宝暦十三年(1763年)のある日、伊勢の国、松坂のある医者がいきつけの古本屋へ行くと主人が愛想よく迎えて、「賀茂真淵先生がさきほどお見えになりました」と伝えました。主人はその医者がかねてより賀茂真淵先生に会ってみたいと言っていたので教えてくれたのでした。真淵先生はこれから参宮をされるということで、医者は後を追い、次の宿の先まで行きましたが出会えませんでした。そこで古本屋には、帰りにまた立ち寄ったらすぐに知らせてほしいと頼んでおきました。そして、その数日後望みがかなって二人は対面します。

 

七十歳近い真淵は、話をするうちに三十歳ほどの医者の学識が尋常でないことがわかりました。そして、話が古事記にまで及び、医者は自分が古事記を研究したいと思っていることを伝えました。すると、真淵も研究したいと思っていたがそれには、まず万葉集を調べておくことが大切だと思ってそのほうの研究にとりかかったところ、いつのまにか年をとってしまって古事記にとりかかることができなかった。しかし医者はまだ若いからきっと大成できると励ましたのでした。

 

医者はその言葉に感激し、二人は連絡しあうことを約束して別れました。

 

これは戦前は教科書に必ず載っていた、「松坂の一夜」という話で若い医者は当時34歳の本居宣長です。そして、この一夜こそが、261年前の今夜、五月二十五日のことでした。本日は旧暦の5月25日だからです。

※単純に旧暦にあてはめています。

 

この後二人は、絶えず文通して、子弟の関係は親密度を増したといいますが、二人が出会うことは二度となかったといいます。しかし、本居宣長は真淵の志を継ぎ、三十五年の間努力に努力を重ねて古事記の研究を大成しました。この古事記の研究がなければ、その後の日本はもっと違ったものになっていたかもしれないと思えるほど、この研究がその後の日本に与えた影響は大きかったといいます。そしてこの本居宣長の研究はたった一夜の出会いから始まったのです。

 

『復刻版初等科修身』の教科書の四、小学六年生の項目に「松坂の一夜」の項目があり、挿絵を含めて3ページを割いています。これは国学の有名な一歩として、子どもたちに知ってほしい逸話として選ばれたのです。

 

そして『復刻版初等科国史』には、この「国学」の項目に挿絵を含めて7ページ強割いています。つまり国学は我が国について知ることであるからこそ、大切、重要であると国史の中にも書かれていたのです。そして、四大人(したいじん)といわれた、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤はもちろん、水戸光圀が起こした国史編纂事業『大日本史』や、その編纂過程で偲んだ北畠親房、楠木正成をはじめ、山崎闇斎、『日本外史』を表した頼山陽、高山彦九郎や、蒲生君平などの、国学を語る時に外せない面々の紹介がされています。

 

ところが、私がこうした国学の存在を知ったのは、神社検定のテキストに書かれていたことからで、それまで国学というものを知りませんでした。

 

実はこの国学を知ると幕末が理解しやすくなります。というのも、幕末に目まぐるしく変わっていく志士たちの思想ですが、その根幹にはこの国学があったからです。これがあったからこそ、全くの正反対の考え方をしていても結びつくことができたわけですし、その思想の変遷も理解できるようになるのです。これはとても重要なことだと思います。

 

そして、今怖いのがこの国学を日本人が知らないことです。つまり、日本の根幹となる教えを受けていない人が多いことから、違う考えを持っている場合、そこに日本という根幹があるから繋がるということが難しくなっていて、国としてまとまることができなくなっているのではないか?ということが考えられるからです。

 

江戸時代、人々が競って勉強した国学が、また復活することを願ってやまない夜です。

 

松坂市の動画「松坂の一夜」

 

三重県作成の動画。これを見ると宣長は、17歳で日本地図を作成し、晩年には世界地図も手に入れている。こうした日本を意識したり、世界を意識していることが、国学という学問を収めた宣長らしい話だと思います。というのも、国を考えるということは世界を知らなければできないからです。世界を知らない人は自国も知らないのです。また、その逆もしかり、自国を知らない人は世界を知ることもできません。私達は比較ができて初めて、そのものを認識できるからです。グローバルな世界になるほど、ローカリズムになるとはこのことをいいます。世界に出ていけばいくほど、人は自分の国をより意識せざるを得なくなるからです。それが理解できない方でも、例えば地元を離れて、違う場所に移り住んだ方ならある程度理解できるのではないでしょうか。日本国内も、田舎と都会、あるいは北と南、など地方によって結構文化も風習も微妙に違うことがあるものです。そうしたことが、国を経て起きればどれほど隔たりがあることか、想像できるのではないでしょうか。世界には互いに全く相いれない考え方なども存在するのです。

 

そうした意識のわかりやすい例として、三浦春馬さんがわかりやすいです。三浦春馬さんは世界で活躍することを目標として、英語を学ばれまた主演映画を機に中国語も学んでいましたが、同時に海外で日本について聞かれた時に答えられるようにと日本について様々なことを学んでいました。そうしたことは、日本中を取材された『日本製』の巻末のインタビュー記事でも語っています。また本書の随所に、三浦さんが日本を想い、日本について考えていたことが表れています。三浦さんにこうした意識があったのは、幼いころから海外での撮影に行っていたことから日本を意識するようになるのが早かったということがあるのかもしれない、と今では考えています。しかし同じように海外に行ってもこうした意識がなかなか芽生えない、気づかない人も多くいるわけですが、その違いはもしかしたら春馬さんが茨城出身であったからかもしれないとも考えています。茨城は水戸光圀により、国学の基盤が強く根付いてきた地域だからです。そうした地域で育ったことと、幼少の頃から海外との違いをみてきたことが、その思考に大きく影響を与えていたのではないでしょうか。

 

 

 

『神社のいろは続』は、国史のテキストと言っても過言ではないです。そしてここには国学の流れも書かれています。

上記、『にほんのいろは続』をはじめ、神社検定のテキストは日本を知るテキストとして最適です。検定を受けなくても日本を本気で知ろうと思ったらこのシリーズから始めるといいと思います。その足掛かりになる知識が得られるからです。

 

 

国学のテキスト『やさしく読む国学』

 

国学の流れを知っていると理解しやすくなる龍馬。なお、万葉集の解読研究をし、また土佐国学の地位向上に努めた鹿持雅澄は龍馬が22歳の時に没している同時代の人です。坂本龍馬が生涯和歌に親しみ、日本各地の和歌の集まりに出ていたのは(情報収集も兼ねながら楽しんだというう)こうした基礎基盤があったからかもしれません。

 

 

万葉集の研究こそは国学の始まりなのかもしれません・・・。

 

これは現代の国学の一端といえるのでは?『日本製』

 

 

以前行われた出版イベント↓

 

 

 

 

 

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