9月15日、天皇陛下が稲刈りをされました。去年は、上皇陛下が田植えされたものを天皇陛下が稲刈りする形でしたが、今年は自ら種蒔きされて田植えされたものを刈られました。

 

テレ東ニュース

音声がない皇室映像。 宮内庁担当記者がどんなやり取りがあったか解説・再現する。 皇居内では15日、天皇陛下がみずから植えた稲を収穫する「お稲刈り」が行われた。 皇居内での稲作は昭和天皇が農業振興のため始められた。 上皇さまがそれを引き継ぎ、天皇陛下はことし初めて種まきから収穫まで一連の行事を行われた。 収穫後、天皇陛下が公表された感想とは? 4月の種まき、5月の田植えと合わせて振り返る皇居の四季。 宮内庁提供映像をフルバージョンで公開する。 新見多一(皇室担当デスク)×水原恵理(BSテレ東『皇室の窓スペシャル』担当)

 

収穫と実りの秋です。

 

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写真は私が以前稲刈りした際の稲の様子です。稲はきれいにうつむいていましたが、このように下を向いているお米はとても美味しいといいます。

 

新米の季節となりましたので、この時期恒例の新米、新穀を食べる日の復習です。

日本人にとって大切なお米。新米や新穀が採れたらもうすぐに新米や新穀が食べられる!、なんてことは日本人はやってきませんでした。

古来から新米や新穀を食べる日は決まっていました。

日本では農業が主な生業でしたから、収穫を神に祈り、また感謝する祭典は特に重要視されてきました。春には祈願し、秋には感謝することが続けられてきたのです。稲作は天孫降臨の際の天照大御神の御神託によるものであることからその年に収穫された新穀はまず神宮に奉納されました。

毎年十月十五日の夜から十七日の朝にかけて行われる神宮(伊勢)の神嘗祭には全国の農家から各県の神社庁を通じて奉納された稲が、外宮と内宮の内側にある内玉垣の柵に穂を下にして懸けられます。これを懸税(かけちから)といいます。私が稲刈した稲も懸税として奉納されてとても感激しました。

 

懸税

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この懸税には、天皇陛下が皇居で育てられた稲も根のついたまま白い御幣をつけてそこに架けられます。その他の懸税は根が切り取られています。私は昨年また、伊勢の初穂曳に参加できましたので、神宮に懸けられた陛下の稲も拝見しましたが、まだ即位式前だったので上記のような根が刈られた懸税でした。しかし、今年からは下の写真のように根のついたものとなります。

 

上皇陛下の懸税の写真の写真です↓

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神嘗祭は、六月と十二月の月次祭とともに三節祭と呼ばれ、年間千五百もある神宮の祭典の中でも最も重要なものです。

そして、神嘗祭にあわせて宮中の賢所(かしこどころ)でも十七日に「神嘗祭賢所の儀」がとり行われます。天皇の御親祭、つまり大祭ですが、祭典に先立ち天皇陛下は午前十時に神嘉殿の南庇ではるか伊勢の方に向かって神宮を遥拝されます。

つまり、神嘗祭の後なら新米を食べてもいい?
 

いいえまだまだです。

神嘗祭が神宮で最も重要な祭典なのに対して宮中でも最も大切な祭典が十一月二十二日から二十四日にかけて行われます。

 

大祭、新嘗祭です。

神嘗祭が収穫された初穂を神宮に祀られている天照大御神に奉る祭典なのに対して、新嘗祭は天皇が天照大御神をはじめとする神々を宮中三殿ではなく神嘉殿にお招きになり、自らおもてなしをされる祭典です。わかりやすくいえば天皇が自ら行われる直会(なおらい)となります。これが新嘗祭です。そして、新しく即位された天皇が行われる新嘗祭を、大嘗祭といいます。昨年の新嘗祭は大嘗祭でした。これは、天皇御一代一度の重儀です。

 

新嘗祭の神饌には、全国の篤農家から献納された米と粟だけでなく、天皇陛下が自ら刈り取られた初穂も供えられます。

重要な祭りは、全て夜行われます。新嘗祭の祭典は二十三日深夜となりますので終わるのは翌日二十四日になります。

今年は天皇陛下2回目の新嘗祭となるわけです。


現在十一月二十三日は勤労感謝の日となっていますが、本来は新嘗祭(の日)。神嘗祭と新嘗祭の日は、明治時代に祭日として休日となっていました。しかし、戦後神嘗祭の休日はなくなり、新嘗祭の休日は名前が変えられ今もそのままとなっています。

 

この現在勤労感謝の日とされ、日本の古来からの行事がわかりづらくなってしまった新嘗祭の日の深夜まで天皇陛下と神々との直会が行われているということは、二十三日はまだ新米が食べらることができないということになります。

