リアルの彷徨(その2) | もずくスープね

リアルの彷徨(その2)

“静かな演劇”とか“現代口語演劇”と称せられる、劇団青年団の平田オリザが確立させた演劇スタイルがある。その“静かな演劇”を、その風味を失わせることなく、しかも歌ったり踊ったりすることなしに、ミュージカル化させることは可能か、という試みを、青年団演出部の柴幸男がおこなった。それが、青年団若手自主企画公演、現代口語ミュージカル『御前会議』(4月7日~4月14日、アトリエ春風舎)だった。以下、青年団演出部・柴幸男による宣伝文章をまるまる引用しよう。

「かつて青年団は演劇の恥ずかしさを徹底的に改革して。大声は恥ずかしいので聞こえる程度の声量で話した。前ばかり向いているのは不自然なので後ろを向いた。全員が同じ話をしているのは変なので会話の輪を複数作った。そして“静かな演劇”が生まれた。ミュージカルは恥ずかしい、とよく人は言う。なら作ろうではないか、恥ずかしくないミュージカルを。それはきっと急に踊り出したりしない。大見得を切って歌ったりもしない。しかし、音楽と芝居が融合し、音楽劇として成立している。それが私の考える現代口語ミュージカルであり、静かなミュージカルである。この企画は平田オリザの『御前会議』をテキストに音楽劇と対話劇の両立を目指す。まずはメロディ。ミュージカルの現代劇化を邪魔しているのはメロディだ。楽しいときはアップテンポ。悲しいときはバラード。メロディラインにのせて劇中人物が感情を歌い上げる。この関係を断ち切る。音楽に感情を説明させない、歌わせない。音楽と劇中人物に協調関係を結ばせない。ではどうやって音楽と芝居を融合させるのか。ひとつ、アイデアがある。以上、口から出まかせ。しかし耳ヲ貸スベキ。」(引用、ここまで。)

果たして、そのアイデアとは、ラップであった。しかしまあ、普通、ラップと言われて、すぐに頭に思い浮かべるのは、キャップを後ろ前に被り、ダボダボのバミューダ・ショーツを穿いた不良ぽい三人組が「なんとかでYO!かんとかでYO!」とわめきながら前進し続けるみたいな?、あるいは、新宿駅東口のメガネスーパーの名物呼び込み(参考映像 )みたいな?、そんなイメージだが……つまり何が言いたいのかっつうと、要するに、ラップというものが(資本主義的商品として流通されるようになって以来)それ自体、ハタから見て、けっこう恥ずかしい、反リアルな表現形態ではあるのだ。が、しかし、青年団演出部・柴幸男の目指したものは、“恥ずかしくないミュージカル”なわけだから、そこは、ラップ効果も不自然に突出することなく、デリケートに滲み出る仕掛けを周到に心がけていたと考えられる。

さて、舞台。町内会なのか何の集まりなのか、会議が始まる。しかし、その会議がまたひどく迷走している。だが、会議は続けなければならない。そんな不条理な空虚をたたえた空間の中に、時おり規則正しいビートがBGMとしてインサートされてくる。すると、数人で応酬される台詞が、すんなりとリズムに同期して、ビミョーなラップが出現する、といった按配なのである。徹底的に日常性に則した演技スタイルを持つ青年団が、ドリフ的といえそうな、奇妙な磁力によって、非日常の方角へとビミョーに歪められてゆく違和感は、これ、ビミョーであればあるほどワビサビチックに可笑しい。

しかし、さらに、である。舞台も終盤に近づくにつれ、会議の方向性が狂気度をエスカレートさせてくるのだが、これに伴走するようにラップ表現も徐々に慎み深さを欠いてくるように、私にはきこえた。もちろん、今回のテキスト自体、平田オリザ作品の中では、やや異色なナンセンス・コメディーであり非日常的方向に開けた戯曲、というか、もっとも遊び易い戯曲であり、それを選択したことも戦略的周到さの一貫に違いない。そのことで、台詞とリズムを同期させるという局地的関係にとどまらず、戯曲内容の非日常度とラップ濃度をも同期させるという方法論的関係性を作り上げることができた。すなわち、“現代口語演劇”という手法自体をマテリアル化してみせたといえるだろう。

