一昨日、陛下が天皇としての最後の御田植をされました。

 

天皇陛下は25日、皇居内の生物学研究所脇にある水田でお田植えをされた。開襟シャツ、ズボン、長靴姿で水田に入り、腰をかがめながら、種もみから育てたうるち米の「ニホンマサリ」ともち米の「マンゲツモチ」の苗計90株を1株ずつ丁寧に植えられた。

稲作は昭和天皇から引き継がれた恒例行事。陛下の譲位後は新天皇となる皇太子殿下さまが引き継がれる見込みで、陛下にとっては今年が最後のお田植えとなられる。陛下は秋に収穫も行われ、稲の一部が伊勢神宮に奉納されるほか、新嘗祭などの宮中祭祀(さいし)に使われる。

 

 

 

陛下の御田植の動画を探すと、毎年毎年同じ事を繰り返されていることがよくわかります。但し書きがなければどの映像が今年の物が判別がつかないほどなのです。

 

昨年

 

一昨年

 

その前の年も帽子以外はほぼ同じです。

 

 

 

日常は繰り返しの連続。繰り返しのない生活などありません。どんなに毎日違ったことを行う生活をしている人でも、結局人は食べて寝てを繰り返します。そうした連続を繰り返すことで経験し、繰り返すことで記憶する。繰り返すことで試行錯誤する思考。繰り返すことで積み重ねてきた伝統。多分色んなことを習うよりもこうした繰り返しからいつの間にか学んだり考えていることがその人を形作るのだと思います。そこには無意識のうちにいつのまにか考えさせられていることも多いかと思います。

 

そうした繰り返しを日本中、いえ世界一繰り返してきているのが天皇の歴史であり天皇陛下なのだと思います。そして、その繰り返しの中にこの御田植えも含まれています。御田植えは昭和天皇が始められて、それを天皇陛下が引き継がれています。徳川家により宮中に閉じ込められていた天皇ですが、明治天皇の御代になり御田植えや稲刈りを見学されたり、外に出て民間のお姿を直に見られるようになりました。

 

そもそも百人一首の天智天皇の和歌は天皇が稲刈りをされている風景とも言われていますし、水稲を日本に広めた話が神武東征だとも言います。稲作は繰り返すことの歴史といっても過言ではなく、その稲作と切っても切れないのが日本の歴史といえるかと思います。

 

そしてその稲作を代表とする収穫を願い、感謝することを繰り返してきたのが天皇の歴史であり日本の歴史であることが宮中祭祀や日本中で行われている神社や集落のお祭りに表れています。人は食の繰り返しで生きているからです。

 

ところがそうした歴史がないがしろにされてきたのが戦後日本です。ご先祖様が苦労して作った田んぼは年々減り続け、食生活もごはんからパンに変わってきてしまっています。おにぎりやさんはたいして増えないのに、ここ10年間ぐらいでどれだけパン屋がオープンしているか。新しい商業施設におにぎりやさんがなくてもパン屋は必ずあることが、日本の食生活の変化を物語っています。

 

しかし、その一方で稲作やお米が見直されるようになってきていることも感じられるようになっています。私が子供の頃稲作の体験を学校でやるなんてことはありませんでしたが、今では全国の小学校で稲作体験授業があるといいます。また、民間でも稲作体験ツアーがあったりします。

 

奇しくも今年2本の「ごはん」映画が公開されます。

1本はここで何度も紹介した大阪のごはん処「ゆにわ」のちこさんのドキュメンタリー映画 これは一般の商業映画ではなく自主上映会でしかみることができません。

 

 

そしてもう1本は商業映画ですが、現在の米作りが反映された物語

 

HP解説より

2012年に発表された総務省の家計調査ではお米の消費額がパンのそれに逆転されました。
1キログラムあたりの値段はパンの半分にも満たない米。米作り農家は決して儲かる商売ではないのです。就労者の平均年齢は65歳を超え、高齢化を高コストと引き換えに農作業の機械化で補っているのが日本のコメ作り農家の現状です。この作品はそんな農家の現状を背景に、やむにやまれぬ事情から30軒分もの田んぼを預かるコメ作り農家を継ぐ事になった若い女性の奮闘を描きます。そこには牧歌的でのんびりした様子はありません。大量の水田を管理しコメを作る、過酷な労働としての農業があります。ずぶの素人だった主人公がコメ作りの過程で経験する試練。主人公を助けてくれるのは昔の人が残してくれた米作りの知恵と、生命として様々な表情を見せる田んぼの美しさでした。

