本(ハヤカワ文庫)は早い段階に取り揃えた。インターネットを通じて世界中から何でも取り寄せることが可能になった昨今なればこそ、知らず知らずのうちに、わたしの周囲の『WICKED』ワールドは拡大してゆく。

 だが、その割には、わたしは『WICKED』の完全なる生舞台を、今までに三度しか観ていない(いずれもNYのみ)。「三度しか」という言い方は、たいへん嫌味に受けとめられるかもしれないが、前述したハマりっぷりからすれば本来三度では全然足りない。なにしろ『WICKED』の魅力は底なし、劇中で主人公エルファバも歌うように「unlimited」なのだから。細かい仕掛けのちりばめられたスリリングなストーリー展開、聴く者の魂に染み入る音楽、ファンタジー感全開の美術&衣裳、心憎いほどの巧みな演出テクニック、役者たちのハイレベルな演技&歌唱力、等々、それら一点一点ごとに原稿用紙が何十枚も必要なほどに、謎解きや解釈も含めて、語りたいことは山ほどある。観るたびに新しい発見も増してゆく。そのうえ、NYのみならずあちこちの土地・空間で『WICKED』が展開し、それぞれ演出やキャストが微妙に変化してゆく。かように『WICKED』の世界は奥深く、幅広く、豊饒であり、その妙味を知った者の心を捉えて離さぬ、邪悪なる重力を有している。たとえ第一幕終盤でエルファバとグリンダが「Defying gravity」(重力に逆らって)を歌うにしても、皮肉にも作品の重力にだけは逆らえない。そう考えると、6月17日より劇団四季の上演する『ウィキッド』に、わたしはどれほど通うことになるのか、幾らお金を使ってしまうことになるのか、少々心配である。

 さて、『オズの魔法使い(The Wonderful Wizard of Oz)』で描かれた世界が“表面”的事象だとするならば、『WICKED』はその裏側から表面を揺さぶり、わたしたち読者=観客が表面の側から見えなかった部分を炙り出す構図となっている。オズの国において大王=The Wonderful Wizardは、実はマイノリティを弾圧排除しながら、エメラルドグリーンに輝く“美しい国”造りを進めていた。背後の実情は、華やかなポピュリスムの外貌に目が眩むオズの一般大衆にはわからない。だが、2007年の今、現実社会に生きるわたしたちの状況に引き寄せて考えると、それが決してハッピーをもたらさないこと、時代の底辺が鬱化し「Something Bad」な日本の環境と通底することにハタと気付かされもしよう。

 そもそも、L・F・ボームの『オズの魔法使い』自体が、執筆当時の、19世紀末アメリカの政治経済の暗喩だったという(wikipediaによる)。現にOZの文字をアルファベットで1文字ずつ前にずらすとNYになる(『2001年宇宙の旅』でHALを一文字ずつ後ろにずらすとIBMになるのと同じ手法だ)。詳しく書く余裕はないが、このように『オズの魔法使い』は、単なるファンタジーではなく、ファンタジーの裏側が現実社会に通じていることを解読させる構造を秘めていた。その前日譚ともいうべき『WICKED』においてもまた、現代アメリカの諸問題を、とりわけ9.11をめぐる観点から、読み取ることが出来ると思う(ただしグレゴリー・マグワイアが原作を著した時点では9.11は起こっていなかった。しかしNYでミュージカル化されたのは9.11の二年後の2003年であった)。それは何か。……いや、劇団四季『ウィキッド』の開幕以前にそれを軽々に論じるのは無粋というものだろう。それに、『WICKED』に流れているのは現代アメリカだけの問題ではなく、前述したようんに日本の状況にも置換可能な、普遍的な問題意識のような気がする。日本人として、『WICKED』をどう受けとめ、どう考えるかが、『WICKED』の新たなる発展形につながってゆく。

 ともあれ、このような『WICKED』の魔性は、生きる活力というものを確実に観客に与えてくれる。たとえば、行き詰まった事態を打開するために、エルファバは、一つの表面=一つの価値観だけに覆われた世界を、造反によって解放しようとするのだ。いいかえれば、世界を無限に拡張しようとする試みである。それによって、わたしたちは、大王=The Wonderful Wizardが決してワンダフルではないこと、そして西の邪悪な魔女エルファバ=Wicked Witch of the Westが決してウィキッド(邪悪)ではないことも知りえる。わたしたちの生きる世界は、一つの世界だけではないことを知り、そこに生きる活力がみなぎってゆくのだ。

 ミュージカル『ウィキッド』には、絶望と虚無感の漂う原作の小説とは違って、希望や救済も描かれている。そんな、生命と世界をつなぐ希望の装置として機能する魔法は、いま演劇にこそ求められているのではないかとも思う。…うーむ、柄にも似合わず、なんとまっとうなことを書いてしまうわたしであろう。それもこれも『WICKED』を知ってしまったがゆえの、「For Good」な変化といえるだろう。