つまり新米解禁日は新嘗祭の翌日からとなります。

 

豊明節会(とよあかりのせちえ)とは、新嘗祭の翌日行われた天皇臨席の宴のこと。本来の新嘗祭は十一月の下卯の日(三つ卯の日があるときは中卯の日)でしたから、豊明節会は辰の日のことでした。(大嘗祭では間に二つ節会が入るため午の日となる)

平安時代、天皇が新嘗祭の翌日、豊楽院(後の紫宸殿)で新穀を食し、諸臣にも賜った儀式が始まりのようです。つまり、分かりやすく言えば直会的集まり。この日からその年の新穀が食べられたわけです。

伊勢の神嘗祭の時期にあわせ全国各地の神社でも神嘗祭が行われており、そのお祭りに関わる方々は神嘗祭にあわせ新穀を食べています。竹田恒泰さんは、せめて神嘗祭以降に新米は食べてほしいとおっしゃっています。しかしこうしたお祭りを知るほどに、私はやはり日本人であれば神嘗祭に関わる方以外は新嘗祭以降に新米や新穀を食べてほしいものだと思います。

 

私達の為、私達が忘れてしまった感謝の祈りを捧げて下さる方がいらっしゃるのに、それよりも先に新米や新穀を食べるのは、日本にいたらおかしいと思うのが普通の感覚ではないでしょうか。

 

私は勤労感謝の日は新嘗祭という名前に戻すべきと考えていますし、変な祝日を休みとして増やすよりも神嘗祭や新嘗祭とセットでの24日の豊明節会を祝日にした方が五穀豊穣の有難さを考え感謝するためにもいいのではないかと考えています。現在、新米解禁をしょうがなく23日に祝っている方々も増えているようですが、24日がセットで祝日になれば本来の日付で祝えますし、新米・新穀を食べるイベントもやりやすいでしょう。

 

どんなに文明が発達しようとも人は食べ物がなければ生きていけないことに変わりありません。そうしたことを考え、感謝しまた祝うことができる日があるのはとてもいいことだと思います。しかも、米は我が国の根本となる食べ物なのです。

 

現在、飽食の時代といわれるような情けない状況になっているのは、食についてきちんと教え考えさせることが出来なくなっているためだと思います。しかし、一度飢饉が起これば餓死する人が続出するのはあたりまえのことで、それは現代においても変わりません。戦国時代でさえも日本では、戦は農業に迷惑をかけない時期に行われるのが普通でしたし、関わりのない農民はそれを見物してきました。(戦に参加する半農もいました)

 

そして現代の今、不作による飢饉は起きていませんが、それでも天災が起きる度に収穫量が心配されます。1993年には冷害のための輸入米で大騒ぎになりました。この時にはタイの好意でタイ米が大量に日本に輸入されましたが日本の食生活に合わないタイ米は不人気で結局産業廃棄物として扱われました。一方で、タイでは米の価格の高騰を招き餓死者が出たといいますし、このことから反日になった人もおり今も禍根が残ったとも言われています。そして、日本ではこの騒動を境に米輸入の規制を緩和せざるを得なくなりました。

 

主食の状況が餓死に繋がる国は現代も多くありますし、一度災害や戦火に巻き込まれるようなことがあれば、そういう状態は日本でも起こりうることです。現に災害の度に食べ物が手に入らなくなるという事が起きています。

 

東日本大震災や数年前の茨城などの米所での大きな水害があっても大きな問題とならなかったのは我が国にはお金があり輸入ができるからですが、もし輸入できない状況になったらどうなるのでしょう?タイ米騒動のようにこちらは輸入し、輸出した方に餓死者が出るような後味の悪いことは二度とやってほしくありません。だからこそ食糧自給率はしっかり確保しておかなければならないと思います。戦火に巻き込まれたりした場合、食糧制限は最初にされるということも忘れてはいけないことです。戦争はこちらがしたくなくても、向こうから仕掛けられることもありますから、常に備えることは必要なことです。日本の地勢は、朝鮮半島、中国という反日教育を行っている国々の隣国であり韓国、中国、ロシアとは国境問題を抱えている上に、韓国、中国は捏造の歴史を広めており、大昔であればこれは戦争行為と言っても過言ではありません。その上北朝鮮はミサイルを何度も日本上空に飛ばしており戦争状態となっています。実はとても危うい状態にあるのが現在の日本です。

 

さらに今年は全世界が武漢ウィルスの影響で、例年通りの農業等もできなかったことから、これから食糧危機が起きると予想されており、中国が日本の食料を買い漁っているニュースもあるのに、日本国内での対策がされていません。

 

こうした危機意識のなさは、食べ物、食糧の収穫が他人事になっているために起きているのかもしれないと考えています。

 