かくして、リアリズムに則った“静かな演劇”と、反リアリズムに則った“ミュージカル”は、ラップによる同期化を通じて構造的レヴェルでの融合を果たしたといえる。それを実現した柴幸男の功績はもちろんあるのだが、もっと考えれば、平田オリザ自体が、自らのドラマトゥルギーを「マテリアル化」させるためのベクトルを、手法・戯曲・組織といった、様々な面において(意識的ないしは無意識的に)潜ませていたのかもしれず、だとすればその周到ぶりはなかなかなものだなあと思った。

ところで今回の柴幸男、「ミュージカルの現代劇化を邪魔しているのはメロディだ」「メロディラインにのせて劇中人物が感情を歌い上げる」として、“メロディ”を悪役と仮定し、手っ取り早く、その部分を切除した。また、“踊り”も恥ずかしいものと見なしているのであろう、その要素も除去して、結果的に、言葉を無機的なリズムにだけ寄り添わせることにした。ただ、そうすることによって“ミュージカル”と呼ぶには、“ミュージカル”の側での犠牲部分が大きいという印象も残る。それはただ、ラップ調の“静かな演劇”であって、昨今流行の、ラップ調のリズミカルなお笑いと大差ないようにも受け取られかねないだろう。“ミュージカル”というからには、メロディとリズムによって成る歌、そしてダンス、これらが最低限揃っていてこその“ミュージカル”であって欲しいとも思う。しかも、そこから“恥ずかしさ”を取っ払う試み。そこまで考えるとするならば、どんなことが考えられるか。

たとえばメロディに関していえば、スティーヴ・ライヒが『ディファレント・トレインズ』(1988)で試み始めて、『ザ・ケイヴ』(1993)で大きな完成を見せた手法、というものがひとつの参考になる。言葉というものは外部のメロディにのせなくとも、言葉そのものの中にメロディが含まれている。しかし、普段の会話は音楽性が顕在化されないので、言葉をフレーズで切り取って、それをメロディの素材として再構成することで音楽として生まれ変わらせる。『ディファレント・トレインズ』では、「from CHICAGO」「to NEW YORK」という生の言葉の切片が、そのまま、けっして大袈裟でなく、自然かつ含蓄のあるメロディとしてサンプリングされ、その後の展開のキーとなる。『ザ・ケイヴ』では、アラブとユダヤの両民族が崇拝する「ヘブロンの洞穴」という場所をめぐる、両民族の関係者のインタビュー映像から、これまたやはり言葉に対応するメロディが抽出され、それが宗教・歴史・政治の根源を垣間見せる音楽として、思いがけない「リアル」の深みへと我々を誘ってゆくのだ。ここにおいて、音楽とは、あるいはメロディとは、人間文化の根源的なものであって、必ずしもナチスばりに恥ずかしい感情的誇張をおこなうだけの表現装置ではないことを改めて認識させられる。

一方、ダンスに関していえば、昨今のチェルフィッチュ(作・演出:岡田利規)のアプローチはやはり無視すべからざるものであろう。普通に考えれば、口語の中の無駄な喋り、そして無駄な身振り手振りの、その敢えて無駄な部分に、特殊な焦点をあてることによって、不思議なダンス性やリズム性を浮き彫りにさせてゆく。しかも、そこを通じて、時代の構造的問題を「リアル」に共感させるのである。つまり、ダンスもまた、表現主義的な装飾ではなく、人間それ自身の内側、根源にあるものなのだと、改めて思えてくる。ダンスなるもの、やっぱり人類学の領域なのですねえ。

そういえば、思想家にして音楽家でもあったジャン・ジャック・ルソーは、日常語から詩が作られて更に音楽へと発展したという一般的な考え方を持たず、音楽と詩と日常語が一挙に現れたと考えていたそうだ。人類学者クロード・レヴィ=ストロースも、その考えに共鳴し、人間の精神の基本は、神話と詩と音楽によって作られたと説いていたそうだが(『網野善彦を継ぐ』講談社刊)、そこにダンスも加えていいのではないかと私は思う。つまり、人間文化の根源に、そもそもミュージカルは存在する。…それに近い考えを、たしか、アントナン・アルトーも述べていたのではないかと思い出し、『演劇の形而上学』という文献を、わが家の積ん読(ツンドク)の山々を探し始めたところ、いましがた、書物のものすごい雪崩が発生した。これから私は、賽の河原の石積む子供のように、本を積み直さねばねばならないので、今回の考察はここまでとさせていただく。