同期の錯乱(1)
前回、青年団演出部・柴幸男の『御前会議』について長々と書いたが、近頃の青年団周辺の若手演劇クリエイターの動きには何かと目を見張らされるものがある。前田司郎の五反田団、松井周のサンプル、そして、いま最も注目度の高い演劇ユニット「ハイバイ」を主宰する岩井秀人もまた、一年前から青年団演出部の演出家なのだそうだ。岩井は、かつては「ひきこもり」だったそうだが、演劇を始めてからは才能が一気に開花し「引っ張りだこ」の存在となっている。その彼もまた、『御前会議』と同じアトリエ春風舎において、青年団若手自主企画 vol.37 『おいでおいでぷす』(4月22日~4月30日)という作品を上演した。これは「口語で古典」というコンセプトのもと、ソフォクレスのギリシャ悲劇で知られる『オイディプス王』を、青年団流の“現代口語演劇”に置き換える試み。作・演出が岩井秀人で、主演(オイディプス王役)が松井周だった(シアターガイドのサイト
に詳細あり)。
さて、舞台。何の集まり、どういうつながりのグループだかわからないが、若者の集団が河原でキャンプをおこなう。ワイワイ、ガヤガヤ。その中の1人がリーダーシップを発揮して、グループをまとめるが、次第に食べ物がなくなり、メンバーたちが空腹や病気を訴えるようになる。グループのリーダーの義弟は、“キャンプの達人”なる人物に意見を求めにゆくが、「グループの中にケガレた者がいるので、その者を排除しないと事態が良くならない」という旨のメッセージを受け取ってきた。リーダーは、いろいろ調べるうちに、それと知らずにではあるが、或る三叉路で父親を殺したうえ母親と結婚した「ケガレ」が自分自身であったことに気付き、悲嘆に暮れた挙句、棘に覆われた眼鏡をかけて自らの眼を潰す。これらの舞台上での出来事の節目節目において、プロジェクターで古典『オイディプス王』のあらすじが映し出され、双方の物語が骨組みにおいては完全に同期していることを観客は知らされるのであった。
…などと書けば、ジークムント・フロイトが“オイディプス・コンプレックス”を唱えるまでもなく、オイディプスの悲劇は時代を超えて人類普遍の宿命的DNAとして再現され続けるのか…といった、シリアスな主題を感じてしまう人もいるかもしれない。ま、それはそれで否定はしないのだが、岩井秀人の作った舞台は、どう見てもコミカルなのだ。
一般的に『オイディプス王』といえば、大仰でヘヴィきわまる荘厳な悲劇であり、本来ならば、やはり“世界のニナガワ”(蜷川幸雄)演出あたりがしっくり来るのである。岩井は、それを現代口語演劇の“等身大”に還元するために、設定を“ミニマル化”した。いや、まあ、“ミニマル化”といえばカッコいいが、むしろ、演出家の心の奥底から衝き上げてくる“矮小化”願望というほうが実際の感じに近いかも知れぬ。
河原でのキャンプというちっちゃな共同体における、せせこましい揉め事。それとは知らぬ父親とのいさかいもまた、釣具の上州屋におけるルアーをめぐるショボイ確執から発展した。この、呆れるばかりの器の小さな劇世界を得意とするのは、いまや五反田団の前田司郎か、ハイバイの岩井秀人が双璧といえるが、ここにおいて『オイディプス王』の歪んだ重力を背負えるのは、実際に「ひきこもり」だったという岩井こそ、という感じは確かにある。
ギリシャ悲劇の壮大な運命の竜巻を、お猪口(おちょこ)の中で(DNAの螺旋のように圧縮して)ミニマルに表現する。そのことによって生じる滑稽感、コミカルさ。だが、言うまでもなく、滑稽と悲惨は裏腹なものである。宿命の内部から見あげれば壮大な悲劇が、お猪口の外部から見ればしょぼくれた滑稽に見える。実際に引籠りだったという岩井であればこそ、その内部と外部との裏腹感は身をもって「リアル」な理解を得ているのかもしれぬ。
