昨夜ジュンク堂のトークセッションへ行ってきましたが、とても面白かった。私は単純に施光恒さんがいらっしゃるので申し込んでいたのですが、施さんのおかげで興味深い話が聞けました。いや、ほんと私も国学を知らないなあと実感しました。


これは写真にもあるように新刊本「方法としての国学」の刊行記念イベントで著者の三方とゲストの施さんの四人でのトークという形。四人とも大学の研究者のためか、アカデミックな雰囲気で最後の質疑応答では、もしかしたら聴きに来ている方々もアカデミックな方々?な充実した内容。あまりにも通常のトークイベントとの雰囲気の違いにちょっと圧倒されてきた時間でした。


このイベントの告知にはこうありました。

ジュンク堂書店・池袋本店
イベント開催日: 2016年5月13日(金) 19:30~

日本人はグローバル化の潮流といかに向き合うべきなのか。
そのヒントは「国学」にあった――
本居宣長、平田篤胤、柳田國男、折口信夫、今西錦司、梅棹忠夫、保田與重郎、小林秀雄、福田恆存、江藤淳……彼らの「日本思想」を支えていたのは〈他者〉への飽くなき探求心でした。
ベストセラー『英語化は愚民化』(集英社新書)の著者・施光恒さん(九州大学准教授)をゲストに迎え、いま私たちが必要とする新たな日本思想について語り合います。

施 光恒(せ・てるひさ)
昭和46年、福岡県生まれ。政治学者。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士課程(M.Phil)修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了、博士(法学)。現在、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。著書に『英語化は愚民化』(集英社新書)、『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、共著に『TPP 黒い条約』(集英社新書)、『まともな日本再生会議』(アスペクト)など。

川久保 剛(かわくぼ・つよし)
昭和49年、福井県生まれ。上智大学卒業。現在、麗澤大学外国語学部准教授。専攻は日本思想史。著書に『福田恆存』(ミネルヴァ書房、2012年)、『総特集・福田恆存』(共著、河出書房新社、2015年)、『日本思想史ハンドブック』(共著、苅部直・片岡龍編、新書館、2008年)など。

星山 京子(ほしやま・きょうこ)
昭和43年、東京都生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。現在、兵庫県立大学経済学部准教授。専攻は日本思想史。著書に『徳川後期の攘夷思想と「西洋」』(風間書房、2003年)、論文に「近年の国学研究」(『日本思想史学』39号、2007年)、「後期水戸学と「近代」」(『大航海』67号、2008年)など。

石川 公彌子(いしかわ・くみこ)
昭和51年、東京都生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。東京大学大学院人文社会研究科G-COE「死生学の展開と組織化」特任研究員、日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、駒澤大学、明治学院大学、愛知県立大学ほか非常勤講師。専攻は日本政治思想史、政治学、死生学。著書に『〈弱さ〉と〈抵抗〉の「近代国学」』(講談社選書メチエ、2009年)など。



21時には終了しましたので、1時間半ほどでしたが、その間のトークで私が感じ考えたたことは、日本は今変換期にあり、江戸時代のように国学が盛んになってきているのではないか?ということです。

ウィキペディアで国学を検索するとまず最初にこう書かれています。
国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。

これは、私達が漠然と考えている国学と一致していると思いますが、昨夜いや国学とはそんな狭いものではない、国学者は広く情報を得て学んできた人達で、その範囲はキリスト教やラテン語、そして西洋の知識もヨーロッパ、ロシアまでと広範囲で偏りがなかった。そこにもちろん昔ながらの中華の知識も加わる。そしてさらに死後の世界、人知には計り知れないと言われているところまでもを学び考えていたのが国学だということを知りました。


これは私の尊敬する先生の一人、久野潤さんがよくおっしゃっていることでもあります。
我国だけを知っていても、我国の事はわからない。他の国を知ってこそ比較し考え我国の事がよりよくわかるようになる。

つまり我国の事だけ知っていてもそれ以上進めないということです。例えば我国独自の考え方がある。でもそれ一つ知っていてもそれは我国では当たり前のことというだけで、それが我国独自の考え方かどうかはわからない。他者との比較があってこそ、我国独自の考え方かどうかがわかってくる、ということなのです。

そして現在グローバル化が叫ばれてきていますけれども、グローバル化が進むと必ずローカリズムも進むのです。これはよく竹田恒泰さんがおっしゃっていたので、私もそういえばそうだよなあと漠然と同意していたのですけれども、しくみ実感としてはっきり理解できました。

