同期の錯乱(2) 或いは、MAD演劇の行方 | もずくスープね

同期の錯乱(2) 或いは、MAD演劇の行方

かれこれひと月ほど前、ネット界を熱狂の渦に巻き込んだニコニコ動画の「IKZO祭り」。そのきっかけを作ったのは、言わずとしれた『StarrySky - IKZOLOGIC Remix』 (全農連P氏による)だった。が、まずその前段階として、『Capsule x Daftpunk x Beastieboys - StarrySky YEAH! Remix』 (Novoiski氏による)があったわけである。

Capsuleの『StarrySky』、Daftpunkの『Technologic』、Beastie Boysの『Ch-Check It Out』、いずれもとびぬけてカッコイイ、これらの楽曲およびPVを、このうえなく絶妙に切り貼りした結果、なんと、各原曲以上のカッコよさを放つ名作に仕上がってしまった。これだけでも凄いことだったのに…そこに全農連P氏は、吉幾三『俺ら東京さ行ぐだ』をさらに重ねた。するとどうだ、面白いだけじゃない、意外にも、切実でコクのある社会派ラップに仕上がってしまった。超カッコいいテクノ・サウンドに乗った、吉幾三の魂の叫びが、聴く者の心に鋭く突き刺さってくる。コミックソングの趣があった原曲よりも、遥かに感動的だ。Novoiski氏から全農連P氏への連携プレーの産んだ奇蹟の賜物というべきか。

こういうものに接すると、マッシュアップとかMAD動画の技術的進歩(そのためのフリーソフトもいろいろ出てきている)に加え、“職人”たちのセンスの向上ぶりにもまためざましいものがあるなあと改めて思い知らされる。そして、なにがしかの素材を誰かが、ミックスする。それを別の誰かが、さらなるミックスを重ねて面白くさせるという連携。作品とは、本来オリジナルなものとして個人に帰属するものだという「近代」的思考を超克し、かつての日本の「連歌」の如く、リレー的な共同創作行為によってそれが成り立つという発想。これすなわち、リナックス精神とでもいうか。本来、プロのオリジナル表現者にとって諸権利が重要なことは充分に承知している。承知はしているけれども、しかし、ネット社会でアナーキーに進行してゆく見事な表現民主革命に心躍らされてしまう自分がいることも正直に告白せねばなるまい。

マッシュアップとかMAD動画といわれるコラージュ作品を作るうえで、重要なポイントは「同期を図る」ことだろう。全農連P氏が使用している「trakAxPc」というフリーソフトなどは、BPM(Beats Per Minute=テンポの単位)を自動的に同期させる機能が付いている。こういう便利なものが誰でも使えるようになったればこそ、MAD動画の「祭り」も可能となるであろう。一方、MAD演劇はどうなのか?

…MAD演劇? もちろん、そんなジャンルはない。しかしである。前々回そして前回と、たて続けに演劇における「同期」のことを考察するうちに、シベリア少女鉄道のことを抜きにしては語れないんじゃないかと思った。そして、シベリア少女鉄道のやってきた、ひどく馬鹿げたことに思いっきり脳力を注ぐような、ある種の偏執狂的ともいうべき「同期」化への傾倒ぶり。それこそは、その創作精神の地平において、MAD動画とまさしく「同期」するものであって、これをMAD演劇と称してもよいのではないか、と考えた次第である。

土屋亮一率いるシベリア少女鉄道(以下、シベ少)は、2000年の6月、青春の恋愛模様を描いたシリアスなドラマが、後半からバラエティ番組『笑っていいとも』の進行と完全に「同期」してしまう『笑ってもいい、と思う』なる作品で旗揚げをした。私はこれを観て、見たことのないタイプの新しい演劇の出現に大変な衝撃をおぼえたものだった。以降、少しづつ作風が研かれてゆき、2002年3月の第5回公演で、一つの完成度に達した。作品名を『耳をすませば』という。