そうした中、五穀豊穣を祈願しまた感謝すること、そしてその五穀豊穣の為のお祭りを滞りなくしていただく姿勢をみせていただけることはとても重要なことではないかと思います。五穀豊穣とは豊かな生活への祈願と感謝だけにとどまらず、そう出来る環境、つまり豊かな生活ができる平和を祈り感謝することでもあります。その平和も日本だけ平和でも周りが平和でなければ影響を受けますから、世界中の平和を祈られていらっしゃるのが天皇陛下です。

 

神宮では20年毎に遷宮が行われてきましたが、最初に始まったのは持統天皇の時代です。20年毎というのはなぜかということがよく言われます。その伝統を繋ぐのに世代交代にちょうどいいのが20年という説がありますが、その他に備蓄米の期限説があります。米は通貨の替わりでもありましたが、その米の保存期限が20年だったからだといいます。現在、20年物の米を食べるなんてことはちょっと考えられませんが、米を備蓄するのは古来日本では当たり前のことでした。そうした米が飢饉の時には配られたのです。だから私はタイ米騒動の時に古米や古古米があるんじゃないのか?と考えたのに、それがないという事実に愕然としたものです。

 

そうした危険性があるからこそ、食糧の自給率維持と備蓄は国の基本として当たり前のはずでした。しかし、そうしたことも平和ボケして忘れられている国となっているのかと思うと心配になります。

 

しかし、この騒動後備蓄米制度ができました。

 

農林水産省HPより

質問:

備蓄米制度(びちくまいせいど)はいつから始まったのですか?(質問者:小学生)

答え:

平成5年の米の大凶作(だいきょうさく)により、消費者(しょうひしゃ)の方々が米を求(もと)めてお米屋さんやスーパーに殺到(さっとう)しました。この経験(けいけん)を踏(ふ)まえ、消費者にいつでも安心(あんしん)して米が供給(きょうきゅう)できるよう、平成7年から米の備蓄(びちく)が制度化(せいどか)されました。現在、備蓄水準(びちくすいじゅん)は150万トンを基本(きほん)に一定(いってい)の幅(はば)(±50トン)で運用(うんよう)しています。なお、この備蓄制度(びちくせいど)は、政府(せいふ)が買(か)い入れた米を一定期間(いっていきかん)保管後(ほかんご)、消費者の方々に販売(はんばい)する等により運営(うんえい)しているので、この方式の下で備蓄制度がうまく機能(きのう)するためには、消費者一人一人の協力(きょうりょく)の下で、毎年備蓄した米を消費していただくことが必要(ひつよう)です。

平成12年12月にお答えしました。

 

なお、民主党政権時には、政府が行ってきた備蓄米制度を仕分けにより民間委託と変更されています。委託された民間の倉庫によっては、保存状況が悪くカビが発生したりして委託契約取り消しなどの問題がありました。現在は大丈夫でしょうか?

 

児童・生徒等に「米の備蓄制度」、「ごはん食の重要性」を理解して もらうため、学校給食等に使用する米の一部に対し政府備蓄米を無償または有償 で交付しています。

 

 

子供は、学校等で教わる機会がありますが、大人は自分からいかないとわからないこと多いですよね。普段は考えていなくても、この時期だけでもお米について色々考えたいと思います。

 

食糧部会における米の備蓄運営についての議論の整理 (PDF:387KB)

www.maff.go.jp/j/seisan/keikaku/pdf/1108giron_seiri.pdf

 

2年前のニュース↓

 

上の記事で「白いごはんは味がしない」という人がいましたが、ごはんの美味しさを知らない、味覚が発達していない人がいることにも驚かされます。しかし現在はそうした人達が増えており、それは咀嚼をきちんとしていないからという分析も書かれています。なお、米よりパンを多く買う日本の家庭とありますが、外食や中食のごはん類は含まれずあくまでも米での比較となっていますので、実際にはこの比較は比較になっていません。というのもパンで比較するのであればごはん、米と比較するのであれば麦と比較しないと比較にならないからです。ご存知の通り、パンはほとんどが中食、外食、となる出来上がりを買うもので、毎日パンを自分で焼いて食べている人はほんのわずかだと思います。(そもそも海外でもパンは買うのが普通)現在は食の多様化となっていますが、それでもその基本はご飯だと思うのですが、こうしたことがさらに進めば、ごはん離れはもっと進んでしまうのかもしれません。

 

 

ところで、なぜ神嘗祭や新嘗祭は、稲刈の後すぐに行われないのでしょうか?