この作品ではこれまで日本映画で描かれてこなかった米のリアルな生産過程と、映画史上もっとも美しく田園風景とその自然を映し出します。映画を観終わったころ、主人公と共に観客は気づきます。全ての田んぼが過去から現在に至るまで、農民たちが必死に知恵を絞り時に敗北を味わいながらも戦い続けて残してくれた奇跡だと。一杯のごはんへの感謝と慈しみを取り戻す。それがこの作品の使命なのです。

 

 

こういう映画が作られ、またごはんや稲作に対する興味が増えてきたのを天皇陛下の稲作があったからだと言う人はいないと思います。しかし、知らず知らずに影響を受けているのではないかと私は思うのです。それほど昭和天皇と天皇陛下が毎年毎年春には田植えを秋には稲刈りを繰り返されてきたお姿を我々日本人は繰り返し見してきました。陛下は何もおっしゃらずそのお姿をお見せするだけですが、それだけで十分なのです。毎年繰り返されるそのお姿が、私達の心に刻まれ知らず知らずにその思考に影響を与えているのです。

 

繰り返されることでわからないことって沢山あります。伝統行事でもなんでこうするんだろう?と思う事が多いと思います。しかし、その時分からなくても、何度も繰り返しているうちにわかってくることがありますし、繰り返されることで見えてくることもあります。だから、日本には何十年も、何百年も、さらに何千年も続いていることが沢山あり、中断されても復活していることがあるのです。これだけ続けられてきたことには、何らかの意味があるから続けられているのです。

 

これは私が歳を重ねてきたからわかるようになったことでもあります。まだまだわからないことが沢山沢山あるのですが、繰り返すことの大切さ重要さを多少なりとも理解できるようになってきました。

 

繰り返されることはなんて凄いことなのかと思うのです。

 

陛下ほどの力はなくても、それを少しでも次の世代に伝えることが中今を生きる私達の役目ではないかと考えるようになっています。

 

先人達が伝え続けてきたことを次の世代に伝える。

 

私達が知りえたことを次の世代に伝える。

 

その中には、なにがなんだかわからないことがあるかもしれない。あるいはそれが何の役に立たないと思えることもあるかもしれない。しかし未来のことはわかりません。今わからなくても、伝え続ければ未来の人達がなにか気づくこともあるかもしれないし、今役に立たないように見えても将来役に立つこともあるかもしれません。

 

 

伝えるという事は繰り返し繰り返し行ったり語ったりすることです。

 

 

繰り返すことは次に伝え忘れないための仕組です。

 

 

伝統というと古臭いと馬鹿にする人もいるかと思います。私も昔はそうでした。しかし、例えば人の知恵は10年20年あるいは50年ぐらい、思考の流行りや時代の流れであっという間に押し流されてしまうほど信頼できないものだといいます。フランス革命が起きた後のフランスの政治のブレやロシア革命後のロシアの国の成り立ちは、人々の思考の流行のあやふやさを物語っています。だからこそ、その知恵が時間と結びついた伝統となっている日本の歴史は強固で信頼できるものとなっています。そのあいだには色んなことが起きましたが、それでも日本という形が変わっていません。それは日本の国の成り立ちから続く国の伝統が変わっていないからです。

 

つまり伝統は時間に裏打ちされた人の叡智なのです。だからこそ、その伝統を守るのが大事だということなのです。

 

 

繰り返すことの中には、先人達の歴史を伝えることも含まれます。

 

 

このブログは現在繰り返し祭日や記念日あるいは忘れてならない日を記すようにしているのは、そうすることでこのブログに目を止めた人がそうしたことがあることを知ったり、あるいはさらに知るためのきっかけになればいいと考えているからです。

 

 

私が調べられることなどたかがしれていますし、詳細なブログや書物、それこそ研究者や著名な方がいらっしゃいます。そうしたことを知る足がかりになれれば幸いだと思っています。

 

 

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