それは、グローバル化が進み世界中の知識が入ってくれば意識的にも無意識的にも我国との比較をそれぞれが行ってしまうからなのです。つまり、グローバル化が進んできたおかげで、実は国学が復興する下地ができてしまうのです。面白くありませんか?グローバル、グローバル、と外に出て行けば行くほど、中に進んで行ってしまうのです。さらに、インターネットの普及により情報の偏りが減ってきていることもいい条件です。というのも、今まではマスメディアが一番の情報源でしたが、そうすると西洋の情報、しかも欧米というよりは、英米の情報に偏りがちでした。しかし、現在は欧米の情報も英米以外のものも以前に比べれば広く取得できるようになり、ロシアの情報も増え、そして欧米以外の国々の情報も取得するのが当たり前の時代になってきています。つまり比較するものが広がってきているのです。

昨夜は無意識、という言葉が何度も語られていたのですが、この無意識というのがとても重要で、人間には無意識という部分が多いので、例えば何かの変革をしようと意識的にやってもなかなか成功できないのはその無意識が邪魔をしているからだだというのです。ところがその変革をする時に、意識的、理性に働きかけてやることにばかりやっきになってしまう。巷に流通している理性的なものといえば、アメリカ的なものが多い。言葉や考え方はアメリカ的で、例えばひところ流行ったハーバード大学のサンデル教授の白熱教室を日本でやろうとしても、大学生は乗ってこない。しかし小グループでまとめて意見を必ず出すようにすると、どんどん出てくる。自分達で話し合って意見をまとめていく方が日本的なやり方なのだ。つまりそれが無意識的な日本のやり方であるということ。日本でなにかを成功させるには、その無意識のやり方を生かしていくべきだというのです。

ここで私が思い出したのが、日本のこころを大切にする党のことです。中山恭子代表は、今までの自民党、共産党、などの党名や理念を説明するやり方が日本のやり方ではない、おかしいのではないか?ということで考え抜いて新しい党名を決め、その理念もまとめました。日本らしい言葉を選び考え方を表明したのです。今までの党名を見慣れた方には最初は違和感があるかもしれない。でも素直にその党名を見た時、一番しっくりくる党名、考え方が「日本のこころを大切にする党」だと思います。この時期にこういう党名の党が生まれた(名前が変更された)というのも、時代の変化の表れではないか?と思います。


話を戻しますと、国学をやる人は無意識への関心が高いのではないか?ということです。無意識への関心というのは、社会を支えている無意識の習慣や伝統ということ。また目に見える物だけではなく目に見えない物への関心もある。神学や和歌などを探究していけば感覚的なことも増えていきます。そしてその無意識の領域に重要なことといえば言葉、国語、日本語となります。現在英語化されていく状況ですが、このまま本当に英語化されていったら、それは進化ではなく退化であり、想像力が枯渇していきかねない。西洋の進化は、共通語であるラテン語から各国語の各地域での普及によるものであったが、現代の共通語である英語化はその逆を行くことになる。そこに危惧しているということなのです。


一方で、上にもあるようにグローバル化が進んできたことでかえって国学の基盤が出来ているのも現在。考えてみればここ最近の伝統文化を見直す風潮、御朱印人気が示す社寺、和食、城、歴史、神話への関心も10年前と比べれば非常に高くなっていると思うのです。


日本の歴史をみていくと、なんでこんな風に時代が変わっていったんだろう?と思うことが、後からおかげで日本が助かったということに繋がっていっています。日本は何者かに守られている国だと、そういうことを知る度に思います。だから私は今の流れも何者かに導かれているのではないかと思うのです。

国学は実践の学びなんだそうです。それもとても日本的ではありませんか?幕末明治に日本に来た外国人達が日本の美術は一般の生活の中にあると驚きました。普通に使われている工芸品が美しいと。それは長く文化が断絶せずに続いてきたからこその努力の蓄積が美しいのだと思います。そして、国学は江戸時代に生まれました。江戸時代の文化を担ったのは町人文化です。町人たちが発生させた国学ということは、それこそ、日本の今でいう中間層の文化です。そしてその国学の下地が、幕末を作り明治の発展を促しました。


国学を学ぶ集まりは、イギリスでいうパブ、フランスでいうサロンやコーヒーハウスの役割を果たしていたといいます。現在沢山のセミナー、講座、集まりが増えていると感じています。私自身が沢山のセミナーなどに通っているからそう思うのですが、主観も入っているかもしれませんが、確かに多様化し数も増えているように思えるのです。そしてその内容も例えば同じ人が開催するセミナーだとわかりやすいと思うのですが、より日本を深く知ろうという方に向かっていると感じています。


多分国学が実は無意識のうちに復興しているのだと思います。


和達たちは再び何者かに導かれているのではないのでしょうか。