天皇の歴史を知ると、実は実際には天皇に即位していないけれども、天皇号や院号、太上天皇号が贈られている天皇がけっこういることがわかります。

 

これは追尊天皇、不即位太上天皇といい、在世中に皇位には即かなかったけれども天皇号を贈られたものです。

 

 

岡宮天皇・・・草壁皇子

草壁皇子は天武天皇と持統天皇の皇子で、持統天皇称制三年に皇太子のまま薨去されましたが、その皇子と内親王が後に文武天皇と元正天皇に即位し、また聖武天皇、孝謙(称徳)天皇と続く皇統となりました。またその妃であった阿閉皇女(あべのひめみこ:天智天皇の皇女)も文武天皇の崩御の後、元明天皇として即位しています。

 

孝謙天皇から譲位された淳仁天皇が即位されてすぐの天平宝字2年(758年)に、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)の尊号が贈られました。

 

 

崇道尽敬皇帝・・・舎人親王

舎人親王は天武天皇の第六皇子です。天智天皇の皇女である新田部皇女が母であり、天智系と天武系両方の血を引く皇子でしたが、天武天皇の時代に吉野の盟約を行った時はまだ幼かったため六人の皇子には加わっていません。しかし天武系の諸皇子の中では長命であったため、長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるい「日本書記」の編集も総裁し養老4年(720年)の完成奏上を行っています。薨去された時には、皇族全員がその葬儀に参列したそうです。

 

その薨去時にまだ3歳だった第7皇子の大炊王が孝謙天皇に譲位され即位(淳仁天皇)し、天平宝字3年(759年)、崇道尽敬皇帝(すどうじんぎょうこうてい)と追号されました。

すめらぎのお話・・・皇帝と追号された皇子

 

 

春日宮天皇または田原天皇・・・施基皇子

施基皇子は天智天皇の皇子でしたが、その母が皇室出身ではなかった上天武系の時代となったため皇統とは無縁のままでした。しかし、天武天皇の時代に吉野の盟約を行った六人の皇子の中の一人でもあり、朝廷の中では重要な地位にあったことが伺えます。その薨去の後にその第六子である白壁王が称徳天皇崩御後満61歳にて即位(光仁天皇)し、宝亀元年(770年)父を春日野宮天皇(かすがのみやすめらみこと)と追尊し、その墓も山稜と改めました。山稜が田原西陵というため、田原天皇(たわらのすめらみこと)とも呼ばれました。

すめらぎのお話・・・天武×天智最後の争いに翻弄された三代

 

 

崇道天皇・・・早良親王

早良親王は光仁天皇の皇子で桓武天皇の同母弟で桓武天皇即位と同時に皇太弟となりました。ところが、長岡京遷都のための責任者だった藤原種継が暗殺される事件が起き、その首謀者の中に桓武天皇を廃して早良親王を立てようとしたと自白する者がでてきたため早良親王は捕らえられ幽閉されました。そして淡路に移配されるまでの間食を絶ち、移送の途中で憤死したと伝わります。親王は淡路に葬られ、その後皇太子を廃する状を報告しています。

その後、桓武天皇の皇子、安殿親王(平城天皇)を皇太子に立てましたが、安殿親王が病が早良親王の祟りによるとの卜占があり、早良親王の霊の慰霊が行われ、廃されていた親王号が復活し、延歴19年(800年)に崇道天皇の尊号が追贈されました。その後も崇道天皇の怨霊鎮祀が繰り返され、延歴24年には改葬崇道天皇司の任命があり、墓を山稜として淡路から奈良に改葬しており、その後の怨霊信仰の始まりともされており、追尊天皇の中で唯一怨霊を鎮めるための尊号となっています。

すめらぎのお話・・・天皇号を贈られた親王

すめらぎのお話・・・崇められ味方になりました

 

 

後高倉院・・・守貞親王

守貞親王は高倉天皇の第二皇子として誕生し、その異母兄は安徳天皇、同母弟に後鳥羽天皇がいます。平氏の都落ちには安徳天皇と共に西国に伴われ、平家滅亡後助け出され京に戻った後に親王宣下を受けましたが、既に後鳥羽天皇が即位しており皇位についてののぞみもないため出家し行助入道親王となりました。しかし、承久の変が起き後鳥羽上皇系以外での皇統が求められた時、行助入道親王の第三皇子茂仁王が選ばれ即位されたのです(後堀河天皇)。当時院政が常の政体とされていましたが、上皇はみな配流されていたため、行助入道親王に太上天皇の尊号をたてまつり院政がしかれることとなりました。天皇に即位しておらずまた出家している親王に太上天皇の尊号を送ることは当時先例のないこととして異例のことでしたが、これが最善の処置とされたのです。しかし、後高倉院の院政は短く2年で崩御されました。

すめらぎのお話・・・稽古照今の点の連なり

 

 

後崇光院・・・貞成親王

貞成(さだふさ)親王は伏見宮家第3代の当主です。伏見宮家創設はそもそも持明院統の光厳院の後、崇光院、後光厳天皇と同母兄弟での皇統が続きましたが、その後は後光厳系の継承が続き、崇光院の皇子栄仁親王の即位が叶わず子孫の皇位を諦めるよう誓約させられたのです。そして世襲の宮家として生まれたのが伏見宮家でした。だから、その伏見宮家から貞成親王の皇子である彦仁親王が、称光天皇崩御の後即位(後花園天皇)された時は崇光院流に戻ったことを喜んだと伝わります。

文安4年11月に太上天皇の尊号を受けましたが翌年2月には辞退しています。康正2年8月29日、1456年9月28日に後崇光院が薨去され、追号は後崇光院とされました。昨日は西暦での後崇光院の祭日だったのです。

すめらぎのお話・・・宮家からの即位

 

 

陽光院・・・誠仁親王

誠仁親王は正親町天皇の第一皇子で親王宣下も受けており幼少の頃より皇儲と定められていました。天正14年父帝の譲位の時期も内定されましたが、それに先立ち7月に病の為にわかに34歳で薨去されました。

そのため、同じ年に誠仁親王の第一皇子の和仁親王(後に周仁親王と改名)が皇儲に定められ、11月7日に正親町天皇からの譲位を受けて即位(後陽成天皇)しました。

親王の三周忌の間に陽光院の尊号が追贈されたといいます。

 

 

慶光天皇・・・典仁親王

典仁親王は閑院宮家第2代で東山天皇の皇子である初代直仁親王の第二皇子として誕生し寛保3年(1743年)親王宣下を受けています。そしてその第6皇子である師仁親王が後桃園天皇の崩御の後即位(光格天皇)したため、天皇の父となりました。光格天皇は後高倉院、後崇光院の例にならって親王を太上天皇とすることを望みましたが徳川幕府の強い反対により実現できませんでした。しかし明治17年3月19日、親王没後90年の忌辰(きしん)に先立って太上天皇の尊号と慶光(きょうこう)天皇の諡号が追贈されました。

 

 

参照:歴代天皇でみる日本の正史

歴代天皇年号事典