リアルの彷徨(その1) | もずくスープね

リアルの彷徨(その1)

酒の席では、仕事の話をするのはイヤで(酒がまずくなるから)、文化や政治の話とかするのがやはり楽しい。それも、思いっきり青臭い議論に発展してゆけばご機嫌だ。ほろ苦い青春からズルズルと脱却できない、青い臭みを肴に、温めの燗などチビチビあおる。ま、そんなこと書く以前に、そもそもこのブログ自体からして、なんともガキっぽい尻の青さを露呈しているわけで…。

先日、空間ゼリーという新進劇団の芝居を観劇した後の飲み会の席でも、そこの演出家である深寅芥と、少年王者舘主宰の天野天街と、そして私とで「演劇におけるリアルとは何か」という、とてつもなく「青い」、というか、むしろ「蒼い」とさえいえるテーマを語り合ったのは、恥ずかしながら楽しかった。そんな、もはや語り尽くされたような議論を今更蒸し返して何になる? 「リアリズム」と「リアル」の違い、とか、「リアリズムの新劇は本当にリアルか」「静かな演劇は本当にリアルか」みたいな話を、深夜に、酔っ払いながら、ダラダラやる。ついさっきまで、同じテーブルに坐っていたはずのシベリア少女鉄道・土屋亮タンなどは、いつの間にか、向うのテーブルの毛皮族・江本純子のテーブルのほうに移ってるし…。

そもそも、何が「リアル」なのか。「リアル」の基準はどこにあるというのか。そして何故「リアル」でなければならないのか。…そういえば、空間ゼリー主宰の坪田文が成人式の日に観たという天野天街演出の『真夜中の弥次さん喜多さん』(しりあがり寿の漫画の舞台化)では、しきりに弥次喜多が自分達のいる、紙のように薄っぺらな現実世界を「リアルじゃねえ」と嘆いていたものだ。これを裏返すならば、或る人々にとっては、痛み、悪臭、欲情、湿り気、粘り気、野生的…などといった濃厚な生々しさが、「リアル」なのかもしれない。その方向性なら、今ならポツドールが断然チャンピオンだろう。一方で、平田オリザ=青年団の「静かな演劇」系タイプはどうなのか。繊細な息遣い、曖昧模糊とした日常性、非物語性、小声の会話。これらも、或る意味、都市生活における「リアル」には違いない。「リアル」の振り幅は大きい。

一般に演劇は、ナマの表現であるから、本来が「リアル」志向である。テレビや映画やパソコンなどの「ヴァーチャル」に較べて、生々しい筈である。しかし、テレビや映画やパソコンに到底かなわない、薄くて、白々しく、浮かれた演劇も数多い。しかも、それが必ずしも「全部悪い!」というわけでもない。例えば、現在、活動を休止している、野鳩はどうか。学芸会のような平たい演技。ご都合主義的な物語。「リアルじゃねえ」といいたくなる。キッチュといってもいい。しかし、戦略的に貫かれたキッチュの美学は、いかに「反リアリズム」であっても、それなりに観る側の魂に何かが響いてくる。一方で、「リアリズム」を掲げる新劇の、観る側に何にも響いてこない、戦略なき優等生的な舞台なぞに時おり接すると、「リアリズム」なのに「リアルじゃねえ」と思わせるのはいかがなものか、と苛立ちを覚えずにはいられない。やはり、戦略だとか、もっといえば悪企みとでもいおうか、さらには悪意の類いといってしまってよいか、そういうことが、「リアル」に近づく重要な要素なのだと思う。

そういう意味では、最近観たディズニー映画『魔法にかけられて』は、全編に悪意が漂っていて、私にもなかなか楽しめるディズニー映画だった。…というか、正直言って私は、ディズニー映画は、ほとんど観ていなかった。そんな私が何故、これを観に行ったかといえば、一つには、『Rent』のモーリーン、『Wicked』のエルファバでおなじみ、イディナ・メンツエルが出演するからであり、もう一つには、ディズニー映画でありながら、セルフパロディによって自らをおちょくる内容になっていると聞いたからであった。この映画は、「ニューヨーク」という現実空間の中に、「ディズニーファンタジーアニメ」という非現実空間を混入させることで生じるカオスを面白可笑しく描いたものだ。あるいは、リアリズムと反リアリズムを衝突させて、その化学反応の中に一抹の(もしくは、一瞬の)「リアル」(?!)を浮かび上がらせる映画と言い換えてもよい。

「ディズニーファンタジーアニメ」界の中の重要な日常的要素といえば、「魔法」と「ミュージカル」である。ニューヨークに“落ちてきた”ジゼル姫(彼女はその瞬間から、“アニメ”でなく“実写”の存在となる)が、彼女にとっての日常的振る舞い(すなわち「魔法」と「ミュージカル」)を示すたびに、それが「ニューヨーク」という現実空間にとっては非日常的事件となる(ちなみに、魔女顔のイディナ・メンツエルは、我々の期待を完全に裏切って、ごく普通の「日常」の住人として登場していた)。

ところで、昨年公開されたディズニー映画で『レミーのおいしいレストラン』という、可愛らしい鼠がレストランの厨房で料理を作るアニメがあったのは憶えておいでか。ところが、『魔法にかけられて』においては、実写の、リアルな鼠の群れ、そしてリアルなゴキブリや鳩の群れが、ミュージカルの調べにのって、料理や掃除をしてくれる。悪趣味の極みといえる。そんな、「きれい(ファンタジーミュージカル)」と「きたない(グロテスクな現実)」の交叉するところに、思いがけず、まるで火花を散らせるがごとくに鮮やかに「リアル」を浮かび上がらせる手法は、さしづめゴキブリコンビナートのミュージカルに近かった(かのミュージカル『CATS』の中にもゴキブリたちが踊るシーンてのがありましたけどね)。

「きれいはきたない、きたないはきれい」という『マクベス』の魔女の言葉にあるような、両義性を同時に認知できるような、悪意ある仕掛けが成功する時、人はそこに魔法のように「リアル」を見出すのではないか、と私はその時思った。ガルシア・マルケスらラテンアメリカ文学に代表される“マジック・リアリズム”に連なる。そしてまた、以前、維新派の松本雄吉がポツドールのことを評して「ウンコを喰ったことのある者にしかわからないファンタジーがある」と言ったことも思い出される。もちろん松本雄吉は、かつて本当に劇中でウンコを喰ったことがあるからこそ、そういう錬金術的な詩的言語を吐けるのだ。

しかし、リアリズムと反リアリズムをミックスさせるにしても、必ずしも過剰で表現主義的な“マジック・リアリズム”にはしない手法もあるようで、その実験的試みとして興味深かったのが、最近上演された、青年団若手自主企画、現代口語ミュージカル「御前会議」(作:平田オリザ 潤色・演出:柴幸男)という舞台であった。(次回に続く)