なあに、“世界のニナガワ”にしたって、昔は「俺は役者だから暗幕なんか絶対畳まない」といったショボくて狭い心根の持ち主だったようだ(劇団むっちりみえっぱりの『その男、浮く』において、そういうシーンがあった)。岩井の芝居にもよく、蜷川幸雄ならぬ品川幸雄なる演出家(岩井自身や古館寛治などによって演じられる)が登場するが、これがまた器の小さいことこのうえない人物として描かれる。蜷川幸雄(品川幸雄)もオイディプス王も引籠りも、内側から眺めれば壮大な悲劇だが、外側から見れば滑稽な喜劇と化す。また、その逆に、“世界のニナガワ”ならぬ“世界のナベアツ”のネタだって、もしも「3の倍数と3の数字がつく時だけ神経が異常反応を起こす難病患者」の物語だったとすれば、それを精神分析的視点で取り扱うならば、とても笑ってなどいられない。
マクロとミクロを同期させ、内部と外部を同期させ、悲劇と喜劇も同期させる。幾つのも視点が重なりあう。重層的決定(アルチュセール)、いやむしろ重層的非決定(吉本隆明)。岩井もまた“現代口語演劇”という方法論を素材としながら、「世界は一つでない」ということを表わそうとしたのだと私は受けとめた。そんなことを考えていた頃、もうひとつ、青年団に関係する劇団、東京デスロックの作品『WALTZ MACBETH』(5月8日~5月11日、吉祥寺シアター 構成・演出:多田淳之介)を見て、ここにも同期と重層をめぐる一つの作法を見出した。
東京デスロック『WALTZ MACBETH』の原作は、いわずもがな、シェイクスピアの『マクベス』である。舞台には、何の役だかハッキリわからないし、登場人物同士がどういう関係性があるのかも明らかではないが、なんとなくマクベスぽく見える男、マクベスの妻らしき女、などが登場してくる。そして、無言のまま椅子取りゲームらしき遊戯を始める。次第に登場人物が増え、ある時点からは『マクベス』の台詞が断片的に飛び交うようになる。やがて物語の進行と共に椅子取りゲームも緊迫感を高め、挙句の果てに登場者たちは椅子の周囲を激しく回りだす。それがピークを迎えると、人々は疲労感の中で動きを停滞させ、各々の行動も謙虚な様相を示し始める。
多田淳之介の率いる東京デスロックは、2007年より平田オリザが主宰する青年団内のユニットとなり(青年団リンクという)、同時に、演劇の最大の魅力を「目の前に俳優がいること」と位置づけ演劇の可能性を追求する“unlockシリーズ”をスタート。一貫して「演劇」のあり方、自明性を疑った地点 から、アクチュアルな演劇を立ち上げる活動を行っている…のだそうだ。そして今度は、青年団リンクから離れ、ドラマ「SP」出演やガーディアンガーデン演劇フェス出場などを経て、新たに富士見市民文化会館キラリ☆ふじみのフランチャイズ劇団としてやってゆくらしい。そういえば、以前、『ロミオとジュリエット』をキラリ☆ふじみでやったときは、“だるまさんがころんだ遊戯”の中にロミジュリの台詞をちりばめながら、その世界をうまく同期させ、評判を呼んだそうだ。かくのごとく、非常に自由な解釈で、大胆かつ不親切に、実験的表現をする劇団なので、「なんじゃこりゃ」と見られることも多いようだ。まあ、自明性を疑いながら演劇をやるからには、そういうきわどい綱渡りは避けて通れないもんだよね。
で、今回の『WALTZ MACBETH』においては何故、椅子取りゲームだったか。そもそも『マクベス』は欲望に衝き動かされる人間の物語。欲望がさらなる欲望を生み出し、エスカレートしてゆくドラマ。椅子取りゲームは、まさしく欲望を発動させる装置として、『マクベス』にふさわしい。ということで、この遊戯が作品のフォーマットとなったようだ。そうして、生れ出ずる“欲望”、それは、人間的な、あまりに人間的な主題といえるだろう。動物のDNAにセットされた「本能」というプログラムが壊れて、その欠如部分を埋めるべく、人間には欲望が湧き続ける。とりわけ、性欲。そして、利潤へのあくなき欲望=資本主義。彼らは、椅子取りゲームという身体運動として再生される『マクベス』の中に、セックスと資本主義という、二つの人間的問題を隠喩として多層的に取り込んだと、私は踏んでいる。だから、アップテンポのロック音楽と共に男女たちが回転速度を上げるシーンは、快楽エクスタシーに向かって昂揚する肉体と、資本主義の加速化を同時に見た思いがした(と同時に、「ちびくろサンボ」の虎バターをも彷彿とさせずにはいられない)。また、その後、一転して疲労し、停滞するシーンには、去勢とバブル崩壊後のどんよりとした不況を重ねて見てしまった。