3つの短編ドラマが順繰りに演じられる。それらを仮にA・B・Cとしよう。その後に、再びAが上演される。その途中から、同じ舞台上で全く違うBが並列的に上演される。二つの異なるドラマが同時上演されるので、最初は見ていて訳がわからない。が、Aのほうで或る役者によって「命」という台詞が発せられている時に、Bのほうでは別の役者によって、「TIM」による「命!」という人文字ギャグのポーズが作られている。私達は、このような微細な「同期」がおこなわれていることに最初は気付かされるのだ。そこに、さらにCのドラマも加わって、やはり同じ舞台上で並列上演される。混濁度合いが強まる一方で「同期」への諸試みも散見されてくるのだが…或る時ついに、舞台上に突然スクリーンが降りてきて、そこから新しい流れが始まる。アニメ『アルプスの少女ハイジ』の有名な「クララが立った」の回が映し出されるのだ。しかし、その音声は、アニメドラマのオリジナルではなく、先程来のA・B・Cという異なる3つのドラマが重なったことによって発せられる台詞そのもの、それが今なお続いて、アニメの進行内容とピッタリ合致しているのである。この驚異の「同期」化を眼前にして私達は腰が抜けそうになる。

『耳をすませば』はスタジオジブリのアニメ映画として知られるが、シベ少の同名作品では、3つのドラマが同時進行する舞台に対して文字通り耳をすませば、その混濁の中から、かつてジブリのスタッフたちが係わっていた『アルプスの少女ハイジ』の物語が立ち上がってくる、という仕組みなのである。きわめて複雑な構造を実現させた作品であり、この一作で彼らの名は世に知れ渡った。ただ、或る種の人々が演劇という表現に期待するメッセージ性が皆無なだけに、「これは演劇とはいえない」といった批判も浴びせかけられたことも確かだ。だが、果たして、そうだろうか。下世話なメッセージなどなくとも、その独特な作劇術の根底に横たわる思考は、私たちに新しい「認識の枠組」をもたらしており、そういう意味で、そこいらに氾濫する普通のメッセージ演劇なんかよりは、よっぽど重要で革新的な演劇といえるのではないか、と、私はその時、ぼんやりと思ったものである。或る種の人々の批判や蔑視を見ると、かのロシアアヴァンギャルドに対して「社会主義リアリズムがない」として、「形式主義はけしからん」と弾圧したスターリンの思考に近いようにも感じるのだが、どうだろうか。

しかし、シベ少の躍進は続いた。翌年(2003,1/24~2/2)、さらにとんでもない作品を発表した。シベリア新喜劇『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』(於・王子小劇場)である。「シベリア新喜劇」という副題が示すとおり、この劇はまるで吉本新喜劇のような様式で進行する舞台だった。つまり、登場人物たちは何か事あるごとに、そのキャラに特有の「ギャグらしきもの」を発するのである。残念ながら、それらは必ずしも笑えるギャグではないという点において「ギャグらしきもの」なのだが、「新喜劇的舞台では、どんなにつまらないギャグでも、何度も発するうちに笑われるようになるものだ」という、作者・土屋亮一の持論が検証されるべく、登場人物たちの笑えないギャグは劇中において、いささか不自然ではあったが、たしかに幾度も繰り返されることによって、次第にギャグとしての体裁が整えられていった。

一方、それとは別に、登場人物たちの名前に注意する必要があった。一ノ瀬、二階堂、三鷹、四谷、五代、六本木、七尾と、これは高橋留美子の傑作漫画『めぞん一刻』と同じであり、その性格づけや描かれる人間関係も同漫画と共通している。つまり、新喜劇の系列が、『めぞん一刻』の登場人物たちによる別系列の物語に、明らかに「同期」しているのである。

が、新喜劇と人気漫画の「同期」を見せることだけが、シベ少の最終目的ではなかった。真の醍醐味は、この後に現れる。劇の後半部から、登場人物たちは競馬の実況中継をテレビで見るという展開になる。テレビ画面は観客に見えないが、その内容がわかりやすく反映された大きなボードが舞台の上方に現れる。そうすることによって、観客は競馬の状況をつぶさに確認できる。

すると、どうだろう。各登場人物が、それぞれの持ちギャグを発するたびに、各人物の名前に対応した数字の枠で走る、各ギャグに対応する名の馬が前に進む仕掛けになっているではないか。たとえば七尾が「ウレシインザスカイ」というギャグを三回発すれば、七枠の競走馬「ウレシインザスカイ」が三頭分前進して、いきなり先頭に躍り出る、といった具合だ。