 

天皇陛下は毎年9月中に稲刈りをされます。また、国内での稲刈りは9月から10月にかけて行われています。収穫の時期は、米の種類や日本は南北に長いのでその位置にもより日本中で一斉に行われているわけではありません。だからこそ、神嘗祭や新嘗祭の時期は日本中の稲刈が終わるのを待ってからという意味合いが現在はあるようですが、元々はそうではありませんでした。というのも現在は田植えや稲刈等を耕運機他機械で行わっていますが、昔は全て手作業でした。稲刈の後も脱穀や精米の作業がありましたし、その作業もその前に充分干すという時間もありました。

 

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精米の後には、お餅を作って保存食にしたり、お酒を造ったりするという作業もあります。お酒を造るには、最低でも20日かかるといいます。つまり稲刈から、神嘗祭・新嘗祭までの時間は、感謝のお祭りの準備ににかかる時間でもあります。そして、神嘗祭と・新嘗祭は今でも全て手作りでその準備をされますので、古来からと同様準備に時間がかかるのです。

 

機械化が進み全てを一人で行う事もできるようになったのは(それでも稲刈には、手伝いが必要です)まだここ数十年の話で、私が子供の頃など父も母も農家の子供でしたから、春と秋は手伝いに駆り出されていたものです。だから収穫の後も、色んな作業をすることを考えると、新嘗祭が11月23日を中心に行われることは遅いわけではなく、それだけの時間が必要だったということなのです。そして、古来から日本では感謝せずに食するようなことをしてきませんでした。

 

万葉集の東歌に、新嘗の祭りを歌った歌があります。

 

誰そこの屋の戸押そぶる新嘗に

わが兄(せ)を遣りて斎(いは)ふこの戸を 

 

これは夜這いの歌ではないかとよく書かれているのですが、常陸国風土記に新嘗の夜、先祖の神様が富士山や筑波山の神様を訪れたお話があることから、先祖の神様のことを歌ったのだという説があります。私は新嘗のお祭りの夜のことだから、この先祖の神様を詠んだ説が古来から新嘗の祭りを祝ってきた我国らしいと思っています。

なおこの風土記のお話は、なぜ富士山が白い山になってしまったか?という話になっており、蘇民将来に通ずる稀人が神であるという日本らしい物語となっています。ご興味のある方は読んでみて下さい。

 

ということで、古来から五穀豊穣に感謝する新嘗祭を行ってきた我国では、

ワインの解禁日を喜ぶよりも新米・新穀の解禁日を喜ぶほうがふさわしい国です。

 

本来は、お米業界が一丸となって新米解禁という行事にすべきではないかと思います。日本には様々な解禁行事がありますが、新米だけがありません。いえ本当は新嘗祭のあとに解禁ということは昔は常識だったのではないかと思うのですが、戦後新嘗祭の日を勤労感謝の日と変えられ、祝日についての教えもなくなったことで(戦前は祝祭日の日、子供達は学校に行ってその日がどういう日であるかを教えられてから近所の神社でお祭りに参加してから帰った)、あたりまえのことであったことがあたりまえでなくなってしまったといえます。

 

なんといっても、日本は古来から稲作とともにあり、稲作文化を培ってきた国です。そもそも我が国建国の物語は水田稲作普及の物語でもあります。そして稲作のために、我が国は土地を整えそれが、土木工事の発展に寄与して河川の氾濫を抑えることができるようになってきたのです。そうした事業を各地の豪族、大名たちも行ってきました。例えば武田信玄を戦国武将としてだけ教わるのと、信玄堤として有名な整備を代々続けてきた殿様として教わるのでは、全然印象が変わってきます。大小に関わらず河川のあるところには日本中に土手がありますが、これは古代から続く先人達の努力の賜物であることと考えるようになりました。近所のの土手を見たり、通る時、散歩する時など、そうしたことを考えてみてみると地域を見る目も変わってくるのではないかと思います。

 

水田稲作普及の過程が分かりやすい建国の時代の日本の本


 

今年はぜひ、

新米・新穀は十一月二十四日から

味わってほしいと思います。

 

竹田恒泰さんが新嘗祭について語っている動画

 

ここで、竹田恒泰さんが語っている神嘗祭の雅楽の話は、元宮内庁の楽師であった東儀秀樹さんの話を聴くとわかりやすいです。

新嘗祭の夜、森の中で雅楽の演奏をする話を以下の動画でされています。

深夜、皇居のそばにいれば雅楽の演奏がかすかに聞こえるかもしれませんが、都会の喧騒の中では叶わない願いでしょうか。

 

 

 

 

 

田園風景が目に浮かぶ歌

 

 

フランスに長く暮らしていたレ・ロマネスクならではの歌

 

これ聴くとすぐにごはんが食べたくなって米米CLUBも聴きたくなります\(^o^)/

ご飯を食べたその後に「ごちそうさま」と言っていますね\(^o^)/

 

 

「いただきます」と「ごちそうさま」の祈りの歌↓

 

 

おまけ( *´艸`)