と同時に、である。東京デスロックの俳優たちの身体を通して、マクベス/椅子取りゲーム/セックス/資本主義の時間論的同期を見た私は、東京デスロックのあり方自体にも、同じ欲動の同期を感じたものだ。新しい差異化への野望を、器用なまでに常に絶やすことのない流動体としての彼ら。ならば、彼らは本当に「デスロック」(死錠)から「unlock」(解錠)と名前を変えて、その自在な彷徨を加速化させるべきかもしれない。
…さて、そうなるとだ。つまり、多田淳之介=東京デスロックのありよう自体が『マクベス』の放つ資本主義的なベクトルと同期していると見るならば、だ。岩井秀人のありようもまた『オイディプス』志向というか、オイディプスコンプレックス的ベクトルと同期してるようにも思えてくる。彼の劇世界には常に母親の影がつきまとう。理不尽な暴君としての演出家や店員の登場は、憎むべき父親だろうか。さらに、岩井の「ひきこもり」だったという過去に、胎内回帰願望みたようなものが垣間見えなくもない。とすればだ、もうひとり、前田司郎の作る小さな劇宇宙、布団という名の劇世界、これもまた、胎内イメージに重ねられなくもない。ちなみに前田司郎は、あのグルメ漫画『美味しんぼ』を異様なまでに愛読する男であるが、『美味しんぼ』の士郎の原動力の中がオイディプス・コンプレックス以外のなにものでもないことは誰も否定できないだろう。ああ、だから、岩井と前田は仲がよいのか。そして、多田とは全く向きが違うのか、といえば、いな、そうでもない、と思う。
資本主義はたえず流動化をもたらす一方で、人々にオイディプス・コンプレックスという内なる欲望の歪みをもたらすと、ドゥルーズ+ガタリは、その名も『アンチ・オイディプス』という著作の中で、指摘している。だとすれば、多田と、岩井・前田は実のところ表裏一体の現象といえるのではないだろうか。そして、その意味では、東京デスロックに岩井が客演する、東京デスロック 演劇LOVE in KOBE『3人いる!』という作品(神戸のみで上演)は、見ておくべきかもしれない。まったく、どんな作品なのか知らないけれど、そのタイトル「3人いる」の3人とは、ひょとして、マクベスとマルクスとフロイトだったりするわけではないだろうね?
さて、舞台。何の集まり、どういうつながりのグループだかわからないが、若者の集団が河原でキャンプをおこなう。ワイワイ、ガヤガヤ。その中の1人がリーダーシップを発揮して、グループをまとめるが、次第に食べ物がなくなり、メンバーたちが空腹や病気を訴えるようになる。グループのリーダーの義弟は、“キャンプの達人”なる人物に意見を求めにゆくが、「グループの中にケガレた者がいるので、その者を排除しないと事態が良くならない」という旨のメッセージを受け取ってきた。リーダーは、いろいろ調べるうちに、それと知らずにではあるが、或る三叉路で父親を殺したうえ母親と結婚した「ケガレ」が自分自身であったことに気付き、悲嘆に暮れた挙句、棘に覆われた眼鏡をかけて自らの眼を潰す。これらの舞台上での出来事の節目節目において、プロジェクターで古典『オイディプス王』のあらすじが映し出され、双方の物語が骨組みにおいては完全に同期していることを観客は知らされるのであった。
…などと書けば、ジークムント・フロイトが“オイディプス・コンプレックス”を唱えるまでもなく、オイディプスの悲劇は時代を超えて人類普遍の宿命的DNAとして再現され続けるのか…といった、シリアスな主題を感じてしまう人もいるかもしれない。ま、それはそれで否定はしないのだが、岩井秀人の作った舞台は、どう見てもコミカルなのだ。
