天武天皇8年(679年)、天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良皇后(天智天皇の皇女で後の持統天皇)も列席する中、天智・天武両天皇の諸皇子とともに、皇位継承の争いを起こさないよう結束を誓う吉野の盟約が行われました。その諸皇子とは、草壁皇子(天武天皇と鵜野讃良皇女の皇子で天武天皇の第二皇子)、大津皇子(天武天皇と天智天皇の皇女大田皇女との皇子で天武天皇の第三子)、高市皇子(天武天皇の長男)、川島皇子(天智天皇の第二皇子)、忍壁皇子(天武天皇の皇子)、そして天智天皇の第7皇子の施基親王(志貴皇子)もその中にいました。

 

吉野の盟約の皇子達は有力な皇子達でありましたが、施基親王は、天武天皇の崩御後の持統朝でも、叙位や要職への任官記録がなく、天皇の弟でありながら不遇な状況でした。

その次の文武天皇の時代になると、四品に叙せられ、持統天皇の葬儀では造御竃長官、また文武天皇の崩御に当たっては殯宮に供奉しています。

その後、文武天皇の母であり天智天皇の皇女であった元明天皇の世となり、再び天皇の兄弟となりました。この時代にに三品、二品と昇進した後薨去されています。壬申の乱の後、天武系に皇統が移ったため、皇位継承とは全く無縁で政治よりも和歌の道に生きた皇子でした。万葉集には6首の歌が載っています。あるいは、皇統の主流から外れ、幸せな人生だったのかもしれません。

この皇子に和銅2年(709年)10月13日、第六王の白壁王が誕生されました。旧暦で考えれば1307年前の本日のことです。しかし、八歳の時父が薨去し元々強い後ろ盾もなかったため、初叙(従四位以下)が29歳ととても遅くなりました。父と同様、皇位継承者とはなられないまま、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の時代を生きていきました。


ところが、度重なる政変で親王や王が粛清されてきたため、天武天皇の嫡流に当たる皇族がいなくなっており、独身の称徳天皇の次の後継者がいなくなっていました。


そこで注目されたのが天智系の白壁王です。というのも、白壁王は孝謙天皇の異母姉妹である井上内親王と結婚しており、その皇子である他戸王は天武天皇系の皇族の最後の一人だったのです。


多くの親王や王が粛清されるのを、酒を飲み凡庸・暗愚を装って難を逃れたといわれる白壁王は、こうして62歳にして即位され光仁天皇となられました。

ところが、天武天皇系最後の皇族の父として中継ぎの天皇となられたはずの光仁天皇の、その皇子の母である井上内親王が天皇に対して呪詛をしたと密告され皇后を廃され、立太子されていた他戸親王も皇太子を廃されてしまうのです。その翌年には新たな呪詛の疑いをかけられ、皇后と皇太子を廃されてからたった3年の後、幽閉先で同じ日に薨去されてしまいます。


天皇になられるまで難を逃れてきた光仁天皇も、まさか天皇になられた後にまでその天皇になられる大きな要因であった井上皇后と他戸皇太子に難が及ぶとは思いもよらなかったかと思います。こうして天武天皇系の皇統から天智天皇系の皇統へと移り変わっていくのです。


他戸天皇の後に皇太子となられた山部親王が桓武天皇となられてから、怨霊渦巻く時代が始まったといわれますが、実は光仁天皇の時代から怨霊の時代は始まっていたのです。天変地異が続き光仁天皇や山部親王が病になると怨霊を鎮めるために、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御陵と追称し、慰霊のための霊安寺が建立され、桓武天皇の時代には御霊神社も創祀されています。


光仁天皇は在位11年で崩御されました。


現代も続く御霊信仰の始まりは、光仁天皇の時代から始まったのです。

 


なお、施基親王には光仁天皇即位後、春日宮天皇(かすがのみやすめらみこと)の追尊がされ、またその山陵の地から田村天皇(たわらのすめらみこと)とも称されました。