観客は、ここでようやくタイトルの『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』の意味がわかってくる。競馬の各枠数の数字を名前に含む登場人物が、別の場所でたまたま発するギャグが、そのギャグを名前として持つ馬への声援となって、馬が奮起して前進する、という仕組みになっているのだ。この作品において土屋亮一は、新喜劇と人気漫画と競馬の3つの系列を「同期」させることによって、一つの大きな有機生命体のように作動する複雑なシステムを完成させたのである。作家=創造主だとすれば、劇世界の内部から見れば、作家とは神だ。だとすれば、『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』は、土屋亮一が神の視点で劇世界の上空から眺め、「同期」させる「必然」を複雑に絡み合わせて、神の手で描いた、いわば神の悪戯のような作品だった。

このようにますます手の込んだ「同期」化を見せつけられて、つい最近の私がそうであったように、当時の私もまた、「演劇における同期の問題」を考えていた。その意味とは何か。その先に何が見えるのか。作家の土屋亮一当人は、ただひたすらに、面白いことを考えていればいい。だが、私は、シベ少を見守って来た観客の一人として、「シベ少は演劇ではない」などといった無理解な批判や蔑視に対抗しうる意味とか意義めいたものを、なにがしか用意しておきたかった。

ちょうどその頃、シベ少とほぼ同時期(2003,1/22~2/2)の、同じ東京の空の下の、三軒茶屋シアタートラムなる劇場では、宮沢章夫の主宰する遊園地再生事業団が『トーキョー・ボディ』という作品を上演していた。これは、都市空間で繰り広げられる複雑な同期性を浮かび上がらせた作品であった。多様な空間での登場人物のセリフや動きが、多様な文学・映像・戯曲などの断片と次々にシンクロしてゆく。それにより東京が、一つの大きな有機生命体のように見えてくる。これは宮沢章夫が或る種の神の視点で東京の上空から眺め、「同期」させる「必然」を複雑に絡み合わせて、神の手で描いた、“東京物語”だった。こちらは、教養にあふれた知的実験というべき作風で、いかにも真面目なインテリゲンチャ達の称讃を浴びそうだなあという印象を抱いたものだが、実際、新聞などで高い評価を受けていたと記憶する。

だが、そんなこととは違う次元で、私は気付いてしまったのだ。三軒茶屋シアタートラムにおける遊園地再生事業団の『トーキョー・ボディ』の中で、コンビニ店員が執拗に「いらっしゃいませ」と繰り返す時、ちょうど王子小劇場におけるシベ少の『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』の劇中では、それまで無口だった喫茶店マスターの四谷が突然「いらっしゃいませ」を連呼し始め、それによって、4枠のイラッシャイマセという馬が一気に先頭に躍り出てゆくことを。つまり、現実の東京都の同じ空の下で、「同期」を描いた一つの演劇(『トーキョー・ボディ』)が、「同期」を描いたもう一つの演劇(『遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援』)に対して“同じ空の下で贈る声援”を作動させて、あたかも一つの身体=“トーキョー・ボディ”であるかのように「同期」化させてしまったのである。「同期」を扱う演劇は、やはり「同期」を扱う演劇と、「同期」してしまうのだ。その「偶然性」の意味は、もはや人智の及ぶところで考えられるものではないような気さえしてきた。

そこで九鬼周三の『偶然性の問題』という著作を紐解くと、こんなことが述べられている。「必然」は人智の及ぶ範囲内での因果の成り行きだが、「偶然」は人智を超えた領域における「一の系列と他の系列との邂逅」である、と。

…人智を超えた領域とは、すなわち未知なる領域ということだ。また、「一の系列と他の系列との邂逅」とは、すなわち「同期」ということである。その一方で、MADとは「キチガイ」という意味だが、私にとって「キチガイ」とは、「既知外」=「既知の外部にあるもの」であって、これすなわち「未知」である。だから、私は思うのだ。人智を超えた「未知」なるMAD演劇の行う「同期」は、錯乱しながら、何か、人智の及ぶメッセージなどの計り知れない、何かとてつもない真理を運んでくることだろう、と。…しかしまあ、一体私は何を言いたいのだろう。MAD演劇を正当化する論理を考えようとすると、私自身が、MADな錯乱に同期してしまいそうなのである。うーむ。そんな時には、やっぱり、花田清輝に頼りたいものである。

「地獄には地獄の法律があり、錯乱には錯乱の論理がある。こういう錯乱の論理を把握しないで、どうして狂人の論理の錯乱を笑うことができようか」(花田清輝『錯乱の論理』より)


※そして、下記URLは、最近フジテレビの『POP屋』という深夜番組で放映された、シベリア少女鉄道『How are you?』というコント。やはり、何かに同期してます。くだらないです。MADです。