一般的に『オイディプス王』といえば、大仰でヘヴィきわまる荘厳な悲劇であり、本来ならば、やはり“世界のニナガワ”(蜷川幸雄)演出あたりがしっくり来るのである。岩井は、それを現代口語演劇の“等身大”に還元するために、設定を“ミニマル化”した。いや、まあ、“ミニマル化”といえばカッコいいが、むしろ、演出家の心の奥底から衝き上げてくる“矮小化”願望というほうが実際の感じに近いかも知れぬ。
河原でのキャンプというちっちゃな共同体における、せせこましい揉め事。それとは知らぬ父親とのいさかいもまた、釣具の上州屋におけるルアーをめぐるショボイ確執から発展した。この、呆れるばかりの器の小さな劇世界を得意とするのは、いまや五反田団の前田司郎か、ハイバイの岩井秀人が双璧といえるが、ここにおいて『オイディプス王』の歪んだ重力を背負えるのは、実際に「ひきこもり」だったという岩井こそ、という感じは確かにある。
ギリシャ悲劇の壮大な運命の竜巻を、お猪口(おちょこ)の中で(DNAの螺旋のように圧縮して)ミニマルに表現する。そのことによって生じる滑稽感、コミカルさ。だが、言うまでもなく、滑稽と悲惨は裏腹なものである。宿命の内部から見あげれば壮大な悲劇が、お猪口の外部から見ればしょぼくれた滑稽に見える。実際に引籠りだったという岩井であればこそ、その内部と外部との裏腹感は身をもって「リアル」な理解を得ているのかもしれぬ。
なあに、“世界のニナガワ”にしたって、昔は「俺は役者だから暗幕なんか絶対畳まない」といったショボくて狭い心根の持ち主だったようだ(劇団むっちりみえっぱりの『その男、浮く』において、そういうシーンがあった)。岩井の芝居にもよく、蜷川幸雄ならぬ品川幸雄なる演出家(岩井自身や古館寛治などによって演じられる)が登場するが、これがまた器の小さいことこのうえない人物として描かれる。蜷川幸雄(品川幸雄)もオイディプス王も引籠りも、内側から眺めれば壮大な悲劇だが、外側から見れば滑稽な喜劇と化す。また、その逆に、“世界のニナガワ”ならぬ“世界のナベアツ”のネタだって、もしも「3の倍数と3の数字がつく時だけ神経が異常反応を起こす難病患者」の物語だったとすれば、それを精神分析的視点で取り扱うならば、とても笑ってなどいられない。
マクロとミクロを同期させ、内部と外部を同期させ、悲劇と喜劇も同期させる。幾つのも視点が重なりあう。重層的決定(アルチュセール)、いやむしろ重層的非決定(吉本隆明)。岩井もまた“現代口語演劇”という方法論を素材としながら、「世界は一つでない」ということを表わそうとしたのだと私は受けとめた。そんなことを考えていた頃、もうひとつ、青年団に関係する劇団、東京デスロックの作品『WALTZ MACBETH』(5月8日~5月11日、吉祥寺シアター 構成・演出:多田淳之介)を見て、ここにも同期と重層をめぐる一つの作法を見出した。
東京デスロック『WALTZ MACBETH』の原作は、いわずもがな、シェイクスピアの『マクベス』である。舞台には、何の役だかハッキリわからないし、登場人物同士がどういう関係性があるのかも明らかではないが、なんとなくマクベスぽく見える男、マクベスの妻らしき女、などが登場してくる。そして、無言のまま椅子取りゲームらしき遊戯を始める。次第に登場人物が増え、ある時点からは『マクベス』の台詞が断片的に飛び交うようになる。やがて物語の進行と共に椅子取りゲームも緊迫感を高め、挙句の果てに登場者たちは椅子の周囲を激しく回りだす。それがピークを迎えると、人々は疲労感の中で動きを停滞させ、各々の行動も謙虚な様相を示し始める。
多田淳之介の率いる東京デスロックは、2007年より平田オリザが主宰する青年団内のユニットとなり(青年団リンクという)、同時に、演劇の最大の魅力を「目の前に俳優がいること」と位置づけ演劇の可能性を追求する“unlockシリーズ”をスタート。一貫して「演劇」のあり方、自明性を疑った地点 から、アクチュアルな演劇を立ち上げる活動を行っている…のだそうだ。そして今度は、青年団リンクから離れ、ドラマ「SP」出演やガーディアンガーデン演劇フェス出場などを経て、新たに富士見市民文化会館キラリ☆ふじみのフランチャイズ劇団としてやってゆくらしい。そういえば、以前、『ロミオとジュリエット』をキラリ☆ふじみでやったときは、“だるまさんがころんだ遊戯”の中にロミジュリの台詞をちりばめながら、その世界をうまく同期させ、評判を呼んだそうだ。かくのごとく、非常に自由な解釈で、大胆かつ不親切に、実験的表現をする劇団なので、「なんじゃこりゃ」と見られることも多いようだ。まあ、自明性を疑いながら演劇をやるからには、そういうきわどい綱渡りは避けて通れないもんだよね。
