歴代の天皇の名前には繰り返し使用される漢字がいくつもあります。既に、「神」、「仁」、「徳」の字をとりあげましたが、今回の字は「崇」です。

 

「崇」の字が使用されている天皇は、四代の天皇です。

 

第十代崇神天皇

第三十二代崇峻天皇

第七十五代崇徳天皇

北朝三代崇光天皇

 

そしてこの内、崇光天皇以外全て漢風諡号であり、崇神天皇と崇峻天皇については淡海三船が一括で撰進したものです。淡海三船がどのような基準で選んだのか詳細はわかりませんが、崇神天皇は、神と呼ばれた神武天皇に継ぐ初期の朝廷の基礎を造られた天皇ですから、崇める「崇」と「神」が組み合わされた最高の名前の一つを贈られたのだと思います。

 

しかし、崇峻天皇の「峻「は「きびしい」あるいは「けわしい」という意味ですから、「崇めるのがきびしい」とか「貴ぶのがけわしい」でしょうか?崇峻天皇は、唯一臣下に弑虐された天皇です。用明天皇の崩御後、後継争いの後、蘇我馬子の後押しもあって即位されましたがわずが五年で馬子の指示を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されたのです。ところが、蘇我馬子はその後何の罰も受けませんでした。それほど馬子の権勢が大きかったのです。しかしこれが大化の改新へに至る始まりだったともいわれます。そして崇峻天皇の次に初の女帝推古天皇が即位されるのも(神功皇后を歴代から外した場合)、崇峻天皇即位前の皇位を巡る争いが続くようなことが再び起こらないようにするためと蘇我系の天皇にする必要からだったといいます。いずれにしても、暗殺されたのにもかかわらず問題にならなかった天皇であったからこそ、「崇める」という字で慰霊されたのではないかと思うのです。

 

とはいえ、淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を撰進していた時代はまだ怨霊が大きく騒がれる時代ではありませんでした。

 

しかしその後、長岡京遷都の際に藤原種継暗殺事件が起き、桓武天皇の皇太弟であった早良親王が事件に関与し流罪される途中で無罪を訴えながら薨去された後は、怨霊が発動し御霊を鎮めるためのお祭りが繰り返されました。そして、「崇道天皇」と追称し、平安に遷都した京の都に崇道神社も創られたのです。崇道天皇は、皇位を継承したことはないため歴代天皇には数えられませんが、無実を訴え皇太弟を廃された早良親王へ最上級の贈名をしたのです。

 

その後、生前自ら怨霊になると宣言し平安最大の怨霊と恐れられた崇徳天皇は、保元の乱で同母弟の後白河天皇に敗れ讃岐に流されてからは讃岐院と呼ばれていました。崩御後も讃岐院と呼ばれていましたが、その怨霊に恐れをなした後白河院は、保元の宣命を破棄し、讃岐院を崇徳院と改めさせ、崇徳院廟を造り、讃岐の御陵の近くに建てられた頓証寺も整備し、慰霊を繰り返したのです。この時の「崇」は明らかに崇道天皇にならったもので、「崇」が慰霊の為の最上級の字として認識されていたことがわかるかと思います。そこに「徳」を組み合わせ最大級の名前を贈られ慰霊をしたのです。

 

 

 

 

さて、最後の北朝の崇光天皇は、漢風諡号として贈られたのではなく遺詔していましたので、御自身で「崇」の字を選ばれたものです。しかしなぜ、「崇」の字を選ばれたのか?崇光天皇の御生涯をみるとその理由が浮かんできます。

 

崇光天皇は南北朝に分かれた直後の北朝三代目の天皇として即位されていましたが、わずか三年後、観応の擾乱が起こり足利高氏が兄弟げんかの末、南朝に和議を申し入れ南朝に降伏してしまい北朝が一度消滅したのです。崇光天皇や皇太子の直仁親王は南朝の言うまま廃され、しかも光厳上皇、光明上皇と共に拉致され、南朝の本拠地吉野そしてしまいには賀名生(あのう)に幽閉、環京できたのは五年後となりました。その間、北朝では光厳天皇の第二皇子であり、崇光上皇の同母弟が北朝の天皇として即位していました(後光厳天皇)。意思に反して廃された崇光上皇と後光厳天皇の間は気まずいものがあったといいます。そして、後光厳天皇が第一皇子の緒仁親王へ譲位しようとした時、崇光天皇は御自身の皇子である栄仁(よしひと)親王への皇統返還を主張しましたが、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳天皇に押し切られ、後光厳天皇から緒仁親王への譲位が実現しました(後円融天皇)。さらに後円融天皇が皇子幹仁親王(後小松天皇)に譲位しようとしたときも、崇光上皇は、自らの皇子栄仁親王への即位を要求しましたが、このときは逆に将軍足利義満が積極的に紛争に介入し後円融天皇を強く支持したため、栄仁親王の即位は実現しなかったのです。しかも、子孫は皇位を諦めるよう誓約させられ、栄仁親王は世襲親王家である伏見宮家を立てられ初代当主となったのです。崇光天皇は失意のまま崩御され、遺詔して崇光院となりました。つまり崇徳天皇のように自らの皇統を絶たれたことを主張されたわけです。「光」の字は北朝の通字のようになっていましたので、組み合わせ「崇光」とされたのかもしれません。

 

南北朝と別れた皇統は、後小松天皇の時代に統一されましたが、その次の称光天皇に嗣子がなく伏見宮家から彦仁王が後小松院の猶子として即位されました。後花園天皇(彦仁王)は崇光院の曾孫にあたり、崇光院の皇統の願いは叶えられたのです。もしかしたら、これは名前という呪の言祝ぎである遺詔をした崇光院の力かもしれません。

 

平安時代、怨霊を鎮めるための御霊神社がいくつも創建されていくうちに、鎮護の神として怨霊の御霊を味方にしていく御霊信仰が定着していきました。そうした怨霊の始まりとして崇道天皇、また最大の怨霊として崇徳天皇がいらっしゃったのです。崇光天皇はもしかしたら、その字の力を最大限利用されたのかもしれません。

 

 

崇光天皇は今上天皇へと続く皇統の始まりとなっています。

 

 

 

(すめらぎいやさか)

天皇弥栄!