で、今回の『WALTZ MACBETH』においては何故、椅子取りゲームだったか。そもそも『マクベス』は欲望に衝き動かされる人間の物語。欲望がさらなる欲望を生み出し、エスカレートしてゆくドラマ。椅子取りゲームは、まさしく欲望を発動させる装置として、『マクベス』にふさわしい。ということで、この遊戯が作品のフォーマットとなったようだ。そうして、生れ出ずる“欲望”、それは、人間的な、あまりに人間的な主題といえるだろう。動物のDNAにセットされた「本能」というプログラムが壊れて、その欠如部分を埋めるべく、人間には欲望が湧き続ける。とりわけ、性欲。そして、利潤へのあくなき欲望=資本主義。彼らは、椅子取りゲームという身体運動として再生される『マクベス』の中に、セックスと資本主義という、二つの人間的問題を隠喩として多層的に取り込んだと、私は踏んでいる。だから、アップテンポのロック音楽と共に男女たちが回転速度を上げるシーンは、快楽エクスタシーに向かって昂揚する肉体と、資本主義の加速化を同時に見た思いがした(と同時に、「ちびくろサンボ」の虎バターをも彷彿とさせずにはいられない)。また、その後、一転して疲労し、停滞するシーンには、去勢とバブル崩壊後のどんよりとした不況を重ねて見てしまった。
と同時に、である。東京デスロックの俳優たちの身体を通して、マクベス/椅子取りゲーム/セックス/資本主義の時間論的同期を見た私は、東京デスロックのあり方自体にも、同じ欲動の同期を感じたものだ。新しい差異化への野望を、器用なまでに常に絶やすことのない流動体としての彼ら。ならば、彼らは本当に「デスロック」(死錠)から「unlock」(解錠)と名前を変えて、その自在な彷徨を加速化させるべきかもしれない。
…さて、そうなるとだ。つまり、多田淳之介=東京デスロックのありよう自体が『マクベス』の放つ資本主義的なベクトルと同期していると見るならば、だ。岩井秀人のありようもまた『オイディプス』志向というか、オイディプスコンプレックス的ベクトルと同期してるようにも思えてくる。彼の劇世界には常に母親の影がつきまとう。理不尽な暴君としての演出家や店員の登場は、憎むべき父親だろうか。さらに、岩井の「ひきこもり」だったという過去に、胎内回帰願望みたようなものが垣間見えなくもない。とすればだ、もうひとり、前田司郎の作る小さな劇宇宙、布団という名の劇世界、これもまた、胎内イメージに重ねられなくもない。ちなみに前田司郎は、あのグルメ漫画『美味しんぼ』を異様なまでに愛読する男であるが、『美味しんぼ』の士郎の原動力の中がオイディプス・コンプレックス以外のなにものでもないことは誰も否定できないだろう。ああ、だから、岩井と前田は仲がよいのか。そして、多田とは全く向きが違うのか、といえば、いな、そうでもない、と思う。
資本主義はたえず流動化をもたらす一方で、人々にオイディプス・コンプレックスという内なる欲望の歪みをもたらすと、ドゥルーズ+ガタリは、その名も『アンチ・オイディプス』という著作の中で、指摘している。だとすれば、多田と、岩井・前田は実のところ表裏一体の現象といえるのではないだろうか。そして、その意味では、東京デスロックに岩井が客演する、東京デスロック 演劇LOVE in KOBE『3人いる!』という作品(神戸のみで上演)は、見ておくべきかもしれない。まったく、どんな作品なのか知らないけれど、そのタイトル「3人いる」の3人とは、ひょとして、マクベスとマルクスとフロイトだったりするわけではないだろうね?